第1話 銀狼騎士、拾われる
視界が、赤く染まっていた。
呼吸には痛みが伴う。息を吸うたびに、目の前の景色がぐにゃりと歪む。
「……ッ、はあ、はあ……!」
ぬかるんだ地面を蹴る自分の足が、ひどく頼りない。
たった数刻前までは、俺は騎士として剣を振り、部下達を率いて教団の奴らを追い詰めていた。
だというのに。
(あの、狂信者の野郎め……!)
思い出すだけでも忌々しい。追い詰められた司祭が、狂った笑みを浮かべて放った黒い弾丸。咄嗟に部下を守ろうと動き、それを正面から浴びた瞬間、俺の身体は内側から作り替えられるような激痛に襲われた。
視界が急速に地面へと近づき、力強く剣を握っていたはずの手は、毛むくじゃらの小さな「足」に変わっていた。
『誇り高き銀狼騎士よ。理性を失い獣となり、惨めに野垂れ死ぬがいい!』
奴の言葉が耳に残っている。
だが、俺はまだこうして生きている。理性を手放してなるものか。俺がいなくなれば、あの卑劣な教団を誰が止める。帝国を、民を、誰が守る。
しかし、限界は近かった。
以前なら軽く飛び越えることのできたはずの倒木が、何度も巨大な壁のように立ち塞がる。
視界が低い。あまりにも低い。
自分の意思とは無関係に、鼻がひくひくと地面の匂いを嗅ぎ、耳が風の音に過敏に反応する。この本能に抗うだけで、精神が削り取られていくような感覚。冷たい雨は容赦なく体温を奪っていき、濡れた毛が皮膚に張り付いて不快だ。
不意に、足に激痛が走った。教団から受けた矢のかすり傷が残っていたのか。
この小さな身体になった俺にとって、それは致命的な重荷になる。
(ここまで、か……)
視界が暗くなり、前足がもつれて泥の中に顔から突っ込んだ。
このままここで眠れば、確実に俺は死ぬだろう。奇跡的に雨が止んで夜を越せたとしても、遠くから獣の遠吠えが聞こえてくるため、飢えた獣に喰われて終いだ。
意識が遠のく。
部下達の顔が、戦友達の声が、遠ざかっていく。
雨の音さえ聞こえなくなり、完全な闇に落ちようとした、その時だった。
——ザッ、ザッ。
足音。獣のものではない、人間の足音だ。
教団の追っ手だろうか。俺を確実に仕留めにきたのだろうか。奴らの手で殺されることだけは許せない。
せめて最期に、一太刀だけでも……そう思って、必死に顔を上げた。
「あら……?」
しかし、頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような透き通った声だった。
直後、雨が止む。否、止んだのではなく、誰かが俺に雨がかからないようにしているのだ。
ぼやけた視界の中に現れたのは、深い森の緑を溶かし込んだような瞳を持つ、美しい女だった。
編み込まれた蜂蜜色の髪が肩からこぼれ、雨に濡れて光っている。女は首を傾げながら、俺の身体に手を伸ばした。
「こんなところで、どうしたの? 怪我をしているのね……可哀想に」
(触るな……ッ!)
見知らぬ者に触れられることに警戒し、威嚇して吠えようとした。
しかし、喉から漏れたのは「きゅう……ん」という、自分でも耳を疑うほど情けない鳴き声。
情けない。死ぬほどに情けない。
「まあ、元気がないわね。大丈夫よ、もう怖くないから」
女は俺を抱え上げ、自分の胸元へと引き寄せた。彼女の体温が、凍え切った俺の身体に伝わってくる。ふわり、と鼻をくすぐったのは、雨の匂いに混じってどこか懐かしい、甘い薬草の香りだった。
(よせ、離せ……俺は帝国騎士団長、アルフレートだぞ……!)
抵抗しようと前足をバタつかせたが、彼女の腕の中があまりに暖かくて、急速に身体の緊張が解れていく。彼女は自分の外套で俺を包み込むと、俺の頭を優しく撫でた。
「とても綺麗な毛色ね。それと……ひどい傷。すぐに助けてあげるからね」
まるで陽だまりの中にいるかのような暖かさ。血にまみれて生きてきた俺が、今まで触れたことのないような暖かさ。
(この女……何者だ……?)
彼女の心臓の音が俺の身体に伝わってくる。その音を聞いていると、呪いに対する絶望や、仔犬として扱われている屈辱が、溶けて消えていくように感じられた。
「私の家はすぐそこよ。頑張って」
彼女は俺に声をかけながら歩き出す。俺はその腕の温もりに身を委ね、ゆっくりと瞼を閉じた。
これが何らかの罠でも、死への誘いであっても構わない。
ただ、この瞬間だけは。
帝国を守る騎士であったことを忘れ、この暖かさに溺れていたいと願ってしまった。
これが、俺と彼女——リリアナとの、すべての始まりだった。




