兄という、唯一無二の存在
半ば脅しだろうと舐めていたが、そう悟った一瞬で体中の細胞が外へ逃げ出そうと暴れ始める。それまでの涼しい表情は消え去り、普段甘く輝くブルネットの瞳にははっきりと怯えの色が滲んでいた。
「俺にとっても、貴様は邪魔だ」
受けの体制をとるアレクサンダーに、リバーシュは刃を合わせたまま容赦なく力を込める。
「こんな……、こんなのは馬鹿げてる!今すぐに止めるんだ!」
「自分が死ぬのは怖いか」
「な、何を言って……!」
体格の差も、腕力の差も、何もかもが歴然。じりじりと迫る敗北に顔を背けながら、アレクサンダーは必死に叫ぶことしかできなかった。
「し、所詮あなたは、力でしか支配できない人殺しだ!どうせいつか、デルマのことも同じように傷つけるに決まってる!」
デルマの名を出したほんの一瞬、僅かにリバーシュの手が揺れる。その隙を逃がさす、全身の力を振り絞り刀身を弾き返してそこから飛び退いた。
アレクサンダーは肩で息をしながら、体制を立て直す。勝つ必要はない、ただもう少しだけ時間が稼げばあるいはーー。
「人殺しの邪神が、今さら誰に執着すると言うんです?デルマでなくとも、条件を満たす令嬢はいるはずです」
再び斬りつけられる前に、畳みかけるように言葉を投げつける。
「あなたの元にいても、デルマが不幸になるだけだ」
「貴様、どの口が……」
「僕には、あの子だけがいればいい」
すでに開いたリバーシュの瞳孔がさらに奥へと引き、金の瞳から光が消える。太い青筋の走る腕に力が込もり、握る剣がみしりと小さな音を立てた。
「デルマを返してください!」
「黙れ」
「ここにいれば、殺される!」
「黙れと言っている!!」
怒号とともにリバーシュが再び剣を振り上げた瞬間、子猫のような小さな影が二人の間に滑り込んでくる。
「だめです、リバーシュ様……っ!」
ここにいるはずのないデルマの姿に気付いた彼は、頭上で構えたままぴたりと動きを止める。アレクサンダーに向いていたはずの恐ろしい視線は、婚約者を映した途端にほんの僅か揺らめいた。
一方でアレクサンダーは、安堵の溜息を吐きながら乱れた髪を掻き上げ整える。リバーシュに呼び出されるよりも前に執事を手懐け、デルマをこの場まで連れてくるよう内密に命じていたのだ。
「一度、落ち着いてください!」
「邪魔だ、退け」
「嫌です!」
「退け……!」
昨日よりも幾分か地味なドレスに身を包み、顔色も優れないように見える。ひと目見ただけでアレクサンダーにはデルマの変化が分かるというのに、当の本人はリバーシュ以外には目もくれていない。
殺されそうになっていたのは兄の方、けれど妹は必死に身を挺し婚約者を庇っている。
「……所詮、プシュケの身代わりでしかないくせに」
デルマの狭い世界に、他の人間がいることが許せない。家畜同然の生活をしていたくせに、主人である自分を忘れたような顔をして普通の令嬢として生きている。
目の前で茶番を見せつけられたアレクサンダーの顔はぐにゃりと歪み、無意識のうちに剣を握る手に力が込もる。
「俺たちは兄妹だ、これからも変わらない」
「……アレク兄様、落ち着いてください」
「化け物が、偉そうに指図するな」
取り繕うことも忘れ、空な瞳のままゆっくりと立ち上がる。普段の仮面は剥がれ落ち、彼を取り巻く空間すら不穏な色に染まっていた。
「……お前は下がれ」
「いいえ、できません」
「邪魔だと言っている」
「だから、嫌です」
いまだ殺気に目を見開いているリバーシュだが、なぜかこの場においては誰よりもまともに見える。突然現れた婚約者に一瞬たじろいだが、すぐに立て直し彼女の腕を掴んだ。
互いを案じあっているような様子に、アレクサンダーの思考は一層闇に堕ちていく。三人の他には誰もいないが、まるで自分すら疎外されているかのようだった。
来たくもない場所にわざわざ出向いてやったというのに、礼のひとつもないどころか歯向かってばかり。そんなデルマの姿に、彼の苛立ちは頂点に達していた。
「なぁ、デルマ」
切先が自然と前に向き、それに気付いたデルマの瞳は再び兄を捉える。
「ここにいれば、いつか必ず後悔する。俺とともに、あの家へ帰るんだ」
「……お兄様、私は」
「ずっと一緒だっただろう?よく思い出してみろ」
へらりと不気味な笑みを浮かべたアレクサンダーを見つめるデルマの表情が、次第に青ざめていく。指先は冷たくなり、意思関係なく体が硬直する。
(昨日と同じ、この感覚は……)
恐怖。言葉に表すととても簡単だった。誰しもが抱く当たり前の感情であり、なにもおかしなことではない。
けれどデルマにとっては、この感覚こそが未知なのだ。怖いと思うそれ自体が、体に異物を無理矢理捩じ込まれているようで、思わず叫び出してしまいたくなる。
これまでずっと蓋をしてきたのは、生きていく為の防衛本能。今さらその蓋が開いてしまえば、彼女の小さな身体ではとても耐えられない。
ただ単に、この状況に恐怖を抱いているわけではない。生まれてからずっと、永遠とも思えるほど長い間与えられていた苦痛が、急にのしかかってくる。
すぐにでもこの場から走り出してどこかに身を放り投げたいという激しい衝動が、デルマの心の中で暴れ始めている。
マリーウェルシュの家にいる間にはなかった、逃げるという選択肢。彼女にとってそれは、生を手放すということなのだ。今ならとても簡単に、その願いが叶う。




