第8話 優しい仔犬
静まり返った真夜中。暖炉の火だけが爆ぜる音を立てている。
私は机の上のランプを頼りに、古い薬草学の書物をめくっていた。
「……あと、少し。ここの記述が読み終わってから寝よう」
今にも破れそうな羊皮紙には、高度な魔法と薬草の組み合わせについて記されている。
明日、マリンザさんに届ける新しい鎮痛薬のレシピを、どうしても今夜中に完成させたかった。……本当は、少しだけ身体が重くて、視界がチカチカと点滅している気がするけれど、これくらいはどうってことない。
昔は、この程度の体調不良で手を休めることは許されなかった。あの頃に比べれば、自分の意志で、自分の居場所のために働く今の疲れは、むしろ誇らしいものに思える。
「くしゅんっ……」
くしゃみが一つ、部屋に響く。
夜になると、やはり冷えてしまう。けれど、あと少しだから。あと数行。
今にも閉じてしまいそうな重い瞼を押し上げようとした、その時だった。
パタパタパタ……と、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
「あら、コロ? どうしたの、起きちゃった?」
寝室で眠っていたはずのコロが、扉からひょっこりと顔を出している。
コロはてとてとと机の近くまで歩いてくると、私の足元に座り、じっと私を見上げた。紅色の瞳が、まっすぐと私の目を見ている。
「ワフッ!」
「ふふ、ありがとう。私の様子を見に来てくれたの? もう寝ようと思っているけれど、あと少しだけやりたいことがあるの。すぐに行くから、先に戻っていて」
そう言って再び本に目を戻すと、コロは「バフバフッ!」と吠えた。そして私のスカートの裾をガシッと口で咥えたのだ。
「え、コロ? どうしたの? お腹が空いちゃったの?」
違う。コロの意図はすぐさま行動となって現れた。
彼はぐいぐいと、私のスカートを扉の方向へと引っ張り始めたのだ。小さな身体なのに、驚くほどの力強さ。まるで、「いいからこっちに来い」と言っているかのよう。
「ちょっと、コロ! 服が伸びちゃうわ。わかった、わかったから……!」
私が立ち上がると、コロは一度裾を放し、少し歩いたかと思うと私を振り返って「ワゥン!」と声を上げた。私がこっそりと机の方に戻ろうとすると、またすぐに裾を咥えに戻ってくる。
「……もしかして、私に『寝ろ』って言ってるの?」
コロの行動からもしやと思って問いかけると、コロは力強く頷いた。その仕草は、やはり犬だと思えないほどに人間らしい。
「……そうね。あなたの言う通りかもしれない。少し、無理をしていたわ」
自分では大丈夫だと言い聞かせていたが、確かに限界は近かった。
コロが何を考えているのかは分からないけれど、私のことを思ってくれたことは間違いないだろう。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「わかったわ。今日はこれでおしまいにする」
ランプの火を消して本を閉じた。暗くなった廊下を歩くと、コロは気分がよさそうに私の前を歩きながら、時折私が付いてきていることを確認するように後ろを向く。なんとも愛らしい動きだ。
ベッドに入ると、コロは当たり前のような顔をして私の隣に潜り込んできた。
ふわふわとした銀色の毛並み。トクトクと刻まれている心臓の音。
傍に感じるこの子の温かさは、どんな薬よりも私のことを癒してくれる。
「ありがとう、コロ。おやすみなさい……」
コロの額にそっと唇を寄せて、目を瞑る。コロは小さな鼻を私の首筋に押し付けたような感覚があった。
——冷たい。冷たい空気が、肌を刺している。
カチ、カチ、カチと、一定のリズムで時を刻んでいる時計の音。そしてそれ以上に不気味な、ポタポタと何かが滴る音。
『……リリアナ、もっと気を張りなさい。お前は我が家の宝なのだから』
暗闇の中から、名前も思い出せない男の平坦な声が響く。
私の腕は、常に何かで固定されていた。鋭い何かで、何度も何度も皮膚を傷つけられる。
『痛みなど、すぐに慣れる。お前のその血が、我々に富をもたらすのだ。お前にはそれ以外の価値はない。わかっているな?』
……わかっています。
私は、薬を造るための、ただの材料。
特別な血を持った、喋ることのできる道具。
自由を願うことも、空を仰ぐことも、私には許されていない。
「……っ……や、めて……」
唇からは、無意識のうちに震えた声が漏れる。
深い闇の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がした。
でも、そこには誰もいない。あるのは、ただ私を道具としか見ていない人々の冷たい視線だけ——。
その時だった。
私の頬に、熱いほどに温かな「何か」が触れた。
その「何か」は、闇を切り裂くように力強く、私の身体を包み込んでいく。
ザラリとした温かな感触が、私の頬を、涙を、優しく拭ってくれる。
(……温かい……。あなたは、誰……?)
冷たい空気が消えていく。
代わりに、トクトクという命の鼓動が聞こえた気がした。
闇を追い払ってくれるようなその力強い気配に守られて、私はようやく穏やかな眠りへと誘われていった。




