自分さえよければ、それだけで。
当夜。デルマは例のごとく、ひとりでバスケットを抱えながらリバーシュの自室へと向かう。この城は必要以上に武装されているが、主人の部屋へと続くこの廊下には誰もいない。
本人曰く、天下の邪神はただの臆病者。自国にも関わらず、いつ何時命を狙われるか分からないと、恐れている。
(きっと、心から信用できる人はいないのね)
扉に手を掛けようとした瞬間、そんな考えが頭を過ぎる。邪神だろうと臆病者だろうと、彼がこの国の英雄であることに変わりはない。にも関わらず、素顔をさら出せる唯一の相手が、誰からも憎まれる元敵国の令嬢とは。
デルマにとって、この結婚は眩い光。鋭い眼光とどす黒い殺気を放ち、一度見たら脳裏にこびりついて離れない。リバーシュに憧れ、あの家を飛び出して自らの意志でここへやってきた。彼が邪神と呼ばれることを喜んでいないと知ってからも、その気持ちは変わらない。
(彼にとってみれば、私との縁なんてとんだ災難よね)
これまで己の感情でしか動いてこなかったデルマだが、一度浮かんだ考えはすぐに大きく膨れ上がる。他社の気持ちを慮るなど、人生で初めての経験だった。
「おい。いつまでそんな間抜け面でいるつもりだ」
「え……っ、わ、わぁ……っ!」
いつの間にか開いていた扉の前には、仁王立ちのリバーシュ。黒い布を纏わないその顔には、相変わらず立派な傷痕が走る。
「入るなら入れ、去るなら去れ」
「あ、私……。ええと」
普段のデルマならば、答えは一択。他社の気持ちなどお構いなしに、自身のしたいことを優先させる。だがなぜか、今この瞬間足を進めるのを躊躇ってしまう。
リバーシュの迷惑など、考えていなかった。天下無敵の邪神が相手ならば、多少の我儘くらい許されるだろうと。この結婚は、両国にとって必要不可欠。当人同士の意思は反映されず、また拒むことも叶わなかった。
(プシュケだったら、私よりいくらかマシだったのかな)
今さらどうしようもない考えが、頭を巡り始める。プシュケの真似事をするようになってからは、毎日が刺激に満ち溢れていた。無色だった景色に色がつき、無味だった食べ物を美味しいと感じるようになった。
もっと、もっと、と知識欲が貪欲にり、知恵がつけば着くほどに他社の操り方も上手くなっていく。けれどそれは、自分の為だけ。プシュケがアレクサンダーを心から恋したう、あの感情だけは真似ができないまま。
「では、今日は失礼させていただきます」
「……は?」
「リバーシュ様も、一日中視察でお疲れでしょうし」
口からでまかせをつらつらと並べ、デルマはその場から離れようとする。そんな彼女の手を、リバーシュが力強く掴んだ。
「入らず帰るなら、お前は一体何をしにきた」
「ええと……。お顔だけ、見に?」
愛想笑いなど通用せず、低い溜息とともにデルマは強引に中へと引かれる。少しよろめき、鋼のような胸板にぶつかる。思わず顔を上げると、鋭い金瞳と視線が絡んだ。
「あ、あの……。私……」
「お前らしくない」
「え……?」
「その煮え切らない態度、腹が立つ」
猛禽類に睨まれた鼠の気分で、彼女はただ立ち尽くす。まさかリバーシュ自身に招き入れられるとは思いもせず、さらにらしくないなどと言われるとは予想外にも程がある。
(招き入れられた、と言ってもいいかどうかは分からないけど)
確かに今の自分はどこかおかしいと、デルマは思う。普段徹底しているプシュケの仮面の角が剥がれ、何かが顔を出そうとしている気がする。
「理由があるならはっきり言え」
「理由とは?」
「俺の顔を見た途端、帰ると言い出したその理由だ」
リバーシュは雑に顔を背けながら、彼女から体を離す。微かに感じていた低音の鼓動が聞こえなくなった瞬間、咄嗟に伸ばしそうになった手をすぐに後ろに隠した。
彼ともあろう男が、自分のような小娘を気にするはずがない。案外律儀な面があるのか、最近はめっきり追い返されることはなくなったが、それでも毎度嫌そうな顔でこちらを睨みつけてくるのは変わらない。
帰ると口にしたのは偶然だったが、まさかそれを阻止されるとは。問われたのはデルマだったが、彼女は問い返したい気持ちでいっぱいだった。




