一話
私立聖鷗学園の校門は、朝の八時前が一番混む。
坂を上りきったところで空を見上げると、さっきまで晴れていたはずの空に、灰色が薄く混じりはじめていた。降水確率六十パーセント。
今朝の天気予報の通りだ。
俺は鞄の中の折り畳み傘を、上から軽く押さえた。しっかりと、二本分の大きさを感じた。
「よお、天羽」
背中を叩かれた。振り返らなくても分かる。神代悠真。同じクラスで、去年から俺の隣の席にいる男だ。
「今日も無駄に顔がいいな、お前」
「朝から絡むな」
「褒めてんだよ。人類の顔面偏差値の平均を引き上げてくれて、どうもありがとう」
「引き上げてない」
悠真は笑いながら、俺の隣に並んだ。こいつは一日の最初に挨拶代わりに必ず俺をいじる。呼吸みたいなものらしい。
「知ってるか。明日、転入生来るらしいぞ」
「……らしいな」
「なんで知ってんだよ。俺、今この学校で一番早い情報だと思ってたのに」
「風の噂で」
風ではない。実際は、今朝の食卓で一緒に出てきた情報だ。だがそれを言うわけにはいかない。
「理事長の孫娘だってさ。鷹司家。あの鷹司な」
「あの、って言われても分からん」
「この学園の土地を含む付近一帯の土地の地主だよ」
……規模が違う。俺の家の八人掛けテーブルが急に慎ましく思えてきた。
昇降口に入ると、湿った空気の匂いがした。傘立てにはもう何本か傘が刺さっている。俺と同じで、朝のニュースを信じた人間たちだ。
上履きに履き替えていると、悠真が肘で俺をつついた。
「おい、来たぞ」
視線の先を追う必要はなかった。昇降口の空気が、わずかに静かになったからだ。
千夜が歩いてくる。
黒髪は、きっちりとした三つ編み。前髪は乱れひとつなく、鞄の持ち方まで定規で測ったようだ。表情は動かない。誰とも目を合わせず、まっすぐ前だけを見て歩いてくる。
「相変わらずクールだな、氷の柊さん」
悠真が小声で言った。学園での千夜の呼び名だ。誰が言い出したのかは知らないが、定着している。
身内贔屓無しでも、学校一の美人だと思う。それは客観的な事実として、多分、誰も否定しないだろう。
ただ、学校での千夜は近寄りがたい。話しかけても、返ってくるのは必要最低限の言葉だけ。笑ったところを見た者がいないという噂まで立っている。
……まあ、それは正しいだろう。千夜が声を出して笑った所は俺も見たことがないのだから。
千夜が俺の横を通り過ぎた。距離、およそ、一メートル。視線は寄越さない。会釈もない。上履きの音だけが、規則正しく遠ざかっていく。
今朝、この子は甲斐甲斐しく、俺の世話を焼き、寝癖を五分間直し続けてくれていた。
同じ人間の姿とは思えない。振り幅が大きすぎて、俺の脳では、処理ができない。
「あの人さ」
悠真が千夜の背中を見送りながら言った。
「絶対、家で全然違う顔してると思うんだよな」
心臓が一段跳ねた。
「……なんでだよ」
「勘だよ。ああいうタイプは絶対どっかで反動が来るんだよ」
「来ないんじゃないか」
「来てるって。きっと、裏では誰かの前で、めちゃくちゃデレてるとかさあ」
「都合の良い妄想だな」
「ああ、妄想さ。でも、男の夢みたいなもんだろ? クール系女子が自分の前でだけ、めちゃくちゃデレてくれるなんてさ。空想すぎて、まさにロマンだ」
……悠真のその空想は正解だった。しかも、至近距離に、寵愛を受けているその『誰か』がいるのだから。
……男の夢、ロマンね。確かにそうかもしれないな。
俺は表情を動かさないよう全力を使いながら、上履きの踵をきっちり直した。
確かに、俺と千夜の秘密は守られている。守られてはいるが、防御力は日に日に薄くなっている気がしてならない。
一時間目は数学だった。
窓際の席から見える空は、さっきよりもう一段暗い。エアコンの効いた教室に、シャープペンの音だけが規則正しく響いている。
千夜の席は、俺の斜め前。二つ離れた場所にある。
背筋がまっすぐだ。ノートを取る速度も一定で、消しゴムを使う回数がほとんどない。優等生の鏡のような生徒だ。
あの正確さで俺の朝食を作り、あの正確さで俺の寝癖を直しているのかと思うと、少し笑いそうになる。
授業中に千夜がこちらを見ることは一度もない。
その代わり、シャープペンの尻を三回、机に軽く当てる癖がある。
コツ、コツ、コツ。
家では絶対にやらない癖だ。学校でだけ出る。俺はそれを、この子が退屈している合図だと勝手に思っている。勝手に思っているだけで、本人に確かめたことはない。
確かめてしまったら、多分、その癖を直してしまい、明日からやらなくなるから。
「天羽ー、次の問題」
「はい」
当てられて立ち上がる。黒板の前で答えを書き終えて席に戻る途中、千夜の机の横を通った。
コツ、と一回だけ音がした。
顔は上がらない。ノートも見たままだ。だが、俺は自分の席に着いてから、しばらく問題文が頭に入ってこなかった。
……こういうところなんだ、と思う。
家でやることは全部、正面から殴ってくるみたいに全部甘い。でも、学校でやることは、こんな風に「私はいつも見ていますよ」という小さい合図だけ。
でも、だからこそ、その小さい合図が効く。そういう体質にされてしまった。
昼休み。
机をくっつけて弁当を広げると、悠真が真っ先に身を乗り出してきた。
「うわ、今日も手作りかよ」
「そうだけど」
「お前の親、海外だよな」
包みを開ける手が一瞬止まりかけた。止めたら負けなので、止めなかった。
「自分で作ってる」
「嘘つけ」
「作ってる」
「じゃあ聞くけど、この卵焼き、甘いか塩か」
「……甘い?」
「なんで疑問形なんだよ」
疑問形になっていた。自分で作ったなら知っているはずの情報を、自分で作った人間が確認してしまった。
「まあいいけど。天羽が謎の弁当を持ってくるのは、いつものことだからな」
「謎じゃない」
「謎だろ。彩りが完璧すぎるんだよ。男の弁当ってのは、もっとこう、茶色の絨毯みたいになるもんだ」
否定できない。この弁当は今日も、赤と緑と黄色が計算通りに配置されている。
三段の一番下、隅の方に、苺が一つ。それが、毎日、必ず一つ。
俺はそれを最後に取っておく。取っておくことが習慣になって、習慣が儀式になって、その儀式は、毎日継続されている。
窓の外に目をやる。
中庭のベンチに、千夜が一人で座っていた。膝の上に小さな弁当箱。誰とも喋らず、静かに箸を動かしている。
女子のグループが近くを通っても、声はかからない。かける方も、かけられる方も、そういうものだと思っている。
一人でいることを、あの子は嫌がらない。
嫌がらないことと、寂しくないことは、たぶん別だと思う。けれど、千夜が本当はどう思っているのかはわからない。
「天羽くん」
声をかけられて振り向くと、同じクラスの女子が三人立っていた。
「ちょっと聞きたいことあって」
「なに?」
「実は……ううん、やっぱ放課後でいい?」
「別にいいけど」
「やった。じゃあ後でね」
三人が笑いながら離れていく。悠真が箸で俺を指した。
「行儀が悪い」
「今のが分からないお前が怖いよ」
「何が」
「あれ、絶対そういうやつだろ」
「そういうやつってなんだよ」
「三人で来るのは前振り。本命は別にいる。そんで、告白か、手紙かなんか渡される流れ。女子グループでの当たり前の仕組みだな」
……そんな複雑な仕組みが世の中にあるのか。
俺は苺を口に入れた。甘い。
昼休みにこれを食べる時、千夜に、「私のことを思い出しますか」と今朝聞かれた。俺は思い出すと答えた。
嘘ではない。ただ、思い出す頻度についてはごまかした。実際は、苺の時だけではない。一日にもっと何回も思っている。
もう一度、中庭を見た。千夜がこちらを見ていた。
目が合ったのは、たぶん半秒もない。千夜は、すぐに視線を弁当に戻して、何事もなかったように箸を動かしはじめた。
だが、俺は知っている。
あの半秒のあいだに、この子は全部見ていたのだと思う。女子三人の反応も、俺の表情も全部。
午後の空は、もう完全に灰色になっていた。
昼休みの終わり際、購買の帰りに悠真が横に並んできた。
廊下の窓は曇っている。外はもう降りはじめていて、ガラスに細かい水滴が張りついていた。
「なあ天羽」
「なんだよ」
「お前さ、柊さんと中学同じだよな」
パックのジュースを吸うふりをして、俺は時間を稼いだ。
「……まあな」
「仲いいの?」
「別に。あまり喋らないな」
「そっか」
悠真はそれ以上突っ込んでこなかった。だが窓の外を見たまま、独り言みたいに続けた。
「去年の体育祭さ」
「なんだよ」
「柊さんが倒れただろ。日射病で」
「……そうだったけ?」
聞かれたことに対して、とぼけたフリをする。
……実際は、覚えている。忘れられるわけがない。
千夜がテントの脇でふらついて、膝から崩れた。あの時、俺は自分の競技の招集場所を無視して走った。
百メートルを、多分、人生で一番速く走った。
「あの時さ。お前、一番に着いてたんだよ」
「……近くにいただけじゃないか」
「本部テントの反対側が近くか?」
俺は何も言えなかった。
「別に、詮索する気はねえよ」
悠真はジュースの空パックを潰した。
「ただ、俺は見えてるってだけ。柊さんが弁当箱洗う流し、いつも三番目のやつなんだよ。で、お前が洗うのも三番目な」
「偶然だろ」
「一年間、偶然が続いたら、それはもう必然って言うんだよ」
こいつは軽薄なふりをして、たまにこういうことを言う。
俺は反論を探した。探したが、三番目の流しについて弁明する方法は、まだ知らなかった。
「……誰かに言ったか」
「言うわけないだろ」
悠真が笑った。
「ただ、そのうち誰か気づくぞ。俺が気づくくらいだからな」
「気づかれると、まずいのか」
「まずいかどうかは、俺が決めることじゃねえよ」
悠真は笑いながら、俺の背中を叩いた。
チャイムが鳴った。
廊下の生徒が一斉に動きはじめる。悠真は伸びをしながら教室の方へ歩き出して、途中で一度だけ振り返った。
「まあ、応援するさ」
「何をだよ」
「色々だよ」
雨が、窓ガラスを一段強く叩いた。
俺は空になったパックを握りつぶして、ゴミ箱に放った。入らなかった。
三番目の流し。
明日から場所を変えよう、と一瞬考えて、すぐにやめた。
変えたら、千夜が気づく。気づいたら、多分、家で理由を聞かれる。
理由を説明できない。そもそも、何故、同じ流しを使おうと思ったのかを、俺自身、説明できる理由を持ち合わせていないのだから。




