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第24話 届かぬ問い


 深い、深い闇の底から、意識がゆっくりと浮上する。あの大嫌いな痺れ薬の甘ったるい臭いはもうしなかった。代わりに鼻腔をくすぐるのは、すっきりとした香りとどこか懐かしい陽だまりのような匂い。


(……私は、生きているの……?)


 おそるおそる瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた家の天井ではなかった。私の知らない、とても立派な建物の一室のようだ。

 寝返りを打とうとして、自分の身体が上質で柔らかな毛布で包まれていることに気付く。感覚は戻っていて、手足も動く。あの忌々しい拘束からは、解放されたのだ。


「気が付いたか」


 頭上から、男の人の声が降ってきた。心臓がドクリと跳ね、私は弾かれたように上半身を起こし、声のした方へと視線を向ける。


「——っ、……っ!?」


 あまりの衝撃に、息が止まるかと思った。ベッドのすぐ傍らに置かれた椅子に腰かけ、私を覗き込むようにして見つめていたのは……言葉を失うほどに、美しい青年だった。月の光をそのまま映したような、神聖な輝きを放つ銀の髪。燃えるようなルビーの瞳。少し崩された衣服の間から覗く体躯は、一目で強靭な武人だと分かるほどに引き締まっている。

 その容姿を目にした途端、私の脳裏には、以前に聞いたあの話が蘇ってきた。


『我らが誇るアルフレート団長も、美しい銀色の髪と宝石のような紅い瞳をお持ちだった』


 ——帝国騎士団長、アルフレート・シュンベル。

 間違いない。カイル様が誇らしそうに、そして寂しそうに語っていた、行方不明の若き英雄。その本人が、なぜか今、私の目の前に座っている。しかし、何かが、決定的におかしかった。


(……え? うそ……みみ、耳がある……!?)


 思わず我が目を疑った。彼の輝く銀髪の隙間から、ふさふさとした銀色の犬の耳がぱたぱたと小刻みに動いているのが見えたのだ。人間の耳があるはずの側頭部には何もない。代わりに、頭頂部に生えているその獣の耳は、私の動揺を察知したかのようにぴくんとこちらへ向けられた。

 獣人、という言葉が頭をよぎる。しかしそれは、古い寓話や物語の中にしか存在しないはずの種族だ。


(銀狼騎士様って……比喩じゃなくて、本当に狼だったの……!? だからとても強くて、帝国でも最強と言われていて……でもそんなことが……)


 騎士団長が目の前にいるという恐怖と、物語の中の存在が目の前にいるという非現実感が混ざり合い、私の頭は完全に思考を放棄してしまった。私はベッドの上でずるずると後ろへ下がり、毛布を胸元まで引き上げて身体を小さく丸める。

 怯える私を見て(というより、自分のお耳を凝視されていることに気付いてバツが悪そうな素振りを見せ)、青年はひどく傷ついたような、痛ましそうな表情をその端正な顔に浮かべた。赤い瞳が、切なげに細められる。


「……怖がらせるつもりはなかった。もう大丈夫だ、リリアナ。お前を傷つけようとした者は、ここにはいない」


 彼はそう言って椅子から立ち上がり、ベッドの端へと腰かける。同時に、彼の頭の上の大きなお耳が、しゅんと力なく伏せられた。


(近い……!)


 心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。どうしてこのお方は、初対面のはずの私に対してこんなにも距離が近いのだろう。普通、高貴な騎士様が、辺境のとりとめのない薬師に対してここまで親密に接するものなのだろうか。


「あ、の……。あな、た……は……」


 彼がどうして私を助けてくれたのか、それを知りたくて必死に唇を動かした。しかし喉が酷く痛んで、まともな声にならない。かすれた吐息が空気にとけるだけで、言葉としての形を成さなかった。まだ薬の影響が抜けきっていないのだ。声が出ないことに焦り、私は自分の喉を片手で押さえる。


「無理に話そうとするな。喉が傷んでいる。軍医が調合した薬がそこにある、後で飲んでくれ」


 彼は私の焦りを宥めるように、驚くほど優しく、私を包み込むような声で言った。すると、彼のお耳は再びピコッと立ち上がる。その一喜一憂しているようは動きが愛らしくて、私の動揺はさらに深まっていく。

 さらに信じられないことに、彼はその手をゆっくりと伸ばし、私の頬へと触れてきたのだ。


「ひゃっ……、……っ」


 声にならない悲鳴が出て、身を硬くする。しかし彼の手のひらから伝わってくるのは、私を襲おうとした男の、嫌悪感を催すような劣情では決してなかった。壊れやすい硝子細工を撫でるような、大切な宝物を愛でるような、そんな感覚を抱くような深い愛おしさに満ちた手つきだった。

 そっと親指で頬を撫で、彼はそのまま、私の髪に優しく指を滑らせる。


「……すまない。本当に、恐ろしい目に遭わせた。俺がもっと早くお前を助けることができたら……」


 彼の赤い瞳には、溢れんばかりの後悔と、見ているだけで胸が苦しくなるほどの情愛が宿っていた。至近距離にある美貌と、時折ぴくぴくと動く愛らしい銀色のお耳の落差に、私はただただ混乱して頭が真っ白になっていく。


(ど、どうして……? どうしてこの騎士様は、私の名前を知っているのあ? どうしてこんな風に私を見て、こんなに愛おしそうに触れてくるの……?)


 私と関わるはずのない、雲の上のような存在。それなのに、頬に触れるその手の温かさや私の髪を梳く丁寧な動き、そのすべてに、私はどうしようもない「なつかしさ」を覚えていた。まるでずっと前から、この温もりに守られていたと思ってしまうような、奇妙な錯覚。


 ……いや、あり得ない。私にはこんなに綺麗で、お耳の生えた人の知り合いなんていない。私がルミナの街でずっと一緒にいたのは、優しくてお節介なテオ君と、マリンザさんと、そして——。


(……あ。コロ……? コロはどこ……!?)


 はっと我に返り、私は周囲を見回した。あの路地裏で、私を助けようと必死に男たちに噛みついて、蹴り飛ばされてしまった私の可愛い仔犬。同じ銀色を持っていても、目の前の人間の青年ではなく、私が求めているのは、腕にすっぽりと収まる愛らしいコロの姿だ。


「あ……、……っ、ろ……」


 コロの名前を呼びたくて、必死に喉を鳴らす。けれど、やはり声は出ない。

 私は青年の袖を掴み、「犬はいませんか」と必死に目と口パクで訴えかけた。必死な私を見て彼は、頬に触れていた手をゆっくりと離す。彼の頭の上の耳が、今度は完全にペタンと倒れ込み、何とも言えない苦渋に満ちた表情を浮かべた。

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