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氷の柊さんは俺の前でだけ甘い  作者: 瑠璃色に輝く希望
一章「氷の柊さんは今日も他人のふりをする」
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3/23

二話

 窓の外で、雨が本格的に降りはじめた。傘立ての傘が、少しずつ役に立ちはじめる時間だ。俺の鞄の中には、今日も二本入っている。 


 五時間目と六時間目は、ほとんど記憶にない。雨のせいで教室や廊下照明が全て点灯していて、外はもう夕方みたいに暗かった。


 窓ガラスに水滴が斜めに走って、時々、風が吹くたびにその筋の向きが変わる。黒板の文字を写しながら、俺はずっと斜め前を見ていた。


 千夜の三つ編みが、少しだけ肩から前に落ちている。ノートをめくるたび、それが揺れて、また戻る。


 コツ、コツ、コツ。


 六時間目の途中で、三回鳴った。


 ……退屈してるな。


 そう思ったら、少しだけ笑いそうになって、慌てて口元を引き締めた。


 六時間目が終わると、教室は一気に緩む。俺は担任に頼まれた提出物を職員室に届けることになっていて、教室を出るのが少し遅れた。


 廊下は蒸していた。雨の日の校舎は、湿気が逃げ場をなくして、そのまま人の間に溜まっていく。


 階段を降りかけたところで、踊り場から声が聞こえてきた。


「柊さん、ちょっといい?」


 足が止まった。手すりの陰から見下ろすと、踊り場に千夜が立っていた。向かい合っているのは、うちの制服の三年生だ。名前は知らないが、バスケ部の背が高い先輩だったと思う。


 窓から入る光が弱くて、二人の輪郭だけが薄暗い中に浮かんでいた。


「あの、前から思ってたんだけどさ」


「はい」


「柊さんって、放課後いつも一人で帰ってるよね」


「はい」


「よかったら、今度一緒に……」


 俺は動かなかった。いや、動けなかった、が正しい。


 ……なんで、こんなところで足を止めてるんだ、俺は。


 行けばいい。降りていって、そのまま通り過ぎればいい。俺には関係のない話だ。学校での俺と千夜は他人で、他人の告白現場に居合わせただけの人間なら、普通は気まずそうに通り過ぎる。


 なのに、足が一段も動かなかった。


 千夜は先輩の言葉を最後まで聞いた。遮らなかった。それから、いつもの速度で、いつもの声で答えた。


「申し訳ありません」


「え、あ、いや、まだ何も」


「帰る道と時間が決まっていますので。家の方針で」


 先輩が言葉に詰まった。


 ……決まっているのは道じゃないだろ。


 角だ。校門の手前の、あの角。三年間、一度も破っていない、あの曲がり角。誰にも知られないように、誰にも見つからないように、毎日一人で曲がっている、あの角。


「……そっか。ごめん、急に」


「いえ」


 先輩が階段を降りていく。上履きの音が遠ざかって、踊り場に千夜だけが残った。


 俺は息を吐いた。吐いてから、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。


 ……いや、なんだこれ。なんで俺が息止めてるんだよ。


 胸のあたりが、うまく説明できない温度になっている。熱いのではない。冷たいのでもない。ただ、収まりが悪い。


 嫉妬だ、と自分で分かる程度には、俺も三年で成長した。成長したところで、対処法はまったく身についていない。成長の質が悪すぎる。


 階段を降りる。すれ違いざま、千夜がわずかに顔を上げた。


「……見ていましたね」


「見てない」


「二階の手すりの、右から三本目です」


「見てない」


「湊様は、嘘が下手です」


 学校では絶対に出さないはずの呼び方が、一瞬だけ滑り落ちた。千夜は自分でそれに気づいたのか、すぐに視線を前に戻した。


 だが歩き出す直前、俺の横で足を止めて、聞こえるか聞こえないかの声で言った。


「……嬉しいです」


 それだけ言って、千夜は行ってしまった。三つ編みが、階段の下へ消えていく。


 俺はしばらく踊り場に立ったまま、天井の蛍光灯を見上げていた。灯りの中で、小さな羽虫が一匹、ずっと同じところを回っている。


 ……嬉しい、って言ったな。


 俺が嫉妬したことが、この子は嬉しいらしい。


 その感情の仕組みを、俺は正しく理解できていない。理解できていないのに、心臓だけが正確に反応している。


 今日で二回目。朝からの累計だと、多分、七回目だ。


 放課後の昇降口は、雨のせいでいつもより混んでいた。外はもう本降りだった。細かい雨が斜めに流れて、コンクリートの色を濃くしている。傘立てから傘を抜く音があちこちで鳴って、開いた傘が次々に灰色の中へ出ていった。


「天羽くん」


 昼休みの三人組が待っていた。そして、その後ろにもう一人。


 見覚えのない女子だった。上履きの色から、一年生だと分かる。部活の後輩とかだろうか?


 その子は手に、封筒を持っていた。


「じゃ、あとはよろしく!」


 三人がものすごい速度で撤退していった。


 ……悠真の予想が完璧に的中している。あいつ、進路をそっち方面にした方がいい。占い師とか。


 一年生の子は、封筒を両手で持ったまま俯いていた。傘立ての前で、雨音がやけに大きく聞こえる。


「あの、一年の宮本咲希みやもとさきです」


「うん」


「四月から、先輩のことずっと見てて」


 声が震えている。震えているのに、逃げずに顔を上げた。


「好きです。付き合ってください」


 雨の音が、少しだけ遠くなった。この学園に入ってから何度か告白されている。でも、俺はこの手のことに慣れていない。慣れている人間がいたら、それはそれで問題だと思う。だが、慣れていないなりに、ひとつだけ決めていることがある。


 考えるふりをしない。


 迷った顔をして、時間を稼いで、相手に期待させて、それから断る。それが一番卑怯だ。


「ありがとう」


「……はい」


「でも、ごめん。付き合えない」


 宮本さんの肩が、小さく動いた。


「……理由、聞いてもいいですか」


「好きな人がいる」


 言った瞬間、自分の心臓が変な鳴り方をした。


 ……あ。


 言ってしまった。三年間、誰にも言っていない言葉だ。それを、今日初めて会った後輩に、こんなにあっさり口にしている。


「……そうですか」


 宮本さんが封筒を胸に引き寄せた。


「あの、じゃあ、これは渡さないでおきます。読まれちゃうと、その、恥ずかしいので」


「うん」


「でも、言えてよかったです。ありがとうございました」


 ちゃんと頭を下げて、宮本さんは走っていった。


 ……強い子だな。


 俺よりよほど気持ちが強い。俺は三年かけて、まだ一度も言えていない。


 俺は雨の降る外を見た。まだ傘を出していない。


 そして、振り返る。


 千夜が立っていた。


 傘立ての横。距離にして、五メートル。いつからそこにいたのかは、聞くまでもなかった。


「……聞いたか?」


「はい」


「どこから」


「最初からです」


 一切の遠慮がない。この子は、正直だ。こういう時は尚更に。


 昇降口には、まだ何人か生徒が残っている。だから千夜は、俺の方を見ていない。傘立ての方を向いたまま、誰にともなく話している顔をしている。


「断られたんですね」


「そうだな」


「かわいそうです」


「……お前が言うと不穏だな」


「本当に、そう思っています」


 ……思ってるんだろうな。この子はこういう時、冗談を言わない。


「湊さん」


 学校用の呼び方だ。今まで数えるほどしか聞いていない。


「好きな人が、いるんですね」


「……いる」


「そうですか」


 ……来た。


 その「そうですか」は、了承ではない。予告だ。千夜が鞄を足元に置いた。そして、両手を後頭部に回した。


 三つ編みが、ほどけていく。編み目が上から順に解けて、長い黒髪が肩に落ちた。


 一瞬だけ、家にいる時のこの子の輪郭になった。


 だがそれは本当に一瞬で、次の瞬間には、千夜は髪をまとめ直しはじめていた。


 高く。きつく。一筋も落とさずに。


 うなじが完全に露わになるまで、髪が引き上げられていく。


 きっちり結い上げた、あの髪型に。


 昇降口の空気が変わったのが分かった。近くにいた男子が二人、露骨に息を呑んでいる。


 だが、俺だけはそれを美しさとして見ていない。


 ……警報だ。これは、警報なんだ。


「……千夜」


「なんでしょう」


「今日、それは」


「今日は、この髪でいたい気分なので」


 淡々。完全に淡々と。事務連絡と同じ温度で言う。千夜が鞄を拾い上げた。だが傘立ての前で足が止まる。ビニール傘の持ち手に指をかけたまま、俺の方を見ずに口を開いた。


「湊さん」


「なんだよ」


「私は可愛くありませんか」


 昇降口の空気が凍った。


 幸い、周りにいた生徒はもう傘を差して出ていったあとだった。残っていたのは、俺と千夜と、傘立てと、雨音だけだ。


「……ここで聞くことか、それ」


「ここでしか聞けません」


「なんで」


「家だと、答えを聞くのが怖いので」


 ……理屈が分からない。


 この子は家では何でも言う。あーんも、額へのキスも、触っていたいという理由も、全部平気で口にする。なのに、この一つだけは家で聞けないらしい。


「可愛いよ」


 多分、口に出して言ったのは、初めてかもしれない。そのくらい馴染みのない言葉。でも、今日はすんなりと出た。


 そして、千夜が固まった。一秒。二秒。それから、ゆっくりと傘立ての方を向いた。


「……不意打ちは、ずるいです」


「いや、聞いてきただろ」


「聞きましたが、答えが返ってくるとは思っていませんでした」


「じゃあ聞くな」


「聞きます。何度でも聞きます」


 千夜がビニール傘を引き抜いた。俺の横を通り過ぎる時、視線は前を向いたまま、声だけがこちらに落ちてきた。


「先に出ます。五分後に、いつもの角で」


「……いつもは俺が先だろ」


「今日は、私が先です」


 ……ルールが書き換えられた。


 三年間、一度も変わらなかったものが、今日、この子の一存で変わった。


 俺は昇降口の柱にもたれて、雨の中に消えていく背中を見送った。


 高く結い上げられた髪が、雨の向こうで揺れている。


 覚悟を決めるしかない。


 ……今夜の家は、多分、無事では済まない。


 五分後、俺は校門を出た。雨脚は少し強くなっていた。折り畳み傘を開くと、七月の匂いが一気に上がってくる。濡れたアスファルトと、街路樹の葉と、どこかの家の夕飯の匂い。


 坂を下って、いつもの角を曲がる。


 千夜が立っていた。ビニール傘の下、制服のスカートの裾が少し濡れている。傘の縁から落ちた雫が、足元のアスファルトに小さな輪を作っていた。


 俺を見つけると、傘を軽く傾けて頭を下げる。


「お待ちしていました」


「待たなくていいって、いつも言ってるだろ」


「今日は、待ちたい気分なので」


 ……気分の日か。


 全部が千夜の気分で押し切られる日だ。こうなるともう、理屈は通用しない。


 住宅街に入ると、人通りが一気に減る。この道から先は、同じ学校の生徒がほとんど通らない。三年かけて調べ上げた結果だ。誰が調べたかというと、千夜が調べた。


 俺たちは並んで歩き出した。並んで、といっても、傘一本分の距離は空いている。


 雨音の中を、しばらく無言で歩いた。


 傘に落ちる雨の音は、二種類ある。俺のは布の音で、千夜のはビニールの音だ。同じ雨なのに、音が違う。


「湊様」


 家用の呼び方に戻っている。この角が境界線だ。


「なんだよ」


「私は、怒っていません」


「怒ってるだろ」


「怒っていません」


「じゃあなんで髪を結い上げた」


 千夜の歩幅が、わずかに乱れた。


「……気づいていたんですね」


「三年、隣で見てれば分かる」


「そうですか」


 ……またそれだ。


 この子の「そうですか」は、在庫が無限にある。雨が傘を叩く音が続く。信号のない小さな交差点で、俺は足を止めた。


「傘」


「はい?」


「二本目」


 鞄から、もう一本の折り畳み傘を出した。千夜がビニール傘の下で、目を丸くした。ほんの少しだけ。この子にしては、大きな変化だった。


「毎朝、俺の鞄に二本入ってる」


「……はい」


「三年間、ずっとだ」


「……はい」


「なんで二本入れてる」


 千夜は答えなかった。雨が降っている。交差点に車は来ない。傘の骨を打つ音だけが、二人の間を埋めていた。


 千夜の指が、ビニール傘の持ち手を握り直す。


「渡してもらえる日を」


 小さな声だった。


「待っていたので」


 三年。千九十日。


 ……そうか。


 毎朝、二本目の傘を鞄に入れて、それを渡される日を待っていた。渡されないまま持ち帰って、翌朝また入れて。それを千回以上。


 俺は毎朝それを見ていた。見ていて、「私がいますよ」という証みたいなものだと勝手に解釈して、それで終わりにしていた。


 ……勝手に解釈して、勝手に納得して、三年だ。


 俺は自分の鈍さを、殴りたくなった。


「……ビニール傘、閉じろ」


「え」


「こっち使え。俺のだ」


 千夜が傘を閉じた。


 雨がその肩を打つ一瞬の間に、俺は折り畳み傘を開いて差し出した。


 受け取る手が、少しだけ震えていた。


「……ありがとうございます」


「三年遅れた」


「いいえ」


 千夜が傘を開く。俺の傘と、俺の傘。同じ形の傘が二つ、雨の中に並んだ。


「三年、待った価値がありました」


 高く結い上げた髪の下で、この子の耳が、ほんの少しだけ赤くなっていた。


 ……見なかったことにしよう。


 見たと言ったら、多分、もう見せてくれなくなる。


 住宅街をもう少し歩くと、最後の角が来る。そこから先は、通学路の生徒と鉢合わせる可能性がゼロではない。三年間、俺たちが並んで歩けるのは、この角までと決まっている。


 千夜が足を止めた。


「ここからは、他人です」


「……知ってる」


「三歩、下がります」


「別に、今日くらい」


「だめです」


 雨の中で、千夜が三歩下がった。俺の傘と、俺の傘。同じ形の傘が、三歩分の距離を空けて、雨の中に並んでいる。


 同じ道を、同じ速度で、別々に歩く。


 ……三年やっても、この三歩には慣れない。


 後ろで、傘の音がついてくる。振り返らなくても、距離は分かる。三歩だ。ずっと三歩だ。一度も詰まらないし、一度も離れない。


 この子は、三年間、この距離を正確に守り続けている。


 この距離を守ってしまっているのは、紛れもなく俺のせいだった。

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