序章
眩しさで目を開けると、カーテンが半分だけ開いていた。
七月の朝の光が、フローリングに細長い白の帯を落としている。その帯の中を、埃が数粒、ゆっくりと落ちていくのが見えた。まだ誰も動いていない部屋の、静止した空気の質感だった。
窓の外では、庭のもみじが風もないのにわずかに揺れている。梅雨が明けたばかりで、朝の湿気だけが妙に薄い。遠くで一匹だけ、蝉が試し鳴きのような声を出していた。
そして、ベッドの脇に人影が立っている。
いつものことすぎて、もう見なくとも誰だか分かる。目を開ける前から、空気の密度で分かっていた。この家で、俺より早く起きている人間は一人しかいない。
「おはようございます、湊様。六時三十分です」
「……おはよう」
声を出すと、喉が少し掠れた。
シンプルな黒のロング丈のワンピースに、白いエプロン。背筋は定規で引いたようにまっすぐで、表情はほとんど動かない。窓からの光が横顔の輪郭だけを撫でていて、睫毛の影が頬に一本、細く落ちている。
柊千夜。十七歳。
同級生で、幼馴染で。
そして———うちのメイドだ。
そんな肩書きを三つ持っている女の子と、俺は毎朝一対一で戦っている。戦績は確か、〇勝千八十九敗だ。
枕元の目覚まし時計は、この三年間で一度も鳴っていない。確かに設定した記憶はある。だが鳴った記憶がない。理由も分かっている。鳴る前に、この子が止めているからだ。
千夜は、機械より早く起きて、機械の仕事を奪う。あらゆるものが機械に置き換えられていく時代に、この家では機械の方が就職難に陥っている。
今日の髪型はポニーテールだった。
高い位置で結った黒髪が、身を屈めるのに合わせてさらりと肩から滑り落ちる。落ちた毛先を、千夜が耳の後ろへ流した。その一連の動作が、あまりにも自然で、あまりにも無防備だった。
ポニーテールの日は、かなり機嫌がいい。三つ編みは平常運転。下ろしたままの日は甘えたい日で、きっちり結い上げた日は———その話は今はしないことにする。色々とあったからだ。
三年もあれば、人はこういう日常の中に潜むちょっとした法則を覚える。覚えたくて覚えたわけではない。ただ、毎朝目の前にあるものを、俺の脳が勝手に記録していっただけだ。
「何時に起きた」
「五時です」
「早すぎるだろ」
「一時間半あれば、朝食と洗濯と、湊様を起こす練習ができますから」
「……練習ねぇ」
「毎朝、頭の中で三回はやっています」
「本番の一回だけでいいだろ」
「三回イメージすると、一回目が完璧になりますので」
努力の方向が、致命的に間違っている。しかも、成果は確実に出ている。俺はこの声で、三年間、一日も欠かさず起き続けているのだから。
もし明日、この声がしなかったら。俺は多分、目が覚めない自信がある。もうこの子の声じゃないと起きれない。そういう風に身体が調教されてしまった。
……本当に不便な身体になってしまったなあ。
「起きられますか」
「起きられる。ちゃんと起きられるから」
「そうですか」
この三年でひとつ学んだことがある。この子の「そうですか」は、了承ではない。「しますよ」という予告だ。
案の定、千夜が布団の端に指をかけた。細い指が、掛け布団の縁を几帳面に摘まんでいる。
「では、剥がしますね」
「聞いた意味がないぞ」
布団が持ち上げられ、視界が一気に明るくなった。半分開いた窓から入ってきた朝の空気が、剥き出しになった腕を撫でていく。七月とはいえ、明け方の空気はまだ肌寒い。
……まだ出たくない。寒い。
「寒い」
「三十秒後には温まります」
「その三十秒間はどうすればいいんだよ」
「では、時間を稼ぎましょうか」
「どうやっ——」
言い終わる前に、千夜が屈み込んだ。額が触れそうな距離で、止まる。まっすぐな瞳が、真上から俺を見下ろしていた。黒目が大きい。まばたきをしない。ポニーテールの毛先が肩から垂れて、俺の頬のすぐ横で止まっている。
時間が止まった。俺の思考も止まった。大きな瞳が、俺を石に変えてしまったみたいだった。
息をどうやってしていたのか、思い出せなくなった。心臓だけが、勝手に働いている。
……髪の毛、くすぐったい。良い匂い。かわいい。
語彙力が三歳児くらいになってしまった。
「……これで、三十秒、経ちました」
「いや、経ってない。絶対、経ってない」
「体感です」
「誰の」
「私のです」
千夜の体感時間は、都合よく伸縮する。この家では、どんな物理法則より優先順位が高い。千夜が三十秒と言えば、たとえ一秒であっても三十秒になる。そういう仕組みだった。
「では、布団、もう一度かけましょうか」
「かけてくれるのか」
「かけて、また剥がします」
「地獄だろ、それ」
俺は枕に顔を半分埋めた。逃げ場としては最悪だが、他にない。枕はまだ温かかった。頬に触れる布の感触だけが、さっきまで眠っていたことを証明している。
……まだ眠い。あと少しでいいから、寝させてくれ。
「湊様」
「なんだよ」
「実は起こす前、お顔を見ていました」
「何分」
「十二分です」
「長いな」
「短いです」
……基準が分からない。この子の時間感覚は、根本のところで独特すぎるんだよ。
十二分。
その十二分間、俺は何も知らずに寝ていた。無防備な顔をして、たぶん間抜けな寝息を立てて。それをこの子は、じっと見ていたわけだ。それを考えると、耳のあたりが熱くなった。
……普通逆だろ。こんな男の顔を見て、何が良いんだよ。
「とりあえず、あと五分寝かせて」
「だめです」
「三分」
「……では、三分だけですよ」
ベッドが沈んだ。マットレスの端が下がって、その分だけ、千夜の体温が近づいてくる。俺の髪に、指が通された。
細い指が、根元からゆっくりと梳いていく。爪を立てず、引っかからないように、丁寧に。頭皮を撫でるたび、背中の力が抜けていくのが自分でも分かった。
……気持ちいい。これはダメになるやつだ。
「三分、数えます」
「数えなくていい」
「数えないと、終わりがきませんので」
千夜の指先は、そのまま俺の頭の上でゆっくり動き続けていて、俺はもう一度、目を閉じるしかなかった。
……敬語というのは本来、距離を取るための道具だったはずだ。
この子はそれを、距離を詰めるための道具に改造して使っている。誰か回収してほしい。危険物だ。俺をダメ人間にする凶悪な劇物だ。これは。
目を閉じたまま、俺は数えなかった。数えると、この時間が終わってしまうからだ。
結局、三分はなぜか七分になった。
七分後、俺は自分の意思で起き上がった。ということにしておきたい。
実際は「そろそろ、本当に遅刻しますよ」と言いながら、千夜が俺の手を引いたから起きることができた。
だから、その手が必要以上に長く繋がれていたことも、俺は黙っていることにした。
「制服です」
千夜がハンガーから外したワイシャツを広げ、当たり前の顔で差し出してくる。まだ少しだけ、アイロンの熱が残っていた。
「自分で着られる」
「存じています」
「じゃあ」
「私が着せてあげたいので」
淡々と、そう言う。事務連絡と同じ速度で。この家では、こんなふうに俺の意思とは無関係に、千夜の思うがまま、なされるがままに事が進んでいく。
袖に腕を通される。ネクタイに指がかかり、千夜の顔が近づいてきた。伏せられた睫毛が長い。シャンプーの甘い匂いがして、俺は天井の一点をひたすら見つめた。
三年間で、この天井の模様や木目の細かい筋までも、もう数え終わっている。数え終わってしまったので、逃げ場としては年々使いづらくなっている。
結ぶ間、千夜は息を止めていた。三年見ていれば、そういうことも分かる。真剣なのだ。ネクタイひとつに、この子は毎朝、本気を出している。
「湊様。心拍数が上がっていますよ」
「上がってない」
「私、耳がいいので」
「耳の性能の話じゃないだろ」
心臓というのは正直者だ。俺の意思とまるで連携が取れていない。千夜の身体が近くなるたび、勝手に速度を上げる。
きゅ、と結び目が締まった。
千夜は一歩下がって、俺を上から下まで眺めた。品評でも査定でもない。ただ、確かめるような目だった。
「よくお似合いです」
「ただの制服だぞ。全国の高校生が毎日着てる」
「私が結んで、湊様が着ている。世界で一本だけの制服です」
真顔だった。
この子は、恥じらいもなく、そういうことを真顔で言う。
……世界一どうでもいい情報を、世界一真面目な顔で言ってくる。そのギャップが生む破壊力は、いつも計算が合わない。
ブレザーを着せられ、肩の線を整えられる。手のひらが背中を撫でるように滑って、そこで止まった。
「湊様、背が伸びましたね」
「そうか?」
「去年より、二センチです」
「測ってないだろ」
「抱きついた時の位置で分かります」
「抱きついて、測るな」
「ネクタイ、ちょっと緩めていいか」
「だめです」
「苦しい」
「私が結んだので、緩めると、私が緩んだことになります」
「論理の飛躍がすごいな」
「緩い女にはなりたくないので。お願いしますね」
……緩い女って。色々な解釈の余地があるが、その表現は大丈夫なのかよ。
続いて、千夜が床に膝をついた。
「待て。何する気だ」
「いつものように靴下の番です」
「何度も言ってるが、それは本当に自分でやる」
「私がやります」
「なんで」
「湊様が私を見下ろす角度の目線が好きなので」
「それは、反応に困るぞ」
黙って、履かせられた。抵抗するだけ無駄だと、体の方が先に学習している。足首を持つ手が、やけに優しかった。壊れ物でも扱うみたいに。
俺の足首は壊れない。壊れないのに、この子はいつもそういう持ち方をする。
「湊様、動かないでください」
「今度は何」
「寝癖です」
後頭部に櫛が入る。手つきが妙に優しくて、俺は黙るしかなかった。ゆっくり、丁寧に、何度も同じところを。
櫛の歯が頭皮を通るたび、小さな音がする。それ以外に音のない部屋で、その音だけが繰り返されていた。
「……あのさ、千夜」
「はい」
「それ、とっくに直ってると思うんだが」
「知っています」
「じゃあなんで続けてんの」
「私が触っていたいので」
理由が短い。短すぎて、返す言葉が用意できない。
俺の一日はいつも、こういう小さい敗北から始まる。負けているのに、なぜか毎朝、機嫌がいい。
****
一階に降りると、廊下まで味噌汁の匂いが流れてきていた。
階段の途中から、匂いが少しずつ濃くなる。出汁と、焼けた卵と、ほんのり甘い何か。三年前まで、この家の朝はこんな匂いをしていなかった。
ダイニングの窓は開けてある。庭の緑が朝日を受けて、テーブルの木目に薄い影を落としていた。カーテンが時々ふくらんで、その影の形を静かに動かしていく。
八人掛けの長いテーブル。両親が海外に行ってから、これを使うのは俺たち二人だけだ。
……寂しいものだな。
けれど、二人だけというのも、今では慣れてしまった。慣れてしまったし、この甘やかし空間はふたりきりだからこそのものである。
「卵は半熟です」
「ありがとう。……千夜も座ってくれ」
「使用人ですので」
「それ言い続けてるけど、結局、毎回座るよな」
「様式美ですから」
千夜は俺の隣の椅子を引き、腰を下ろした。正面ではなく、隣。しかも椅子ひとつ分、近い。この距離は年々縮んでいる。三年かけて、じりじりと詰めてきた形跡がある。
膝が、時々触れる。触れるたびに、この子は動かない。動かないから、俺も動けない。そのまま、膝同士がくっついたままになる。
「あーん」
「自分で食べる」
「あーん」
「聞け」
「湊様の口が開くまで待ちます。あぁ。私たち、遅刻してしまいますね」
「脅迫だろそれ」
結局、食べた。だし巻き卵は、外側が少しだけ焦げていて、中がまだ湯気を持っていた。うまかった。それが、一番腹立たしい。俺が少し焦げた方が美味いと言ってから、千夜はそういう風に作っている。焦がし方までも完璧だった。
敗北の味は、出汁がよくきいていた。
千夜は自分の分をほとんど食べない。俺の皿が空くのを見届けてから、思い出したように箸を取る。
……なんか、毎朝、申し訳なくなるんだよな。
「先に食えよ」
「湊様が召し上がるところを、見ていたいので」
「観賞用じゃないんだよ、俺は」
「いいえ。鑑賞用です」
「ちゃんと訂正しろ」
テレビでは朝の情報番組が天気を伝えていた。午後から雨、降水確率六十パーセント。画面の中で、若い気象予報士が傘のマークを指している。
「傘は鞄に……」
「まだ、入れてない。入れておくよ」
「もう私が入れさせていただきました」
「おい、勝手に開けるな」
「開けないと、入れられないので」
反論すると、毎回綺麗に打ち返される。この子の理屈はドミノみたいに一直線に倒れて、必ず結論まで着く。都合の良い方に。
「お弁当です」
差し出された包みを受け取る。保温袋の中にある箱は、紺色の布で、隅がきっちり折り込まれていた。手のひらに、まだほんのり温かさが残っている。
千夜は俺に渡す前、その包みを一度だけ、指の腹で撫でた。それから、保温袋に入れた。癖だと思う。三年間、毎朝やっている。本人はきっと、気づいていない。
「ありがと」
「今日は、卵焼きを甘くしました」
「なんで」
「湊様が昨日、疲れた顔をしていたので」
俺が疲れたと言った覚えはない。言う前に、全部測られている。
……甘やかされていると思う。甘すぎて、毎日、砂糖漬け状態だ。漬かりすぎて、塩の味は、もう思い出せない。
「あと、苺を一つ入れました」
「毎度、一つだけだよな、苺だけ。他のおかずは、ニ、三個入ってるのに」
「苺は特別ですから。二つ入れると、特別ではなくなるので」
なんとなく、理屈が通っているような、通っていないような。ただ、その一つのために俺は毎日昼を待っている。完全に千夜の手のひらの上だ。
手のひらの上で、しかも、快適に暮らしている。
「湊様」
「なんだ」
「昼休み、私のことを思い出しますか」
「……苺食う時にな」
「では、毎日思い出しますね」
そう言って、千夜はほんの少しだけ目を細めた。ほんの、数ミリ。だが三年見ていると、その誤差のような数ミリの意味が分かるようになってくる。真顔なのに、目だけはいつも感情を隠せていない。
……そんなところが、つくづくかわいいな。
「そういえば、噂を聞きました」
「なに」
「明日、転入生が来るそうです。理事長のお孫さんだとか」
「へえ」
「……湊様」
「なんだよ」
「浮気はしないでくださいね」
「話が飛びすぎだろ」
「私は、先回りが得意ですので」
得意なのは知っている。三年間、この子に先回りされなかったことが一度もない。
……でも、その先回りだけは、当たってほしくないし、当たるわけはない。その自信だけはある。
食器を下げる千夜の背中を見ていた。ポニーテールが左右に揺れている。エプロンの結び目の下で、腰の線が細い。うなじが見えて、白くて、綺麗で、目を惹かれてしまう。
……ああ、綺麗だな。
そう思った瞬間、千夜がちらっとこちらを振り返った。ビクッとして、思わず、俺は視線を天井に逃がした。
千夜は俺を確認して、視線を戻して、再び、流し台で、水が流れはじめる。その音に混ざるように、声がした。
「湊様」
「見てない」
「何も言っていません」
「……そうだな」
「……私のこと、見ていてもいいですよ」
振り返らずに、そう言った。声だけが、いつもより少し柔らかい。水音の中に紛れそうな、小さな声だった。
……言おうとした。
今なら言える気がした。喉の奥までは、確かに来ていた。
あと二文字だ。それだけで、この三年に終結がやってくる。
「千夜」
「はい」
「……いや、なんでもない」
「そうですか」
その「そうですか」は、予告ではなかった。ただの、静かな受け止めだった。それが一番、堪えた。
****
玄関の鏡に、二人並んで映っていた。
磨りガラス越しの光が、鏡の右下だけを白く曇らせている。千夜が俺の肩の埃を払い、襟の裏を指で整えた。
鏡越しに、目が合った。逸らしたのは俺の方だった。
「今日も、五分後に出ます」
「分かった」
「校門の手前の角で、いつも通りに曲がります」
「知ってる」
学校では、同居していることを秘密にしている。先に家を出るのは俺。千夜はその五分後。校門の手前で一度別の道に入り、他人の顔をして登校する。
登校したら、他人同士。互いに、私的なことでは話しかけない。
そういうルールのもとで、この同居は成り立っている。
……でも、俺は本当は一緒に登校したいし、同居だって、別に悪いことじゃないのだから、言ったって構わないはずだ。恋人に勘違いされたっていい。むしろ、本望だ。
でも、このルールはどちらかという千夜のためにある。千夜が俺と同じ気持ちだとは限らない。だから、変に誤解されるのは、避けた方がいいに決まっている。
もしかしたら、学校の男子生徒に千夜が告白されて、付き合うという未来もあるかもしれない。やはり、この関係は伏せておくべきだ。
……ん? いや、そんな未来は認めない。俺は認めないぞ。告白したの誰だよ。その男。ぶっ飛ばすぞ。
自分の妄想に存在していた男を殴り飛ばして、俺は我に返った。千夜がこちらを見て、何かを言おうとしている。
「……知っていてください」
千夜の声が、ほんのわずかに落ちた。
鏡の中の千夜は、いつもと同じ無表情のままだった。表情は動いていない。声の温度だけが、半分だけ下がっていた。
「何を」
「私が、そうしているということを」
言葉が足りていない。だが、足りていない部分に、何か重たいものが詰まっているのは分かった。
角を曲がる。ただそれだけのことを、この子は三年間続けている。誰にも知られないように、誰にも見つからないように。
「学校で会っても、話しかけない」
「はい」
「返事が早い」
「練習しましたので」
練習という言葉を、千夜はよく使う。使うたびに、少しだけ胸が痛む。寂しいと思ったことがあるのか、俺は一度も聞いたことがない。
聞けば崩れる気がして、聞けなかった。千夜はすぐにいつもの調子に戻り、俺の背中を軽く押した。
「遅刻します」
「押すな。押されなくても行く」
「押したいので」
「理由が強引だな」
千夜が俺の鞄を持ってきた。持ち手を握ったまま、渡すのを少しだけ渋る。
「重いか?」
「いえ」
「じゃあ、こっちへ……」
「……あと三秒」
何を数えているのかは聞かなかった。三秒後、鞄はちゃんと俺の手に渡された。玄関のタイルは、七月でもひんやりしている。靴裏を通して、その冷たさが伝わってくる。
「湊様」
「なんだ」
「今日は、何時に帰りますか」
「四時半くらいだな」
「六時間と、二十三分ですね」
「計算早いな」
「毎朝、数えているので」
千夜がもう一度、俺の前髪を指で整えた。もう三回目だ。前髪なんて歩いていれば、乱れる。直す必要なんかない。
「まだ直すのか」
「最後です」
「さっきも最後って言っただろ」
「毎回、最後のつもりです」
靴を履いて振り返った瞬間に、ネクタイを引かれた。体が前に傾いで、額にやわらかい感触が落ちる。
一秒間、いや、多分、一秒もなかった。
「……っ」
「いってらっしゃいませ」
千夜は何事もなかったように俺のネクタイを整え、一歩下がって、深く頭を下げた。ポニーテールが、ぱさりと前に流れる。
「これはやるなって言ってるだろ」
「これだけはやめませんので」
「宣言するな」
顔が熱い。この熱を冷ますのに毎朝五分かかることを、俺は誰にも言っていない。
千夜が手を伸ばしてきた。
指を絡めるでもなく、ただ包むように俺の手を握って、二秒で離す。
離れる直前、指先に一瞬だけ力がこもった。毎朝そうだ。毎朝、その一瞬だけ、この子は少しだけ、言葉ではなく、行動で本音を語る。
「なんだよ、今の」
「充電です」
「何の」
「私のです」
そう言って、千夜はもう一度だけ頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、湊様。……お気をつけて」
ドアを閉めると、夏の入り口の熱気が一気に押し寄せてきた。門の前で立ち止まる。アスファルトはもう温まりはじめていて、朝の光を白く跳ね返している。ブロック塀の上で、雀が二羽、続けて鳴いた。
俺は額を手のひらで押さえたまま、しばらく動けなかった。
三年前、中学二年生の時に、千夜はこの家に来た。
もともと親同士が友人で、家族ぐるみの付き合いがあって、昔からよく一緒に遊んでいた。
けれど、事故で千夜が家族を失って、行き場をなくして、引き取ると言ってくれる親戚は一人もいなかった。だから、うちの両親が引き取った。
それから半年後、千夜はメイドになった。恩返しがしたい、と言って。
俺の両親は止めなかったわけじゃない。だが、千夜は一歩も引かなかった。あのとき初めて見た表情を、俺はまだ覚えている。
泣いていたわけではない。笑っていたわけでもない。ただ、必死だった。何かに掴まっていないと、縋っていないと、消えてしまう人間の顔だった。
だから、俺は止めなかった。頷いた。頷くしかなかった。
間違いなく、これは恩返しの部類に入るのだろう。だから、俺は千夜の優しさからくる恩返しをこの三年間、享受し続けている。
本当は千夜はこの家に自分がいるための理由が欲しかっただけなんじゃないか。
そんな一瞬だけよぎった考えに蓋をして、この日々を続けている。
****
道路を歩き出す。通学路には、同じ制服がちらほらと増えてきていた。
学校での俺は、ただの天羽湊だ。
周囲から顔が良いと言われることがあるが、自分ではよく分からない。分からないまま、時々、知らない女子から手紙をもらう。
その話が千夜の耳に入ると、髪型が変わる。きっちり結い上げた、あの髪型に。
……思い出したくない。思い出すと、色々と危険だ。あの夜はとことん甘やかされた。俺も俺で暴発しそうで危なかった。あの時の千夜は間違いなく、「触るな。危険」の状態だった。
それに俺は、他の女の子に興味はない。
俺は千夜のことが好きだ。
ずっと前から、大好きだ。
言えば、この均衡は終わる。そして、千夜と三年続けてきた主従関係みたいなものが崩れ去る。
千夜は恩返しという名目で、三年間この役割を演じてきた。それを止めることは、きっと、あの子の中の何かを崩してしまうことになる。
……だから言っていない。いや、正確には、言えていない。
俺は玄関の方を振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだったからだ。ドアの向こうで、千夜は今ごろ髪を結び直している。学校用の、いつもの三つ編みに。
家では甘く、学校では他人。
その切り替えを、三年間ずっと守ってきた。ちなみに、この均衡は俺の理性の上にも立っている。毎朝壊れかけの土台で、よく倒壊しないものだと思う。
……本当は俺だって、と日々思うのだ。
坂を下りながら、鞄の中を確かめた。折り畳み傘が入っている。ちゃんと二本。
二本目は、多分、他人の顔をして歩いてくるあの子の分だ。
渡したことはないし、きっと渡す場面が来ることもない。
だが、毎朝ちゃんと入っている。
「私がいますよ」という、証みたいなものなのだと思う。
角を曲がる前に、一度だけ足を止めた。五分後、あの玄関から千夜が出てくる。同じ道を、少し遅れて歩いてくる。
同じ時間に、同じ場所を、別々に。
そういう朝を、俺たちはもう千回以上、繰り返している。
蝉が本鳴きを始めた。
今日も、敗北から一日が始まった。
……記念すべき千九十敗目の敗北の味は、いつもより数段甘かった。




