腐ったものには、蓋をする
「あ、あの。私は別に大丈夫で」
「黙っていろ」
「は、はい……」
呆気なく反論を却下されたデルマは、黙って彼の手当を受けるほかなくなった。もしかしたらリバーシュは、手を叩いたことを気にしているのかもしれないと、そう慮る。
感情を読み取るのが絶望的に下手なデルマだが、それでも少しずつリバーシュに歩み寄ろうと努力をしている。そしてそれは、彼も同様だった。
「痛むか?」
「いいえ、私は痛みを感じないタチなので」
何度か手を引こうと試みるが、リバーシュが譲ろうとしない。仕方なく諦め、彼女はされるがままに手当を受けることにした。
「悪かった」
「はい……、え……?今、なんて?」
掠れた声色と共に呟かれた謝罪の言葉を聞いたデルマは、一瞬流されかけた後思考を止めた。まさか、あのリバーシュが謝るなどとは露ほどにも思っておらず、慌てて聞き返そうとする。そんなデルマに耳を貸すことなく、リバーシュは素知らぬ顔をして彼女の掛け物を投げた。
「黙って寝ろ」
「寝ろって……」
(ここ、リバーシュ様のベッドだけど)
などと当然のことを考えるデルマを他所に、彼はふっと蝋台に向かって息を吹きかけた。元から頼りなかった明かりは完全に消え去り、小さな天窓からは大した月明かりすら漏れてこない。
「あの……、リバーシュ様」
「黙れと言っただろう」
「ありがとう、ございました」
掛け物を握り締めながら、おずおずとそう口にする。リバーシュの姿は見えないが、微かに身じろぎをした気配は感じられた。
「助けに来てくれた時、凄く安心したんです。私、混乱していたけれどすぐに分かりました、リバーシュ様の匂い」
「……大げさだな」
「でも、本心ですから」
深々と頭を下げた後、デルマは小さな体をベッドに潜り込ませた。果たしてここで寝てもいいものかと少々悩んだものの、なぜか出て行く気にはなれなかった。
初めて、恐怖というものを自覚した日。おそらく、潜在的に独りになりたくないという思いが勝ったのだろう。
「やっぱり、落ち着く匂いですね」
「……ふん、馬鹿が」
「へへ」
言葉を投げかければ、ちゃんと返答がある。ただそれだけの当然が、デルマを酷く安心させてくれた。
図太い彼女は、婚約者とはいえ仮にも男の部屋であっという間に夢の中へと旅立っていく。自身は部屋を出るつもりだったが、あまりに早く寝付いたものだからタイミングを失ってしまった。
夜目のきくリバーシュは、穏やかであどけない寝顔を見つめながら、半ば無意識に指先で彼女の細く柔い赤胴色の髪に触れた。
「不幸を願うほどに恨んでいる相手……、か」
ぽつりと呟いた言葉はデルマの耳は届かないが、思いの外リバーシュ自身の心に重くのしかかった。
それを誤魔化すかのように、リバーシュはしばらくの間指先に感じる温かな温もりから手を離すことができなかった。
♢♢♢
居心地の悪い客間でひとり、アレクサンダーは立腹していた。眼前のテーブルに置かれた銀の水差しに映る彼の表情は、リバーシュと肩を並べるほどの凶悪な面で、その内面をよく現している。いらいらとした様子で片足を揺すりながら、これまでのことを反芻する。
祖国アンダールでは、愛してもいない女に愛想を振り撒き、横暴な父親に従い、周囲からは常に羨望という名の監視を向けられる。
これまで自分は上手く立ち回れていると思っていたが、それはデルマという鬱憤の発散場所があったからだと日を増して痛感していた。
結婚前にわざわざトルスタンを訪れた理由はひとつ、彼女を連れ戻す為。安否のほどは定かではなかったが、訃報がないということはとりあえず命は無事なのだろう、と。
あの残酷無慈悲な「邪神」が、まさかデルマを本気で娶るわけがない。彼も自分同様、不本意な政略結婚。しかも本来の相手だったプシュケは死に、デルマはただの代替品にしか過ぎない。使用人たちもアンダールの人間を丁重に扱うとは考えづらく、さぞかし惨めな生活を送っているに違いないと、アレクサンダーは見込んでいた。
父や婚約者にも根回しを済ませ、デルマを引き取る為の交渉材料も用意した。後は本人が首を縦に振るだけだが、彼女に意志など存在しないも同然。プシュケの真似事など所詮長くは続かないだろうし、なにより逆らうはずがないと鷹を括っていた。
デルマを連れ帰り、今度こそ逃さぬよう閉じ込める。リバーシュに酷い仕打ちを受け精神を病んでしまったとでも理由をつければ、変に疑われることもない。そうなれば全ては元通りとなり、今まで通りの完璧な自分を保つことができる、と。
そんなアレクサンダーの打算は、デルマの強い反発により呆気なく打ち砕かれた。従順な操り人形が生意気にも自我を持ち、真っ向から主人に噛みつくなどあり得ない。
その上、あの男を庇うような発言まで。まるで自分が、化け物から人間にでも生まれ変わったかのような錯覚を起こすとは、プシュケの真似事をしている以上に胸糞が悪くて仕方がない。




