第23話 銀狼騎士、覚醒する
『急げ! 匂いが濃くなっている。リリアナはこの先だ!』
『きゃんきゃん吠えるな、耳に響く!』
俺を乗せて走るグレーの脚力は凄まじく、少しでも気を抜けば吹き飛ばされそうだ。俺達の後ろからは、馬を操るテオとマロンが着いてきている。
リリアナが連れ去れらた場所は、方角からして、街を出た南方の森にあるドロベルク伯爵の別邸だろう。忌々しい。俺のリリアナを連れ去って、許されるとでも思っているのか。
しかし、別邸まであと少しという場所で、事件が起きた。
「ひ、ひええええっ!? 狼だぁぁぁ!」
前方を歩いていた、大きな荷物を背負った怪しい行商人のような男が血相を変えて叫んだ。怪しげなローブを纏った男だ。男は、突進してくる巨大な狼の姿を見て完全にパニックに陥り、自分の足に躓いて派手に転倒する。
「あわわわわっ!」
男が抱えていた荷物が宙を舞い、その中から怪しく黄金色に輝く硝子瓶が飛び出した。そしてその瓶が地面に衝突し、派手に割れたのだ。
「アァ————ッ!!! 私の貴重な、貴重な聖なる液(高純度・高価格)がァァァー———ッ!!!」
男の絶叫が響く。運の悪いことに、そのぶちまけられた黄金の液体は綺麗な軌道を描き、丁度その横を通っていたグレーの身体に……そしてその上にいた俺の頭上に、見事なまでに降りかかってきた。
『な、なんだこれは……』
頭から液体を浴びた瞬間、俺の全身を、経験したことのないような熱が駆け巡った。心臓が爆発しそうなほどの勢いで跳ね上がり、視界が白く染まる。
(身体が、熱い……っ、まさか、これは——)
俺は慌ててグレーの背から飛び降りる。俺の身体からは白い煙が噴き出し始めた。その煙の中で、俺の視線が急速に高くなっていく。短い四肢が伸び、筋肉が引き締まり、視点がいつもよりも遥かに高い位置へと上昇した。
やがて、煙が薄れた時。
「何が起きたんだ……?」
俺の口から出たのは、仔犬の鳴き声ではなかった。低く、威厳のある人間の男の声。
俺は自分の手を見た。それは鋭い爪の生えた肉球ではなく、逞しい人間の五指がある。
戻った。人間の姿に、戻ることができたのだ!
「い、犬が人間になったぁ——!?」
行商人の男が腰を抜かして俺を見ている。そいつに意識を向けるより先に、自分自身の異変に気が付いた。
寒い。風が身体を直接撫でている。
それも当然だ。衣服を着ていないのだから。俺は今、生まれたままの姿(全裸)だった。さらに違和感を覚えて頭頂部に手をやると、ふわふわとした獣の耳がぴくぴくと動いているのが分かった。完全に、呪いが解呪されたというわけではないのだろう。
「おい、お前。衣服をよこせ」
「ひ、ひいいっ! これで勘弁してくださいぃぃ!」
行商人が慌てて荷物を漁り、外套とズボンを差し出してきた。俺はそれを受け取り、素早く身に纏う。長い尾がかなり邪魔であったが、気にする余裕はなかった。
俺が急いで身を整えている時、背後から声が聞こえた。
「……帝国騎士団長、アルフレート・シュンベル……!?」
振り向くと、テオが目を見開き、驚愕の表情を浮かべている。いつも余裕に満ちていたあの腹立たしい笑みを崩せたことに喜びがないわけではないが、奴の驚きも当然だろう。行方不明となっていた帝国騎士団長が、まさか仔犬の姿になっていたなどと誰が想像できるだろうか。
しかし今の俺には、奴の驚きなどどうでもいい。彼の言葉を無視し、ドロベルク伯爵の別邸がある方向を見据えた。
『おい、ちび。人間の姿になったからと言って、呆けている暇はないぞ』
——!? 俺の頭の中に、明確な言葉が響いた。
隣を見る。そこには、鋭い瞳で俺を見つめる巨大な……今となっては俺が見下ろす側に回っている……狼がいた。人間の姿に戻ったのだが、奴の声を理解することができる。やはり、完全に呪いが解けたわけではないのだろう。
「……分かっている。急ぐぞ」
『ふん。足が伸びたのだ、俺の速さについてこられるのだろうな?』
「俺を誰だと思っている。行くぞ!」
驚愕の表情で固まっているテオと行商人を置き去りにし、地面を強く蹴り走り出した。二つの足で走る感覚に多少の違和感があるが、それ以上に解放感の方が大きい。
「待っていろ、リリアナ……!」
不完全な姿だろうが、衣服が粗末だろうが関係ない。人間の姿に戻った俺は、彼女を救い出すことができる。
「——そこを退け。死にたくなければな」
ドロベルク伯爵別邸の正門。それを一撃で蹴破った俺の姿に、数十人の兵が色めきだった。身なりや武装から判断するに、雇い兵だろう。
「な、なんだ貴様は! ここをどなたの屋敷と……」
「知るか」
言葉を交わす時間など必要ない。俺は腰に下げた剣——先ほど行商人から受け取ったなまくらの剣を抜き放った。たとえ得物がなまくらであろうと、俺が振れば十分な凶器となる。
「邪魔だッ!」
地を蹴り、敵陣へと突っ込む。襲い掛かってくる刃をかわしながら、奴らの喉元、手首、膝へと最小限の動きで打撃を叩きこんだ。
「ぎゃああああっ!?」
「腕が、俺の腕がぁっ!」
聞きがたい悲鳴が響く。背後では、グレーが兵たちの喉元を狙い、テオが呼び出した黒衣の部下達が音もなく敵を仕留めていた。俺はこの場を彼らに任せることにし、別邸の内部へと突き進む。
廊下を駆け抜け、リリアナの匂いが漂う最奥の部屋の前に立つ。俺の聴覚と嗅覚は未だに研ぎ澄まされており、部屋の中から下卑た男の笑い声と、リリアナの苦しげな吐息が聞こえてきた。
俺の理性が、音を立ててはじけ飛ぶ。
「この、害虫がぁっ!!」
扉を物理的に粉砕し、部屋の中に入った。真っ先に視界に入ったのは、床に倒れ伏すリリアナと、彼女の髪を掴んでその白い肌に手を伸ばそうとしている男の姿。
「……あ?」
男が間抜けな声を上げて振り返る。しかしその瞬間には、俺は奴の懐へと踏み込んでいた。
怒りで視界が赤く染まる。剣を使うほどでもない。俺は奴の顔面を、全筋力を込めて殴りつけた。メキッ、という鈍い音が響き、男の身体は独楽のように回転しながら壁へと激突した。壁には深いヒビが入り、男は叫ぶ間もなく意識を失い、そのままピクリとも動かなくなる。一応は手加減したため、死んではいないはずだ。恐らく。
「……っ、ハァ、……ハァ……」
肩で息をしながら、俺はゆっくりと視線を落とした。そこには、身体を震わせながらうつろな瞳でこちらを見上げるリリアナがいる。
「すまない、リリアナ。遅くなった」
俺は慌てて彼女の元へ膝を付き、その震える小さな肩を抱き寄せる。彼女は俺の顔をじっと見つめているが、その瞳に宿っているのは安堵ではない。困惑と、他人に対する怯えだ。
(……そうか。今の俺は、彼女の知る『コロ』ではない)
俺は口を開こうとして、言葉を飲み込んだ。今、ここで俺がコロだと名乗れば、彼女はより深い混乱に陥ってしまうだろう。
「もう大丈夫だ。誰にもお前を傷つけさせない」
意識を失ってしまった彼女の耳元で安心させるように囁き、彼女を横抱きにして抱え上げる。驚くほど軽い。こんなに細い身体で、彼女はどれほどの恐怖と戦ってきたのか。
部屋を出ると、そこには血の海の中で、返り血を浴びたテオが立っていた。彼は俺とリリアナの姿を見て、目を細める。
「そのお姿で、彼女を連れて行くおつもりですか。団長閣下」
「黙っていろ。彼女には適切な治療が必要だ。この別邸は貴様の好きにしろ。責任は俺が持つ」
俺はテオの制止を振り切り、屋敷を飛び出した。




