距離が近付くほどに、指先が震える
「気が変わった」
「ふぇ……?」
「もっとお前自身について話せ、デルマ」
(こんな時ばっかり名前を呼んで、狡い!)
いつになく強引で、とにかく距離が近い。形容しがたい独特な香りが、デルマの頭の中いっぱいに広がり別の意味で呼吸が苦しくなる。
アレクサンダーに痛めつけられる以外で、男性とここまで距離を縮めた経験などない。ましてや最近情緒が不安定で、リバーシュの前ではプシュケの真似事をすっかり忘れてしまうことも多くなった。
「そう、言われましても」
「適当で構わん」
「むぅ……」
配慮なのか、なんなのか。自身の過去を話したくない彼女の心情は理解できるリバーシュだが、女性に対する手管を持ち合わせているわけがない。
答えぬ間にじりじりと距離を詰めてくるリバーシュに観念したデルマは、回らない頭を必死に手回ししてなんとか解答を捻り出した。
「私昨日、初めてお兄様に反抗したんです」
「それで?」
「だから、きっと凄く怒っていると思います」
彼の動きが止まったことに内心安堵しつつ、デルマは言葉を続けた。
「アレクお兄様は、誰もが憧れる完璧な方です。プシュケ……、お姉様も同じで私だけが違っていました。妾腹なので、当然といえばそうですが」
リバーシュの腕に力が込もり、硬いベッドがまた少し揺れる。彼自身も、父親が妾に産ませた子。血筋を考慮し母親の生家はそれなりの貴族だが、死別して以降関わりはなかった。
それどころか母方の親族はリバーシュを酷く嫌っており、彼を産んですぐに娘が命を落としたのは忌まわしい「邪神」の呪いのせいだと、いまだ本気でそう思っている。
「私は逆らえる立場にないと分かっていますし、そもそもそんな気もなかった。ですがここに来てからというもの、なんだか自分が変わったような気がして」
化け物でも、家畜でも、プシュケの二重身でもない。デルマという、ただひとりの女の子。自分自身でさえ、この子のことを詳しく知らない。知ろうとも、話そうともしなかったからだ。
助けを乞う相手はおらず、抵抗すればもっと酷い目に遭うだけ。耐えるだけだったのがいつしかなにも感じなくなり、すっかり死んでしまった。
どんなに美しい花も、腐りきった土地で咲くことはできない。けれど咲かないからといって、その花が存在していないという証明にはならない。
トルスタン帝国という敵だらけの地で、デルマは本人も気付かぬうちに少しずつ細い根を張ろうとしていた。そして栄養となるのは、憧れの「邪神」に他ならない。
誰からも恐れ嫌われているリバーシュこそが、彼女にとって唯一無二の救世主なのだ。
「兄に従うだけの人生は、もういいかなって。今は別々の道を歩んで、兄には私のいない場所で幸せに生きてほしいと思っています」
「幸せにだと?なぜだ」
「なぜって別に、恨んでいないから」
けろりと言ってのけるデルマに対し、リバーシュはあからさまに不服な表情を浮かべる。
「本音を言うなら、幸せでもそうでなくてもどっちでも。だけどどうせなら、不幸より幸せの方がいいでしょう?」
「お前は、あの男に虐げられてきたんだろう」
「虐げられたなんて、大げさです。嫡子と私生児の間で起こるちょっとしたいざこざなんて、貴族の家では珍しくありませんし」
リバーシュが核心をつかないのをいいことに、デルマは嘘を並べて誤魔化した。真実など、言えるはずがない。彼女の中には、あえて同情を買おうという打算的な考えは浮かばなかった。
「やはりお前は、ただの莫迦だ」
「ええ、ええ。それで結構です。そもそも頭が良かったら、必死に姉の真似事なんていたしません」
嫌味を言われたデルマは同じように嫌味で返し、つんとそっぽをむいてみせた。特段気分を害しているわけではないが、なんとなくそうしたい気分だった。
「なんだか腹を立てていらっしゃるように見えますが」
「はっ、この俺が?」
「まるで私に、お兄様が地獄に落ちるのを願えと言っているみたい」
その言葉にリバーシュは瞳孔を開き威嚇するが、それは彼女に通用しない。それにあながち、まるで検討外れというわけでもなかった。
「リバーシュ様にはいらっしゃるのですか?不幸を願いたいほどに、恨んでいる相手が」
彼を見上げる澄んだ瞳は柔らかな光を帯び、そこには相手を気遣うような空気が流れている。長い間他人からこんな風に見つめられたことなどなく、視線が絡んだ瞬間リバーシュの脳裏に遠い過去の記憶が走馬灯のように流れ込んできた。




