幕間I
私は、数える癖がある。
湊様の身長が去年から二センチ伸びたこと。朝、目を覚ますまでにかかる平均が四分十二秒であること。計算を急いでいる時にミスをする確率が、およそ三問に一度であること。
数えているのは、覚えていたいからではなくて、忘れるのが怖いから。
覚えていられるうちに、できるだけ多く数えておきたい。そう思って、三年が過ぎた。数えてきたものは、今のところ二千を超えている。
昨日、そこにいくつか足された。
湊様が私の嫉妬に気づいていたこと。湊様の鞄に、二本目の傘を入れ続けていたこと。
そして、私に「可愛い」と言ったこと。
昇降口で、私は最初から聞いていた。
一年生の宮本さんが、両手で封筒を持って立っていた。手が震えているのが、五メートル離れた場所からでも分かった。
「好きです」と彼女は言った。
その瞬間、私は自分の指が冷たくなるのを感じた。
湊様は、考えるふりをしなかった。
すぐに断った。理由も、はっきり言った。好きな人がいると。
私はその言葉を、傘立ての前で、正確に受け取った。
……嬉しかった。
同時に、足元が抜けるように怖かった。
好きな人がいる。それが誰なのか、私は知らない。
三年間、湊様の生活のほとんどを見てきた。朝の四分十二秒も、ミスをする癖も、味噌汁の温度の好みも知っている。
それでも、その一つだけを、私は知らない。
私が知らない場所に、湊様の一番大事なものが置いてある。
そう考えた瞬間、指の冷たさが手首まで上がってきた。
そして、私は髪をほどいた。
昇降口で、人の目のある場所で、三つ編みをほどいて結い直した。高く、きつく、一筋も落とさずに。
でも、あれは見せるためではない。
手を動かしていないと、私はもっとひどいことをしてしまいそうになる。
ずっと前に決めたことだった。何かに耐えられなくなったら、まず髪を結う。結い終わるまでの三十秒で、大抵のことは、砕いて、飲み込めた。
昨日は、二回結い直した。それは飲み込めなかったということだ。
雨の交差点で、湊様が鞄から二本目の傘を出した時。
私は、自分がずっと何を待っていたのかを、はじめてはっきり理解した。
毎朝、傘を二本入れていた。雨予報の日には、必ず入れていた。
一本は湊様の分。もう一本は、私の分。
でも、それを言ったことは一度もない。言えば渡してもらえる。渡してもらえたら、それはお願いして得たものになる。
私が欲しかったのは、そうではなかった。
湊様が自分で気づいて、自分の意思で差し出してくれる傘だった。
千九十日、待った。
長かったとは思っていない。私は待つのが得意だ。それに、待つことしか、許されていない立場でもある。
ただ、受け取った時に手が震えたのは、自分でも予想していなかった。
湊様は、見なかったふりをしてくれた。
耳が熱かったことにも、多分、気づいていた。それでも何も言わなかった。
そういう人だから、私は三年間、この家を出ずにいられた。
夜、廊下で、私は聞いてはいけないことを聞いた。
「いつまでここにいていいですか」
言うつもりはなかった。三年間、一度も口に出さなかった。
口に出してしまったのは、多分、昼間の「好きな人がいる」がまだ耳に残っていて、膝を貸した時の好きな人のことを聞いた時のことが、頭からずっと離れなかったからだと思う。
湊様は、「ずっといていい」と言った。
それだけでも、私は一年は生きられた。
でも、その後に続いた言葉が、私の計算を全部壊した。
「メイドとして、じゃなくても」
そこで止まった。続きは来なかった。
私は湊様の手を額に当てて、部屋に戻った。ドアを閉めて、その場に座り込んで、しばらく立てなかった。
……嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
分からないまま、キッチンに降りて、苺を煮た。
手を動かしていないと、私はもっとひどいことをしてしまいそうになるから。
苺を煮ながら、私はずっと考えていた。
続きが「幼馴染として」だったら。「同居人として」だったら。
そのどれでも、私はこの家にいられる。いられるが、それだけだ。
そして、もし。
もしその続きが、私の望んでいる言葉だったら。
私は多分、メイドをやめなければならない。
やめたら、私がこの家にいる理由は、湊様の気持ちひとつになる。
気持ちは、いつか変わってしまう可能性がある。
家族が事故で死んだ日に、私はそれを学んだ。昨日まで確かにあったものが、翌朝には無くなっている。
この世界では、そういうことが平気で起きる。いまだに私は、それを飲み込むことができないまま、抱え続けている。
だから、私は、役割が欲しかった。
気持ちよりも、先に壊れないものが、ひとつだけ欲しかった。
湊様は、それを壊そうとしている。優しさで壊そうとしている。
私はその言葉をずっと望んでいるのに、その言葉を言われるのが、ずっと怖いままだった。
今朝、坂途中で声をかけられた。
栗色の髪の小柄な人だった。転入生だとすぐに分かった。歩き方に、育ちの良さが出すぎている。
鷹司麗華さんは、私の前でにこにこと笑って、それから両手で私の手を握った。
「あなた、二年生ですのね。わたくし、鷹司麗華と申します。お友達になってくださいませ」
私は振りほどかなかった。
振りほどく理由がなかったから。この人には、悪意がない。悪意がないどころか、他人を疑うという発想そのものがたぶん無い。それが、所作や表情に出ていた。
「柊千夜と申します」
「千夜さん。まあ、素敵なお名前」
そして、麗華さんは、頬を少し赤くして言った。
「あの、実は先ほど、坂の下で素敵な方にお会いしましたの」
私は、手を握られたまま、その先を聞いた。
「天羽さんとおっしゃって。道を教えてくださって、それに、転びかけたわたくしを支えてくださって」
「そうですか」
「千夜さんは、天羽さんをご存じですか?」
私は、正確に答えた。
「同じクラスです」
……嘘ではない。嘘ではないだけの答えを私は答えた。
「まあ! では、いろいろ教えてくださいませ」
麗華さんの手が、私の手をもう一度、強く握った。
温かい手だった。
その温かさが、私にはよく分かった。
この人は、悪い人ではない。多分、私はこの人を嫌いになれない。
だから、そこが一番の問題になる。
麗華さんの後ろに、もう一人立っていた。
背の高い人だった。髪を後ろで一つにまとめて、歩く時に音がしない。
私は、その人を知っている。
「久しぶりですね、千夜ちゃん」
早乙女楓さん。
三年前、私にメイドの仕事を教えた人だ。
湊様のご両親に「メイドになりたい」と伝えた所、「海外へ発つ前に、きちんとした人に習わせてあげたいわ」と言って、ご両親の旧友で縁があった代々メイド、執事家系の早乙女家に頼んでくださった。
そして、半年間、私はこの人に叩き込まれた。
洗い物の順序も、ネクタイの結び方も、上着の受け取り方も、全部この人から出ているものだ。
その時は、確か別の方に仕えていた記憶があったけど、今は麗華さんに仕えているようだった。
「……楓先輩」
「三年ぶりですね」
楓先輩は、麗華さんの背中を一度見て、それから私を見た。
見られたというより、読まれた。
この人はいつもそうだ。手の動きを見ただけで、その日の私の調子を全部当ててくる。
「その髪」
「はい」
「昔は、そんなにきつく結わなかったはずです」
心臓が跳ねた。
「……癖です」
「そうですか」
楓先輩は、それ以上何も言わなかった。
代わりに、坂の下の方を一度だけ見た。私がさっき曲がってきた、あの角の方を。
「さっき、天羽くんに聞いてもよかったんですけど」
「……何をですか」
「あの角で、毎朝何をなさっているのか」
指先の感覚が消えた。
「やめておきました」
「なぜですか」
「千夜ちゃんが困る顔を久しぶりに見たかったので」
「……相変わらずです」
「ええ。相変わらずですよ」
そう言って、楓先輩は麗華さんの背中を押して歩き出した。
私は、坂の途中に立ったまま動けなかった。
……きっと、この人にだけは、隠せない。
三年かけて完成させた私の顔は、この人の前では、一枚も機能しない。
学校に着いて、私はいつも通り、三番目の流しで手を洗った。
湊様が歩いてきて、すれ違う時、わずかに速度を落としたのが分かった。
私は顔を上げなかった。今、上げたら、学校での私の顔が無くなってしまうから。
代わりに、水音に混ぜて一言だけ落とした。
「今日の苺は、二つ入れました」
二つ入れると特別ではなくなる。そう言ったのは私だ。
それでも、今朝は二つ入れた。
理由は、自分でもよく分かっている。
不安だからだ。夜の廊下での出来事があってから、特別を一つ増やしておかないと、今日一日を渡りきれない気がしてしまった。
……情けない話だと思う。
三年かけて完璧なメイドになったつもりで、数を増やすことで心を保っている。
湊様は、足を止めなかった。
止めずに歩いていって、廊下を曲がる直前、口元が少しだけ緩んだ。
それを、私は見た。見て、また一つ数えた。
……ねえ、湊くん。
私は、いつまであなたのことを数えていても、いいですか。




