三話
家に着く頃には、雨は本降りになっていた。いつの間にか、三歩後ろにいたはずの千夜が、家の手前で俺を追い抜いていた。
傘の下から見えたのは、濡れて色の濃くなったローファーの踵と、白いソックスの折り返しだけだ。追い抜く時にも、この子は俺の方を見なかった。
門を抜けて、玄関のドアを開ける。
廊下の照明はもう点いていた。千夜が先に入って、そこで待っている。傘を畳む音が、雨音の中に二回だけ響いた。
千夜が深く、頭を下げる。
「おかえりなさいませ、湊様」
……つい五秒前まで、隣を歩いていた人間の台詞じゃないだろ。
だが、千夜にとって、この家の玄関は舞台の幕だ。跨いだ瞬間に、メイドになる。三年間、この作法が省略されたことは一度もない。
「……ただいま」
「濡れています。上着を」
ブレザーを脱がされる。肩から袖が抜けていく感触が、やけに丁寧だった。布の擦れる音まで静かで、俺は天井を見た。
「タオルです」
「自分で拭ける」
「拭きます」
頭にタオルがかぶせられた。視界が白く塞がれて、雨音だけが急に大きく聞こえる。見えない状態で、千夜の手が髪をわしゃわしゃとやりはじめた。
「見えない」
「見えなくていいです」
「良くはないだろ」
タオルの下は暗い。暗いから、この子の表情も見えない。見えないまま、俺は気づいた。手が、止まっている。俺の頭をタオルごと包んだまま、指がまったく動いていない。
「……千夜?」
「三十秒だけ、こうしています」
「体感でだろ、それ」
「はい。私の体感です」
……だいたい二分あった。
二分の間、俺は自分の呼吸の音だけを聞いていた。タオル越しに、この子の手のひらの体温が伝わってくる。
文句を言うタイミングは何度もあった。言わなかった。
言えば、この二分が終わるからだ。タオルが外された時、千夜の顔はいつも通りだった。
ただ、髪はまだ、きっちりと結い上げられたままだ。
……解除されていない。
「夕食までに、着替えてください」
「わかった」
「湊様」
「なんだ」
「今日の献立は、湊様の好きなものだけにします」
「……全部?」
「全部です」
これだ。この子は怒った時、俺を責めない。責めるかわりに、全力で甘やかしてくる。
だから、逃げ場がない。
……怒ってくれた方が、まだ楽なんだけどな。
メイド服に着替えた千夜が、テーブルに夕食を並べ
ていた。
唐揚げ、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、豚汁。
全部、俺が小学生の頃から好きだと言い続けているものだ。この子は、好きだと言った日付まで覚えていそうな気がする。
湯気が、窓の外の雨音の中でゆっくり立ち上っていた。そして、千夜の椅子は、いつもよりさらに近かった。
「近い」
「そうですか」
「椅子一個分どころじゃないだろ、これ」
「ゼロ個分です」
「ゼロ個分は、もう単位として成立してないだろ」
膝が触れている。触れているというより、当てられている。俺が少し動くと、同じだけ寄ってくる。逃げた分だけ、正確に詰められる。
……随分と、追尾性能が高すぎる膝だな。
「あーん」
「自分で食べる」
「あーん」
「今日は特に言うこと聞かないな、千夜」
「今日は、特に譲れないので」
譲れない日らしい。譲れない日の千夜は、地球の自転と同じ扱いになる。止める方法がない。
唐揚げを口に入れられた。
衣が薄くて、噛むと下味の生姜が来る。うまい。悔しいが、うまい。
少し置いて、千夜が口を開いた。
「湊様」
「なんだ」
「宮本さんは、可愛い方でしたね」
……来たか。
「……そうだな」
「一年生でした」
「そうだな」
「湊様は、年下がお好きですか」
「話の展開が急すぎるだろ」
「私は同い年です。ですが、二か月だけ年下です」
「知ってる」
「年下です」
二回言った。この情報がどう作用するのか、俺には全く分からない。分からないが、千夜の中では確実に何かの根拠になっている。
豚汁の椀が差し出される。
受け取ろうとしたら、そのまま口元まで運ばれた。
「持てる」
「持たせません」
「なんで」
「今日は、私が全部やりたいので」
千夜の目が、まっすぐ俺を見ていた。顔は動いていない。三年見てきた、いつもの顔だ。
だが、その目の奥にだけ、朝からずっと燻っているものがある。
俺はそれを消す方法を知らない。三年、隣にいて、まだ知らない。
「なあ、千夜」
「はい」
「怒ってないって、さっき言ったよな」
「言いました」
「じゃあ、なんでだ」
千夜は椀を置いた。それから、ほんの少しだけ首を傾げた。
「怒ってはいません」
「じゃあ」
「不安なだけです」
言葉が、あまりにも素直に落ちてきた。包みも、言い訳も、事務的な理由も、何もついていなかった。
俺は何も返せなかった。
千夜はすぐにいつもの調子に戻って、次のおかずに箸を伸ばした。
「豚汁が冷めます。はい、あーん」
夕食が終わっても、髪はほどかれなかった。リビングのテーブルで数学の課題を広げると、千夜は当たり前の顔で隣に座った。
テレビは消えたままだ。窓の外の雨音と、時々鳴る蛍光灯の細い音だけが部屋を満たしている。
「見てなくていいぞ」
「見ます」
「解けないんだけど」
「解けるまで見ます」
プレッシャーの質が悪い。千夜は肘をついて、俺の手元を眺めている。ノートの上を動くシャープペンを、目だけで追っている。
三問目で、手が止まった。
「ここ、間違っています」
「どこ」
「二行目です。計算の順序が逆です」
「……本当だ」
「湊様は、急ぐと手順を飛ばします。中学の頃からです」
……覚えられている。
俺のミスの傾向が、この子の中に全て蓄積されている。三年分の観測データだ。俺はこの三年間、徹底的に研究されて、その研究結果でもって、丁寧に甘やかされ続けている。
「千夜は解けるのか、これ」
「解けます」
「教えてくれ」
「だめです」
「なんで」
「教えると、湊様が私を見なくなるので」
何を言われたのか一瞬分からなくて、ペンが止まった。
「……見るだろ、普通に」
「解けている時の湊様は、ノートしか見ていません」
「それは」
「あります。数えています」
……数えているのか。この子はあらゆるものを数える。傘の本数も、背が伸びた分も、俺がノートを見ていた時間も。
千夜が身を寄せてきた。
肩に、やわらかい重みがかかる。頭を預けられている。
「おい」
「解いてください」
「この体勢でか」
「はい」
「無理だろ」
「湊様なら、できます」
過大評価だ。
思春期の男子高校生に、この状況で数学を解けというのは、種目として成立していない。
シャープペンの先が、ノートの上で止まったまま動かない。
耳元で、静かな呼吸の音がする。結い上げた髪から覗くうなじが、視界の端で白い。風呂上がりでもないのに、シャンプーの匂いがずっと残っている。
……理性が、削れる音がする。
俺は机の下で自分の太腿をつねって、平静を装った。
「千夜」
「はい」
「髪、まだそのままなんだな」
「はい」
「解かないのか」
「解きません」
「なんで」
千夜は少し黙ってから、答えた。
「解いたら、私が負けた気がするので」
何と戦っているのか、聞かなかった。聞かなくても分かる。
相手は宮本さんじゃない。この子は、多分、自分自身の中の何かと戦っている。
「なあ、千夜」
「はい」
「今日、階段で千夜も断ってただろ」
肩に預けられた重みが、わずかに動いた。
「……見ていましたね」
「見た」
「はい。お断りしました」
「よくあるのか、ああいうの」
「三度目です」
「三度」
「全部、お断りしています」
「……なんで」
「帰る道と帰る時間が、決まっているので」
同じ台詞だ。先輩に言ったのと、一字も違わない。
だが今度は、俺に向かって言っている。それだけで、意味が完全に別のものになる。
「そうか」
「湊様」
「なんだ」
「もっと聞いてください」
「は?」
「今の質問です。もっと、してください」
顔を横に向けると、すぐそこにこの子の目があった。顔は動いていない。だが、瞳の奥だけが、はっきりと明るい。
「なんでだよ」
「湊様が私のことを気にしてくださっていると、分かるので」
「……趣味が悪いぞ、それ」
「はい。自覚しています」
自覚した上でやっている。この子の性質の中で、いちばん厄介な部分だ。
俺はシャープペンを置いた。今日はもう無理だ。結局、その日の課題は一問も進まなかった。
風呂から上がると、リビングの照明は一段落とされていた。
窓の外の雨は弱くなっている。屋根を叩く音が、細かい針みたいになっていた。時計は十時を回っている。
「湊様。座ってください」
床のクッションを指さされる。
「自分で乾かせる」
「存じております」
逆らったところで結果が変わらないことは、もう学習済みだ。俺は素直に座った。
温風。指が髪をかき分けて、頭皮を撫でるように動く。この時間だけは、抵抗する理由が見つからない。
「気持ちいいですか」
「……まあ」
「よかったです」
声に抑揚はない。それなのに、指の動きだけが優しくなる。この子はいつもそうだ。言葉は事務で、手だけが甘い。
ドライヤーが止まった。
静かになった部屋に、雨音だけが残る。
「湊様」
「なんだよ」
「膝、貸します」
「いらない」
「貸します」
腕を引かれて、頭が柔らかいものの上に落ちた。見上げると、大きな瞳がじっとこちらを見下ろしていた。
照明を背にしているせいで、輪郭だけが黒く縁取られている。
「重いだろ」
「軽いです。もっと乗せてください」
「意味が分からない」
「私、今日一日ずっと、この時間のことを考えていました」
「……授業中も?」
「授業中もです」
……あのコツ、コツ、コツの時もか。
聞かなかった。聞いたら、明日からやらなくなる。
「そういうの、真顔で言うな」
「表情を動かすのは苦手です」
「動かしてみてくれ」
「動かすと、もっと恥ずかしいことになります」
雨が少し強くなった。互いに視線を外して、俺は天井を、千夜はどこか遠くを見ていた。俺の頭を撫でる指だけが、変わらない速度で動いている。
「湊様」
「……なんだ」
「昼間のこと、聞いてもいいですか」
……ようやく来た。夕食の時から、この子はずっとこれを抱えていた。
「いいけど」
「断ったのは」
「……」
「どうしてですか」
「言っただろ。好きな人がいる」
千夜の指が、俺の前髪に触れた。触れて、そのまま止まった。
「……その方は」
声が、少しだけ細い。
「どんな方ですか」
俺は答えられなかった。答えは目の前にある。真上にある。俺の頭を膝に乗せて、髪に触れている。
言えばいい。二文字だ。小学生でも言える二文字だ。
……でも、言えない。
三年前、この子は自分の意思でメイドになった。恩返しがしたいと言って、一歩も引かなかった。俺が今それを壊したら、この子がこの家にいる理由は宙に浮く。
好きだと言うことは、この子から、この子自身が決めた役割を奪うことだ。
……それが、怖い。
「……髪が長い」
「はい」
「よく結ってる」
「はい」
「毎日、違う結び方をする」
千夜の指が、また動きはじめた。ゆっくりと、前髪を梳くように。
「……そうですか」
「料理がうまい」
「はい」
「怒った時に、余計に優しくなる」
指が止まった。
「それは」
「不便な性格をしてる」
しばらく、雨の音だけがしていた。やがて千夜が、両手を自分の後頭部に回した。俺の視界の中で、髪をまとめていたものが外される。
長い黒髪が、一気に落ちてきた。
顔の両脇に垂れて、世界が狭くなる。照明が遮られて、視界の中がこの子の輪郭だけになった。
毛先が、俺の頬に触れた。
「……今日は、下ろします」
下ろしたままの日は、甘えたい日だ。
三年かけて覚えた法則が、目の前で切り替わった。
これは解除されたのではない。……種類が、変わっただけだ。
「湊様」
「なんだ」
「もう少し、このままでいてください」
「……何分」
「私の体感で、三十秒です」
「絶対三十秒じゃないだろ」
「はい」
否定しない。開き直りが清々しい。俺は目を閉じた。
雨の音と、頭を撫でる指の感触だけが残る。
……好きだ。
こんなにも好きなのに、好きだと言えないまま、俺は今日もこんなに甘やかされている。
……不公平だと思う。何に対しての不公平なのかは、自分でもよく分からない。
十一時を過ぎると、この家は急に静かになる。二階の廊下は照明を落としてあって、階段下の常夜灯だけが足元を照らしていた。雨はもう、屋根を撫でる程度になっている。
部屋の前で、千夜が立ち止まった。
「おやすみなさいませ、湊様」
「おやすみ」
千夜が俺の手を取った。指を絡めるでもなく、ただ包むように握る。朝の玄関でやるのと同じ握り方だ。
二秒で離れるはずの、あれ。
……三秒経った。
「……千夜」
「はい」
「離さないと寝られない」
「あと少しだけ」
五秒。十秒。
廊下は暗くて、この子の表情はよく見えない。下ろした髪が肩から流れ落ちて、輪郭を曖昧にしている。
「湊様」
「なんだ」
「今日は、申し訳ございませんでした」
「何が」
「学校での会話です。それから、椅子の距離と、豚汁です」
……謝る対象の選び方が独特すぎる。
「別に怒ってない」
「怒ってくださっても、よかったのです」
「なんでだよ」
「怒られると、まだ気にしてもらえていると分かるので」
握られた手に、少しだけ力がこもった。俺は言葉を探した。探して、見つからなかった。この子の不安の根っこは、たぶん、俺がずっと見て見ぬふりをしてきた場所にある。
今さらそこへ手を突っ込むには、今日は暗すぎる。
「千夜」
「はい」
「明日も普通に起こしに来てくれ」
「……はい」
「布団も剥がしていい」
「はい」
「あと三分は、数えなくていい」
千夜の肩が、わずかに揺れた。笑ったのかもしれない。暗くて、よく見えなかった。
「湊様」
「なんだ」
「私は」
そこで一度、言葉が切れた。雨が屋根を撫でる音がする。常夜灯の光が、廊下の床に細長い形を落としている。
「……私は、いつまでここにいていいですか」
心臓が、止まった気がした。冗談ではない。この子は冗談を言わない。一度も言ったことがない。
「なんだよ、急に」
「急ではありません」
「……そうか」
「ずっと考えています。毎日です」
……毎日。
朝五時に起きて、朝食を作って、直り終わった寝癖を櫛でなぞりながら、この子はずっとそれを考えていた。
俺の一日が敗北から始まるなんて、よくも言えたものだ。
この子の一日は、もっと深いところから始まっている。
「……ずっといていい」
言葉が、勝手に出た。
「え」
「ずっといていい。それでいい」
千夜が黙った。握られた手が、ほんの少し震えたのが分かった。
「……それは」
「なんだよ」
「どういう意味で、おっしゃっていますか」
まっすぐな声だった。逃げ道が、一本もない。
……言うなら今だ。
今しかない。喉の奥まで、もう来ている。
「……メイドとして、じゃなくても」
そこまで言った。そこまでで、止まった。
……心臓がうるさい。
廊下が暗くてよかったと、心の底から思った。千夜は何も言わなかった。ただ、握った手をゆっくりと持ち上げて、自分の額に当てた。
俺の手の甲に、この子の額が触れている。少し、熱かった。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、手が離された。
「おやすみなさいませ」
千夜は深く頭を下げて、廊下の奥へ歩いていく。一度も振り返らなかった。
俺は自分の部屋のドアの前で、しばらく動けなかった。
……言えなかった。
今日も言えなかった。
でも、今日は、いつもより一歩だけ手前まで行った。
一歩進んだところで、崖の縁が近くなっただけかもしれない。
それでも、進んだことは進んだ。
……三年で、初めての一勝かもしれない。




