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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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9/19

玉結

【原作では】

玉鬘は、夕顔と頭中将の娘で、母を亡くした後、乳母一家とともに筑紫へ下り、そこで育ちます。

大夫監の強引な求婚を避けて都へ戻り、長谷寺参詣の折に右近と再会したことから、光源氏に引き取られ、六条院で養女として暮らします。

蛍兵部卿宮ら多くの男性から求婚されますが、やがて髭黒大将が女房の手引きで寝所に入り、玉鬘の意に沿わないまま、その妻となります。

筑紫の雨は、都の雨よりも重かった。


海から吹きつける風が、板戸を鳴らす。軒から落ちる水は庭を削り、夜になると、家そのものが暗い潮の中へ沈んでいくようだった。


玉鬘は、燈台のそばで髪を梳いていた。

長い黒髪が、背を越えて畳の上へ流れている。乳母はその髪を見て、時折、都で亡くなった母のことを口にした。


――姫君は、お母君によく似ておいでです。


けれど玉鬘には、母の記憶がなかった。

母の名さえ、本当には知らなかった。


夕暮れに咲く白い花にちなみ、夕顔と呼ばれていたこと。都で、ひっそりと暮らしていたこと。ある夜、光源氏に連れ出され、そのまま帰らなかったこと。

乳母が語るのは、いつも同じところまでだった。

その先を尋ねると、乳母は目を伏せた。


「お母君は、お亡くなりになりました」


何度聞いても、その一言だけだった。

玉鬘がまだ幼かったため、母は娘を連れていかなかったのか。

それとも、すぐに戻るつもりだったのか。

死の間際に、娘のことを思い出したのか。

玉鬘には分からなかった。


「姫様」


乳母の娘が、渡殿から駆け込んできた。


「大夫監様の使いが、また門前に」


玉鬘は櫛を置いた。

大夫監は、この土地で力を持つ男だった。

玉鬘を妻にしたいと、何度も文を寄越している。断っても、断ったことにならない。返事をしなければ、女が恥じらっているのだと受け取る。


今夜の使いは、先のものよりも人数が多かった。

門の外から、男たちの声が聞こえる。


「姫君を我が君へ差し上げるなら、この家の者は皆、不自由なく暮らせよう」


「拒む理由がどこにある」


「都へ戻るあてもないのであろう」


乳母は唇を噛んだ。


「お受けするしかないのかもしれません」


「なぜです」


「私どもでは、姫様を守りきれません」


玉鬘は、戸の外へ目を向けた。

男たちは、自分の顔をよく知りもしない。


都の姫君。

高貴な男の落とし胤。

見事な髪を持つ、美しい女。

誰かの口から伝わった話だけを愛し、自分の邸へ置こうとしている。


玉鬘は立ち上がった。


「都へ帰ります」


「姫様」


「父を探します」


玉鬘の父は、かつて頭中将と呼ばれていた男だという。

今では高い位へ進んでいるらしい。

母が姿を消したあと、娘が生まれていたことさえ知らなかった。


「見つからなければ?」


乳母が尋ねた。


「自分で暮らす場所を探します」


「都までの道は、危険でございます」


「ここに残るほうが、安全なのですか」


門が強く叩かれた。

乳母は目を閉じた。

玉鬘は、自分の髪を一つに束ねた。緒を巻き、指先で強く結ぶ。


「出ましょう」


結び目は、きつかった。

けれど、誰かに結ばれたものではなかった。


◇


一行は、大夫監の目を逃れるように筑紫を離れた。


海を渡り、山を越えた。

慣れぬ道で、何度も馬車が止まった。雨に濡れ、食べ物が尽きかけた夜もあった。

それでも、玉鬘は戻りたいとは言わなかった。


都へ近づくにつれ、人の数が増えた。

立派な牛車。

華やかな衣。

聞き慣れない言葉遣い。

自分も都に生まれたはずなのに、何もかもがよそよそしく感じられた。


父を探す前に、一行は長谷寺へ参詣した。

道中の無事と、これからの行く先を祈るためだった。

寺には、多くの女たちが訪れていた。


灯明の火が並び、香煙が薄く漂っている。

乳母が昔の知人を探しているあいだ、玉鬘は仏前で手を合わせた。


母は、どのような人だったのだろう。

美しかったという。

おとなしく、頼りなく、男に逆らうことのない人だったという。


それは本当に母の姿なのか。

それとも、残された者たちが語りやすいように整えた姿なのか。


「夕顔様……?」


背後で、女の声がした。

玉鬘が振り返ると、年を重ねた女房が、顔色を失って立っていた。


「どなたです」


女房は答えず、玉鬘の顔を見つめた。

やがて、震える声で尋ねた。


「もしや、筑紫からお越しになった姫君ではございませんか」


乳母が息をのんだ。

女房の名は右近といった。

かつて、夕顔に仕えていた女だった。


◇


右近は、玉鬘の母について多くを語った。


夕顔は、三位中将の娘であったこと。

頭中将との間に、一人の娘をもうけたこと。

正妻方からの恨みを恐れ、幼い娘を乳母へ託して身を隠したこと。

そして五条の小さな家で、光源氏と出会ったこと。


「お母君は、姫様を捨てたのではございません」


右近は何度も言った。


「お迎えに上がるつもりでいらしたのです」


「本当に?」


玉鬘は尋ねた。


「はい」


右近は涙を拭った。


「けれど、源氏の君に連れられて参った荒れた院で、物の怪に襲われ、お亡くなりに」


玉鬘は目を伏せた。

母は娘を忘れたのではなかった。

しかし、戻れなかった。

ただ、それだけだった。


「最期に、私のことを?」


右近はすぐには答えなかった。


「お声をお出しになる間もございませんでした」


玉鬘は頷いた。

都合のよい言葉を加えなかったことを、ありがたいと思った。

母が死の間際に娘の名を呼んだかどうかは、誰にも分からない。

分からないものを、美しい話に作り変える必要はなかった。


右近は、玉鬘を光源氏のもとへ連れていった。

源氏は、夕顔の娘が生きていたことへ驚き、深く喜んだ。


「私が、父の代わりとなりましょう」


御簾の外から聞こえる声は、柔らかかった。


「あなたを、都で不自由のない姫君としてお守りします」


玉鬘は、少し間を置いて答えた。


「父を、御存じなのですね」


「ええ」


「すぐに、お知らせくださらないのですか」


源氏は黙った。


「時を見て、最もよい形で」


玉鬘はその言葉を心に留めた。

最もよい形。

誰にとってよい形なのかは、語られなかった。


◇


玉鬘は、六条院へ迎えられた。


源氏は玉鬘を自分の娘として扱い、立派な衣や女房を与えた。

都の姫君として不足のない暮らしだった。

けれど玉鬘の素性は、まだ公にはされなかった。


源氏は、玉鬘を自らの隠し子であるかのように人々へ思わせた。

その曖昧さが、かえって男たちの関心を集めた。

蛍兵部卿宮。

髭黒大将。

柏木。

多くの公達から、競うように文が届いた。


玉鬘の顔を見た者は、ほとんどいない。

髪が美しい。

姿が優れているらしい。

光源氏が大切にしている女君だ。

届く歌の多くは、玉鬘自身ではなく、噂の中に作られた姫君へ向けられていた。


ある夜、源氏は文の束を手にして笑った。


「これほど思われているのです。少しは返事をなさっては?」


「何を返せばよいのでしょう」


「歌へ、歌を」


「私を知らずに詠んだ歌へ、私が答えるのですか」


源氏は目を細めた。


「あなたは、夕顔の君とは似ていませんね」


「顔は似ていると聞きました」


「気性がです」


「母は、何も言わない方だったのですか」


「控えめな方でした」


玉鬘は文の束を見た。


「それで、幸せになりましたか」


源氏の表情が変わった。


玉鬘は、それ以上は言わなかった。

源氏を責めたいわけではなかった。

ただ、母が控えめであったことを、美徳として語られたくなかった。

何も言わずに生きて、誰にも本心を知られぬまま死んだのなら、自分は同じ道を歩きたくなかった。


◇


蛍兵部卿宮が六条院を訪れた夜、源氏は玉鬘の部屋へ蛍を放った。

御簾の内側に、淡い光が幾つも浮かぶ。

玉鬘の髪や横顔が、闇の中へぼんやりと現れた。


外にいた宮が、息をのむ気配がした。


「何をなさるのです」


玉鬘は袖で顔を隠した。


「ほんの戯れです」


源氏は楽しそうに答えた。


「宮は、あなたを一目見たいと望んでおられた」


「私は、見せたいと申しましたか」


室内が静かになった。

蛍だけが、何も知らずに光っている。


「玉鬘」


「私は、珍しい花ではございません」


玉鬘は源氏を見た。


「誰かにお見せになる前に、私へお尋ねくださいませ」


御簾の外で、衣の擦れる音がした。


「今夜は、失礼いたします」


蛍兵部卿宮の声だった。

宮は言い訳をしなかった。

足音は、そのまま遠ざかっていった。


翌朝、玉鬘のもとへ宮から文が届いた。

昨夜、許しなく御姿を見ようとしたこと。

源氏の戯れに任せ、自分から止めなかったこと。


その二つを詫びる文だった。


美しかったとも。

忘れられないとも書かれていない。


最後には、

今後は、あなたが望まぬ方法でお会いしようとはいたしません。

と記されていた。


玉鬘は、初めて宮へ返事を書いた。


蛍の光で見えたものを、私と思わないでくださいませ。

お話しになるのであれば、明るいうちに。


◇


三日後、蛍兵部卿宮は正式な先触れを寄越した。

紫の上や女房たちのいる昼の席で、玉鬘へ会いたいという。

宮は御簾の外へ座り、まず頭を下げた。


「先夜のこと、重ねてお詫び申し上げます」


「宮様御自身が、蛍を放ったのではございません」


「それでも、見たいと思っておりました」


宮は正直に答えた。


「その気持ちへ、源氏の君が応えてくださった。私は、それを止めませんでした」


「私が美しいか、確かめたかったのですか」


「はい」


あまりに素直な答えに、玉鬘は少し驚いた。


「今も、そうお思いですか」


「今は、御姿より先に、お言葉を伺いたいと思っております」


「なぜです」


「源氏の君へ、あのようにはっきりおっしゃる方を、私はあまり存じません」


玉鬘は扇を閉じた。


「恐ろしい女だと?」


「少し」


宮は答えた。

女房たちが笑いをこらえた。


「けれど、御自分を守るために必要な言葉を口にできる方だと思いました」


「それで、妻にしたいと?」


「まだ、あなたを存じません」


宮は言った。


「知らない方へ、妻になってほしいと言うのは、おかしなことでしょう」


今まで届いたどの恋文にもない言葉だった。


「では、何を望んでおられるのです」


「お話しすることを」


「それだけですか」


「初めは、それだけで」


玉鬘は少し笑った。


「慎重でいらっしゃいますね」


「先夜、急ぐとろくなことにならないと学びました」


◇


それから宮は、文を寄越した。

華やかな歌だけではなかった。

宮中で聞いた楽のこと。

兄である源氏と比べられることへの、わずかな疲れ。

自分の意見を言わず、周囲に合わせて失敗したこと。

雨の日に、庭の鳥が軒下へ逃げ込んだこと。


玉鬘も返事を書くようになった。


筑紫の海。

長谷寺までの道。

顔も知らぬ父を探すため、都へ戻ったこと。

母について、知っていることがあまりに少ないこと。


母は、何も言わない女だったと語られます。

けれど、本当に何も望まなかったのかは、誰にも分かりません。


そう書いた日、宮からの返事は短かった。


口にされなかった望みを、なかったことにしてはならないのでしょう。

あなたの望みは、どうぞ言葉にしてください。


玉鬘は、その文を長く手元に置いた。


◇


秋の初め、源氏はようやく玉鬘の存在を内大臣へ知らせることにした。


かつて頭中将と呼ばれた男。

夕顔を愛しながら、彼女が身を隠したあと、その居場所を見つけられなかった男。

玉鬘の実の父である。


対面の日、内大臣は長いあいだ玉鬘を見つめた。


「本当に、夕顔の」


声が震えていた。


「はい」


玉鬘は答えた。

内大臣は、娘の髪へ目を向けた。


「母によく似ておりますか」


「よく似ている」


父は言った。


「だが、あの人より、ずっと強そうだ」


玉鬘は、少しだけ笑った。


「母も、強かったのかもしれません」


「夕顔が?」


「母は、姫君を育てていたのでしょう」


玉鬘は父を見た。


「幼い子を守りながら、誰にも見つからずに都で暮らすことは、弱い方にできることでしょうか」


内大臣は答えなかった。

やがて、深く頭を下げた。


「おまえにも、母にも、申し訳ないことをした」


玉鬘は、すぐに父を許すとは言わなかった。

許さないとも言わなかった。


「これから、父として何をなさるかを見せてくださいませ」


◇


玉鬘が内大臣の娘だと知れると、縁談はさらに増えた。


父は、髭黒大将との縁を悪くないと考えた。

地位が高く、家も確かである。

すでに北の方がいたが、当時の男に複数の妻がいることは珍しくなかった。


「おまえを粗末には扱わぬだろう」


内大臣が言うと、玉鬘は尋ねた。


「今の北の方は、粗末にされないのでしょうか」


父は言葉を失った。


「その方を悲しませても、私が幸せならばよいのですか」


「男の家とは、そのようなものだ」


「誰が決めたのです」


内大臣は眉をひそめた。


「おまえは、蛍宮をお望みなのか」


「今は髭黒大将様のお話をしております」


「それでは話が進まぬ」


「私の一生です。進めるためだけに決めないでくださいませ」


父は苛立ったようだった。

それでも玉鬘は、目を逸らさなかった。

やがて内大臣はため息をついた。


「分かった。おまえの同意なく、話を決めはせぬ」


「お約束ください」


「ああ」


「皆の前でも、おっしゃってください」


「母より厳しいな」


「母上が言えなかった分も、私が申し上げているのかもしれません」


◇


ところが髭黒大将は、玉鬘が返事をしないことを、女の慎みだと受け取った。


冬の近いある夜、内大臣から内々の許しを得たと称し、六条院へ入ろうとした。

女房たちは困惑した。

高位の大将を、門前で追い返すことは難しい。


「妻戸を開けよ」


男の声がした。


玉鬘は几帳の内で立ち上がった。

筑紫で、大夫監の使いが門を叩いた夜を思い出した。

あのときも、男は自分を妻にすれば皆が幸せになると言った。


場所が変わっても、言葉は同じだった。


「父からの文をお持ちですか」


玉鬘が尋ねた。


「男同士の話だ。文など必要ない」


「私との話には必要です」


「いずれ夫婦になるのだ。そう固くなることはあるまい」


玉鬘は女房へ命じた。


「源氏の君と、内大臣様へ使いを」


「その必要はない」


髭黒は妻戸へ近づいた。


「必要があるかどうかを決めるのは、私です」


玉鬘は声を張った。


「今夜、私の許しなくお入りになったことを、明日の朝、宮中の皆へ申し上げます」


戸の向こうが静かになった。

男にとって、拒まれることよりも、人に知られることのほうが恐ろしいのだろう。


「女が、そのようなことを口にして、恥をかくのは自分だぞ」


「恥じるべきことをしたのは、どちらでしょう」


玉鬘は答えた。


「私は、黙りません」


長い沈黙のあと、足音が遠ざかった。

玉鬘はその場へ座り込んだ。

身体が震えていた。


怖かった。

けれど、戸は開かなかった。


◇


内大臣は、夜明け前に駆けつけた。

玉鬘から事情を聞くと、父の顔は怒りで赤くなった。


「私が許したなどと」


「本当に、許していないのですね」


「話を聞くとは言った。しかし、おまえの同意なく入れとは申しておらぬ」


「では、父上の名を使ったことも、私の意思を無視したことも、皆へお知らせください」


内大臣は娘を見た。

以前ならば、家の恥になると止めたかもしれない。

けれど、やがて頷いた。


「ああ」


「私が悪かったことには、なさらないでください」


「しない」


父の答えは、今度は早かった。

その日のうちに、内大臣は髭黒へ厳しい文を送った。

玉鬘の同意のない婚姻は認めない。

夜中に女の部屋へ入ろうとした振る舞いについて、正式に謝罪せよ。

源氏もまた、自分が玉鬘を多くの男の目へ晒すような扱いをしたことを詫びた。


「守るつもりでおりました」


源氏は言った。


「けれど、あなたの望む守り方ではなかった」


「はい」


玉鬘は答えた。


「これからは、先にお尋ねくださいませ」


源氏は苦笑した。


「夕顔の君にも、そうすべきでした」


玉鬘は、しばらく源氏を見た。


「母上は、何もおっしゃらなかったのですか」


「言えなかったのでしょう」


「それとも、言っても聞いていただけないと思ったのでしょうか」


源氏は目を伏せた。


「そうかもしれません」


◇


蛍兵部卿宮からは、短い文が届いた。


怖い夜であったことと存じます。

返事は要りません。

お会いになりたいときに、お呼びください。


宮は、自分が玉鬘を守るとは書かなかった。

髭黒を責めるとも。

すぐに訪ねるとも言わなかった。


玉鬘が決めるまで、待つつもりなのだろう。


数日後、玉鬘は自分から文を書いた。


明日の昼、父と源氏の君の前でお話ししたいことがございます。

正門からお越しくださいませ。


その日の席には、内大臣と源氏も同席した。

玉鬘は、御簾の内から宮へ尋ねた。


「私は、父の娘としてだけ扱われたくはございません」


「はい」


「源氏の君に育てられた姫としても」


「はい」


「夕顔の娘として、哀れまれるのも嫌です」


宮は静かに聞いていた。


「私は、私自身の名で暮らしたいのです」


「では、そうなさってください」


「妻となっても?」


「妻になったために、あなたでなくなる必要はないでしょう」


「私が、筑紫で育った女たちのために、都との行き来を助けたいと申したら?」


「どのようなことを?」


「夫を亡くした女や、望まぬ縁談から逃れたい娘が、都へ来ても暮らせる場所を作りたいのです」


玉鬘は言った。


「私には、乳母たちがいました。右近も、私を見つけてくれました。けれど、誰にも見つけてもらえない女もおります」


内大臣が驚いたように娘を見た。

源氏も黙っている。

蛍兵部卿宮だけが、すぐに尋ねた。


「私にできることはありますか」


「私に相談せずに決めないでください」


「では、必要なときにおっしゃってください」


「宮の御名を使わせていただくこともあるかもしれません」


「好きなだけ」


宮は笑った。

玉鬘は、袖の中で手を握った。


「最後に、一つ」


「はい」


「私が、あなたを選ばないと申し上げたら?」


宮はしばらく黙った。


「悲しいでしょう」


やがて、宮は答えた。


「けれど、あなたが選べる女であるからこそ、私はあなたを慕っております」


「それでも、諦められますか」


「すぐには無理かもしれません」


宮は正直に言った。


「何がいけなかったのかを尋ね、変えられるなら変えたいと思います。それでも御心が変わらなければ、受け入れます」


玉鬘は目を伏せた。


「私にも、同じことを求めますか」


「はい」


宮は言った。


「嫌なことがあれば、黙って消えずにお話しください」


夕顔は、何も言わぬまま男の前から消えた。

望んで消えたのではない。

けれど、その後に残された者たちは、母が本当は何を望んでいたのかを、永遠に知ることができなかった。


「分かりました」


玉鬘は答えた。


「私は、黙りません」


◇


玉鬘は、その場ですぐ婚姻を決めなかった。


宮は通い続けた。

昼に。

先触れを出して。

会えない日には、文だけを置いて帰った。


玉鬘が始めた女たちのための住まいには、筑紫から連れてきた乳母の一族も加わった。

文字を教える者。

衣を縫う者。

遠国から来た女のために、仕事を探す者。

右近は、都の家々との取り次ぎをした。


内大臣は、娘へ小さな荘園を譲った。


「父として、これくらいはさせてくれ」


「口を出さないことも、お約束ください」


「分かっている」


「本当に?」


「おまえは、何度確認すれば気が済むのだ」


「父上が、何度も忘れそうなお顔をなさるからです」


二人のやり取りを聞き、右近は笑った。


「お母君が御覧になったら、驚かれたでしょうね」


玉鬘は尋ねた。


「喜ばれるでしょうか」


右近は少し考えた。


「分かりません」


その答えに、玉鬘は微笑んだ。


「そうですね」


母が何を思うかを、勝手に決める必要はなかった。

ただ、自分が生きる道を、自分で決めればよかった。


◇


翌年の初夏。


玉鬘は蛍兵部卿宮を、長谷寺へ誘った。

二人が最初に出会った場所ではない。

けれど、玉鬘が都で再び自分の名を得た場所だった。

参詣を終えたあと、玉鬘は人の少ない廊へ出た。


夕暮れにはまだ早い。

山の木々を通る風が、涼しい。

宮は少し離れ、玉鬘が話し始めるのを待っていた。


「宮様」


「はい」


「手をお出しくださいませ」


宮が掌を差し出した。

玉鬘は、袖の中から細い緒を取り出した。

筑紫を離れる夜、自分の髪を結んだものだった。

長い旅のあいだに色は褪せ、ところどころ擦れている。


「大切なものなのですか」


宮が尋ねた。


「私が初めて、自分で行く先を決めた夜のものです」


玉鬘は緒を宮の手首へ巻いた。


一度。

二度。

最後に、結び目を作る。


「これは」


「お返事でございます」


宮は、手首の緒を見つめた。


「解いてもよい結び目ですか」


「はい」


玉鬘は答えた。


「苦しくなれば、二人で解きましょう」


「結び直すことも?」


「互いに望むのであれば」


宮は、静かに笑った。


「では、今は?」


玉鬘は結び目へ指を置いた。

強すぎず。

すぐに解けもしないように。


「今は、結んでおきたいと思います」


宮は頷いた。


「私もです」


◇


玉鬘と蛍兵部卿宮の婚姻は、秋に公となった。


玉鬘は、六条院にも、内大臣の本邸にも住まなかった。

自分が整えた邸で暮らした。

宮が、正門から通った。


婚姻後も、玉鬘は女たちのための仕事を続けた。

遠国から逃れてきた娘。

夫を亡くし、財を奪われかけた女。

家族へ自分の意思を伝える文を書きたい女。


玉鬘は、一人一人の話を聞いた。


「私が、行く先を決めてもよいのでしょうか」


ある若い娘が尋ねた。


「よいと、誰かに許されなければなりませんか」


玉鬘は答えた。


「けれど、間違えたら」


「私も、間違えるでしょう」


「怖くはございませんか」


玉鬘は少し考えた。


「怖いからこそ、自分で決めたいのです」


誰かに決められた道で苦しめば、自分の人生を恨むしかない。

自分で決めた道ならば、間違えたあとに、また選び直すことができる。


◇


幾年かののち、玉鬘は宮とともに、母のために建てられた小さな供養塔を訪れた。


夕顔の墓所が、正確にどこであるかは分からなかった。

亡骸は人目を避けて運ばれ、ひっそり葬られたという。

そのため右近が、母を偲ぶ場所として塔を建てたのだった。


白い夕顔の花が、垣に咲いていた。

宮は少し離れたところで待った。


玉鬘は一人で塔の前へ座った。


「母上」


声にして呼ぶのは、初めてだった。

返事はない。


風が花を揺らした。


「私は、母上のことを、ほとんど存じません」


美しかったこと。

都で身を隠したこと。

光源氏と出会い、若くして亡くなったこと。

残された話は、どれも誰かの目を通した母だった。


「母上が、本当は何を望んでおられたのかも分かりません」


玉鬘は、自分の手首を見た。

宮へ渡したものと同じ布で、新しい緒を作り、結んである。


「ですから、母上の代わりに生きることはいたしません」


母の無念を晴らすためでも。

母が得られなかった幸せを得るためでもない。

自分の人生は、自分のものだった。


「私は、私の望む人と、私の望む場所で暮らしております」


報告したいのは、それだけだった。

立ち上がると、宮が近づいてきた。


「もう、よろしいのですか」


「はい」


「何をお話しになったのです」


「秘密です」


「私にも?」


「母と娘の話ですから」


宮はそれ以上、尋ねなかった。


二人で山道を下った。

途中、玉鬘の髪を結んでいた緒が緩んだ。

宮が気づき、足を止める。


「ほどけております」


玉鬘は髪へ手を伸ばした。

宮も手を差し出した。


「結びましょうか」


「お上手ですか」


「あなたに何度も教わりました」


玉鬘は緒を宮へ渡した。

宮は、髪を傷めないように、ゆっくりと結んだ。


「きつくはありませんか」


「もう少しだけ、緩く」


宮は結び直した。


「これで?」


「ちょうどよいです」


二人は再び歩き始めた。

玉鬘は、誰かによって結ばれることを拒んだのではない。

自分が望む相手に、自分の望む強さで結んでもらうことを選んだのだった。


山の向こうへ、夕日が沈み始めている。

白い花は暮れゆく光の中で、静かに開いていた。


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