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第21話 銀狼騎士、吠える


(……くそっ! 動け、動け、動け、俺の体ッ!!)


 地面を蹴る四本の足が、もどかしくて仕方がなかった。道に叩きつけられた衝撃で、全身の骨がきしむような激痛が走る。だがそんな痛みなど、今の俺には一片の欠片すら感じる余裕がなかった。


 リリアナが攫われた。俺の目の前で、あの薄汚い男どもの手によって、連れ去られてしまった。最後に見た彼女の、恐怖に染まった瞳。悲鳴にならない息。胸の奥が炎で焼かれているかのように熱く、そして焦燥感で狂いそうだった。


(リリアナ、リリアナ——ッ!!)


 どれほど叫んでも、喉から漏れるのは哀れな仔犬の吠え声だけ。夕闇が街を支配し、冷たい風が吹き始める。リリアナが落とした薬草は、馬車による煙や行き交う人々の足跡によって踏みつぶされていく。


 必死に鼻を地面に擦り付け、残されたわずかな彼女の残り香を追って大通りへと飛び出す。そこでは、何やら騒ぎが起きているようだった。


「おい、見ろ! 狼だ! 野生の狼が街に下りてきたぞ!」

「衛兵か猟師を呼べ! 子供たちを安全な場所へ移動させるんだ!」


 中央広場へと続く大通りで、人間達が悲鳴を上げて逃げまどっている。人混みをかき分けて、時には踏まれそうになりながらも前へと進むと、広場の中心には騒動の元凶が悠然と佇んでいた。


 街灯の光を浴びて鈍く輝く灰色の毛並み。圧倒的な巨躯と、周囲の人間を塵のように見下している瞳。あの腹立たしい狼だ。


『おいおい、人間ども。ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃない。俺はただ、少しばかり探し物をしに来ただけだ』


 グレーは喉を鳴らして、近づこうとする衛兵達を鋭い眼光で退けさせている。流石は森を統べる王であると言わざるを得ない。人間の武器など、脅威にすら感じていないらしい。


『お前、どうしてこんなところにいる!』


 俺は広場に躍り出ると、グレーの前足に向かって一直線に駆け込んだ。奴が視線を落とし、俺の姿を認識すると、その瞳が驚きによって微かに揺れた。


『おう、お前かちび。ずいぶんと無様な恰好だな。血の臭いがするぞ』

『そんなことはどうでもいい! リリアナが、リリアナが攫われた!!』


 俺は奴の足に鼻先を押し付け、必死に言葉を重ねた。その瞬間、奴の全身の毛が逆立つ。のんびりとした空気は霧散し、周囲の温度が下がったように錯覚するほどの殺気が解き放たれた。


『……何だと? リリアナが?』

『恐らく、貴族の手の者だ。俺の力では、奴らを止められなかった……!』


 悔しさと怒りで、声が震える。グレーは低い唸り声を上げた。その咆哮の凄まじさに、周囲を取り囲んでいた衛兵達が数歩後ずさる。


『愚かな人間どもめ。あの娘の平穏を荒らすなど、到底許せる所業ではない……!』


 グレーは頭を下げ、俺の頭にその巨大な鼻先を近づけた。


『おい、ちび。お前はリリアナとその人間の匂いを覚えているな? 奴らがどちらへ向かったか、まだ追えるか』

『当然だ。あの男の腐った臭いとリリアナの甘美な香りを忘れるはずがない!』

『よし。ならば俺の背に乗れ。ここからは速さが勝負になるだろう。足並みの揃わぬちびの足では、夜が明けてしまうぞ』


 グレーがその巨体を低く沈め、俺は一瞬の躊躇もなくその背中へと飛び乗った。灰色の厚い毛並みを、小さな足で必死に掴む。


『落ちるなよ、ちび。——行くぞ!』

「ガルゥゥゥゥォォォンッ!!」


 空を引き裂くような雄叫びが街中に響き渡った。次の瞬間には、視界が爆速的な勢いで後ろへと流れていく。


『あっちだ! 南の街道、森へ続く方から匂いがする!』


 背の上から俺は必死に風の匂いを嗅ぎ分け、方向を指示した。夜風が俺の毛を激しく叩いており気を抜けば吹き飛ばされそうだが、こんなところで気を抜く馬鹿がどこにいるのか。


 南へと続く寂れた裏通りを通っている時だった。その道の角から、別の犬の匂いが近づいていることに気が付いた。


『あれぇ、君は?』


 現れたのは、茶色い垂れ耳の犬——マロンだ。そして、マロンの隣を歩くのは、あの不愉快極まりない爽やか面をしているヤンデレことテオだ。

 彼は夜の散歩の途中だったのだろう。だが、駆け込んできた巨大な狼とその背中に乗る俺を見て、テオは足を止めて驚いた表情を浮かべた。


「街中に狼が出るなんて……。それに君は、コロじゃないか。何かあったのかい?」

「バババフッ! バフ、ワフウゥゥ!!」

(おい、裏社会の頭! 呑気に散歩をしている場合か! リリアナがドロベルクの奴らに連れ去られたんだ!)


 俺はグレーの背から降りてテオの足元へ駆け寄り、そのズボンの裾を強く引っ張った。当然、俺の言葉は彼に伝わらない。人間の耳には、ただの仔犬が必死に狂ったように吠えたてているようにしか聞こえないはずだ。


 だが、奴は普通の人間ではなかったようだ。俺の必死過ぎる様子と、そしていつも俺を片時も離さないはずのリリアナがここにいないという状況、さらには俺の身体についた泥や血を見て、すべてを悟ったようだった。


「……リリアナはどうした?」


 奴の声から、温度が消えた。あの甘い青年の姿はなくなり、その視線が鋭くなる。


「君がこんなに急いでいるということは、リリアナに何かがあったのだね?」

「ワフゥ!」

「そうか。どうやら君達は、リリアナの行き先に宛てがあるようだ。そこの大きな狼君も、リリアナを助けたい仲間ということでいいのかな?」


 テオは微笑みを浮かべた。だがその瞳には燃え盛るような狂気を宿している。


「リリアナを傷つけようとする虫けらどもがどこにいるのか、僕にも案内してよ」


 鳥肌が立つほどの殺気だ。普段ならば、こんな危険人物は即座に排除対象としている。しかし今は手段を選んでいる場合ではない。リリアナを救うためならば、俺は狼とも、裏社会の魔物とも手を組む。


(待っていろ、リリアナ。俺が必ず、お前を取り戻してやる!)

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