決断ゆえに2
悪夢を見たのにも関わらず、寝起きの気分は意外なことにすっきりしていた。あれだけ苦しめられ、対処法もわからなかったのに突然平気になった。たまたまなのかもしれないが、少なくとも、今は寝起きの気持ち悪さは感じない。本来なら喜ばしいことのはずなのに、そういった気持ちは微塵も湧いてこなかった。
しばらくの間、天井を見つめていた。何もしないまま時間だけが過ぎていく。このまま時が過ぎていけばいい。そんな馬鹿げた現実逃避が脳裏をかすめていた。
いくら先延ばしにしたとしても、俺がやらなければならないことは変わらない。目を背けて甘えていられる時間は終わったのだと、自分に言い聞かせ、無理やり足に力を込めてベッドから起き上がった。
「おはよう。遅かったね」
ゆっくりと階段を降りてリビングに着くと、いつもと変わりない穂乃香の声が俺に向けられた。おはよう、と返しつつも台所に立つ穂乃香が見れなくて、視線を下げたままテーブルに着いた。朝食は豪華だった。豚肉サラダとレバニラ炒め。鳥とごぼうとが入った混ぜご飯に、野菜ジュースが用意されていた。
「今日からまた一緒だね」
片付けが終わったのだろう、穂乃香が目の前の席に着く。
「そうだな。……いただきます」
手を合わせ料理に箸を付けた。一口、二口を進めていけば嫌というほど伝わってくる。どの料理にも時間が掛かっただろうということ。使われている食材の共通点はスタミナの付く物だということ。今日から復帰する俺に、少しでも体力をつけて貰おうと思っているのかもしれない。そうした穂乃香の優しさが、今はつかった。
「授業、大丈夫かな?」
ふと、穂乃香が言った。
「問題ないだろ。休み中も自習してたし、穂乃香にも教えてもらってたんだから」
「もし、わからないところがあったら言ってね。そのままにしちゃうと後で困ることになるから」
「そう、だな」
素っ気なく返事をして料理を口に運んだ。穂乃香の顔が見れない。会話が続くのを避け、あくまでも食事に夢中だと言うように休むことなく箸を動かし示し続けた。そうして、穂乃香の言葉を塞いだ。いつもの特別でもない朝が、途方もなく長く感じられた。
「どうしたの? もしかして体調悪い?」
しばらく前から穂乃香の視線を感じていた。気付いていて気付かない振りをしていた。
「そんなことないよ」
「そう? 無理してない?」
「してないよ。怪我も完治したし何処も痛くない。体調も悪くない」
「本当に?」
「嘘じゃないよ」
語尾を強めて言い切っても穂乃香は納得していない様子だった。
「やっぱり、多かったかな?」
ちらっと視線を上げると、穂乃香は目の前の料理を見つめていた。普段の朝食はもっと軽く、味付けもさっぱりとしていることが多い。
「ちょっと張り切り過ぎたね」
そう言って穂乃香は笑った。頑張りすぎだよ、と笑い返そうとして失敗した。
「どれも美味しいから」
文句など付けられるはずがない。朝早くから起きて、時間を掛けて、俺の為に食材を選んで用意してくれた朝食が美味しくないわけがない。ただ、あまり味が感じられないのが申し訳なかった。余裕がなかった。
「何かあったの?」
穂乃香の追及は止まなかった。
「託が自覚してないだけで、熱でもあるんじゃない? 体温計持ってこようか?」
言うが早いか穂乃香は席を立った。熱なんてないのはわかりきっていたが、調べてみるまで穂乃香は止まらないのだろうと思い何も言わなかった。手渡された体温計で熱を測ってみれば、案の定平熱だった。それでも朝食の間、穂乃香は俺の中にある見えない何かに気遣っているようだった。
言葉少なく家を出た。通学路を歩く穂乃香と俺の距離はいつもより離れていた。家族ではなく、恋人でもない距離を保ちながら歩いている。それはまるで、一緒の方向に向かっている他人と言ったほうが近い気がした。実際はそれ程離れていないのかもしれない。ただ、そう感じた。
「何度もごめんね。体調が悪いんじゃないんだよね?」
隣を見れば穂乃香は心配そうな顔をしていた。俺がそうさせているのだと自覚させられる。でも、止まるわけにはいかなくて、俺は穂乃香を見ないよう正面に視線を向けた。
「どうしてそう思うんだ?」
「何だか元気無い気がして」
「そんなことないよ」
「……そう」
寂しそうな呟きが聞こえた。その寂しさを紛らわせることが出来なくて、これ以上穂乃香を悲しませたくなくて、俺は穂乃香の少し先を歩いた。そうすれば声を掛けられても、聞こえなかった振りが出来る。最低な行為だと思った。
「着いたよ」
教室の前に着いても、穂乃香は掴んだ手を離さなかった。しばらく待っても穂乃香は俺から離れなかった。通り過ぎていく生徒の視線も徐々に不審そうなものに変わっていく。仕方なく、穂乃香の手を強引に離し、教室に向けて背中を押した。そのまま振り向かず、自分の教室に向かった。
もう何度目になるか溜息を吐きながら教室に入り、自分の席に着いても罪悪感は消えなかった。
穂乃香から距離を空けようと思った。穂乃香への想いを抑える為に、穂乃香自身が一人で歩き出す切っ掛けの為に、誰かの背中に隠れて守ってもらうだけの存在にならない為にも、まずは俺が離れるべきだと思っていた。
けれど、今朝から続く不自然な流れはどう見ても失敗だった。穂乃香を戸惑わせたいわけじゃない。困らせたくもない。でも、そうなってしまった。
やるべきことだけはわかっているのに、その過程が上手くいかない。過ぎてしまったことを悔やみ続けても仕方がないのに、いつまでも吹っ切れない。これからのことを考えなきゃいけないのに、何も考えたくなくて机に突っ伏した。
目を閉じて頭の中を空っぽにしても、始業のベルが鳴る前の教室からは、様々な声や音が勝手に聞こえてくる。そっと顔を横に向けて、誰ともなく声のする方へ視線を向けた。楽しそうに会話に興じるクラスメイトはいつもと変わりない様子で、沈んでいるのは俺一人だけのようだった。
「おはよう。何だか元気ないね」
顔を上げれば夕貴がいた。元気がない。夕貴の目も俺はそう映るらしい。
「いつも通りだよ」
「何かあったの?」
そう嘯いても、夕貴の心配そうな顔は変わらなかった。
「何でもないよ。ちょっと寝不足なだけだ」
「ふーん。そうなんだ。寝不足なんだ。そうなんだ」
まるで俺の嘘を見抜いているかのような視線が居心地が悪くて、そっと顔をそらした。そのすぐ後に背後からやってきた滝椿は俺の顔を見て微笑みを浮かべていた。
「さぁ、もうすぐチャイムが鳴ります。席に戻りましょう」
そう言って何かを言い掛けた夕貴を、俺から引き離すようにして自分の席に向かわせた。




