恐怖から目を逸らさなければ、生きてはいけない
「安心しろ、深く詮索するほどお前に興味はない」
「あ、はい。それはそうですよね」
「……はぁ」
率直な感想を述べただけであるのに、なぜ溜息を吐かれたのだろうと彼女は不思議に思った。そしてすぐに、自身の置かれた立場に気づく。
「兄がなぜ突然ここに来たのかは分かりませんが、リバーシュ様にご迷惑がかかるような事態にはしないよう、十分注意します」
「俺がいつ、そんな心配をした」
「えっ?それが気になって、私の部屋にいらっしゃったのでは?」
見当違いも甚だしいと、リバーシュは眉を顰めた。狡賢い策略家のようでいて、時折小さな子どもを相手にしている気がしてならない。出会う前に送られてきた手紙を読んだ時から変な令嬢だとは思っていたが、時間をともに過ごせばすごすほど、ここまでの変わり者はそうそういないだろうと実感する。
「お前は、俺がなぜ帰城したか分かるか?」
「ええっと……。それはなにか、ウェルガムンド家にとって由々しき事態が起こったとか……?」
「……はぁ」
先ほどよりも深い溜息がデルマの耳に届き、彼女はますます身を縮こませた。普段ならばリバーシュの機嫌を伺うことなどないが、今は気になって仕方がなかった。
「アレクサンダー・マリーウェルシュがこの城へ向かっていると、連絡が入ったからだ」
「お兄様、ですか?」
「常より見張らせている。まぁ、よほどの物好きか命知らずでなければ、近づきはしないが」
ウェルガムンドの城は、人里離れた僻地にある。深い森を抜けた先の一本道を通るのは、それはそれは目立つのだろう。自ら臆病者だと宣言したリバーシュは、誰かが近寄ろうとするだけで異常な警戒心を抱く男なのだ。
「なるほど、リバーシュ様はお兄様がなにをしでかすか分からず怖かったから、急いでお戻りになられたと」
「……は?」
「あらいけない、失言でしたわ」
こういう時だけしおらしい口調に戻るデルマに、リバーシュは容赦のない殺意の瞳を向けた。
「怖がっているのは、お前の方だろう」
「私が?」
「覚えていないのか、誕生日の日に言ったことを」
責めるようにそう言われ、彼女は斜め上を見つめながらその日の記憶を引っ張り出そうとする。けれどいくら辿ってみても、アレクサンダーの名が話題に上った覚えがない。
「確かにお前は言った、ごめんなさいと。アレクサンダーの名前を呟きながら、怯えたように酷く震えていた」
「あ……」
「錯乱していたようだが、なにもなければああはならない」
リバーシュの言う通り、あの日の自分も少しおかしかったと、デルマは思い返す。所詮はただプシュケの真似事をしているだけで、本当は彼の隣に立つべきではないのかもしれないと、なぜかそんな思考に陥ってしまった。
感情を持たないはずなのに、溢れ出る衝動を止められず、結果リバーシュに迷惑をかけることとなった。あの場ではちゃんと反省したが、次の日にはすっかり忘れていた。
「……無意識だったので、分かりませんでした。私は、そんな風に口走っていたのですね」
ぽつりと呟いて、デルマは再び俯いた。アレクサンダーとの関係が異常であると理解はしていても、あれは仕方のない日常だったとしか思っていない。
首輪をつけられ、草を食わされ、容赦なく暴力を振るわれる。家畜でさえ怯えるような環境に十数年も身を置いていたデルマは、心を消したから生きていられた。
アレクサンダーに対して恐怖を感じていたなどと、彼女本人でさえ気づいていない。普通の人間であれば、それは至極当然の感情であるというのに。
「俺のテリトリーで、勝手な真似をされるのは気に食わない」
「お兄様は馬鹿ではありませんから、さすがにここで無闇な真似はしないと思います」
「どうだろうな、人の感情というものは案外簡単にできている」
リバーシュはデルマを見やりながら、どこか別の場所に想いを馳せているような表情で、少し目を細めた。
「聖人だろうが悪魔だろうが、欲望は抑えられない。それが陳腐であればあるほど、なおさらに」
「欲望……、ですか」
感情の理解はできずとも、それならば分かるとデルマは思う。なにげなく千切れたダイヤの一粒を手に取った、あの瞬間。彼女の人生は、全く違う意味を持ち始めたのだから。
(家畜なら、あんな風にはならない)
自分が、人間かそうでないのか。マリーウェルシュ家では、ただ心臓が動いているから生きていただけ。けれど今この場所では、それだけではないと断言できる。




