初めて芽生えた、純粋な恐怖心
彼女の首元には、当然首輪などついていない。にもか関わらず、そこを強く圧迫されているような錯覚に支配され、上手く呼吸ができなくなった。
「デルマ?様子がおかしいが、平気か」
「か……、は……っ」
よろよろとニ、三歩よろめきながら後退りをしたデルマは、尻餅をついて後ろに倒れる。途端に周囲が騒めき、レイが顔を青くして彼女に駆け寄った。
「デルマ様、デルマ様‼︎」
「あ……、い、いや……、わた、し……」
転けたことなど気付いていないかのように、デルマはただ慄いた表情で兄だけを見上げてた。長らくともに生活をしてきて、初めて目にする彼女の姿。アレクサンダーはその場から動けず、驚きに目を見開く。
興味本位でデルマの体にナイフを突き立てた時でさえ、こんな風にはならなかったのに、と。
「デルマ、お前……」
アレクサンダーがなにか発言をするよりも前に、唐突に周囲の雰囲気ががらりと変わる。まるで毒霧に覆われたかのように辺りは淀み、鋭い殺気が肌を突き刺す。その場にいるほとんどの人間は震え上がり、指の一本さえ動かすことを恐れた。
「退け」
たったひと言で、リバーシュ・キース・ウェルガムンドの道は開かれた。レイは最後まで主人の側にいたいと思いはしたが、本能が彼に従えと警鐘を鳴らし、無意識のうちにその場から離れてしまった。
「デルマ」
「あ……」
しきりに首を掻きむしる細腕が、リバーシュの無骨な手に捕まる。そのまま強く引かれ、座り込んだ体勢で背中を彼に預けるような格好になった。
「呆けるにはまだ早い」
「リ、バーシュ、様」
「それとも、寝足りなかったか」
婚約者がその場にやってきたことを認識したデルマの視線が、自然とアレクサンダーから外れた。その瞬間、黒く塗りつぶされていた頭の中が少しずつ明瞭になっていく。
「……やっぱり、来てくれた」
黒衣で覆われたリバーシュを見上げながら、消え入りそうな声とともにデルマは力なく微笑んだ。彼の金瞳がぎらりと鈍色に光り、纒う殺気が一層濃くなる。
そしてなんの躊躇いもなくデルマの体を抱き上げ、呆然と立ち尽くしているアレクサンダーと対峙した。
「貴様は、わざわざ妹を殺しにきたのか」
唸る声でそんな台詞を投げられたアレクサンダーは、はっとして表情を整えた。瞬く間に起きた一連の出来事に混乱したものの、誰よりも早くその場の状況に順応する。
確かに、リバーシュ・キース・ウェルガムンドという「邪神」の異様な佇まいに呑まれそうになりながらも、怯むまいとまっすぐに視線を向けた。
「まさか、そんなはずありません。デルマは昔から、突然錯乱してしまうということがよくありました。ですからそれも心配で、様子を見にやってきたのです」
「はっ、よく言う」
アレクサンダーの白々しい言葉を一蹴し、リバーシュは自身の婚約者を抱く手に力を込める。
「本来であればもっと早く挨拶の場を設けるべきでしたが、このような事態になり申し訳ありません」
「必要ない」
「ですが私は、デルマの兄です。家族の中でも、互いが最も長い時間を過ごしてきました。彼女のことは、誰よりもよく理解しています」
長身と言われるアレクサンダーでさえ、首を大きく上に傾けてやっと目線の合う相手。全身が黒衣に覆われ、唯一認識できる金の瞳は獰猛で一切の人間味を感じない。
顔を合わせたのも、リバーシュがデルマを迎えにやってきたあの短時間だけ。ここまで威圧と殺意に溢れた人間との対峙はもちろん初めてだったが、ここで怖気付くほどアレクサンダーも柔ではなかった。
むしろ理性から逸脱した猟奇的な面だけを見れば、負けずとも劣らない。デルマの様子を確認したくとも、突如現れた「邪神」にそれを阻害された。恐怖よりも腹立たしさが先に立ち、白く滑らかな額には微かに青筋が浮かんでいた。
「ウェルガムンド卿、デルマのことは私に任せていただけませんか」
「ここでは、お前は部外者だ」
「兄として、引き下がるわけにはいきません」
玩具を奪われた子どもは、なりふり構わない。本来であれば争うのは得策でないと分かっていたが、アレクサンダーは引こうとしなかった。リバーシュが来る前にデルマが見せた、あの顔。あれはまごうことなき、恐怖に怯える表情だった。ずっとずっと見たくてたまらなかった、純粋に怖がるデルマの姿。
「兄?だからどうした」
リバーシュは鼻で笑うと、瞳孔を開きアレクサンダーを睨めつける。今にも殺しにかかりそうな雰囲気の中、腕の中にぐったりと収まっていたデルマが、彼の黒衣の裾を僅かに引いた。
まるで止めろと言わんばかりのその行動に、リバーシュの動きが止まる。そのままデルマを抱え直すと、アレクサンダーに背を向け扉の方へと足を進めた。
「待ってください、ウェルガムンド卿!」
兄の声は、再び気を失った妹にはもう届かない。リバーシュは、先からこの男の言い分を聞いてやる気などさらさらなかった。
「話しなら、いずれさせてやる」
そして彼は一瞬足を止め、振り返ることなく威嚇する。
「それが、貴様と妹の最後だ」
アレクサンダーがなにかを喚いているような声が耳に届いたが、リバーシュはもう二度と足を止めはしなかった。




