ぎこち無い日常の第十三話
週明けの朝。雫の怪我は幸いにも大したことなかった。
いつものように美術室に入った和葉の後ろに、雫が近づいてくる。
和葉は背中に気配を感じた。
今日もまた、いつものようにスカートをめくられのかと思いながら、身構える。
雫は、いつもの癖でスカートに手を伸ばし、和葉の制服の布地を捉えかける。
雫の指先が空中でぴたりと止まり、瞳がかすかに揺れた。
和葉の背中の温もりと、あの時言われた「可愛い後輩」という言葉が、まるで呪文のように脳裏を駆け巡る。
触れたいのに触れられない。今までの距離が分からなくなる。近付けば近付く程、胸の奥が締め付けられるような痛みに襲われる。
雫は何も言えず、そのままそっと後ろから離れていった。
「? どうした? 今日は捲らないのか?」
和葉が振り返ると、そこにはいつもの小悪魔的な笑みはなく、ただ伏せ目がちに自身のイーゼルへと向かう雫の背中があった。
「……いえ、何でもありません」
小さな、消え入りそうな声。
それきり、雫は和葉と視線を合わせようとしなかった。
その日から、美術室の空気が変わった。
和葉が近づくと、雫はまるで反発しあう磁石の様に
自然と距離を取り、和葉が触れようとすると反射的に身を引く。
いつものラッキーカラーを探す変態行為は、まるで最初から存在しなかったかのように消滅した。
絵の具を片付けていると、薫が和葉に小声で耳打ちした。
「なんか、雫ちゃん最近おかしくない? 和葉に近づかないっていうか……露骨に避けてる?」
「……私も分からない。山道で怪我をしてから、あいつ何かが変わったんだよね」
和葉の言葉に、近くで作業をしていた泉希も首を傾げた。
「いつもは先輩にべったりなのに……今日はまるで、誰かさんの前で照れているみたいです」
その言葉に、和葉は不意に山道の記憶を呼び起こす。
あの時、雫の顔は真っ赤に染まり、先輩の背中で必死に何かをこらえていた。
それからも、和葉の視線が向けられるたびに、雫は露骨に目を逸らした。
何かを話しかけても、「はい」「そうです」と短く返すだけ。
まるで、これまで積み上げてきた騒がしい関係性が、音を立てて崩れてしまったかのようだった。
和葉は内心で深い溜息をついた。
(……あいつ、私の何が気に食わないんだ?)
和葉の日常と言うパズルが完成しない。
和葉にとって雫はどれぐらいのピースになっていたのか。今になって気付く。
一方、雫のキャンバスもかつての繊細さが失われている。筆を握る手が、かすかに震えている。
(ダメ……直視できない。先輩の顔を見ると、あの日背負ってもらった感覚が蘇って……胸の奥が、締め付けられるように苦しい……)
これまで雫が抱いてきたのは、「先輩をいじって反応を楽しむ」という安全圏からのゲームだった。しかし、今は違う。その距離が近すぎるだけで、心臓が爆発しそうなほどの熱がこみ上げてくる。
これまでとは全く違う、切なくて、甘くて、痛いような感情。
雫はそっと自分の頰に手を当てた。火照っている。山を降りて数日が経っても、先輩の背中から移ったはずの温もりは、雫の心臓に深く根を張り、離れようとしない。
彼女は自分に言い聞かせる。
今ここでいつものようにスカートをめくってしまいたい。先輩に触れたい。
なのに、体が心がそれを許さない。
小悪魔の仮面を被り続けるのが、こんなにも苦しいなんて。雫はキャンバスの余白を、まるで自分の行き場のない感情を塗り潰すように、荒い筆致で埋めていった。
そんな日々が繰り返され、容赦なく月日は流れていく。
明日からは冬の合宿。
窓の外ではグラウンドが白く染まっている。
雪解けを願う者たちがそこにはいた。
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次回、土曜日に投稿で最終回です。




