四話
目が覚めたのは、午前二時過ぎだった。喉が渇いていた。というのは半分嘘で、単に眠れなかった。目を閉じるたびに、手の甲に当てられた額の熱が戻ってきていた。
階段を降りる。手すりは冷たい。家の中は真っ暗で、雨の音はもう完全に止んでいた。代わりに、庭の草むらで虫が鳴きはじめている。キッチンの明かりが、細く漏れていた。
そこを覗くと、千夜がいた。
パジャマ姿だった。薄い水色の、袖の長いやつ。髪は下ろしたまま、無造作に肩に落ちている。
制服でもメイド服でもない千夜を見るのは、久しぶりだ。
千夜はテーブルの前に座って、コンロの前に立っていた。小鍋の中で、何かがゆっくり煮えている。
「……何やってんだ、こんな時間に」
千夜が顔を上げた。一瞬だけ、目が丸くなる。
「湊様。起こしてしまいましたか」
「いや。勝手に起きた」
「そうですか」
俺は冷蔵庫から麦茶を出しそうとした、その瞬間に千夜が動こうとしたので、手で制する。
「座っててくれ。これくらいやる」
「ですが」
「深夜二時に主従関係は無しだ」
千夜は少し迷って、そのまま、鍋をの様子を見ている。俺はその後ろ側にテーブルを挟んで座った。
小鍋から、甘い匂いがしている。
「何煮てるんだ」
「苺です」
「……苺」
「ジャムにしています。練習の一環です」
「練習」
「はい。夏の苺は高いので、いい練習になります」
……ああ、そうか。七月の苺は、旬じゃない。
スーパーで見た記憶がない。あるとすれば、たぶんそれなりの値段の売り場だ。
それを、この子は毎日一粒だけ、俺の弁当に入れている。
「……高いんだろ、それ」
「一粒です」
「一粒でも」
「一粒だから、ずっと続けられます」
コップを持つ手が止まった。この子は、これから先もずっと、俺の弁当に苺を入れるつもりでいる。それを当たり前の顔で、事務連絡と同じ温度で言う。
「……千夜」
「はい」
「傘のこと、まだ怒ってるか」
「怒ってはいません」
「じゃあ」
「嬉しくて、眠れないだけです」
小鍋がことこと鳴っている。キッチンの照明は暖色で、この子の顔にやわらかい影を落としていた。制服の時のような硬さがない。
……学校の誰も見たことのない顔だ。
「それは……待たせた」
「はい」
「悪かった」
「いいえ」
千夜は木べらで鍋の中をゆっくりかき混ぜた。
「待ったから、特別になりました」
「……そうか」
「はい。そうです」
今回は、理屈としては、正しいような気がする。反論する気が起きない。この子の理屈は、最後に必ず感情で殴ってくる。
「なあ、千夜」
「はい」
「学校のお前って、疲れないのか」
木べらを動かす手が、少しだけ遅くなった。
「疲れますよ」
「やめてもいいんだぞ、あのルール」
「だめです」
「なんで」
「知られたら、湊様が困ります」
「別に俺は困らない」
「困ります」
千夜が顔を上げた。キッチンの照明の下で、その目だけが、はっきりとこちらを見ていた。
「……それに、私が」
「千夜が?」
「もし、この家を出てほしいと言われた時に、学校での私を作っておかないと、逃げ場がなくなるので」
小鍋の音だけが、しばらく続いた。誰もそんなことは言わない。
うちの両親も、俺も、三年間一度も言っていない。
むしろ、逆のことばかり言ってきたはずだ。それでもこの子は、その日が来る前提で毎日を組み立てている。
苺のジャムも、多分、そういうことなんだろう。いつ終わるか分からないから、先に作り置きしている。
「……言わない。誰も」
「はい」
「絶対にだ」
千夜は答えなかった。ただ、木べらを持つ手に少しだけ力がこもったのが、鍋肌に当たる音で分かった。
「もう寝たほうがいい」
「これが終わったら寝ます」
「あと何分」
「三十分です」
「体感でか」
「実測です」
「じゃあ待つ」
千夜の手が止まった。
「湊様が待つ必要は」
「ある」
「なぜですか」
「……傘の借りがある。三年分な」
千夜はしばらく俺を見て、それから、また鍋に向き直った。
「では、お言葉に甘えます」
三十分、俺たちはほとんど何も喋らなかった。小鍋の音と、時々、木べらが鍋肌に当たる音だけがしていた。
窓の外で、虫の声が少しずつ増えていく。明かりを消して二階に上がる時、千夜が俺の袖を軽くつまんだ。
「部屋まで一緒に」
「いつもは逆だろ」
「今日は、逆でいいのです」
俺はこの子の部屋の前まで歩いた。ドアの前で、千夜が頭を下げる。
「おやすみなさいませ、湊様」
「おやすみ」
「……あの」
「なんだ」
「今日は、ここまでで我慢します」
何を我慢したのかは、聞かなかった。
……聞いたら、多分、何かを我慢してもらえなくなる。
翌朝、目を開けると、カーテンが半分だけ開いていた。
雨は上がっていた。窓の外の庭は水を含んで濃い緑になっていて、もみじの葉先から、時々しずくが落ちている。落ちた先の土が、そこだけ黒く濡れていた。
空は洗ったように晴れている。
「おはようございます、湊様。六時三十分です」
「……おはよ」
ベッドの脇に千夜が立っていた。今日はポニーテール。高い位置で結った髪が、身を屈めるのに合わせて肩から滑り落ちる。
……警報解除されたな。
「よく眠れましたか」
「三時間くらい」
「私は二時間です」
「勝ち負けじゃないんだよ」
「勝ちました」
……嬉しそうに言うな。
表情に一ミリも出ていないのに、嬉しそうに言うな。読み取る側の難易度が高すぎる。
「起きられますか」
「起きられる」
「そうですか」
布団に指がかかる。
「では、剥がします」
「聞いた意味は」
視界が明るくなった。窓から入る朝の光が、今日はやけに濃い。雨上がりの空気が、部屋の中の埃まで洗ってしまったみたいだった。
「あと五分」
「だめです」
「三分」
「……三分だけ」
ベッドが沈む。千夜が腰を下ろして、俺の髪に指を通してきた。
「数えますね」
「昨日は数えなくていいって言ったんだけどな」
「数えます」
「なんで」
「終わっても、また明日があると分かっているので」
……なるほど。昨日と同じ動作で、意味だけが入れ替わっている。
この子は言葉をほとんど変えずに、中身だけを差し替えてくる。器用な生き物だ。
結局、三分は八分になった。
昨日より、一分長い。朝食のテーブルには、トーストが出ていた。
「和食じゃないのか」
「今日はパンです」
「珍しいな」
「これを使いたかったので」
小さな瓶が置かれた。
中身は赤い。午前二時に煮ていた、あれだ。
「もうできてるのか」
「一晩で固まりました」
俺はスプーンで一杯すくって、トーストに広げた。
甘い。だが、甘すぎない。粒が少し残っていて、噛むと苺の形が残っている。
「うまい」
千夜が、俺の顔を見た。じっと見た。瞬きもせずに。
「……なんだよ」
「もう一度言ってください」
「うまい」
「もう一度」
「三回目は言わない」
「では、二回で十分です」
引き際がやたら潔い。この子は取れるだけ取ったら、綺麗に撤退する。交渉術としては完成されている。
弁当袋を受け取ると、まだ温かかった。
「苺は」
「一つです」
「毎日一つな」
「はい。これからの分もございますから」
……これからの分。
数年後、俺たちがどうなっているのか、俺には全く分からない。分からないのに、この子は先の分まで煮ている。
「湊様」
「なんだ」
「傘は、今日は一本です」
「晴れてるしな」
「そうではありません」
千夜が玄関の傘立てを指した。昨日渡した折り畳み傘が、この子の鞄に差してある。晴れているのに。
「二本目は、もういただいたので」
「持ち歩くのか、それ」
「持ち歩きます」
「晴れてても?」
「晴れていても」
そう言って、千夜はエプロンのポケットに手を入れた。
「湊様。今日は、これを」
差し出されたのは、小さな包みだった。開けると、苺ジャムの小瓶が入っている。弁当袋に収まる大きさの、ミニサイズだ。
「なんだこれ」
「パンを買われた時に使ってください」
「弁当あるだろ」
「足りない日がありますので」
……俺の食欲の推移まで管理されている。この家に個人情報の概念は存在しない。
「……ありがとな」
「はい」
千夜が深く頭を下げた。そして、いつものように俺のネクタイを引いた。体が傾いで、額にやわらかい感触が落ちる。
「いってらっしゃいませ」
「やるなって言ってるだろ」
「絶対にやめませんので」
「宣言するな」
顔が熱い。毎日されているはずなのに、一日たりとも慣れない。慣れるどころか、年々効きが強くなっている気さえする。
「湊様」
ドアに手をかけたところで、呼び止められた。
「なんだ」
「昨日の夜の、廊下のこと」
心臓が跳ねた。
「……なんだよ」
「答えは、まだ聞きません」
千夜がもう一度、深く頭を下げた。ポニーテールが前に流れる。
「でも、忘れないでください」
「……忘れない」
「はい。いってらっしゃいませ」
雨上がりの朝は、匂いが濃い。濡れたアスファルトから水蒸気が上がって、朝日に透けている。街路樹の葉に残ったしずくが、風のたびにぱらぱらと落ちてきた。
路肩の側溝を、昨日の雨がまだ流れている。坂を下って、いつもの角が近づいてくる。校門の手前で一度曲がる、あの角だ。千夜がここで別の道に入り、他人の顔をして学校へ向かう。
俺たちの境界線。その角を曲がった。そして、何かにぶつかった。
「きゃっ」
やわらかい衝撃。俺は反射的に相手の腕を掴んで、倒れかけたのを支えた。
「悪い、大丈夫か」
顔を上げた相手を見て、言葉が止まった。
栗色の髪が、朝日を透かして淡く光っていた。ゆるく巻かれた長い髪が、動きに合わせて肩の上で揺れている。日に当たった部分だけ、色が一段明るく見えた。
同じ制服だ。だが、着ている人間が違うだけで、こんなに別物になるのか。
背は低い。俺の肩より下だ。それなのに、姿勢だけが異様にきれいだった。背筋が、千夜とは別の種類でまっすぐ伸びている。
……千夜のそれは、鍛えて作ったまっすぐさだ。この子のそれは、生まれてから一度も背中を丸める必要がなかった人間のまっすぐさだった。
「まあ」
その子が、目を丸くした。
「申し訳ありません。わたくし、道を確かめておりまして、前をよく見ておりませんでした」
……わたくし。現実で聞いたのは、はじめてだな。
「いや、こっちも急いでたから」
「お怪我はありませんか」
「ない」
「よかったですわ」
その子は俺の腕からそっと離れて、スカートの裾を軽く整えた。動作のひとつひとつが、丁寧というより儀式に近い。
「あの、失礼ですが」
「うん」
「聖鷗学園へは、こちらの道でよろしいのでしょうか」
「合ってる。この坂を上って、突き当たりが校門」
「まあ、助かりました」
その子は、ぱっと表情を明るくした。
……初対面でこんなに明るく笑うのか。
千夜が三年間、一度も見せたことのない種類の顔を、この子は初対面の相手に三秒で見せる。世の中には、そういう人間がいるらしい。
「お礼を申し上げます。わたくし、鷹司麗華と申します」
鷹司。昨日の朝、食卓に出てきた名前だ。
「……天羽湊だ」
「天羽さん。覚えましたわ」
麗華さんが、少し首を傾げた。
「あの、天羽さん」
「なに」
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「この角で、毎朝どなたかをお待ちなのですか?」
……背中が冷たくなった。
「……なんで」
「先ほど、わたくしを支えてくださった後に、後ろをご覧になっていたので」
見られていた。初対面の、道も知らない転入生に、三年守ってきた習慣の一部をたったこの瞬間だけで観測されていた。
「別に、誰も待ってない」
「まあ、そうでしたか。失礼いたしました」
麗華さんはあっさり引き下がった。疑っている顔ではない。本当に、ただ聞いただけの顔だ。
……それが、余計に怖い。
その後ろから、もう一人が歩いてきた。背の高い女子生徒だった。同じ制服。髪を後ろで一つにまとめている。歩き方に、音がない。
「お嬢様。勝手に先へ行かれては困ります」
「だって楓、車が遅いんですもの」
「歩いた方が早いという判断は、正しくはありましたが」
楓と呼ばれたその人が、俺の方を見た。
一秒。いや、たぶん一秒もなかった。
俺を見て、それから俺が今しがた曲がってきた角の方を見て、また俺に戻った。
そして、目を細めた。
「……なるほど」
「何がですか」
「いえ、なんでも」
その人は、それだけ言って俺に会釈した。
「お嬢様が失礼をいたしました。早乙女楓と申します」
「天羽です」
「天羽さん、ですね。……覚えておきます」
覚えなくていい、と言いたかった。言える雰囲気ではなかった。二人が坂を上っていく。麗華さんが振り返って、大きく手を振った。
「では、また学校で!」
俺は手を振り返せなかった。背中に、視線を感じたからだ。
振り返る。
角の向こうに、千夜が立っていた。五分後に出るはずの千夜が、もうそこにいた。
……早い。
三年間、この時間差が縮んだことは一度もなかった。
顔は動いていない。いつも通りだ。だが、その手は、後頭部に回されていた。ポニーテールが、ほどけていく。朝の光の中で、長い黒髪が一度だけ肩に落ちて、そしてすぐに、高く、きつく、まとめ上げられていく。
一筋も落とさずに。うなじが完全に露わになるまで。
……再発令だ。
しかも、昨日より一段階上で。
「……おはようございます、湊さん」
学校用の呼び方だった。声には、抑揚がひとつもなかった。
「……おはよ」
「今の方は」
「転入生だ。道を聞かれた」
「そうですか」
「本当だからな」
「はい」
「信じてないだろ」
「信じています」
千夜が一歩、こちらへ来た。角の内側だ。ここはまだ、家の側の道になる。他人の顔をするのは、この一歩から先だ。
「湊様」
家用の呼び方に、一瞬だけ戻った。
「なんだよ」
「あの角は、私の角です」
「……角に所有権はないだろ」
「あります。少なくとも、三年間占有しております」
それだけ言って、この子は俺を追い越して先に行った。きっちり結い上げた髪が、朝日の中で一度だけ揺れる。
背筋はまっすぐで、歩幅は正確で、もう一度も振り返らなかった。角を曲がって、他人の顔になって、坂を上っていく。
俺はその場に立ったまま、鞄の持ち手を握り直した。三年守ってきた境界線に、今朝はじめて、外から人が立った。
しかも、悪意がひとかけらもない人間だ。
……たちが悪い。悪意がないものは、防ぎようがない。
坂を上りきったところで、麗華さんが誰かと話しているのが見えた。
相手は千夜だった。何を言われたのかは分からない。ただ、麗華さんが嬉しそうに何度も頷いて、それから千夜の手を両手で握っていた。
千夜は、それを振りほどかなかった。顔を動かさないまま、きっちり結い上げた髪のまま、その手を握らせていた。
嫌な予感がした。理由の分からない、だが、確かな予感だ。
三年守ってきたものの外側から、悪意のない人間がやってくる。そういう時に何が起きるのか、俺はまだ知らない。
知らないまま、俺は坂を上った。教室に入ると、悠真が手を振っていた。
「おせーぞ、天羽。転入生、もうすぐ来るってよ」
「知ってる」
「は? なんで」
「風の噂で」
「その風、俺のとこには吹かねえんだけど」
風ではない。角でぶつかった。俺は席に鞄を置いて、それから廊下に出た。少し、外の空気を吸いたかった。三番目の流しの前を通り過ぎようとして、足が止まりかけた。
そこに千夜が立っていた。
手を洗っている。外から来たら、まず手を洗う。風邪を引かないための、この子の三年来の習慣だ。
目は合わなかった。合わせなかった、が正しい。すれ違いざま、水音の隙間に、小さな声が落ちた。
「湊様」
学校で、家用の呼び方が出た。
ここ最近、この子は自分からルールを破りはじめている。三年間、一度もなかったことだ。
「……今日の苺は、二つ入れました」
俺は足を止めなかった。止めたら終わりだと、体が知っていた。だが廊下を曲がるまで、たぶんずっと、口元が緩んでいたと思う。
二つ入れると特別ではなくなる、と言ったのはこの子だ。
……特別ではなくなったら、それは何になるんだ?
俺には、まだ分からない。分からないが、この子は今朝、自分で自分の規則を破った。昨日から数えて、三つ目だ。
角の時間差も、学校での呼び方も、苺の数も。
全部、この子が自分の意思で破っている。ずっと続いてきた俺たちの均衡が、間違いなく傾きはじめている。
その時は彼女が自分から何か変わろうとしているのだと思っていた。だから、千九十日以上守り抜いてきた俺の理性が決壊する日も、多分、そう遠くないのだと思った。
でも、それは俺の思い違いだったということに、後になって気づいたのだった。




