五話
朝のホームルームが始まる五分前、教室の空気はすでに沸騰していた。
昨日の雨が嘘みたいに晴れて、窓から入る光が机の天板を白く焼いている。エアコンはすっかり、もう夏の設定だ。
「来るぞ来るぞ来るぞ」
悠真が俺の机を叩いている。うるさい。
「落ち着け」
「落ち着けるかよ。理事長の孫だぞ。うちのクラス、当たりだって」
「宝くじじゃないんだぞ」
そう言いながら、俺は自分の指先が机の縁を無意味になぞっていることに気づいて、手を膝の上に戻した。
斜め前、二つ離れた席。
千夜はいつも通り、背筋をまっすぐにして座っていた。三つ編み。平常運転。
朝、坂の上で結い上げられていた髪は、ちゃんとほどかれていた。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。落ち着いたのか、諦めたのか、それとも別の何かに切り替わったのか。
コツ。
シャープペンの尻が、一度だけ机に当たった。いつもは三回だ。今日は一回で止まった。
引き戸が開いて、担任が入ってきた。
「はい、席ついて、知ってると思うが、転入生の紹介をする」
教室が静かになる。
「入ってください」
栗色の髪が、廊下側から現れた。
その瞬間、クラスの半分が息を止めたのが分かった。
小柄だ。頭が俺の肩より下にある。それなのに、教壇の前に立った時の姿勢だけが異様にきれいだった。
背筋の伸び方が、千夜とはまったく違う種類でまっすぐだ。
千夜のそれは、鍛えて作ったまっすぐさだ。この人のそれは、生まれてから一度も背中を丸める必要がなかった人間のまっすぐさだった。
「鷹司麗華と申します」
声がよく通る。
「二年から編入いたしました。至らぬところばかりですが、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げる。所作のひとつひとつが、儀式みたいに整っている。
「めちゃくちゃかわいいぞ! おい!」
拍手が起きた。悠真が一番うるさかった。
「では鷹司さんの席は——」
担任が言い終わる前に、麗華さんが顔を上げた。
そして、まっすぐ俺を見た。
「まあ」
……嫌な予感がした。
「天羽さん!」
教室の温度が、一気に下がった気がした。
「今朝は道を教えていただいて、本当にありがとうございました。おかげで無事に辿り着けましたわ」
シン、とした。
教室中のクラスメイトが一斉に俺を見た。正しくは、千夜以外の生徒全員だ。悠真が、口を開けたまま固まっている。
コツ。
斜め前で、音がした。
「……いや、あの」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。改めて、鷹司麗華と申します」
「知ってる。今朝聞いた」
「まあ、覚えていてくださったのですね」
嬉しそうに笑う。
この人には、たぶん「場の空気」という概念を知らない。いや、知らないというより、そういうものが必要な環境で育っていない。
「天羽ー、お前どこで知り合ったんだ」
担任まで乗ってきた。
「坂で、ぶつかっただけです」
「ぶつかっただけの相手に名前を覚えられるのか、お前は」
「顔がいいからな」
「そりゃそうか」
周囲の女子達はうんうんと頷き、「顔が良いのは正義だから」とよく分からないことを言っている。
そして、教室中の男子の恨めしそうな視線が、俺を突き刺してくる。
悠真が余計なことを言ったせいだ。あとで覚えてろ。
「はいはい、皆静かに。鷹司さんの席は……天羽の後ろが空いてるな。そこに」
最悪だ。
麗華は嬉しそうに頷いて、机の間を歩いてきた。
俺の後ろの椅子を引いて、座る。
背中に視線を感じる。実際に見られているかどうかは分からないが、感じる。
そして、俺の斜め前では。
コツ、コツ、コツ。と三回、鳴った。
いつも通りの回数だ。
いつも通りの回数なのに、音が硬い。何度も聞いてきたから分かる。あれは退屈の合図じゃない。
一時間目が終わった瞬間、麗華の席は人垣に包まれた。
「鷹司さんって、どこの学校から?」
「前はどこに住んでたの?」
「その髪、どうやってるの?」
麗華は、そのすべてに丁寧に答えていた。丁寧すぎて、質問の消化速度が追いついていない。
「あの、皆さま、順番に伺ってもよろしいですか。わたくし、一度に三つまでしか覚えられませんの」
麗華は正直に答えて、場を落ち着ける。彼女は建前を持っていない。いや、持つ必要がないのだ。
「わ、可愛い」
「ねえ、鷹司さんって、なんで呼んだらいい? 麗華ちゃんは?」
「麗華で構いませんわ」
一時間目の終わりで既に下の名前呼びを許可している。この人の外交速度は異常だ。
俺は前を向いたまま、教科書を片付けていた。関わらないのが最善だと判断した。
判断は、三十秒でひっくり返った。
「天羽さん」
肩を叩かれた。
「……なんでしょうか」
「わたくし、二時間目の教室が分かりませんの」
「移動教室か。誰かに」
「天羽さんに伺いたいのです」
「なんで俺なんだよ」
「今朝、道を教えてくださったので」
理由はシンプルだった。シンプルだから断りづらい。
人垣の中の女子たちが、一斉ににやにやしはじめた。
「行ってあげなよ、天羽くん」
「そうそう。案内係!」
外堀が数秒で埋まった。
俺は立ち上がった。立ち上がりながら、視界の端で千夜を見た。
千夜は教科書を開いていた。ページの上に視線を落として、こちらは見ていない。
三つ編みの先が、机の縁で止まっている。
いつもなら、この子は移動教室の前に一度だけ髪に触れる癖がある。今日は触れなかった。
触れなかったことの方が、触れられるより怖い。
「参りましょう、天羽さん」
麗華さんが立ち上がって、俺の隣に並んだ。
「近いです」
「そうですか?」
「そうです」
「まあ。では、これくらいでしょうか」
半歩だけ下がった。三センチくらいだ。
「変わってないです」
「変わりましたわ」
「三センチですよね」
「三センチも、ですわ」
単位の重みが違う。この人にとって、三センチは大きな譲歩らしい。
この人は距離の感覚が壊れているのではない。そもそも、他人と距離を取らなければならないと教わったことがないのだと思う。
廊下に出る直前、背中に音が聞こえた。
コツ。と一回だけだった。
昼休み。
机をくっつけて弁当を広げると、悠真が身を乗り出す前に、別の影が落ちてきた。
「天羽さん、お隣よろしいですか」
麗華が、当たり前の顔で椅子を持って立っていた。
教室の空気が、また一段跳ね上がる。
「……俺の隣じゃなくても」
「天羽さんの隣がよろしいのです」
「理由は」
「今朝、道を」
「分かった。もういい」
悠真が両手で顔を覆っていた。肩が震えている。笑うな。
麗華は丁寧に椅子を置いて、腰を下ろした。そして、俺の弁当を覗き込んだ。
「まあ」
「なんですか」
「なんて綺麗なお弁当」
三段の一番下。赤と緑と黄色が計算通りに配置されている。卵焼きの断面が均一で、隅にブロッコリーが二房。
そして、その横に。苺が、二つ。俺は一瞬、箸を止めた。
朝、千夜が水音に混ぜて言った通りだ。
二つ入れると特別ではなくなる、と言った彼女のことを思い出す。
「どなたが作られたのですか?」
「……自分で」
「まあ!」
麗華の目が、ぱっと開いた。
「天羽さん、お料理をなさるのですね」
「一応」
「素敵ですわ。殿方でお料理ができる方は、とても素敵だと思います」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
俺は今、自分の評価を自分の手で釣り上げた。しかも嘘をついて。嘘で自分の首を絞める人間は数多くいるが、自分がその内の一人になるとは思わなかった。
「あの、天羽さん」
「はい」
「今度、作り方を教えていただけませんか」
「……なんで」
「わたくし、お料理をしたことがありませんの」
「一度も?」
「厨房に入ってはいけないと言われて育ちましたので」
さらっと出てきた情報の階級が違いすぎる。
「でも、いつか自分で作れるようになりたいのです」
「なんでですか」
麗華さんは、少しだけ顔を赤くした。
「……いつか、大切な方に召し上がっていただきたいので」
教室の女子三人が、同時に椅子を鳴らした。そして、ひそひそと何かを話している。
俺は聞かなかったことにして、卵焼きを口に入れた。
甘い。昨日と同じ味だ。疲れた顔をしていた翌日は甘くなる。今日も甘いということは、昨日の俺は疲れた顔をしていたのだろう。
自分では分からない。千夜だけが知っている。
「失礼いたします」
教室の入口から、静かな声がした。
背の高い女子生徒が立っていた。同じ制服。髪を後ろで一つにまとめて、歩く時に音がしない。
早乙女楓さん。
「お嬢様。お昼をお持ちしました」
「まあ、楓。ありがとう」
楓さんが差し出したのは、黒塗りの重箱だった。三段。
教室がざわついた。ざわつくというより、引いていた。
「……あの、鷹司さん」
「麗華でよろしいですわ」
「麗華さん、それ、お昼ごはん?」
「はい」
「毎日それ?」
「毎日ですわ」
規模が違う。俺の家の八人掛けテーブルが、また少し慎ましくなった。
楓さんが重箱を机に置いて、蓋を開ける。開けながら、視線がわずかに動いた。
「……なるほど」
「何がですか」
「いえ、なんでも」
楓さんは蓋を置いて、丁寧に箸を並べた。並べながら、俺にだけ聞こえる独り言みたいな声で続けた。
「その卵焼き」
「はい」
「巻き方が、少し独特ですね」
背筋が冷えた。
「奥から二回、手前で一回止めて、また奥から。……私の作り方と同じです」
顔を上げると、楓さんはもう俺を見ていなかった。
重箱の位置を直して、麗華の椅子の角度を直して、それだけで用事は終わったという顔をしている。
「では、失礼いたします」
「楓」
「はい、お嬢様」
「天羽さんですわ。今朝、お話しした」
楓さんが、はじめて俺を正面から見た。
その一秒で、この人は俺の何かを読み終えた気がした。読み終えた上で、読んだ内容を一切表に出さないと決めた顔をしていた。
「存じておりますよ。今朝のことですから」
「まあ、そうでしたわね」
「天羽さん」
「はい」
「お弁当、大切に召し上がってくださいね」
穏やかな声だった。穏やかな声で、明確に何か、釘を刺されている。
俺は何も言えなかった。
楓さんは音もなく教室を出ていった。廊下を曲がる直前、一度だけ足を止めて、窓際の方を見た。
その視線の先に、千夜がいた。
いつも通り、一人で。中庭に出ることもなく、自分の席で小さな弁当箱を開けて、静かに箸を動かしていた。
その顔は、一度もこちらに上がらなかった。
……もしかしたら、上げなかった。が正解だったかもしれない。




