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第20話 壊れる平和


 庭の薬草の手入れをしていた私の耳に、場違いな馬の嘶きと車輪の音が届いた。


「平民の薬師よ。ここにいることは分かっているぞ」


 姿を現したのは、磨き上げられた革靴を履いた二人の男達だった。彼らが身に纏う上質な外套とその胸元に刻まれた紋章を見るだけで、心臓が嫌な跳ね方をする。あれは、帝国の貴族の紋章だ。つまり彼らは、貴族に仕える使いの者。


「……何か、御用でしょうか」


 私は庭で遊んでいたコロを背後に隠して、精一杯声を張る。男達は私の家を値踏みするように眺め、鼻で笑った。


「貴殿の作る万能薬が、我が主、ドロベルク伯爵の御耳に止まったのだ。光栄に思え。今すぐ荷物を集め、伯爵閣下の下へ参上せよとの仰せだ」

「……お断りします。私はここで、私の薬を本当に必要としてくれる方々のために薬を作っています。どこかの貴族のお抱え薬師になるつもりはありません」

「ほう。田舎娘の分際で、閣下の命を断るというのか?」


 男の一人が、一歩私との距離を詰めた。その瞬間、私の足元にいた頃が「ガルルル……ッ!」と地を這うような低い唸り声を上げる。その殺気は仔犬のものとは思えないほどに鋭く、男は足を止めた。


「な、なんだこの不気味な犬は……。いいだろう、今日は許してやる。だが、閣下は欲しいものを必ず手に入れるお方だ。次は、これほど穏やかな話にはならんぞ」


 男達は吐き捨てるように言い残すと、慌てた様子で去っていった。私は力が抜けてしまいその場にへたり込み、震える手でコロを抱き寄せる。


「……ありがとう、コロ。あなたのおかげで助かったわ。怖い人達だったわね」


 コロは、去っていった馬車に後ろ姿を、獲物を狙う獣のような鋭い目で見つめていた。







 ——その日を境に、私の日常は一変してしまった。

 街へ薬草の買い出しに出かける時や、患者の家に往診に向かう時。ふと、背後から「視線」を感じるようになったのだ。


 振り返っても、そこには見慣れたルミスの街並みが広がっているだけ。だが、確かに誰かが私を見ている。それも、好意的なものではない。ねっとりとした、品定めをするような気味の悪い視線。以前にコロが攫われた時とは異なって、その視線は私だけを見ている。


(誰かに、狙われている……?)


 気のせいだろうと思いたかった。けれど、その気配は日を追うごとに濃厚になり、距離も近づいてきていることが分かった。あの、ドロベルク伯爵の手下の者だろうか。それとも、私の過去を知る人物による刺客……?

 恐怖で夜も満足に眠れなくなり、私の心は次第に削り取られていった。






 そして、あの男達が家を訪ねてから二週間が経った日の夕暮れ。

 私は買い出しの帰路、いつもよりも速い足取りで家へと急いでいた。夕闇が街を包み込み始め、街灯がぽつぽつと灯り始める時間帯。


 背後から、明確な足音が近づいてくるのが分かった。それも、一人や二人のものではない。複数人いる。


「……っ!」


 恐怖に突き動かされ、私は走り出した。隣には、いつも通り私を護るように並走してくれているコロがいる。


「はぁ、はぁ……!」


 心臓が破裂しそうだった。背後の足音も、容赦なく速度を上げて追ってくる。角を曲がり、人の多い大通りに出ようとしたその時——。


「あっ……!」


 暗くなりかけた影響で視界が悪くなっていたからか、私は道に突き出た荷車の車輪に足を引っかけて、大きく転んでしまった。買い求めた薬草が地面に散らばる。


「痛っ……」

「バフッ!」


 コロが慌てた様子で私に駆け寄ってきてくれた、その時。背後の闇から、突如として放たれた「何か」が、コロのすぐ近くの地面に突き刺さった。それは、捕獲用の網か、あるいは特殊な投擲武器だったのかもしれない。


「コロ……っ!?」

「ガルァァァッ!!!」


 コロは私を庇うように、迫りくる影へと飛びかかっていった。小さな身体からは想像もつかない俊敏さで、追手の男の足に嚙みついたのだろう。男の悲鳴が、路地裏に響いた。


「ぐあああっ! なんだこの犬は! 離せ!」

「おい、そっちの女を捕まえろ! 早くしろ!」


 闇の中からさらに三人の屈強な男達が現れ、私を囲い込もうとする。私は必死に立ち上がろうとしたが、足首をひどく捻ってしまったようで、激痛で力が入らない。


「コロ、逃げて! このままじゃ、危ない——」

「ガウッ、ガルルル……」


 コロは私を助けようとしてくれているのか、男達の足を止めようと奮闘している。けれど、相手の人数が多い。一人の男がコロを力任せに蹴り飛ばし、コロの小さな身体は路地の奥へと転がっていく。


「コロ——!!」


 叫ぼうとした私の口は、背後から伸びてきた粗野な手によって塞がれた。ツン、と鼻を突くのは、妙に甘ったるい薬品の臭い。


(あ……これ、は……麻痺、薬……?)


 嗅がされたものが何なのかをすぐに理解してしまう。しかし理解したとしても、身体はもう言うことを聞かない。視界が、ぐにゃりと歪んでいく。


「——っ、……っ!」


 声にならない悲鳴が、男の手のひらに吸い込まれて消える。遠ざかっていく意識の向こうで、コロの鳴き声が聞こえた気がした。

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