決断ゆえに3
授業が始まって十分が経った。周囲のクラスメイトはほどほどといった感じに集中しているというのに、俺だけが頭を切り替えられないでいた。考えないようにしていても、ふとした拍子に穂乃香のことが浮かんできては意識を向けさせられる。その繰り返しだった。
黒板の文字をノートに書き写す。手を動かしている時だけは多少なりとも今を忘れられた。なんら身にならない作業に没頭していた。その時間も束の間で、俺の都合など関係なしに午前の授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
これからまた穂乃香に会わなくてはならない。そう考えるだけで気が重くなった。けれど、いつまでも教室に留まっているわけにはいかないと、深い溜息を吐きながら席を立った。
昼休みが始まり今に至るまでの会話は数えられるくらい少なかった。その原因となる俺は黙々と弁当を食べ、穂乃香に至っては置物の様に固まっていることが多い気がした。
異様な空気感がここにあった。その空気を俺が作り出しているのはわかっていた。けれど、どうしたらいいのかがわからなかった。単純に余裕がなかった。
雪花は時折視線を向けるものの、俺と穂乃香に対し会話を投げ掛けることはなく、夕貴も同じように静観していた。成瀬だけは何度か話し掛けてきたが、今は話をする気分にはなれず、素っ気ない返事ばかりになっていた。
穂乃香は――。穂乃香はこの昼休み中、一言も口を開かなかった。
苦痛だった時間を終える予鈴が鳴った。それぞれが片付けをして教室に戻る準備を始める中、俺は雪花を呼び止めた。〝雪花にだけ〟話があることを伝えると、滝椿が気を利かせるようにみんなを屋上からひきあげさせてくれた。
静かになった屋上に俺と雪花の二人が残る。一度だけ小さく呼吸をした。
「穂乃香のことで話があるんだ」
意を決して言葉にすれば、雪花は呆れたような目を向けてきた。
「そうだと思った。今日の託さん変だったから」
雪花に指摘されるまでもなく、俺自身が嫌というほど自覚していた。いつも通りを心掛けようとしても、どうしても穂乃香を意識してしまう自分がいた。冷静でいようと努めても思い通りにならなくて、せめて感情を表に出さないように口を閉ざした。そうして奇妙な空気が出来上がってしまった。
「喧嘩でもしたの?」
何も知らない雪花から見れば、あの異様な雰囲気であっても、些細なもめ事だとしか捉えられないのだろう。
「喧嘩じゃない」
「じゃあなに? 説明してくれるんでしょ」
先を促すように雪花が問う。どうしてあんな空気になったのか。穂乃香と何があったのか。全てを話す必要はない。
「雪花は、今の穂乃香をどう思う?」
雪花の問いに対し、まずは質問から始めた。当たり前になってしまった今が間違っていること。間違いに気付いていないということを認識してもらう為に。
「どうって言われても……意味わかんないけど」
「学校にいる穂乃香は誰かが傍に居ないといけなくなってる。俺が傍に居る時はずっと背中に隠れてるだろ?」
友達として、一番近くにいた雪花だからこそよく知っている。穂乃香のこと。穂乃香を一人にしてはいけないと思っている周囲の意識も。
「滝椿の時もまともに挨拶すらできなかった。例え見知らぬ男だったとしても、それで終わらせるのは良くないんだって、今更になって思うようになったんだ」
「そうかもしれないけど、仕方ないじゃない」
「俺も思ってたよ。仕方ないって。人見知りで臆病で、怖がりな穂乃香を守らないといけないって。両親が死んで、頼れる人がいないから、俺が代わりになろうとしていた。けど、それじゃあ駄目なんだよ」
両親の話にまでなるとは思っていなかったのか、雪花から気まずそうな雰囲気を感じた。
「急にどうしたの?」
「確かに急かもしれない。でも、よく考えてみてほしい」
「考えるって、何を……?」
「はっきり言えば、穂乃香は俺に依存してる。俺が居ないと駄目だと思い込んでる。だから、距離を置くべきなんだと思ったんだ。このままだと、穂乃香は一人じゃ何も出来なくなる。ここに居られるのもあと二年もない。卒業すればみんな別々の道に進む。仮に一緒の大学に行くことになったとしても、傍に居られる時間は必ず少なくなる。そうなった時に考えるんじゃ遅いんだよ」
だから――。
「俺は、穂乃香の傍にいるべきじゃない」
言い終えるのと同時に予鈴が鳴った。本鈴まで五分しかなく、屋上から教室まで距離がある。急いで戻らなければ遅刻が確定する。けれど俺も、雪花も動く気配はなかった。
「依存してるから距離を置く」
チャイムが鳴り終わるのと同時に雪花の呟きが聞こえてきた。
「託さんにはそう見えるんだね」
試すような言い方には嫌な含みがあった。まるで、俺が間違っているとでも言っているかのように聞こえてくる。何が間違っているのか問いたい気持ちもあったが、何故だろう、直感のような物がその話には乗ってはいけないと言っているような気がした。
「俺は傍に居られない。だから雪花に頼みたいんだ。今までのように無理のない範囲で穂乃香と一緒にいてほしい。それだけ話したかったんだ」
ここ数日、穂乃香のことだけを考えていた。穂乃香にとって最低限必要なことを考え続けた。校内には少なからず穂乃香を嫌う人がいる。穂乃香を陥れようと考えている人がいる。言い寄る男を近寄らせないように、好意から敵意に変わった人を近づかせない為にも、傍に味方がいないといけないと思っていた。それを考えた時、真っ先に浮かんだのが雪花だった。雪花以上の適任者はいないと思えた。
「あのさ」
と、雪花は言った。
「さっきから全然話が見えないんだけど」
「俺が穂乃香の傍にいたら何も変わらない。穂乃香が一人でも平気でいられるように、まず俺から離れてみるべきだと思ったんだよ」
「だから、それがよくわからないんだけど」
雪花の言う〝わからない〟が、俺には理解できなかった。順序良く説明した。穂乃香の現状と、それに対する対策も話した。他に伝え忘れていることが思いつかなくて雪花の言葉を待った。
「ねえ? それは託さんの考えなの?」
どことなく、苛立ったような口調だった。
「そうだよ。このままじゃいけないって思ったから。だから――」
「嘘」
短くも、糾弾するかのような鋭い言葉が聞こえた瞬間、続く言葉を見失った。
「託さんが穂乃香ちゃんから離れるなんてありえない。誰に何を言われたの?」
「……誰にも言われてない。前から、思ってたことだよ」
「どうしたの。急にこんな話して」
苛立ちの声が困惑に変わった。
「急なことで戸惑うのもわかる。でも、雪花にしか頼めないんだ」
「理由は?」
「さっき言った通りだよ。距離を置かないと穂乃香の為にならない」
「なにそれ」
雪花の馬鹿にしたような声が癪にさわった。
「真面目な話なんだ」
「本気で言ってるの?」
「そうだよ」
「嘘つかないで」
「嘘じゃないって」
「ちゃんと私の目を見て言って!」
屋上に雪花の声が響く。耳が痛くなるような指摘に対し、それでも俺は顔を上げられずにいた。話を始めてから今に至るまで、俺の視線は下のコンクリートに向けられていた。大事な話だから、穂乃香のことだからちゃんと話したかった。でも、どうしても、雪花の目が見れなかった。言葉では誤魔化せても、未だに残る俺の未練を悟られたくなくて、視線を合わせられなかった。
「……別にいいだろ。このままでも」
「ふざけないで。真面目な話だって言うなら、それが託さんの本心だって言うなら私の目を見て」
声を聞けば、雪花が本気で怒っているのが伝わってくる。ふざけているつもりは一切ないけれど、どちらが真面目に話そうとしているのかと問われれば、満場一致で雪花だと誰もが答えるだろう。
「そんなに怒るなよ。俺は別に、雪花と喧嘩をしたいわけじゃない」
「なら、顔を上げてこっちを見て。ちゃんと話してよ」
ふと、怒りを含んでいた声が僅かに震えていた。俺は顔を上げた。雪花は――潤んだ瞳で俺を睨み付けていた。
「これからも穂乃香の傍にいて欲しい。それだけなんだ」
涙に揺れる瞳を見つめながらも俺は話を進めた。今は穂乃香のことを優先するべきだと、他のことまで考えられない。雪花が袖で目元を拭くのが視界の端に映った。
「託さんの、バカ」
そんな呟きを残し、雪花は屋上の出口に足を向けた。話はまだ終わっていなかったが引き止めなかった。ばたん、とドアが閉まる音が聞こえた後の屋上はとても静かだった。午後の授業が始まるチャイムが鳴り、俺はようやく歩きだすことが出来た。
階段を下りていくと、雪花の泣き顔が浮かんでくる。どうして泣かせてしまったのか。その原因となる発言が思い当たらない。でも、雪花なら穂乃香の傍にいてくれる。俺が頼むまでもなく、そうしてくれる。
雪花とは長い付き合いだ。普段は言い争う間柄だけど、根は善人で人好しだということを知っている。だからこそ任せられる。
ようやく一歩ではあるけれど踏み出すことが出来た。ただ、やり遂げた達成感だとかそんなものはなく、ただ疲労だけ残った。




