六話
六時間目が終わると、教室は一気に緩む。
窓の外の空はまだ明るい。真夏真っ盛りで日が長い。校庭では野球部がもう声を出しはじめていた。
俺は鞄に教科書を詰めていた。詰めながら、背後の気配に全神経を使っていた。
「天羽さん」
「はい」
「本日は、たいへんお世話になりました」
麗華が、椅子の横に立って深く頭を下げた。
「移動教室を三度も案内していただいて。それに、お昼もご一緒していただいて」
「案内は一度でよくないですか」
「三度目までは道を覚えられませんでしたので」
正直な人だ。正直さで押してくるので、断る側の配慮の足りなさが目立つ仕組みになっている。
「つきましては、お礼をさせていただきたく」
「いらないです」
「そうはまいりません」
「本当に、いらないので」
「では、ご都合のよろしい日を教えてくださいませ」
……会話が成立しない。正確に言うと、成立しているのに、結論だけが俺の意思と無関係に進行している。
「うちにお越しになりませんか」
「え」
「わたくしの家です。ささやかですが、お食事などご用意して」
「……ささやか」
「はい。ご夕飯でしたら、10名分ほどすぐにご用意できます」
規模の感覚が完全に崩壊している。ささやかの定義を辞書から確認したい。
「悪いけど、行けません」
「まあ、どうしてですの」
「家に、その」
言いかけて、止めた。
家に帰って、会いたい相手がいる、とは言えない。
三年守ってきた秘密の入口が、今、俺の口の中まで来ていた。
「……用事があるので」
「ご家族ですか?」
「両親は海外です」
「まあ! では、お一人で?」
……しまった。
情報を一つ渡すと、その周りに空白が生まれる。空白を見つけたら、埋めたくなるのが人間だ。
しかも、この人は、悪意なく埋めにくる。悪意がないから、こちらも警戒を出せない。
「……一人です」
嘘をついた。
三年で一番良くない嘘だと思った。椅子を戻す音がした。
まだ、千夜が教室に残っていた。
こちらは見ていない。いつも通り、見ていないはずだ。
「お一人でしたら、なおのこと」
麗華が両手を合わせた。
「お一人でのお食事は寂しいですわ。ぜひ、いらしてくださいませ」
寂しい、という言葉が引っかかった。
この人は今、俺を心配して言っている。心配して、家に招こうとしている。
だから、余計にタチが悪い。
嘘をついたのは俺だ。一人だと言ったのは俺だ。だから今、この人が向けてくる善意は、全部、俺由来のものだ。
「気持ちだけで」
「気持ちだけでは、お礼になりません」
「なりますよ」
「なりませんわ」
押し問答。助けを求めて悠真を見たら、机に突っ伏して肩を震わせていた。あとで覚えてろ。今日二回目だ。
「鷹司さん」
「麗華でよろしいですわ」
「……鷹司さん」
麗華が、少しだけ寂しそうな顔をした。
……その顔は、ずるいと思った。庇護欲を掻き立てるようなそんな顔。
「では、こういたしましょう」
「はい」
「本日は諦めます」
「助かります」
「明日、また伺いますわ」
諦めていない。言葉の使い方が根本的に違う。この人の「諦める」は、日程の再調整という意味で、中止というわけではない。
麗華は満足そうに頷いて、鞄を手に取った。
「では、また明日。ごきげんよう」
教室を出ていく。廊下から「麗華ちゃーん」と呼ぶ女子の声がして、それに応じる声が遠ざかっていった。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
「……疲れた」
「モテる男は大変だなあ」
悠真が顔を上げた。目が赤い。笑いすぎだ。
「お前も少しは助けろ」
「無理だろ、あれは、台風の時に、傘さすようなもんだぞ」
的確すぎて腹が立つ。教室を見渡したが、千夜はもういなかった。
いつ出ていったのか、俺は気づかなかった。
日直当番の日誌を職員室に出し忘れていることに気づいたのは、昇降口に着いてからだった。
一旦、教室へと引き返す。
特別棟をつなぐ、渡り廊下に差しかかったところで、足が止まった。
すると、声が聞こえた。
「——ですから、私は何も言いませんけどね」
楓さんの声だった。
俺は反射的に、柱の陰に体を寄せた。盗み聞きをする趣味はない。ないが、足が動かなかった。
「言われても、変えるものがありません」
千夜の声だ。
夕方の校舎は静かで、遠くの吹奏楽部の音だけが混じっている。
「変えなくていいですよ。私はただ、見ているだけですから」
「……相変わらずです」
「ええ。相変わらずです」
しばらく、間があった。
「千夜ちゃん」
「はい」
「お嬢様のこと、どう思いますか」
「良い方だと思います」
「即答ですね」
「事実ですので」
「そうですか」
また間が空いた。
「お嬢様は」
楓さんの声が、少しだけ低くなった。
「疑うということを、教わっていないんですよ」
「はい」
「あの家に生まれてよくあそこまでまっすぐ育ったと思います」
「そう思います」
「だから、千夜ちゃんは、困りますよね」
心臓が一度、跳ねた。
何の話をしているのか、俺には分からなかった。
分からないのに、言葉だけがやけにはっきりと耳に残った。
「……はい」
千夜が、そう答えた。
たった二文字だ。
だが、その二文字の間に、何かがぎっしり詰まっているのが、廊下の端からでも分かった。
「千夜ちゃん」
「はい」
「髪、いつからそんなにきつく結うようになったんですか」
「……覚えていません」
「私は覚えていますよ。三年前の千夜ちゃんは、もっと下手に結っていました」
「下手でした」
「下手でしたね。でも、あの頃は、まだ緩かった」
「きつく結うのは、飲み込むためでしょう」
返事はなかった。
「飲み込みすぎると、いつか壊れてしまいますよ」
俺はそこで、そっと後退した。
これ以上は、聞いてはいけない気がした。聞いてしまったら、聞いたことを千夜に隠さなければならなくなる。
隠しごとは、もう山ほどある。これ以上は、抱えられない。
階段を上りながら、俺はさっきの言葉を頭の中で回していた。
良い人だから、困る。その言葉の意味が分からない。
分からないのに、なぜか背中が寒かった。
三階の踊り場までたどり着いたところで、足が止まった。
楓さんが立っていた。
窓の外を見ている。夕方の光が横から差して、その横顔を半分だけ照らしていた。
いつ先回りされたのか、まったく分からなかった。下の階から上ってきたはずなのに、この人は先に上にいる。全く、物理法則に喧嘩を売る歩き方をしている。
「天羽くん」
「……どうも」
「日誌は教卓の上ですよ」
「なんで知ってるんですか」
「通った時に見ましたので」
それだけだ。それだけなのに、この人が言うと全部見透かされている気がする。
俺は階段を上がりきって、通り過ぎようとした。
「ひとつだけ、お聞きしてもいいですか」
だが、止まらざるを得なかった。
「なんですか」
「そのネクタイ」
背中が冷えた。
「ご自分で結んでいますか」
俺は答えなかった。答えを探したが、どの答えも罠に見えた。
「結んでますけど」
「そうですか」
楓さんが、はじめてこちらを向いた。
「二重に折り返して、右を一度だけ短く取る結び方ですね」
「……そうですか」
「私がよく旦那様にする結び方です」
夕方の廊下は、吹奏楽部の音以外に何もなかった。
俺は自分の喉が乾いているのを感じた。
「別によくある結び方だと思いますが、何が言いたいんですか」
「別に、何も」
楓さんは穏やかに笑った。この人の笑い方は、目が動かない。
「安心してください。誰にも言いませんよ」
「何をですか」
「さあ。何でしょうね」
……完全にやられている。この人には、見透かされている。
「早乙女さん」
「はい」
「……なんで黙っててくれるんですか」
「言う理由がないので」
即答だった。
「私は、お嬢様に仕えています。お嬢様が困ることは言いません。今これを言っても、お嬢様は困るだけですので」
筋が通っている。この人は千夜の味方でも俺の味方でもない。ただ、鷹司麗華のために動くメイドとして完成している。
楓さんは階段の手すりに手を置いて、上を見上げた。
さっきまで、そこに千夜がいた場所だ。
「ただ、ひとつだけ」
「はい」
「千夜ちゃんを、あまり賢くさせないであげてください」
「……意味が分からないんですけど」
「今は分からなくて結構ですけどね」
そう言って、楓さんは階段を上っていった。
音がしない。一段も。
俺は手すりを握ったまま、その背中を見送った。
賢くさせるなとは。賢いのは、いいことのはずだ。
いいことのはずなのに、あの人の口から出ると、忠告というより警告に聞こえた。
日誌は、結局、取りに戻らなかった。
校門を出ると、正面の路肩に黒い車が停まっていた。
長い。異様に長い。ワゴンでもバスでもない、ただ長い乗用車だ。生徒が遠巻きにスマホを構えている。
「天羽さん!」
嫌な予感の的中率が、今日は百パーセントだ。
後部座席の窓が下りて、麗華が手を振っていた。
「よろしければ、お送りいたしますわ」
「……歩いて帰ります」
「ご遠慮なさらず」
「本当に歩きます。すぐそこなので」
「では、途中まで」
「途中もいらないです」
麗華は少し考えて、それから、こう言った。
「では、わたくしも歩きますわ」
「は?」
ドアが開いた。麗華が降りてきて、運転席に向かって声をかけた。
「先に帰っていてくださいませ」
「お嬢様」
「歩きたい気分ですの」
運転手が困っている。車が困るところをはじめて見た。
「あの、鷹司さん」
「麗華でよろしいですわ」
「歩くとけっこうありますよ」
「存じません」
「知らないのに歩くんですか」
「はい。知りたいのです」
反論の余地が、また消えた。この人は俺の家の方向を知らない。知らないまま、俺の帰り道を歩こうとしている。
……まずい。
坂を下る。麗華は半歩後ろをついてきた。歩幅が小さいので、俺は自然と速度を落とすことになる。
「天羽さんは、毎日この道を?」
「毎日です」
「静かで、よい道ですね」
「そうですね」
会話が続かない。続かせない努力をしているのだから当然だ。
だが、麗華は、それを気にしなかった。
「わたくし、こういう道を歩くのがはじめてですの」
「はじめて、ね」
「送迎ばかりでしたので。車の窓からは、何度も見ておりましたけれど」
前を向いたまま、麗華は言った。
「窓から見る景色と、歩く景色は、まるで違いますのね」
その声が、思っていたより静かで、俺は少しだけ足を緩めた。
坂の下、いつもの角が近づいてくる。
俺たちの境界線。そこを曲がったら、俺の家までは一本道だ。
「鷹司さん」
「はい」
「ここで」
「まあ、もうお別れですか」
「そうです」
「では、この角までにいたしますわ」
麗華は素直に足を止めた。止めてから、角の先を覗き込むように首を伸ばした。
「この先が、天羽さんのおうちですのね」
「まあ」
「明日から、ここまでお迎えに上がってもよろしいですか」
「よくないです」
「では、ここで待っております」
「同じですよね、それ」
「違いますわ。待つだけでしたら、わたくしの勝手ですもの」
理屈が完成している。反論すると俺が悪者になる構造まで完成している。
その時、後ろから声がした。
「お嬢様」
楓さんだった。いつからいたのか、まったく分からなかった。音が出ない歩き方をする人は、心臓に悪い。主に俺の心臓に。
「車が待っております」
「まあ、楓。歩いて帰ると申しましたのに」
「歩かれるのは結構ですが、順番が逆です。まず、旦那様に許可を取ってからですけどね」
「……父は反対いたしますわ」
「でしょうね」
楓さんが俺に会釈した。
「天羽さん。お引き止めして申し訳ありません」
「いえ」
「明日も、お嬢様がご迷惑をおかけすると思います」
「はい」
「よろしくお願いしますね」
楓さんは麗華の背中を軽く押した。麗華は名残惜しそうに何度も振り返って、そのたびに手を振った。
坂の上に消えるまで、たっぷり五回は振られた。
五回目を振り終えたあと、麗華は楓さんに何か言われて、恥ずかしそうに口元を押さえた。
叱られているのに、嬉しそうだった。
あの人は、よく笑う。笑うことに躊躇がない。躊躇する理由を、生まれてから一度も持たされていない。
千夜と、正反対だ。
静かになった。俺は角に立ったまま、大きく息を吐いた。
そして、振り返った。三歩後ろに、千夜が立っていた。
いつからいたのかは、聞かなかった。聞かなくても、多分、最初からいた。
「……ただいま」
「おかえりなさいませ」
まだ角の外だ。家ではない。それなのに、この子は家用の言葉を使っている。ここ数日、決めたルールを破り続けている。
千夜の髪は、三つ編みのままだった。朝と同じ。平常運転。
それが、俺にとって、一番、怖かった。




