第5話 銀狼騎士、怒られる
リリアナという女は、共に過ごせば過ごすほどに危なっかしいということが分かった。
この数日間。俺は彼女の日常を徹底的に観察してきた。彼女の職業は薬師で間違いはない。家の中には保存されている薬草が所狭しと並んでおり、彼女はそれらを絶妙な配合で調合し、驚くほどの質の高い薬を作り上げている。薬の効果は俺自身が体感したため信頼できる。
その腕前は、帝都の宮廷薬師にも引けを取らないだろう。だが、問題なのはそれ以外の部分だ。
「あら、大変! お鍋の火を消し忘れていたわ」
バタバタと台所へ駆けていく彼女の後姿を見ながら、俺は深いため息を吐いた。
これで何度目だろう。
薬の調合中には驚異的な集中力を発揮するくせに、自分の生活のこととなると驚くほど抜けている。階段の段差に足を取られそうになったり、雨の日に窓を閉め忘れて床が水浸しになったり……。俺は彼女が見落としがちな場所を先んじて見て回り、それとなく伝えるということを繰り返している。
(この女、俺がいなければ家を燃やしているのではないか……?)
聞けば、以前は街へ定期的に薬を売りに出ていたようだが、最近は俺の怪我を理由に最低限の外出に留めているらしい。
つまり、彼女は俺のために、貴重な収入源を削っているのだ。
蜂蜜色の髪を揺らしながら、慌てて鍋の始末をする彼女の横顔を見ながら考える。
以前の俺なら、「無能な女だ」と気に留めることすらなかったかもしれない。しかし、リリアナのそれは無能とは違う。ただ、誰かに頼ることを知らないままに必死で一人で立とうとして、足元が疎かになっている……そんな危うさがあるのだ。
(……俺が守らねばならん)
騎士としての使命感が、胸の中で熱く燃え上がる。
彼女を泣かせるような不手際も、外に潜んでいるやもしれぬ外敵も、すべて俺が排除してやる。そのためには、まずこの矮小な肉体を鍛え直すことが先決だ。
(よし)
俺は決意を固め、部屋の端に移動する。
まずは心肺機能の強化だ。この室内を周回し、同時に瞬発力も取り戻す。
バフッ! と短く気合を入れ、俺は走り出した。
四本の足が絡まないように意識しながら、床を蹴る。景色が激しく流れる。おお、素晴らしい。かつて戦場を駆けていた感覚が、微かに蘇るようだ!
(いけるぞ! 踏ん張りが甘いが、このまま回転を重ねれば——)
「コ……コロ!?」
背後から、リリアナの驚愕した声が聞こえた。
気づかれてしまったか。だが案ずるなリリアナ。俺は今、お前を護る騎士として復活するための訓練を行っているのだ。俺はさらに速度を上げ、机の周りを走る。
「ダメよ、コロ! そんなに走り回ったら、また足の傷が開いちゃう!」
彼女が慌てて手を伸ばしてくる。俺を捕まえようとしているのか。
ははは、捕まるものか。この俺がこの程度の包囲で——。
「わっ!?」
直後、リリアナが絨毯の端に足を引っかけたのか、大きく大勢を崩した。彼女の背後にあるのは、鋭い角を持った木製の椅子。
(リリアナ!!)
俺は鍛錬を即座に中断し、彼女の足元へ滑り込む。彼女を抱きかかえ……ることはできないからせめてもの自分の身体をクッションにでもして、彼女の転倒を防ぐ——つもりだったが、俺の身体があまりにも矮小であることを失念していた。
結果として、彼女は俺を潰さないようにしたのか無理な体勢で踏みとどまり、なんとか椅子への衝突を回避したものの、そのまま床に尻もちをついた。
「いたた。もう、びっくりした……」
彼女は身体を起こしながら、俺をひょいと抱き上げた。
その顔は、いつもの穏やかな笑顔ではなく、少しだけ怒りで染まっている。
「コロ! ダメでしょう? あんなに激しく走り回ったら危ないのよ。あなたも怪我しちゃうし、私もびっくりしちゃうじゃない」
彼女は俺を膝の上に乗せて、言い聞かせるように人差し指を立てる。まるで悪い子供のような扱い。心外だ。屈辱だ。俺は自身の思いを伝えるためにも、口を結んでそっぽを向いた。
俺はお前を護りたくて、身体を鍛えようとしたのだ。お前がいつも傷つきそうになるから、気が気でないのだ。
「……聞いているの?」
彼女が覗き込んでくる。緑色の瞳が、心配そうに揺れている。彼女が怒っているのは、ただ俺を心配していたからだということが痛いほどに伝わってくる。
その顔を見せられては、これ以上意地を張ることもできない。
俺は仕方なく、彼女の手に頭をこすりつけた。すまない、これからはお前が見ていないところでやろう、という意味を込めて。
「ふふ。いい子ね、コロ」
彼女はすぐに機嫌を直し、俺の顎の下を撫で始めた。
くっ……そこは、その場所は抗えんと言っているだろう。
結局、俺は騎士としての威厳を再び撫で溶かされ、彼女の膝の上で情けなくも鳴き声を漏らす羽目になった。
「ねえ、コロ。これ食べる?」
しばらく経った後。リリアナが差し出してきたのは、細かく刻んだ果物の蜂蜜和えだ。
先ほどの鍛錬を止められたことのショックを引きずっていた俺だが、甘い香りに誘われて、ついふらふらと食い物に鼻を寄せてしまう。悔しいが、リリアナが用意するものは何でも美味いのだ。
「コロは食べるのが好きね。……そんな風に一生懸命食べている姿を見ると、昔助けたあの子を思い出すわ」
蜂蜜を舐めていた俺の舌が、ピタリと止まった。
あの子? ……誰のことだ。
「私がこの森に来てすぐの頃、怪我をして迷い込んじゃったわんちゃんがいたの。茶色くて、耳が垂れていて、とても人懐っこい子でね」
(……茶色の、垂れ耳か?)
俺の脳内に、見知らぬ雑種の姿が浮かび上がる。
リリアナは過去を思い出すように遠い目をして、愛おしそうに空中をなぞった。まるで、その場にはいない何者かを撫でるかのように。
「その子も足に大きな傷があってね。治療してあげたら私にも懐いてくれて、毎日私の顔を舐めてくれたのよ。夜も一緒のベッドで寝て……本当に可愛かったわ」
——俺の中で、何かが崩壊する音がした。
毎日顔を舐めていた? 一緒のベッドで寝た?
それは、今この俺に与えられている特権ではないのか。俺だけに許された、特別な距離感ではなかったのか。
胸の奥に、経験したことのない奇妙なもやもやが生まれる。
これは……何だ。かつて、手柄を奪われた際に抱いた苛立ちとは明らかに質が違う。もっと暗くて、じっとりとしていて、胃のあたりをギュッと掴まれているような不快感。
(その茶色の垂れ耳は、今どこにいる)
俺は蜂蜜和えを放置し、リリアナの顔をじっと見上げた。彼女は俺の視線に気づかず、楽しそうに話を続けている。
「街に行った時にその子の飼い主さんが見つかって、無事に帰してあげることができたわ。勝手に家を抜け出してきちゃったみたいだったの。今でも時々街で会ったら、嬉しそうに駆け寄ってくれて可愛いのよ」
(帰ったのか。いや、問題はそこではない)
リリアナにとって、俺は「あの子」の代わりなのか?
怪我をした、拾われた、可愛そうな、数ある犬の中の一匹に過ぎないというのか?
ありえん。俺は誰かの代わりなど御免被る。ましてや、どこの馬の骨とも知れぬ垂れ耳の雑種と並べられるなど、俺の矜持が許さない。俺の毛並みは他の犬と比べても遥かに美しいだろう。間違いない。
「コロ? どうしたの、そんなに怖い顔して。あ、もしかして、他の子のお話をしてやきもち焼いちゃった?」
リリアナが冗談めかして笑い、俺の背中を撫でる。
やきもち。その単語に、俺は全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
この俺が、嫉妬だと? 犬を相手に? 馬鹿馬鹿しい。そんなはずがあるか。
「大丈夫よ、コロ。あの子も可愛かったけれど、コロが一番よ。コロはずっと私と一緒にいてくれるのでしょ?」
彼女は俺を抱き上げて、顔を近づけてくる。緑色の瞳が至近距離で揺れ、その髪が俺の鼻先をかすめた。
「ね? コロが一番大好きよ」
そう言って、彼女は俺の額に唇を寄せた。
(……ッ!?)
心臓が、破裂するかと思った。
羞恥心からか全身が熱くなる。口づけをされたからとこのように動揺するのは情けないことこの上ない。
しかし、彼女の「一番」という言葉を聞いた瞬間、先ほどまでのドロドロとしたもやもや消えてくのが分かった。
(ふん……まあ、当然だろう。そこらの雑種犬と、この俺を比べること自体が間違いなのだ)
俺は鼻を鳴らし、彼女の腕の中でふんぞり返った。それを見て、彼女は優しく微笑んでいる。
リリアナが俺を撫でる手の温もり。彼女が歌うように紡ぐ、俺を呼ぶ声。俺は、彼女が俺の知らない何かを思い出して寂しげな顔をするのが、猛烈に嫌だった。それに、リリアナの笑顔を見るのは俺だけでいい。
それがたとえ、コロという情けない名前の犬であったとしても。
俺は自分の顔をリリアナの頬に押し当て、これ見よがしにひと舐めしてやった。




