第3話 銀狼騎士、飼い犬になる
意識が浮上した時。俺を包んでいたのは、かつて戦場で何度も味わった血の匂いや空気の重苦しさではなかった。
(……温かい)
鼻をくすぐるのは、薪が焼ける際の芳しい香りと、どこか懐かしい薬草の匂い。
俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。そこには、陽光のような色彩が溢れている。
目の前にいるのは、一人の女。
朝の光を浴びた彼女の髪は、まるで上質な蜂蜜を溶かし込んだような輝きを放っている。そして、俺が目覚めたことに気が付いて覗き込んできたその瞳は、春の息吹を思わせる鮮やかな緑色だ。
「あ、おはよう。気分はどうかしら?」
彼女は微笑む。その笑みを見た瞬間、俺の心臓はどくんと跳ねた。
見惚れている場合ではない。俺は帝国騎士団長だ。まずは自分の状況を——。
(……ッ!?)
立ち上がろうとして、己の無残な姿を再認識した。
視界が低い。四つ足でしか立てない。そして自分の意思に反して、尻尾なる部位がパタパタと床を叩いている。
そうだ。俺はあの忌々しい教団から呪いを受けて、こんな矮小な獣の姿に成り果てたのだった。
「ふふ、元気そうで何よりだわ。でも無茶はしちゃだめよ。足の怪我、まだ治ったわけじゃないのだから」
彼女の手が伸びてくる。避けようとしたが、昨日味わったあの不思議な温もりが記憶を掠めて身体が硬直する。その隙に、柔らかな指先が俺の耳の後ろ辺りを優しく撫でた。
「……はう……」
口からは、無意識のうちに威厳の欠片もない甘えた鳴き声が漏れる。
やめろ。そこは駄目だ。首筋に触れられるなど……くっ、ああ、だが、悪くない。いや、むしろ、猛烈に心地よい。
俺は必死に理性を保とうとするが、抗えぬ快楽に首と尾が勝手に動く。
「お腹は空いていない? 昨日と同じごはんなら、たくさん用意してあげるからね」
ごはん。その単語に、腹の虫が「キュゥ」と情けなく応じた。
昨晩食べた、あのミルクと肉の味。ただ適当に混ぜてあるだけのものに見えたが、全身に染み渡るような滋味深い味わいだった。帝都の食事場で食した肉よりも、今の俺にはあれが魅力的に思えてしまう。
いかん。俺は胃袋まで獣に成り下がるつもりか。
だが、彼女はそんな俺の葛藤など露も知らないのだろう。真剣な眼差しで俺を見つめてきた。
「ねえ。もしあなたに行く当てがないのなら。怪我が治るまで、いえ、治ってからも……私と一緒に、ここで暮らさない?」
蜂蜜色の髪を揺らし、彼女は不安げに眉を下げている。
その瞬間、俺はようやく彼女が置かれている状況について考えが至った。こんな人里離れた村で、女が一人で暮らしている。危険すぎやしないか。少し見ただけでは、彼女が戦いの心得を持っているとは思えない。
(この女、無用心すぎる。こんな森に一人は危険だ)
帝国騎士として、弱きを助けるのは当然の義務。
俺が傍にいれば、たとえこの小さな姿であっても、敵の接近に気が付きそれを知らせることくらいはできるだろう。それに……何より、この女を一人にするのは、なぜか胸がざわついた。
俺は彼女の目を見据え、小さく一度、首を縦に振る。
「わあ……! 今、頷いてくれたの? あなた、本当に賢いのね」
彼女は顔を輝かせて、俺の身体をひょいと抱き上げた。
ああ、よせ。顔が近い。それにいい香りがする。
俺が動揺していると、彼女は俺を抱きしめたまま、楽しそうに笑った。
「そうだ、名前を決めなくちゃ。ずっと『あなた』じゃ寂しいもの」
名前。
名乗れるものなら、今すぐにでも『アルフレート・シュンベル』だと叫びたいところだ。しかし今の俺が口を開くと、「バフッ」という名の抜けた鳴き声しか発することができない。
「うーん、そうね……。銀色の毛並みに、なんだか丸っこくて……」
嫌な予感がした。
この女の、少し抜けた部分のある明るい声色。彼女は俺の背中を撫でながら、にこりと良い笑みを浮かべた。
「よし、『コロ』にしよう。コロコロしているから、コロちゃん。あなたは男の子だから、コロくんかな?」
(……コロ?)
言葉を失った。
帝国最強の騎士団長、戦場を駆ける銀狼。今までに数多の呼び名を付けられてはきたが……。
あまりの衝撃に、俺は思わず「……なっ!?」と吠えようとした。だが、出たのは「フバァッ!」という奇妙な声。
「ふふ、喜んでくれたみたいで嬉しいわ。私はリリアナよ。よろしくね、コロくん」
彼女は俺の身体に、自分の頬をすり寄せてくる。
違う。俺の声は喜んだから出したわけではない。断固とした抗議だ。
しかし彼女の瞳が心からの喜びに満ちてキラキラと輝いているのを見てしまうと——。
(……ちっ。まあ、いい。仮の名前だ)
俺は今足に怪我を負っている。魔力も封印されている。当面の間、拠点と食料を確保することは最優先事項だ。
決して、彼女が出した食事が美味かったからではない。
決して、彼女に触れられることが心地よいと思ったからではない。
俺は渋々、彼女の手に頬をすり寄せた。それを見て、彼女は「あら。コロくん、可愛い」と、さらに愛おしそうな笑みを浮かべたのだ。




