決断ゆえに4
午後の授業には少し遅れ、教室に戻れば教師から多少のお小言をもらった。変わったことと言えばそれくらいなもので、後は午前の繰り返しだった。
最後の授業が終わり、ホームルームを過ぎれば放課後になる。皆、それぞれがそれぞれの場所へ向かう為に席を立った。忙しなく教室を出ていくクラスメイトの殆どを見送り、俺もようやく席を立った。
二つ隣の教室へ着き、一度だけ出入口で顔を覗かせると、穂乃香と談笑していた雪花と目が合った。俺の顔を見た瞬間、楽しそうな笑顔から一転して鋭い視線が俺に向けられた。これ以上の波風を立てないようにそっと目を逸らしてドアから離れた。
しばらくして穂乃香がこちらへやってくのを確認し、俺は一足先に歩きだした。背後からは置いていかれないように付いてくる足音を聞いていた。
旧体育館へ近付くたびに周囲の喧騒は遠くなり、聞こえてくるのは二人分の足音だけになる。学校という場所で、誰も見ていない廊下で、好きな人と二人っきりで歩いているのに、以前のような感覚を感じることはなかった。後ろを歩く穂乃香は手を伸ばすまでもなく近くにいるというのに、とても遠くに感じる。修学旅行が始まる前とは何もかもが変わってしまったのだと、改めて自覚させられた。
体育館に続く渡り廊下へたどり着く。俺が立ち止まると、穂乃香は何も言わずとも絡ませた腕を離した。
「……行ってきます」
返事はしなかった。なるべく穂乃香を見ないように顔を逸らしていた。悲しそうな声を向けられると、どうしたらいいのかわからなくなる。皮膚を刺すほど力を込めて握っていなければ手を伸ばしてしまいそうだった。
何処にも行ってほしくない。今朝から拒絶していたのは俺なのに、今は穂乃香を失うのが怖いと感じていた。でも――。俺が傍にいると穂乃香は不幸になる。それだけは絶対にしてはならないと思えばこそ踏みとどまれた。
ゆっくりと遠ざかって行く足音までも元気がないように聞こえてくる。どうしてこうなってしまったのだと、悔しくて足元を睨み付けていた。
「こんばんは」
背後から声を掛けてきたのは栗崎だった。こうして会うのも久しぶりに感じる。相変わらず穂乃香からは見えない位置に立っていた。
「待ってたよ」
栗崎は眉を歪めた。
「私に何か用でしたか?」
「穂乃香のことで頼みがあるんだ。大事な」
これが最後になるかもと思いながら穂乃香へと顔を向けた。相手は修学旅行で手紙を寄こした男だろうか。
「これからは、今までみたいに穂乃香の傍にいられなくなる。だから、万が一にも穂乃香に危害が及びそうになったら助けてやってほしい。もちろんできる範囲でいい。気に留めてほしい」
「突然ですね。理由は聞いても?」
「事情は改めて穂乃香のいない時にする。だから今だけは、俺の頼みだけを聞いて判断してほしい」
いつ穂乃香が戻ってくるかわからない状況では話せない。穂乃香にだけは聞かれたくない話だから言えなかった。それでも、この場で栗崎に協力を頼めるのなら先延ばしにはしたくなかった。身勝手だと思う。理由を告げずに頭を下げれば困るだろうに。
「託真さんの考えていること、少しわかる気がします」
そっと顔を上げれば、穂乃香を見つめる横顔があった。窓越しに見つめる瞳を見れば、まだ穂乃香を想う気持ちが栗崎にあるのだと感覚的に伝わってくる。
「出来ることは少ないと思います。でも、協力はさせてください」
そう告げた栗崎は笑みを浮かべ、またいずれ、と言って背を向けた。栗崎の気遣いに感謝しつつ、その背中を見送った。
告白の返事を終えた後、俺は穂乃香の先を歩くようにして家路へと向かった。いつもより早めに歩いている所為か、時折、穂乃香の足音が遠く聞こえることがあった。空いた距離を穂乃香は走って詰めて、また離される。ちゃんと付いてきているのかと不安になって、無意識に振り返ってしまいそうな自分が怖かった。
歩く速度を落とせば、すぐ後ろから穂乃香の気配が感じられる。そのことに安心している自分がいて、登校時よりも居心地が悪くなっていることを感じていた。
会話はなかった。穂乃香は何も言わず何も尋ねてこなかった。奇妙だと思った。極端に穂乃香から距離を置いた。それなのに、今朝に尋ねて以降、穂乃香はそのことにふれてこなかった。むしろ、俺に気を使って話しかけないようにしているようにすら感じられた。どんな理由があるにせよ、尋ねられなければ無理して嘘を吐く必要はないのだと、考えるのをやめた。
家に着き、中に入る穂乃香の少し後に続く。靴を脱いでリビングへ足を向ければ、もう夏だというのに家の中はひんやりとした空気が漂っていた。
それほど寒いわけじゃないのに、どうしてか俺の足は震えていた。情けない。両足を力強く叩けばどうにか震えは止んだものの、胸の騒つきは治まらなかった。この期に及んでまだ躊躇っている。待っていても時間は解決してくれはしないというのに。
むしろ遅くなればなっただけ、互いの傷は大きくなるかもしれない。だから、ここで話すべきなんだと、リビングの入り口から穂乃香へと顔を向けた。
「穂乃香、話があるんだ」
穂乃香は背を向けたままだった。




