エピローグ2 テーブルを囲む暗躍者
――――正午、都心を離れた閑静な別荘地。ゴールデンウィークの喧騒も響かぬそこを、一人の男が歩いていた。
「……やれやれ。別荘とは聞いていたが、思った以上に辺鄙な所だ。タクシーを捕まえて来なかった事を後悔させられるとはね」
帽子を目深にかぶった、トレンチコート姿の男……大型連休のさなかであるにも関わらず休日返上で外回りのような出で立ちである。
「こんな所で余暇を過ごせるなんて、彼女も偉くなったものだね。私もあやかりたいものだよ」
家と家の間は充分すぎるほどに離れ、その間には木々が豊かに生い茂っている。木の葉の影が陽射しと熱をさえぎり、涼やかな空気を保つ……夏本番が訪れた時には避暑地として賑わう場所ではあるが、そのシーズンはまだ少し先だ。
軽い勾配の坂を越え、やがて男は一軒の家……その門柱の前で立ち止まる。黒い大理石の表札に刻まれた家名は……「沢渡」。
「それでは、旧交を温め直すとしようか……」
唇の端に笑みを浮かべながら、男はインターホンに手を伸ばした――――
◇◇◇
……とぽとぽとカップに湯が注がれると、紅茶の香りがふわりと立ち昇る。
「どうぞ」
男の前に湯気を立てるカップを置いたのは、まだ幼さの残る少女。歳の頃は十代の前半か。飾り気のない部屋着を身に着けた、ふわふわとした癖毛と穏やかな微笑が印象的な少女だ。
「ありがとう。頂くよ」
テーブルに手を伸ばしながら、男は部屋の奥へと視線を移す。
「――――ええ。それで結構よ。連休明けまで国内は動かないから、引き続き海外を注視しておけばいいわ」
そこには、女が居た。別荘で休暇中だというのにビジネススーツに身を固め、来客中にも仕事絡みの電話を続ける女。
ゆるいウェーブのかかった髪を肩までの高さで切り落とした、見た目三十代後半くらいの彼女だが……男はその実年齢が外見とはまったくかけ離れた数字である事を知っている。
――――人を呼びつけておきながら、まだ口も聞いてくれないとはね。偉くなるのも良し悪しというものかな?
浅くため息を吐きつつ、男は暖かいカップに口をつけた。その芳醇な香りから予想はしていたものの、実際に舌で味わうそれは市中のカフェの物とは比較にならない……むしろ今まで紅茶と思って飲んでいたものがただの色付きの白湯に思えてくる程の逸品である。
「美味しいね。茶葉が良いのもあるけど、淹れる方の腕も大したものだ」
「そんな、私は普通に淹れただけですよ?」
少女の笑顔がぱぁっと華やかに色づく。大人に褒められたのが純粋に嬉しい……そんな年頃なのだろう。
「――――貴方にはマニュアルを渡してあるでしょう? 私の指示を仰ぐのは本当に必要な時だけにして頂戴……切るわよ」
電話相手の返答を待たず、女は通話を打ち切りスマートフォンを傍らのデスクに放り出した。どうやらようやく来客の対応に移ってくれるようだ。
「刻乃、ここはもういいわ。あなたは部屋に戻りなさい」
歩み寄りながら女が投げかける言葉。それを聞いた途端、少女の笑みが一瞬こわばるのを男は見逃さなかった。
「……はい、お母様」
刻乃と呼ばれた少女は男に一礼して、そそくさと部屋を後にした。先程と同じ、しかしどこか鮮やかさを欠いた微笑みを浮かべたままで……
「さて……お仕事はもういいのかい? 彩湖グループ・ホールディングス、現CEO様」
少女の足音が遠ざかるのを待って、男はソファーに座ったままゆっくりと首を巡らせた。
目に飛び込んでくるのは部屋を飾る豪華な装飾品の数々。各々の位置や間隔は細やかに調整され、華美すぎず貧相にならない絶妙なラインを維持している。
それはすなわちその部屋の主の性質を物語っていた……己の財を誇る意図はなく、ただ立場に恥じない程度の体裁を整える為の部屋。
客間としての最低限の機能と外観だけを……『彼女』は望んだのだ。
「ええ。偉くなるのも考えものだわ……無知で無能な連中を率いていると、自分のレベルまで下がっていくような気がするもの」
――――彩湖刻永、旧姓沢渡刻江。それが女の名だった。入籍して間もなく当時の彩湖製薬経営者だった夫から経営権の譲渡を受けて以来、強引とも言える社内改革と事業拡大を繰り返し、現在では製薬関連企業として国内五指に入るまでに成長させた女傑である。
「無知は仕方ないだろう。むしろ私たちが知りすぎているのだから……まあ無能までは擁護できんがね」
「それでも、この立場は必要なのよ。私の……いえ、私達の目的の為には」
刻永はテーブルを挟んで男の向かいに座る。まっすぐに突き刺してくる鋭い眼光を、男は正面から見つめ返した。
「君の方は順調らしいね。このまま行けば長者番付に載るのも時間の問題かな?」
「ふん、皮肉のつもり? 生憎だけど儲けた額を誇るような趣味は無いの。資産はあくまで資産を生み出す為の物……必要な分を引いた残りをやり繰りしているだけ」
そこまで言うと、刻永はテーブルの上の紅茶に手を付けた。先程の少女が彼女の為に淹れていったものだ。
「重要なのは金よりも立場。今の会社を手に入れてようやく必要な設備と人員が揃ったわ。お陰でタイムリミットまでに全ての準備の目処が立った」
「という事はさっきの彼女……あれが例の?」
「ええ、そうよ。あの子が私の最高の……そして最後の作品になるわ」
今までとても機嫌がいいようには見えなかった刻永の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「確かに君の面影があるね。けれど少々幼なすぎはしないかい?」
「私の遺伝子を使っているのだから当然よ。それに術者としてのパフォーマンスはあの年代が最も高いのは知っているでしょう。天御神楽に入れる必要もあったから、あれが最も適正な年齢なのよ」
そう語る彼女の眼は冷たい程に静かなままだったが、その奥には昏くも熱い情念の火が渦巻いているように見えた。
「そんな事より貴方の方の話が聞きたいわ。昨日の騒ぎ……良い報告を期待してもいいのでしょうね、ユーゲン?」
ユーゲンと呼ばれた男は今の今まで被ったままだった帽子を脱ぎ、ソファーの肘掛けに被せた。現れたのはくすんだ銀髪を短く刈りそろえた彫りの深い顔。
「ふふ、そう焦る事もないだろう……ちなみに良いニュースと悪いニュースがひとつづつ、どちらから聞きたいかな?」
「……順に話して」
ユーゲンは軽く肩をすくめると、その低く通る声で語り始めた。
「まず、我らが麗しの姫君は無事に契約を果たしたよ。これで最初の関門はクリアされた事になる」
「ようやく最初の一歩とは、まったく気の長い話ね……そんなことで本当に『約束の日』に間に合うのかしら?」
「そこが少し問題だ。実は契約はまだ完全じゃあない……いくつもイレギュラーが重なったからね。完成にはまだ時間がかかりそうだ」
それを聞いた刻永は落胆を隠しもせず、大きなため息をついた。
「姫君の件は任せろと言った割には無様な体たらくじゃない。妖の手まで借りてそれでは、先が思いやられるわ」
「なに、次の手はもう考えてあるさ。要は手っ取り早く姫君を完成あそばせるだけの事……となればやはり妖こそが適任だ。彼らとの戦いを通じて、必要な資格を身に付けて頂くとするよ」
ユーゲンの釈明にも刻永の表情は変わらない。むしろ、眉間に刻まれた皺がより深くなったように見えた。
「妖をぶつけると言っても、所詮奴らは【大夜行】の残党。これ以上戦力を割いたら最後の詰めに使えなくなる……そもそも不完全とはいえ、あの姫君の相手になるような妖はそう居ないでしょう?」
「そうだね。彼らの戦力はもう当てにできない……だから、他から調達するとするよ」
「他って……大陸の妖でも呼ぶつもりじゃないでしょうね? そんな事をしたらまた想定外のイレギュラーが――――」
刻永の顔に僅かな狼狽の影が差したのを確認すると、ユーゲンは満足したように先の言葉を紡ぐ。
「流石に外からは呼ばないよ。大体、この国にはまだ大きな妖が眠っているじゃあないか」
「眠ってって……貴方まさか!」
男の……ユーゲンの蒼氷色の瞳が冷ややかに笑った。
「そう、起きてもらうのさ。はるか古代に斃され、封印されて尚幾度となく復活を繰り返してきた不滅の怪物に……」
――――刻永は戦慄した。男は彼女に当たり障りのない経過報告をするつもりなど最初からなかったのだ。彼の目的はまさにこれを告げる事……同志として、今後起きるだろう騒乱に警戒と備えを促すために。
「お目覚め頂こうじゃないか。三年前当代最強の術者、【四方院夏輝】がその命と引き換えに再封印した……あの大妖怪にね!」




