第15話 銀狼騎士、噛みつく
そこは、反吐が出る程に最悪な場所だった。
袋から放り出された俺を待っていたのは、吐き気を催すような悪臭。地下室だろうか、空気が冷えている。汚物と血で汚れた小さな檻が積み上げられ、そこから獣達の姿が見える。
極彩色の鳥、珍獣とされる山猫、そして純白や漆黒といった美しい毛を持つ犬。
(……地獄か、ここは)
数多の凄惨な戦場を渡り歩いてきた俺でさえ、ただ欲望のために命を弄んでいるこの光景には、臓腑を焼かれるような嫌悪を覚える。
糞みたいな笑みを浮かべた男が、品定めをするかのように俺の顎を掴み上げた。
「さあ、お宝様。少しは大人しくなったようだな。吠えないように躾けてやらねぇと。この毛皮を剥いで売ってもいい値がつきそうだが、生きていた方が金になるからな」
男が何やら抜かしながら轡の紐を緩めた、その瞬間を狙う。俺は全神経を集中させ、すべての力を顎に注ぎ込んだ。
「ガァゥ!!」
解放された牙が、男の親指の付け根に深く食い込む。肉を裂き、骨を砕いた感触が口内に広がった。とてつもなく不快ではあるが、男の指を嚙みちぎる勢いで力を込める。
「ギャァァァッ!! このクソ犬がぁっ!!」
男は悲鳴を上げ、反射的に俺を放り出した。着地と同時に、俺は全速力で出口の扉へと走る。このまま外へ出れば、たとえこの貧弱な犬の姿であってもリリアナの元へ帰る道を見つけ出してみせる——。
だが、現実は過酷だ。
「このやろうが!」
指を抑えた男は、容赦なくその足を振り抜く。ドゴォっ、と嫌な衝撃音が響き、俺の小さな身体は簡単に宙を舞って石壁に衝突した。
「——ガッ、クゥ……っ」
肺から空気が押し出され、視界が赤く染まる。全身の骨が軋んだ感触がして、感覚が熱に溶けていくように思えた。
男はそれで飽き足らず、倒れた俺の腹を憂さ晴らしのように蹴りつけてくる。
「おい、馬鹿野郎! 商品を傷つけるな!」
「知るか! 俺の指が千切られそうになったんだぞ! 息の根を止めて、毛皮を剥ぎ取ってやる!」
死の予感。
俺は必死に足を動かそうとした。しかし、身体が動かない。
……情けない。
俺は、リリアナを護ると誓ったはずなのに。護るどころか、こうして無様に殺されるのか。
(……リリアナ。すまない……リリアナ……)
意識が混濁し、暗闇が俺を飲み込もうとした、その時だ。
——ドォォン!
地響きと共に、扉が凄まじい衝撃によって粉砕された。
「帝国騎士団だ! 両手を上げて、膝をつけ!」
眩い光と共に、純白の制服を纏った騎士達が怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。驚愕し、武器を手の取ろうとする男らに対し、彼らの制裁は迅速かつ冷酷である。
「貴様ら……このような外道を……ッ!」
先頭の騎士は、俺を蹴り殺そうとしていた男の腕を捻り上げ、問答無用で床に叩きつけた。男の腕は不自然な方向に曲がり、鈍い破壊音が響く。男の悲鳴が耳障りだ。
逃げようとした別の男も、顔面を強打されて歯を巻き散らしながら昏倒する。
騎士達は、檻に閉じ込められた獣達の惨状を見て激しい怒りを燃やしているのだろう。男共が命乞いをする暇さえ与えず、彼らは獣達が加えられたであろう以上の痛みを男共の肉体に刻み込んでいく。
制圧には、数十秒もかかってはいない。
俺は朦朧とする意識を気合で現実へと引き戻し、顔を上げた。
埃が舞う扉の向こう側。騎士達の間を割って、一人の女が駆け込んでくるのが見えた。
「……コロっ!!」
その声は、俺の魂を直接震わせる。
蜂蜜色の髪は乱れ、その顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべている。彼女はなりふり構わぬ様子で、俺の元へ駆け寄ってきた。
「ああ、コロ……。ごめんなさい、ごめんなさい……! どこ、どこを怪我したの? ごめんなさい、私のせいで……!」
彼女の腕が、震えながら俺の身体を抱きしめた。
温かい。
汚らわしい臭いに支配されていた世界が、一瞬にして彼女が纏う甘やかな香りと春の陽だまりのような体温で塗り替えられていく。
「……クゥン……」
俺は精一杯の力を振り絞って声を出し、彼女の腕の中で顔を埋めた。
泣かないでくれ、リリアナ。俺は生きている。俺を求めて、こんな恐ろしい場所まで来てくれたのか。ありがとう。
「もう大丈夫よ。もう、離れないから。怖かったね、ごめんね」
リリアナの涙が、俺の毛を濡らしていく。彼女の身体は小刻みに震えているが、その抱擁は温かさで満ちていた。
(ああ……。俺も、お前から離れない)
だからもう泣かないでくれと彼女の目元を舐めたが、もっと涙が溢れ出してしまったようだ。
涙を我慢するのはやめてほしいと思ったが、こうして別の人間がいる場所で無防備に涙を流し続けるのも避けてほしいと思った。リリアナの泣き顔は愛らしいのだから。ここには正義感で満ちた男らがたくさんいる。守らねばと思う輩がいたらどうするのだ。
だが、まあ。生きていることを僥倖だと思おう。




