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第22話 蘇る過去


 どれくらい、こうしていたのだろう。


 冷たい空気。指一つ動かすことさえ躊躇うほどの全身の倦怠感。そして、後頭部を何かで殴られた後のような鈍い痛み。

 私は薄く目を開けて、声を出そうとした。


「……あ、……」


 しかし、喉が焼けるように熱いことに気づく。かすれた息がこぼれるだけで、意味のある言葉にはならない。あの時に嗅がされた甘い薬品……あれが、今も私の神経を麻痺させているのだ。


 視界が霞み、焦点が合わない。この感覚には覚えがあった。

 四方を壁に囲まれた、窓のない閉ざされた空間。自由を奪われ、ただ呼吸をすることだけを許された檻の中。


 ——ああ、また。私は、あの場所に戻ってしまったの?


 意識が混濁する中、記憶の底に沈めていた過去が、泡となって浮上してくる。





 ◇ ◇





 私の生まれ育った場所は、到底家とは呼べない場所だった。

 私の家族——父も母も、私を「娘」と呼んだことはなかった。彼らにとって、私は代々伝わる特異な血を維持し、磨き上げるための検体に過ぎない。


『リリアナ、動くんじゃない。これは神聖な儀式なのだ』


 父の冷たい声が響く。真っ白な部屋に置かれた、小さなベッド。この部屋には、私の「飼育員」たちがいた。白い服を纏った彼らは、私を愛おしそうに見つめている。それでもその視線は私自身に向けられることはなく、常に私の腕を走る青い血管に注がれていた。


 ちくり、と針が刺される。私の身体からは、命そのものであるはずの「血」が吸い上げられていく。


 私の血には、異常なまでの治癒能力が宿っていた。傷を塞ぎ、病を消し去る奇跡の液体。それは帝国にとって、どんな宝石よりも価値のある軍事物資だったらしい。


『素晴らしい。今回の血液は、以前よりも活性しているようだ。これなら、前線の将軍の死を免れさせることができるやもしれぬ』


 彼らは歓喜に沸く。血を抜かれた私の身体は冷たくなり、世界は白く染まっていく。

 食事は、血液の生成のためにも十分に与えられた。頭が良いと摂れる血も良質になると言われ、薬の知識を叩きこまれた。外の世界を見ることは許されず、閉じられた部屋で、私はただ血を作る道具として生かされていた。


 私は、空っぽだった。悲しいという感情さえ、麻薬のような鎮静剤で塗りつぶされていた。


 ——私は、人間ではない。

 ——私は、誰かにとって特別な道具でしかない。


 そんな絶望さえ当たり前になっていたある日、一人の若い研究員が私の前に現れた。彼は他の者たちとは違い、血を抜く際に震える私の手を、ぎゅっと握ってくれた。


『……逃げなさい、リリアナ。君は、こんなところで終わっていい存在ではない』


 嵐の夜のことだった。その研究員——名前も教えてもらえなかった彼は、大規模な爆発を引き起こした。轟音と共に、私の世界を隔てていた壁が崩れた。


 赤々と燃え上がる炎。逃げまどっている人々の姿。彼は炎の中で笑いながら、私を炎の外に付き飛ばした。


『走り続けろ! 誰にも見つからない場所へ! 君は、人間として生きるんだ!』


 背後で建物が壊れていく音を聞きながら、私は裸足で、とにかく必死に走り続けた。





 ◇ ◇





「……ぅ、……っ……」


 過去の記憶が、今の苦痛と混ざり合う。頬に伝っているのは、冷たい汗か、それとも涙か。


 閉じ込められていた建物から逃げ出して、帝都から離れて、ルミスの街でようやく手に入れた「リリアナ」としての平穏。道具と呼ばれることのない日々。薬を渡して「ありがとう」と言ってもらえる喜び。そして——。


(コロ……)


 私の顔を舐めてくれた、小さな温もり。不器用で、誰よりも真っ直ぐに私を守ろうとしてくれた、赤い瞳を持つ可愛い仔犬。

 私は、もうあの空っぽな人形には戻りたくない。たとえこの身体が動かなくても、心だけはまだ「リリアナ」のままでいたい。


 その時、床を叩く粗野な靴音が、私の微睡みを乱暴に引き裂いた。


「——おい、まだ眠っていやがんのか。薬が多すぎたんじゃないか?」


 重い頭を支えながら、私はかろうじて瞼を開ける。視界に入ってきたのは、私の家にやってきたドロベルク伯爵の使いの者の一人だった男だ。男は腰に手を当てて、床に転がる私を品定めするような目で見下ろしている。


「……あ、……」


 やはり、声が出ない。指を動かそうとしても、身体が動くことを拒絶する。男はそんな私の無力な抵抗をあざ笑うように、ふんと鼻を鳴らした。


「伯爵閣下からは手を出すなと言われているが……おいおい、近くで見ると、こいつは想像以上の上玉じゃねえか」


 男はゆっくりと腰を落とし、私に近づいてきた。その瞳に宿る剥き出しの劣情に、全身にぞわりと悪寒が走った。逃げなければならないのに、身体は床に張り付いたように動かない。


「薬さえ作れることができるなら、お前の身体がどうなっていようが閣下は気にやしねえよ。手足がついてりゃ、調合はできるんだからな。……なあ、少しぐらい、役得ってもんがあっても罰は当たらねえだろ?」


 男の手が私の頬へと伸びてくる。テオ君の温かくて優しい手つきとはまるで違う、悪意に満ちた手。


「や、……め……」


 喉の奥で必死に叫ぶが、男の手は容赦なく私の髪を掴み、無理やり顔を上向かせた。


 過去のあの監獄で、研究員たちに淡々と服を剝ぎ取られ、針を刺されていた時の記憶が瞼の裏に蘇る。あの時と同じだ。誰に助けを求めることもできない。私はただの道具として、尊厳ごと踏みにじられるのだ。


 男の顔が、吐き気がしてくるほどの近さに迫る。恐怖のあまり目を閉じようとした、その時だった。


 ——ズドォォォォォン!!!


 鼓膜を震わせる凄まじい爆発音が響いた。そして部屋を隔てていたはずの頑強に見えた扉が、凄まじい風圧と共に吹き飛んだのだ。


「ぶふぁ!? な、なんだぁっ!?」


 私を組み伏せようとしていた男が、衝撃によって床を転がり壁へと衝突する。もうもうと立ち昇る煙と砕けた壁の破片。何が起きたのか分からず、私は霞む視界で扉の方を見つめた。


 煙の向こうから、一人の男が歩み出てくる。


 吸い込まれそうなほどに美しい、月の光をそのまま溶かしたような輝く銀の髪。そして爛々と不気味なほどの光を放つ、燃え盛る炎のようなルビーの瞳。

 吹き飛んだ男よりも、さらに長身で、引き締まった体躯をした青年だった。


(……きれいな人……)


 私は彼の美しさに、恐怖さえ忘れて見惚れていた。彼は私が今までに見てきたどんな高貴な人間よりも気高く見え、そして——とても怒っているようだ。


「貴様、今、その汚い手で何をしようとした」


 青年の口から漏れ出た声は低く、怒りで満ちているということが伝わってくる。背に背中を打ち付けた男が、腰の剣を引き抜きながら、声を震わせて叫んだ。


「だ、誰だお前はっ! ここはドロベルク伯爵閣下の——」


 男の言葉は、最後まで続かなった。銀髪の青年が、目にも留まらぬ速さで地を蹴ったのだ。気づいた時には青年は男の目の前に立ち、男の首を片手で掴み上げていた。


「がはっ、……あ、が……っ!」

「伯爵だと? その辺りに転がる石ころの方がましなほどの名で、俺が怯むとでも思ったか。俺の大切なものに傷をつけようとする羽虫は、一匹残らず塵に帰す」


 彼は片手で男の首を掴んだまま、もう片方の手を引く。そして勢いよく、男の顔を殴りつけた。その衝撃で、男の身体は部屋の反対側の壁へと叩きつけられる。ドゴォ、と鈍い音がして、男は一言も発せぬままに意識を失ったのか、床へと崩れ落ちた。


 静寂が、部屋を満たす。残ったのは、私と、恐ろしいほどに美しい青年だけ。


 青年はゆっくりと振り返り、床に倒れたままの私へと視線を向けた。その時、彼の獰猛だった紅い瞳が揺れ動いたように見えた。それがどんな感情なのか、私にはわからなかった。

 彼は長い脚を動かして、私の下へと近づいてくる。私は身を引こうとしたけれど、身体は言うことを聞かない。彼は私の前に膝を付くと、私の頬にそっと手を伸ばした。


 その手のひらは、驚くほどに温かくて。先ほど男を投げ飛ばしたとは思えないほどに、この上ない優しさで満ちていた。


「……すまない、リリアナ。遅くなった」


 そして彼は、私の名を呼んだ。なぜ、私の名前を知っているのだろう。出会ったばかりの、こんなに美しい人が。


 しかし、彼の手つきやその声の響き、そして私を見つめる真っ直ぐな紅い瞳に、私はどうしようもない既視感を覚えていた。


 頭が痛くて、意識はもう限界を迎えている。彼が私の身体を抱き上げた感覚を最後に、私の意識は暗い闇に沈んでいった。

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