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氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
二章「天真爛漫な鷹司さんは空気を読まない」
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8/22

六話

 六時間目が終わると、教室は一気に緩む。


 窓の外の空はまだ明るい。真夏真っ盛りで日が長い。校庭では野球部がもう声を出しはじめていた。


 俺は鞄に教科書を詰めていた。詰めながら、背後の気配に全神経を使っていた。


「天羽さん」


「はい」


「本日は、たいへんお世話になりました」


 麗華が、椅子の横に立って深く頭を下げた。 


「移動教室を三度も案内していただいて。それに、お昼もご一緒していただいて」


「案内は一度でよくないですか」


「三度目までは道を覚えられませんでしたので」


 正直な人だ。正直さで押してくるので、断る側の配慮の足りなさが目立つ仕組みになっている。


「つきましては、お礼をさせていただきたく」


「いらないです」


「そうはまいりません」


「本当に、いらないので」


「では、ご都合のよろしい日を教えてくださいませ」


 ……会話が成立しない。正確に言うと、成立しているのに、結論だけが俺の意思と無関係に進行している。


「うちにお越しになりませんか」


「え」


「わたくしの家です。ささやかですが、お食事などご用意して」


「……ささやか」


「はい。ご夕飯でしたら、10名分ほどすぐにご用意できます」


 規模の感覚が完全に崩壊している。ささやかの定義を辞書から確認したい。


「悪いけど、行けません」


「まあ、どうしてですの」


「家に、その」


 言いかけて、止めた。


 家に帰って、会いたい相手がいる、とは言えない。


 三年守ってきた秘密の入口が、今、俺の口の中まで来ていた。


「……用事があるので」


「ご家族ですか?」


「両親は海外です」


「まあ! では、お一人で?」


 ……しまった。


 情報を一つ渡すと、その周りに空白が生まれる。空白を見つけたら、埋めたくなるのが人間だ。


 しかも、この人は、悪意なく埋めにくる。悪意がないから、こちらも警戒を出せない。


「……一人です」


 嘘をついた。


 三年で一番良くない嘘だと思った。椅子を戻す音がした。


 まだ、千夜が教室に残っていた。


 こちらは見ていない。いつも通り、見ていないはずだ。


「お一人でしたら、なおのこと」


 麗華が両手を合わせた。


「お一人でのお食事は寂しいですわ。ぜひ、いらしてくださいませ」


 寂しい、という言葉が引っかかった。


 この人は今、俺を心配して言っている。心配して、家に招こうとしている。


 だから、余計にタチが悪い。


 嘘をついたのは俺だ。一人だと言ったのは俺だ。だから今、この人が向けてくる善意は、全部、俺由来のものだ。


「気持ちだけで」


「気持ちだけでは、お礼になりません」


「なりますよ」


「なりませんわ」


 押し問答。助けを求めて悠真を見たら、机に突っ伏して肩を震わせていた。あとで覚えてろ。今日二回目だ。


「鷹司さん」


「麗華でよろしいですわ」


「……鷹司さん」


 麗華が、少しだけ寂しそうな顔をした。


 ……その顔は、ずるいと思った。庇護欲を掻き立てるようなそんな顔。


「では、こういたしましょう」


「はい」


「本日は諦めます」


「助かります」


「明日、また伺いますわ」


 諦めていない。言葉の使い方が根本的に違う。この人の「諦める」は、日程の再調整という意味で、中止というわけではない。


 麗華は満足そうに頷いて、鞄を手に取った。


「では、また明日。ごきげんよう」


 教室を出ていく。廊下から「麗華ちゃーん」と呼ぶ女子の声がして、それに応じる声が遠ざかっていった。


 俺は椅子の背にもたれて、天井を見上げた。


「……疲れた」


「モテる男は大変だなあ」


 悠真が顔を上げた。目が赤い。笑いすぎだ。


「お前も少しは助けろ」


「無理だろ、あれは、台風の時に、傘さすようなもんだぞ」


 的確すぎて腹が立つ。教室を見渡したが、千夜はもういなかった。


 いつ出ていったのか、俺は気づかなかった。


 日直当番の日誌を職員室に出し忘れていることに気づいたのは、昇降口に着いてからだった。


 一旦、教室へと引き返す。


 特別棟をつなぐ、渡り廊下に差しかかったところで、足が止まった。


 すると、声が聞こえた。


「——ですから、私は何も言いませんけどね」


 楓さんの声だった。


 俺は反射的に、柱の陰に体を寄せた。盗み聞きをする趣味はない。ないが、足が動かなかった。


「言われても、変えるものがありません」


 千夜の声だ。


 夕方の校舎は静かで、遠くの吹奏楽部の音だけが混じっている。


「変えなくていいですよ。私はただ、見ているだけですから」


「……相変わらずです」


「ええ。相変わらずです」


 しばらく、間があった。


「千夜ちゃん」


「はい」


「お嬢様のこと、どう思いますか」


「良い方だと思います」


「即答ですね」


「事実ですので」


「そうですか」


 また間が空いた。


「お嬢様は」


 楓さんの声が、少しだけ低くなった。


「疑うということを、教わっていないんですよ」


「はい」


「あの家に生まれてよくあそこまでまっすぐ育ったと思います」


「そう思います」


「だから、千夜ちゃんは、困りますよね」


 心臓が一度、跳ねた。


 何の話をしているのか、俺には分からなかった。


 分からないのに、言葉だけがやけにはっきりと耳に残った。


「……はい」


 千夜が、そう答えた。


 たった二文字だ。


 だが、その二文字の間に、何かがぎっしり詰まっているのが、廊下の端からでも分かった。


「千夜ちゃん」


「はい」


「髪、いつからそんなにきつく結うようになったんですか」


「……覚えていません」


「私は覚えていますよ。三年前の千夜ちゃんは、もっと下手に結っていました」


「下手でした」


「下手でしたね。でも、あの頃は、まだ緩かった」


「きつく結うのは、飲み込むためでしょう」


 返事はなかった。


「飲み込みすぎると、いつか壊れてしまいますよ」


 俺はそこで、そっと後退した。


 これ以上は、聞いてはいけない気がした。聞いてしまったら、聞いたことを千夜に隠さなければならなくなる。


 隠しごとは、もう山ほどある。これ以上は、抱えられない。


 階段を上りながら、俺はさっきの言葉を頭の中で回していた。


 良い人だから、困る。その言葉の意味が分からない。


 分からないのに、なぜか背中が寒かった。


 三階の踊り場までたどり着いたところで、足が止まった。


 楓さんが立っていた。


 窓の外を見ている。夕方の光が横から差して、その横顔を半分だけ照らしていた。


 いつ先回りされたのか、まったく分からなかった。下の階から上ってきたはずなのに、この人は先に上にいる。全く、物理法則に喧嘩を売る歩き方をしている。


「天羽くん」


「……どうも」


「日誌は教卓の上ですよ」


「なんで知ってるんですか」


「通った時に見ましたので」


 それだけだ。それだけなのに、この人が言うと全部見透かされている気がする。


 俺は階段を上がりきって、通り過ぎようとした。


「ひとつだけ、お聞きしてもいいですか」


 だが、止まらざるを得なかった。


「なんですか」


「そのネクタイ」


 背中が冷えた。


「ご自分で結んでいますか」


 俺は答えなかった。答えを探したが、どの答えも罠に見えた。


「結んでますけど」


「そうですか」


 楓さんが、はじめてこちらを向いた。


「二重に折り返して、右を一度だけ短く取る結び方ですね」


「……そうですか」


「私がよく旦那様にする結び方です」


 夕方の廊下は、吹奏楽部の音以外に何もなかった。


 俺は自分の喉が乾いているのを感じた。


「別によくある結び方だと思いますが、何が言いたいんですか」


「別に、何も」


 楓さんは穏やかに笑った。この人の笑い方は、目が動かない。


「安心してください。誰にも言いませんよ」


「何をですか」


「さあ。何でしょうね」


 ……完全にやられている。この人には、見透かされている。


「早乙女さん」


「はい」


「……なんで黙っててくれるんですか」


「言う理由がないので」


 即答だった。


「私は、お嬢様に仕えています。お嬢様が困ることは言いません。今これを言っても、お嬢様は困るだけですので」


 筋が通っている。この人は千夜の味方でも俺の味方でもない。ただ、鷹司麗華のために動くメイドとして完成している。


 楓さんは階段の手すりに手を置いて、上を見上げた。


 さっきまで、そこに千夜がいた場所だ。


「ただ、ひとつだけ」


「はい」


「千夜ちゃんを、あまり賢くさせないであげてください」


「……意味が分からないんですけど」


「今は分からなくて結構ですけどね」


 そう言って、楓さんは階段を上っていった。 


 音がしない。一段も。


 俺は手すりを握ったまま、その背中を見送った。


 賢くさせるなとは。賢いのは、いいことのはずだ。


 いいことのはずなのに、あの人の口から出ると、忠告というより警告に聞こえた。


 日誌は、結局、取りに戻らなかった。


 校門を出ると、正面の路肩に黒い車が停まっていた。


 長い。異様に長い。ワゴンでもバスでもない、ただ長い乗用車だ。生徒が遠巻きにスマホを構えている。


「天羽さん!」


 嫌な予感の的中率が、今日は百パーセントだ。


 後部座席の窓が下りて、麗華が手を振っていた。


「よろしければ、お送りいたしますわ」


「……歩いて帰ります」


「ご遠慮なさらず」


「本当に歩きます。すぐそこなので」


「では、途中まで」


「途中もいらないです」


 麗華は少し考えて、それから、こう言った。


「では、わたくしも歩きますわ」


「は?」


 ドアが開いた。麗華が降りてきて、運転席に向かって声をかけた。


「先に帰っていてくださいませ」


「お嬢様」


「歩きたい気分ですの」


 運転手が困っている。車が困るところをはじめて見た。


「あの、鷹司さん」


「麗華でよろしいですわ」


「歩くとけっこうありますよ」


「存じません」


「知らないのに歩くんですか」


「はい。知りたいのです」


 反論の余地が、また消えた。この人は俺の家の方向を知らない。知らないまま、俺の帰り道を歩こうとしている。


 ……まずい。


 坂を下る。麗華は半歩後ろをついてきた。歩幅が小さいので、俺は自然と速度を落とすことになる。


「天羽さんは、毎日この道を?」


「毎日です」


「静かで、よい道ですね」


「そうですね」


 会話が続かない。続かせない努力をしているのだから当然だ。


 だが、麗華は、それを気にしなかった。


「わたくし、こういう道を歩くのがはじめてですの」


「はじめて、ね」


「送迎ばかりでしたので。車の窓からは、何度も見ておりましたけれど」


 前を向いたまま、麗華は言った。


「窓から見る景色と、歩く景色は、まるで違いますのね」


 その声が、思っていたより静かで、俺は少しだけ足を緩めた。


 坂の下、いつもの角が近づいてくる。


 俺たちの境界線。そこを曲がったら、俺の家までは一本道だ。


「鷹司さん」


「はい」


「ここで」


「まあ、もうお別れですか」


「そうです」


「では、この角までにいたしますわ」


 麗華は素直に足を止めた。止めてから、角の先を覗き込むように首を伸ばした。


「この先が、天羽さんのおうちですのね」


「まあ」


「明日から、ここまでお迎えに上がってもよろしいですか」


「よくないです」


「では、ここで待っております」


「同じですよね、それ」


「違いますわ。待つだけでしたら、わたくしの勝手ですもの」


 理屈が完成している。反論すると俺が悪者になる構造まで完成している。


 その時、後ろから声がした。


「お嬢様」


 楓さんだった。いつからいたのか、まったく分からなかった。音が出ない歩き方をする人は、心臓に悪い。主に俺の心臓に。


「車が待っております」


「まあ、楓。歩いて帰ると申しましたのに」


「歩かれるのは結構ですが、順番が逆です。まず、旦那様に許可を取ってからですけどね」


「……父は反対いたしますわ」


「でしょうね」


 楓さんが俺に会釈した。


「天羽さん。お引き止めして申し訳ありません」


「いえ」


「明日も、お嬢様がご迷惑をおかけすると思います」


「はい」


「よろしくお願いしますね」


 楓さんは麗華の背中を軽く押した。麗華は名残惜しそうに何度も振り返って、そのたびに手を振った。


 坂の上に消えるまで、たっぷり五回は振られた。


 五回目を振り終えたあと、麗華は楓さんに何か言われて、恥ずかしそうに口元を押さえた。


 叱られているのに、嬉しそうだった。


 あの人は、よく笑う。笑うことに躊躇がない。躊躇する理由を、生まれてから一度も持たされていない。


 千夜と、正反対だ。


 静かになった。俺は角に立ったまま、大きく息を吐いた。


 そして、振り返った。三歩後ろに、千夜が立っていた。


 いつからいたのかは、聞かなかった。聞かなくても、多分、最初からいた。


「……ただいま」


「おかえりなさいませ」


 まだ角の外だ。家ではない。それなのに、この子は家用の言葉を使っている。ここ数日、決めたルールを破り続けている。


 千夜の髪は、三つ編みのままだった。朝と同じ。平常運転。


 それが、俺にとって、一番、怖かった。

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