理想の姿を求める、その愚かさ
「それは……、分かりません」
「俺を馬鹿にしているのか」
「いいえ。自分でも、本当に分からなくて」
バスケットを両手で握りしめ、静かに俯く。滑らかな髪が、デルマの澄んだ瞳を覆い隠した。
「先程までは、いつものようにわくわくした気持ちでここまでやってきました。ですがふと、ある考えが頭を過ったのです」
リバーシュは威圧的な雰囲気のまま、口を噤む。普段であれば、彼が誰かの不毛な発言を待つなどあり得ないことだった。これまで鬱陶しいと思いながらも、デルマと過ごしたさほど長くない時間は、リバーシュにそうさせるだけの影響を与えていた。
「リバーシュ様は、ご自身を誰よりも臆病だと以前私に言いました」
「ああ」
「私は今でも、あなた様は誰からも恐れられる最恐の邪神だと信じています」
そう口にした後、短い沈黙が二人を包む。リバーシュは急かすことも、否定することもしない。それがデルマにとっては、妙に不気味で怖かった。
初対面で「殺す」と言われた時には、震えのひとつも起こらなかったのに。
「そんな私がリバーシュ様の横にいては、よくないのではと思いました」
「なぜそう思う?」
「幼い子どもは、悪夢を見た時母親に優しく抱きしめられたいと思う物でしょう?私なら、その夢がどんな悪夢だったのかを詳しく聞いてしまいます」
要するに、他人の気持ちが分からない。デルマは回りくどい言い方で、リバーシュにそう告げた。邪神ならば、理解や同情など求めるはずがないが、普通は違う。
怖い時は、寄り添ってほしい。苦しい時は、支えてほしい。悲しい時は、共に悲しんでほしい。人の心はそういうものだと、たくさんの物語の中に書いてあったから。
アレクサンダーにどれだけ酷い仕打ちを受けても、呻き声ひとつ漏らさない。そんな自分は、異端なのだ。
「お前の言い分は、矛盾している」
デルマが口を閉ざしたタイミングで、リバーシュは執務机に腰をもたれながらそう言った。
「ここでは、アンダールの人間は全員敵とみなされる。にも関わらず、今朝お前は誕生日を祝福されていた」
「え?ああ、はい」
「それが答えだ」
放たれた言葉の意味を、彼女はなにひとつ理解ができなかった。自身がリバーシュに相応しくないことと、誕生日を祝われたこと。それになんの関係があるというのだろう、と。
「お前は、毎夜ここに来る」
「まぁ、そうですね」
「俺がどれだけ突き放そうが、へらへらと笑いながら厚かましく寄ってきて、一方的にどうでもいい話をして満足そうにしている」
互いに、言い回しが独特で面倒。結論はとてもシンプルで、幼い子どもでも分かるようなことであるのに。
臆病な自分を隠し全てを拒絶するリバーシュと、虚無な自分を隠し全てを受け入れるデルマ。本質は似通っていて、求めているものもきっと同じ。
「申し訳ありません。リバーシュ様が何をおっしゃりたいのか、私にはさっぱり」
彼女は、自分がなぜこの場から立ち去りたいと思ったのか、その理由も分かっていない。それなのに、リバーシュから謎かけのような言い方をされてますます混乱し、いっそ腹立たしささえ湧いてくる。
「この場所で、お前は受け入れられたということだ」
混乱しているのは、彼もまた同様に。誰にでもへらへらと愛想を振り撒くデルマが鬱陶しくて仕方ないのに、帰ると言われ咄嗟に引き止めてしまった。そして今は、言い訳にもならないような御託を並べて、気恥ずかしさを誤魔化そうとしている。
自分は相応しくないなどと、何を今さら。ここまで立ち入っておいて、まさか婚約者を辞退するなどと言い出すつもりではないだろうかと、焦燥感にすら駆られていた。
「それは……。私が、そうなるようにしただけです」
「俺にはできない」
「あなた様は、する必要がありません。だって、ウェルガムンドの絶対的支配者ですもの。皆から神と崇められる、唯一無二の存在なのです」
正神か、邪神か、そんなことは彼女にとって重要ではない。誰からも理解されなくとも、他者を退ける圧倒的な輝きを放つリバーシュを、心から崇拝している。
けれどそれは、彼が求めているものとはかけ離れているとデルマはようやく自覚した。毒を以って精神を保ち、無理やり邪神を演じているだけ。本当なら、黒衣を脱ぎ捨てられる唯一のこの場には、リバーシュの弱い心を受け止め包み込めるような女性がいるべきだと。
戦争が終結した今、邪神であり続けることを望むのはリバーシュにとってあまりにも残酷な願いでしかない。それに気付かず、毎日のうのうと彼の前に姿を現していた自分を思い返し、デルマはさらに再び深く顔を伏せた。




