なによりも恐ろしいものは、きっと
「あ、わ、わた、わたし……っ」
誰かに首を絞められたわけでもないのに、途端に気道が狭くなり息を吸えなくなる。短い爪で喉をかりかりと掻きながら、デルマは必死に声を絞り出した。
「ひ……、ひ、は、ふ……ぅ」
「は、はは!またそれか!」
昨日と同じ光景に、アレクサンダーはこの場にそぐわぬ甲高い悲鳴を上げる。もう一度見たいと思っていたところをリバーシュに邪魔されたことが、随分と癪に触っていた。
何をしても無表情だったデルマが、初めて見せる恐怖の顔。プシュケの真似事ではない、本当の醜い姿。ずっとそうさせたかったが、どれだけ手酷く扱おうとも叶わなかった。
「そうだ、俺がお前に何をしてきたかよく思い出せ。その身体に刻まれた傷は、どこへ逃げても消えることはない」
「い、いや、いた、いたいのは……っ」
「醜いお前を受け入れてやれるのは、俺しかいないんだ」
痛みを感じないはずの体が、ずくずくと疼く。普通の人間であればとっくに命を落としているであろう仕打ちを、耐えられた自分はただの化け物。そんな事実が、まるで石を投げつけられているような錯覚を起こさせる。
(ならなきゃ、ぷしゅけ、まね、しなきゃ)
それを止めた瞬間、何の価値もなくなる。リバーシュに捨てられ、またマリーウェルシュの家に閉じ込められ今度こそ二度と出ることはできないだろう。
一度手にしたものが離れていくのは、知らなかった頃よりもずっと暗くて怖い。
「……デルマ」
「いや、いや、もう、もうやめーー」
「俺を見ろデルマ!」
リバーシュの怒号が彼女の脳を揺らし、びりびりと痺れて思考が止まる。強引に顔を掴まれたせいで、目線がアレクサンダーから彼へと移った。
「ここにいろ」
「で、でも」
「俺が守ってやる」
今にも噛みつかれそうな勢いで、側から見れば激しく詰問されているようにしか見えない。慈悲も甘さも欠片もないその態度が、デルマには手を差し伸べられているように見えた。
美しい金色の瞳に映る自分が、とても哀れに見える。
顔の知らない母親も、化け物と罵る父親も、誰も彼女を守らなかった。望まれたことなど、ただの一度もなかった。
「……りば、しゅ、さま」
口から出まかせでも構わない。身代わりだろうが道具だろうが、どうだっていい。
今はただ、デルマの中に眠る本当の自分自身が、リバーシュの手を取りたいと泣きながら望んでいた。
「……許さない」
吸い込まれるように彼に手を伸ばそうとした瞬間、感情を抑えたような冷たい声が耳に響く。振り向くと、眉を吊り上げたアレクサンダーが剣を構え二人を睨め付けていた。
彼の切先が、デルマではなくリバーシュを捉えていると気付く。
「お前だけ自由になるなど、絶対に許さないからな」
「……お兄様」
相変わらず身体は震えているが、リバーシュのおかげでいくらか思考できるようになった。恐怖という道の感覚に足を取られながらも、デルマはもう逃げるまいと彼に向き直る。
美しい容姿と、恵まれた才。身分も申し分なく、誰からも愛される稀有な存在。何もかもを手に入れているはずの兄が、醜態を晒しながら自分を連れ帰ろうとしている。
その姿が、デルマはなぜか自分自身と重なって見えた。
「いいかデルマ、お前はどうせ俺に従うしかなくなる」
「それは、どういう……」
「この俺とそこの嫌われ者じゃあ、立場が違うってことだ」
アレクサンダーはそう吐き捨てると、音も立てず一気に間合いを詰めてくる。リバーシュは即座にデルマを突き飛ばし、ことも投げに剣でそれを受けた。
焦る様子もなく、どこか恍惚とした表情でアレクサンダーは攻撃をけしかけ続ける。剣のぶつかり合う音が響く中で、デルマだけが蚊帳の外だった。
リバーシュに勝つことが目的ではないことは明白で、おそらく兄の狙いは別にある。不本意だが時間だけは長くをともにしてきた者同士、大体の思考は読める。
「……デルマ、あなたしっかりしなさい!」
ドレスの裾を強く握りながら自身に喝を入れると、デルマは勢いよく飛び出した。渾身の力でアレクサンダーに体当たりをしてみせると、その反動で彼の体がよろめく。
「馬鹿、お前は出てくるな……っ」
リバーシュの意識が自分に向いた隙に、彼の手にある剣を奪うとそれを思いきり頭上に振りかざす。
「お兄様、ご覚悟!」
わざと大声で叫んだ彼女は、何の迷いもなくそのままアレクサンダーに向かっていった。
「くっ、この……!」
「やぁーーっ!!」
先ほど体制を崩されたせいで、彼はやや反応が遅れている。奇声を上げながら斬りかかろうとする妹に対し、咄嗟の防御反応として体が動いた。
アレクサンダーの切先がデルマへと向いた瞬間、彼女は剣を投げ捨てる。それに気付いた時にはすでに遅く、その華奢な体には銀色の獲物がまっすぐに突き刺さっていた。




