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18. 佳境を迎えた新作の執筆(Side要)

理性が焼き切れそうになる、という経験を初めてした。


よく小説上でも“理性が保てない”、“理性が吹き飛ぶ”といった表現は目にするが、そんなのは物語の中だけで起こりうることだと思っていた。


実際に俺自身が30年生きてきて全く身に覚えがなかったのだから。


 ……まさかあんなに強い衝動に突き動かされて我慢できなくなるとは。クリスマスの時の比じゃなかったな。


よく耐え切ったものだと自画自賛しながら、俺は先日の出来事を思い返す。



◇◇◇



亜湖ちゃんが俺の自宅兼仕事場に来たあの日は、本当に色々な意味でおかしくなりそうだった。


まず亜湖ちゃんが家に来て、リビングのソファーに座っている姿を目にした時からヤバかった。


ここには自分達以外の人間が誰もおらず、本当の意味で俺と亜湖ちゃんの2人きりなのだと急に実感したのだ。


今までは外でデートしていたので、周囲に誰かしら人がいたし、こんな完全なる密室は初めてのことだった。


好きな女性と2人きりというシチュエーションに、自然と俺の胸は弾んだ。


そこから2人で読書に没頭する穏やかな時間を過ごした。


女性と同じ空間に一緒にいるのに、無言で別々のことをするというのは初めての経験で非常に新鮮だった。


その居心地の良さは俺の心を満たし、亜湖ちゃんとずっとこうしていたいと思わずにはいられなかった。


途中で亜湖ちゃんが本を取りに書斎へ消えてしまった時の物寂しさといったらない。


しばらく経っても戻って来ない亜湖ちゃんを待ちきれず、痺れを切らして追いかけるように俺も書斎へ向かってしまったくらいだ。


そこで目に飛び込んできたのは、亜湖ちゃんが背伸びをして頭上の本を本棚から取ろうと奮闘している姿だった。


その一生懸命な姿が微笑ましくて相好を崩しつつ、俺は亜湖ちゃんの背後から本棚へ手を伸ばした。


だがその直後、失敗した、と心底思った。


亜湖ちゃんの髪からふわりと甘いシャンプーの香りが漂ってきて、俺は目を見張る。


さらに、思った以上に体の距離が近いことに気づきギクリとした。


必死で平常心を装いつつ亜湖ちゃんに本を手渡したが、そんな俺を彼女が見上げてくる。


身長差があるから無意識にそうなるのだろうが、この距離感での亜湖ちゃんからの上目遣いにドキッと心臓が跳ねた。


その澄んだ瞳は物凄い引力を持っており、吸い込まれるように目が離せない。


 ……このまま抱きしめて唇を奪ってしまいたい。


そんな湧き上がってくる衝動に呑み込まれそうだったが、なんとか耐えた。


その後、動揺を押し隠すように、俺はとにかく亜湖ちゃんにあれこれと色々話し掛けたと思う。


何を話したのか正直あまり覚えていない。


たぶんどうでもいい、他愛のないことを話しただけだろう。


それから再び読書タイムに突入したが、どうにも亜湖ちゃんを意識してしまって気がそぞろになり、今度は思うように読書は捗らなかった。


そうしているうちに時間は過ぎ、夕方となったところで俺は亜湖ちゃんを夕食に誘った。


正確にはもう少しここに居て欲しいと引き止めた。


その際には、親友夫婦からの助言を思い出して、「亜湖ちゃんともう少し一緒にいたい」と好意をそれとなく伝えたつもりだ。


反応はイマイチだったものの、亜湖ちゃんは俺からの誘いを受け入れてくれて、その後楽しい夕食の時間を過ごすことができた。


やはり亜湖ちゃんと過ごす時間は俺にとってかけがえのないものだ。


なんというか気負わずリラックスでき、ありのままの俺でいられる気がする。


食後にソファーでハーブティーを飲みながら、俺はすっかり気が緩んでしまっていた。


だからだろう。


眼鏡の話になった時、まったく深く考えずに、外した眼鏡を自らの手で亜湖ちゃんの顔に掛けていた。


そして掛けた瞬間におもむろに固まる。


 ……思った以上に距離が近い。亜湖ちゃんの顔がすぐそこだ。


2人ともソファーに座っているため、身長差が小さくなり、その分顔と顔が近いのだ。


それこそ少し顔を近づければ、このまま亜湖ちゃんの赤く色づく瑞々しい唇に触れてしまえそうである。


しかも視界に入る亜湖ちゃんの眼鏡姿も凶悪的に可愛い。


思わずゴクリと喉が鳴る。


たぶん理性をぐらぐら揺らしながら、無意識に熱く亜湖ちゃんを見つめてしまっていたのだろう。


ふいに耳に響いた俺の名を呼ぶ声にハッと意識を取り戻した。


 ……危なかった。



内心で冷や汗をかく。


しかしながら、いまだに亜湖ちゃんに触れたい衝動は燻っていた。


抱きしめたい、口づけしたいという情動をなんとか抑えてつけ、俺は苦し紛れに彼女の髪に触れ、その髪を耳にかけた。


一瞬だけ指が彼女の耳に触れる。


それにビクリと小さく身じろぎした亜湖ちゃんの様子が情事を思い起こさせ、反射的に下半身が熱くなる。


このままではキスどころか強引に押し倒してしまいそうだ。


正直なところ、俺は今までこんなに強い性衝動を感じたことがなかった。


交際していた女性達とそういった行為はしたが、なんとなく流れでというか、相手に求められてという感じだった。


相手を押し倒して無理矢理でも抱きたいと思ったことなどない。


 ……これが“タガが外れそうになる”という状態なんだろうな。


表現として知っていた言葉が今まさにぴたりと当て嵌まった。


そんな今にも理性が本能に負けてしまいそうになっている現状だったが、そんな俺を冷静にさせたのは他でもない亜湖ちゃん自身だった。


「すごいです、要さん。髪を耳にかけられたのはドキッとしました! 女性は不意打ちに弱いんです。今のは間違いなく女心をガッチリ掴めると思います!」


こんな明るい声が耳に飛び込んできた瞬間、煮え滾っていたものが即座にスッと鎮まった。


なぜなら亜湖ちゃんが今この時も恋愛コンサルモードでいることが分かったからだ。


今日も今日とて、出来の良い生徒を褒めるかの如く微笑んでいる。


「それにしてもここ最近の成長ぶりはすごいですね。確実に女心を理解してきていると思います。思ったのと違ったなんてもう二度と女性に言われないはずです!」


重ねて褒められても全然心に響かない。


今や一般的な女心なんてどうでもいい。


俺はただ、たった1人の心——亜湖ちゃんの心だけを掴みたいのだ。


だから本音を滲ませて答える。


「そうかな。……でも俺が想いを寄せる人には通じていなさそうなんだけど」


“想いを寄せる人”と言葉にしながら、それが目の前にいる君だと遠回しに訴えかけた。


果たしてそれが亜湖ちゃんに伝わったかどうかは不明だ。


だが、それとなく反応を窺う俺に対し、彼女は思わぬことを続いて口にした。


恋愛コンサルを引き受ける時に提示された条件についてだった。


そろそろ考えて実行して欲しいと言われてしまえば、俺に拒否権はない。


しかも俺が亜湖ちゃんの望みをじっくり検討できるよう、一旦恋愛コンサルはストップすると言う。


つまりしばらくは今までのように会えなくなるということだ。


 ……それは喜ばしくないな。はっきり言って嫌だ。


亜湖ちゃんへの想いを自覚してからというものの、ふとした時に彼女に会いたくてたまらなくなる。


顔が見たいし、声が聞きたいし、一緒に時間を過ごしたいと強く思うようになった。


年末年始でしばらく会えなかった時も、ずいぶんと次を待ち遠しく思ったのは記憶に新しい。


その一方で、俺はこうも思った。


 ……でもこの亜湖ちゃんの申し出はちょうどいい機会かもしれない。


今日の自分の行動を鑑みれば、理性が保てなくなるのは時間の問題である気がする。


亜湖ちゃんに不用意に手を出してしまい嫌われるくらいならば、少し距離を置いて冷静になった方がいいかもしれない。


恋愛コンサルを始める時に決めた、手繋ぎ以上のスキンシップNGというルールは絶対に破るわけにはいかない。


そんなことをすれば、この関係は簡単に終わりを迎えてしまうだろう。


亜湖ちゃんと会うことすら叶わなくなる。


それでは元も子もないのだ。


結果、俺は亜湖ちゃんから告げられた恋愛コンサルの一時中断の申し出を受け入れたのだった。



◇◇◇



 ……あの日からもうすぐ1ヶ月か。


ノートを拾った『珈琲ろまん』で最初に出会ってから約5ヶ月。


これほど長く顔を合わせなかったことはない。


自分でも納得して距離を置くことにしたのに、溢れ出すのはため息ばかりだ。


俺は椅子から立ち上がり、完璧に整えられた清潔感のあるベッドの上にドサリと体を横たえた。


ホテル特有のパリッとしたシーツに皺が入る。


この1ヶ月、俺は都内にあるホテルで長期ステイをしていた。


もちろんそれには理由がある。


新作の執筆に集中するためだ。


プロットも完成し、物語に必要な情報収集も終わっている今、あとは締切に間に合うようにひたすら書き上げるだけの状態だった。


書香出版との話し合いで、すでに新作の刊行日も決まっている。


それに合わせて出版社側も、装丁家との調整なり、プロモーションなり、諸々すでに動き始めていた。


ここで俺が締切を過ぎるわけにはいかない。


色んな人に迷惑をかけないようにするためにも、なんとしてでも締切までに書き上げなければならないのだ。


ということで、ホテルに缶詰になっている。


「別に自宅にある書斎でいいじゃないか」というツッコミが聞こえてきそうだが、それはまさにおっしゃる通り。


でも今はあそこではダメなのだ。


なぜなら、亜湖ちゃんの影がチラつくから。


書斎だけでなく、リビングでも、ダイニングでも、自宅の至る所であの日の彼女の姿が脳裏に蘇ってくる。


そのたびに落ち着かない気持ちになり、とてもじゃないが集中できない。


そこで思い切って自宅を離れてホテルに執筆場所を移したというわけだ。


 ……今頃、亜湖ちゃんは何してるんだろう。ここ最近は国際線の乗務が続いて忙しいって言ってたから、今も海外かな?


会ってはいないが、メッセージのやりとりだけは変わらずしていた。


俺から送ればちゃんと返信を返してくれる。


でもメッセージだけでは物足りないとつい感じてしまう。


俺はどうにも欲深くなってしまったようだ。



「それにしても、条件の件はどうしようかな……」


誰もいない静かな部屋に、ポツリと零した俺のつぶやきが辺りに響く。


見返りとして亜湖ちゃんの望みを一つ叶えること、それが今俺が向き合うべき課題だ。


新作の執筆が佳境を迎えているため、一旦後回しにしているが、もちろん忘れてはいない。


もう少しで新作は書き上がる見通しだし、その後は課題へ意識を全振りするつもりだ。


今だって多少は考えている。


だが、「望み、望み……」と反芻するように口にすると、残念なことに脳裏に浮かぶのは俺自身の望みばかりだった。


すなわち、亜湖ちゃんと恋人になりたい、独り占めしたい、触れたい、という実に煩悩塗れの欲望だ。


「はぁ、距離を置いても全然冷静になれないな……」


いい歳して自分が情けなくなる。


その時、トゥルルルル……とテーブルの上に置いていた仕事用のスマホの着信音が鳴り出した。


俺はベッドから体を起こし、スマホを手に取る。


「もしもし、花山です」


「お疲れ様です、書香出版の坂田です。花山先生、執筆のご状況はいかがですか?」


電話を掛けてきたのは担当編集者の坂田さんだった。


新作の進捗状況を確認する電話だ。


俺はベッドから立ち上がりテーブルへ向かうと、パソコンに目をやりながら口を開いた。


「今は最終章を書いてますよ。犯人が明かされ、その犯行方法や動機に迫るシーンです」


「終盤の重要な場面ですね。ぜひじっくり書き上げてください。ちなみにホテルでの生活は不自由ありませんか? 花山先生がホテルに籠もって執筆されるのなんて初めてですから最初聞いた時は驚きましたよ」


「今のところ問題ないです。快適ですよ」


「そうですか、それは良かったです。何かご入用のものがあれば持って行きますので、いつでも言ってくださいね」


細やかな気遣いをしてくれる坂田さんの申し出に俺は感謝しつつ頷く。


そんな執筆状況に関する話から、気分転換にちょっとした雑談も交わした。


坂田さんもこちらの心境を心得ており、忙しい中でも快く会話に付き合ってくれる。


その最中、坂田さんはふと何かを思い出したように軽やかな口調である話題を切り出した。


「そういえば———……」


それは何気なく坂田さんが口にした雑談の一つだった。


だがその内容に、俺は胸を貫かれたような衝撃を受けた。


信じたくないが、坂田さんが嘘を言うはずもない。




電話を切ると、俺はそのまま無言でパソコンに向かって猛烈な勢いで執筆を再開し始めた。


坂田さんの話が本当だとすれば、今はともかくこれを書け上げなければいけない。


そうでないと自由に動けない。


鬼気迫る表情で俺は文章を書き綴っていく。



その後数日間、ホテルの一室では、カタカタカタというキーボードの無機質な音だけが終始響き渡っていた——。


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