十九話
その夜、俺は眠れなかった。午前二時に起きて、階段を降りた。リビングは片付いていた。ドライヤーも、クッションも、全部元の位置に戻っていた。
まるで、何も起きなかったみたいに。
俺は麦茶を注いで、そのままテーブルに座った。そして、スマホを取り出した。
少し迷った。迷って、やっぱり、かけてみようと思った。
三コールで出た。
「あら、湊? どうしたの」
明るい声だった。向こうは十八時だ。
「……別に」
「別にで、国際電話はかけないでしょ」
「かけた」
「なによもう。久しぶりの電話で。元気にしてるの?」
「してる」
「千夜ちゃんは?」
「……今日、墓参り行ってきた」
電話の向こうが、静かになった。
「一緒に?」
「一緒に」
「……そう」
母の声が、少し変わった。
「一緒に行ったのね」
「三年目で、はじめて。俺から言って」
「その間、ずっと行かなかったの?」
「……行かなかった」
「そう」
母は、それ以上は言わなかった。
「湊」
「なんだ」
「あの子、最近、泣いた?」
俺は、答えるのに数秒かかった。
「……泣いた」
母が、息を吐いた。
「そう」
「なんで分かるんだよ」
「泣かせられるとしたら、あなたしかいないもの」
「……」
「三年前もそうだったでしょう」
「母さん」
「なに」
「千夜は、なんでうちにいる」
「なんでって」
「千夜が、恩返しじゃないって言った」
母が、しばらく黙った。
「……知ってたわ」
「知ってたのか」
「知ってた。最初から」
「なんで止めなかった」
「止めたわよ」
母の声が、少し強くなった。
「何度も止めた。何十回も止めた。お給料を受け取ってって言ったし、学校に集中してって言ったし、家事なんかしなくていいって言った」
「……」
「全部だめだった。あの子、頑固なのよ。あなたが思ってる百倍」
……そうだろうな。そういう子だ。
「湊」
「なんだ」
「私たちがドイツに来たのはね」
「仕事だろ」
「半分はそう」
母の声が、静かになった。
「もう半分は、あの子のためよ」
「……どういう意味」
「私たちがいると、あの子は使用人として振る舞い続けなきゃいけないでしょう」
俺は、コップに伸ばした手を止めた。
「主が三人いる家と、一人しかいない家。どっちが楽だと思う?」
「……」
「私たちがいなくなれば、あの子とあなたの二人になる。二人になれば、いつかその線が曖昧になるんじゃないかって、お父さんと話したの」
「……三年前に?」
「三年前に」
俺は、何も言えなかった。三年間、俺はこの家に二人きりでいた。それを、当たり前だと思っていた。
「あのね、湊」
「なんだ」
「私たち、賭けたのよ」
「何に」
「あなたに」
麦茶の表面が、少しだけ揺れた。
「三年前、あの子がメイドをやるって言った時、止められる人が一人だけいたの」
「……」
「あなたよ」
俺は、目を閉じた。
「あなたが、あの時にそんなことしなくていいって言ってたら、あの子はやめてた」
「……言えなかった」
「知ってる」
「言えば、あの時千夜は……」
「湊」
母の声が、遮った。
「あなたはね、あの子を傷つけたくなくて何も言わなかった」
「……」
「でも、何も言わないっていうのは、承認なのよ」
台所の時計が、二時十五分を指していた。
「三年、承認し続けたの。あなたは」
俺は、返す言葉を持っていなかった。
「ごめんね、責めてるわけじゃないのよ。十四の子には難しすぎたと思う」
「……」
「でも、今は十七でしょう」
母が、少しだけ笑った気配がした。続きは言わなかった。けれど、「いまなら、できるでしょう?」とそう幻聴みたいなものが頭の中に響いた。
「まだ間に合うと思う?」
「分からないわ」
「そうか」
母は、それ以上何も言わなかった。
「湊」
「なんだ」
「あの子ね、うちに来てから一度も、何か欲しいって言ったことがないの。小さいお願い事とかはあったけれど、それは、その時に必要なものばかりだったわ」
俺は、バス停の待合所を思い出した。雨の音と、四十分の待ち時間と、五分の沈黙。手を、握っていてもいいですか。
「……今日、言った」
「え?」
「今日、俺に頼んだ」
母が、しばらく黙った。それから、こう言った。
「……そう」
声が、濡れていた。
「そう。よかった」
電話を切ったのは、二時半だった。俺は麦茶を飲み干して、コップを洗った。洗いながら、天井の照明を見た。
三年前、この台所で、十四歳のこの子が床に額をつけた。置いていただく理由をください、と言った。
あの時、俺は何も言わなかった。何も言わないというのは、承認だ。
母の言葉が、ずっと頭の中で鳴っていた。
翌朝、目を開けると、カーテンが半分だけ開いていた。
雨は完全に上がっていた。庭のもみじが陽を受けて、葉の縁が白く光っている。蝉はもう本気で鳴いていた。
「おはようございます、湊様。九時です」
ベッドの脇に千夜が立っている。髪は、結ってあった。三つ編みだ。平常運転の髪。家にいるのに、この子は学校の髪型をしていた。
「……おはよう」
「よく眠れましたか」
「二時間」
「私は四時間です」
「勝ち負けじゃないんだよ」
「勝ちました」
いつも通りだった。いつも通りすぎた。昨日、この子は俺の肩で二時間泣いた。その痕跡が、どこにもなかった。目も赤くない。声も普通だ。姿勢も、いつもの定規のまっすぐさに戻っている。
「起きられますか」
「起きられる」
「そうですか」
布団に指がかかる。
「では、剥がします」
「聞いた意味は」
視界が明るくなった。朝食は和食だった。俺の好きなものだけが並んでいた。あーんもされた。逃げられなかった。食べ終わって、皿を下げようとした千夜を、俺は呼び止めた。
「千夜」
「はい」
「昨日のことだけど」
「昨日は、ありがとうございました」
早かった。準備してあった答えだ。
「そうじゃなくて」
「墓参りに、ご同行いただいて。それから、その後のことも」
「千夜」
「本当に、ありがとうございました」
千夜は深く頭を下げた。そして、顔を上げた時には、もう次の話を始めていた。
「湊様。お願いがあります」
俺は、身構えた。昨日、この子は三年ぶりに人に何かを頼んだ。その練習の続きだと、一瞬だけ思った。一瞬だけだった。
「鷹司様のことは、このまま進めさせてください」
台所の水音が止まった。蝉の声だけが、部屋に残った。
「……なんて言った」
「鷹司様のことは、このまま進めさせてくださいと申しました」
同じ文だった。一字も違わなかった。
「千夜」
「はい」
「昨日、何があったか覚えてるか」
「覚えています」
「泣いてただろ」
「泣きました」
「俺の肩でだぞ」
「はい」
「それで、今日それを言うのか」
「はい」
千夜は、皿を持ったまま立っていた。無表情だった。その顔が、昨日崩れたことが信じられないくらい、完璧な無表情だった。
「昨日のことと、これは、別です」
「別じゃないだろ」
「別です」
「同じだよ! 全部つながってるだろ!」
俺は立ち上がった。椅子が倒れた。千夜は動かなかった。皿を持ったまま、俺を見ていた。
「昨日、お前は言った。形がないと壊れるって」
「言いました」
「俺は、形なんかいらないって言った」
「はい」
「聞いてたか」
「聞いていました」
「じゃあなんでだ!」
「聞いた上で、進めさせてくださいと申しています」
俺は、拳を握った。握って、テーブルを殴りかけて、やめた。殴ったら、この子が、俺の手を心配する。そういうところが、いちばん腹立たしい。
「理由を言え」
「言えません」
「言え」
「言えません」
「なんでだ」
「言ったら、全部壊れるので」
昨日、バス停で聞いたのと同じ言葉だった。俺は、この子の前に立った。背が低い。俺の肩より少し下だ。三年前は、もっと差が小さかった。
「千夜」
「はい」
「三年前、俺は何も言わなかった」
千夜の指が、皿の縁で動いた。
「お前がメイドをやるって言った時、俺は黙ってた」
「はい」
「それが、すべての間違いだった」
「……」
「昨日、母さんに聞いた」
千夜の目が、はじめて動いた。
「奥様に?」
「電話した。夜中に」
「……何を、聞かれたのですか」
「三年前、俺が止めてれば、お前はやめてたって」
千夜は、皿を持ったまま動かなかった。
「本当か」
答えはなかった。
「本当かって聞いてる」
「……分かりません」
「分かるだろ」
「分かりません」
「千夜」
「……たぶん、やめました」
その一言が、いちばん重かった。三年だ。俺が一言言えば、この子は三年間、メイド服を着ずに済んだ。
同じ家で、同じ食卓で、普通に隣に座っていられた。呼び方も、湊くんのままだったかもしれない。
「……悪かった」
「謝らないでください」
「悪かった」
「謝られると、私が」
「悪者になる、だろ。知ってる」
俺は、この子の手から皿を取った。取って、テーブルに置いた。そして、両手でこの子の手を握った。昨日と同じだ。冷たい。八月なのに冷たい。
「千夜」
「……はい」
「三年前は言えなかった。だから今言う」
千夜の手が、逃げようとした。逃がさなかった。
「やめろ」
「……」
「メイドをやめろ。恩返しもいらない。形もいらない」
「湊様」
「お前は、ここにいていい」
千夜の目が、揺れた。昨日と同じ揺れ方だった。
「理由なんかいらない。三年前も、今も、この先も」
「……それは」
「変わらない」
「変わります」
「変わらない」
「変わ」
「変わらないんだよ!」
俺は、声を出した。千夜の肩が、跳ねた。
「三年だ! この三年に俺が一度でも変わったか!」
「……」
「毎朝起こされて、毎朝布団剥がされて、毎朝キスされて、俺は一度でも嫌がったか!」
「嫌がっておられました」
「口だけだろ!」
千夜が、はじめて目を伏せた。
「口では毎朝やめろって言ってた。でも本気でやめさせたことは一回もない」
「……はい」
「三年だぞ。三年。それなのに、俺は何も変わってない」
蝉の声が、一段大きくなった。
「これ以上、何を見せればいい」
千夜は、答えなかった。答えずに、俺の手の中で、指を握り返した。握り返して、そして、首を振った。
「……それでも」
「千夜」
「それでも、鷹司様のことは、進めさせてください」
俺は、目を閉じた。閉じて、大きく息を吸った。分かった。言葉では、届かない。この子は言葉を信じていない。信じられるように育っていない。
十四歳の八月に、言葉の信頼が欠如したまま、三年経っている。
……だったら。
「千夜」
「はい」
「二学期が始まったら」
俺は、目を開けた。
「俺は、全部言う」
千夜の顔から、色が引いた。はじめて見る顔だった。無表情でも、崩れた顔でもない。怯えた顔だった。
「……何を、ですか」
「分かってるだろ」
「分かりません」
「分かってる」
「……分かりません」
「じゃあ、その日まで考えとけばいい」
俺は、この子の手を離した。離して、一歩近づいた。千夜は、下がらなかった。下がれなかったのだと思う。俺は、この子の額に、口をつけた。
一秒間。多分、一秒もなかった。
千夜が、固まった。呼吸が止まったのが、触れている場所から分かった。
「……っ」
「これは三年分の利子だ」
千夜は、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。顔が、赤かった。三年間、一度も見たことのない色だった。無表情でも、涙でもない。
ただ、赤かった。
「湊様」
「なんだ」
「……それはずるいです」
「毎朝やられてたからな」
「毎朝やめろとおっしゃっていました」
「宣言するなとも言った」
「……はい」
「今日から俺もやる」
「やめてください」
「やめない」
「……宣言、しないでください」
俺は、この子の頭に手を置いた。三つ編みの上から、一度だけ。
「あと二週間ある」
「……はい」
「逃げるなよ」
千夜は、答えなかった。答えずに、皿を持って、台所へ歩いていった。背中がまっすぐだった。不自然なほどまっすぐすぎた。
俺はその背中を見ながら、勝ったと思っていた。これで前に進んだと。
思っていたのに。台所で、水が流れる音がした。その音に混ざって、小さな声が聞こえた。聞こえないはずの距離だった。
だが、聞こえたような気がした。
「……はやく、はやく、間に合わせないと」
俺には、意味が分からなかった。何に、何を、間に合わせるのか。分からないまま、俺は倒れた椅子を起こした。
今日は八月十三日の朝だった。二学期まで、あと十九日あった。




