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第2話 可愛い仔犬


 雨の日の森は、いつもよりも暗く見える。

 木の葉を叩く雨音だけが響く中、私は急ぎ足で歩いていた。


「……今日は早めに切り上げないと、冷え込んでしまいそうね」


 背負った薬草籠には、先ほどまで集めていた薬草たちが詰まっている。

 数年前、この辺境の森にある古い子やに移り住んでから、私の生活はとても穏やかなものになった。誰にも縛られることもなく、ただ植物の息吹に耳を澄ませて薬を作る。それだけで、私は十分に幸せだ。


 家路を急いでいた、その時。

 ぬかるんだ地面に、場違いな『銀』が混ざっているのが見えた。


「あら……?」


 最初は、季節外れの白百合が咲いているのかと思ったけれど、近づいてみると、それは小さな生き物だということに気が付く。

 毛が泥で汚れていて、雨に打たれながら弱々しく震えている仔犬。この森には狼が住んでいるけれど、この子は狼の子供のようには見えなかった。誰かに捨てられたのだろうか。


「こんなところで、どうしたの? 怪我をしているのね……可哀想に」


 思わず駆け寄って、仔犬がこれ以上濡れないように傘をさす。

 仔犬は、銀色を帯びた不思議な毛並みをしていた。触れてみるとその身体は冷え切っていて、右足の付け根からは血が流れているのが分かる。


 泥だらけの身体をそっと抱き上げると、仔犬はうっすらと瞼を持ち上げた。宝石のルビーを思わせる、美しい紅色の瞳。一瞬、射すくめられるような気圧される感覚があったけれど、その子はすぐに力尽きたように目を閉じてしまった。


「とても綺麗な毛色ね。それと……ひどい傷。すぐに助けてあげるからね」


 できるだけ温かくなるように、外套で仔犬をくるむ。そして、その小さな命を胸に抱き寄せた。私の体温が少しでも伝わるように。


「私の家はすぐそこよ。頑張って」


 雨の中を急ぎ、辿り着いた我が家。

 家についてすぐ、暖炉に火を焚べた。


「大丈夫よ。すぐに温かくなるからね」


 清潔なタオルを用意して、仔犬をその上に寝かせる。

 仔犬の足には、何か鋭いもので切り裂かれたような深い傷跡があった。獣につけられた傷ではない。


(……これは、普通の怪我じゃないわね)


 薬師として治療を続けてきた私には分かる。これは、刃物によって傷つけられたものだ。それに、魔導的な何かも絡んでいる。この仔犬の飼い主は、もしかしたら大きな事件に巻き込まれたのかも。


 本来なら、関わらない方がいいのかもしれない。平穏を求めてこの森に隠れ住んでいる身としては、不安の種は避けるべきだ。

 けれど、この仔犬が薄く目を開いた時。


 意志の強そうな——まるで誇り高い人間のような紅色の瞳と視線がぶつかった瞬間、私の手は迷いなく動いていた。


「痛いけれど、我慢してね」


 傷口の血を拭ってから、棚から薬を取り出した薬を丁寧に傷口に塗り込む。


「くぅ、ん……」


 仔犬が短く鳴き、ビクリと身体を震わせた。

 痛いのだろう。何度か動物の手当てをしたことはあるけれど、この子は別の子達のように暴れたり、私を噛んだりしようとはしなかった。ただ、じっと耐えるように私の顔を見つめている。


「いい子ね……本当に、強い子」


 傷口に包帯を巻き終えた頃には、仔犬の呼吸は少しずつ落ち着いてきていた。

 次にやるべきことは、この子の身体を綺麗にしてあげることだ。


 私は桶にぬるま湯を汲んで、石鹸を溶かす。準備ができたらそっと仔犬を抱き上げて、お湯の中に入れた。

 すると、お湯に触れた瞬間、仔犬は目を見開いて固まってしまった。


「あら。お風呂は嫌いだったかしら?」


 お風呂に慣れていないのだろうか、と思っていると、仔犬は「バフッ!」と短く吠えて、前足でバシャバシャとお湯をかきだした。水しぶきが私の顔に飛んでくる。


「ふふ、元気が出てきたみたいね。良かったわ。ちゃんと泥も落としましょうね。放っておくと病気になっちゃうわ」


 私は笑いながら、仔犬の背中を優しく撫で洗う。お湯に濡れて少し細くなったその姿は、なんだかとても愛らしい。


 丁寧に指先で毛を梳いていくと、桶のお湯がすぐ濁っていく。これだけ汚れていたということだ。怖がらせないように声をかけながら、洗ってお湯を変えてを繰り返していると、本来のこの子の毛並みが現れ始めた。月光を糸にして織り上げたような、輝く銀色の毛並みである。

 お腹の方まで手を回して洗ってあげると、仔犬は「キャンッ!」と可愛らしい声を上げて耳をぴくぴくと震わせる。


「くすぐったかった? ごめんなさい」


 一通り洗い終えたので、仔犬を湯から上げて大きなタオルで包み込んだ。

 そのまま暖炉の火の前まで行き、椅子に座る。仔犬を膝の上にのせて、毛を乾かす。優しく拭いていると、銀色の毛がふわふわと膨らんでいった。


「まあ……。まるで綿菓子みたい」


 姿を現したのは、見事なまでにコロコロとした、銀色の毛玉のような存在だった。

 足が短くて、ちょっとぽてっとしている。可愛らしい。


 仔犬は私の膝の上できょろきょろと顔を動かし、自分の姿を確認するように下を向いていたかと思うと、ハッと何かに気付いたかのような顔をした。そして前足で自分の顔を撫でて、そのまま丸くなって動かなくなる。

 どうしたのだろう。お湯に長くつかりすぎたせいで、のぼせたのだろうか。


 心配になって顔を覗き込もうとすると、仔犬はそっぽを向いてしまった。


「お腹、空いているわよね。何か食べられるかしら」


 私は台所へ行って、今朝仕入れたばかりの新鮮なミルクを温め、細かく刻んだお肉と混ぜた。


「はい、どうぞ。召し上がれ」


 仔犬の前にお皿を差し出す。この子は最初こそ「こんなもの食べられるのか?」と言いたげな顔をして、警戒するように鼻をひくつかせていたけれど、やはりお腹が空いていたのか、一口ぺろりと舐めた。


 それからは早かった。一生懸命に食べ始め、お皿を空にしていく。もぐもぐ、と小さな口を動かしてお肉を頬張る姿はとても可愛らしい。


「うふふ、美味しい? そんなに急がなくても、誰も取ったりしないわよ」


 夢中で食べているその子の頭をそっと撫でてみる。一瞬ビクリと身体は震えたけれど、嫌がる様子はない。それどころかもっと撫でてほしいのか、その子は私の手に自分の頭をこてんと預けてきた。


「なんて可愛い子なの。ふわふわしていて、あったかくて」


 ごはんを平らげると、仔犬は満足したのか、ふぁあ、と大きなあくびをした。そして私の手のひらを、ぺろりと一度だけ舐める。ざらりとした温かな感触に、胸の奥がくすぐったくなった。


「良かった。元気になったみたいで」


 暖炉の火に照らされているからか、仔犬の銀色の毛は美しく輝いているように見える。

 こんなに小さくて、可愛くて。それなのに、どこか気高さを持っている不思議な子。


「ねえ、あなた」


 膝の上で眠る仔犬の背中を撫でる。この子には、帰るところはないのだろうか。なら、私が飼ってもいいかな。


「これから、私と一緒に暮らさない?」


 これからこの子と一緒にいられると思うだけで、これまでの孤独な夜が、少しだけ温かいものに変わるような気がするのだ。

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