朧月
【原作では】
朧月夜は、右大臣の六の君で、東宮への入内が予定されていました。
桜の宴の夜、宮中で光源氏と出会って契りを結び、のちに尚侍となってからも源氏との逢瀬を重ねます。
やがて二人の密会が発覚し、それが源氏の須磨退去の大きなきっかけとなります。
春の夜は、すべての輪郭を曖昧にしていた。
空は晴れているようで、薄い雲が月を覆っている。
月は隠れきらず、かといって明るく照らすこともない。
宮中の桜は盛りを過ぎ、風が吹くたび、白い花びらが渡殿へ迷い込んだ。
宴はすでに終わっていた。
管絃の音も、酔った公達の笑い声も遠ざかり、御殿の奥には、燈台の火だけが残っている。
右大臣の六の君は、一人で廊を歩いていた。
のちに、朧月夜と呼ばれる女君である。
宴のあいだ、彼女は姉の弘徽殿女御のそばに座り、決められたとおりに笑い、決められたとおりに杯を受けた。
近く東宮へ差し上げられるのだという話も、皆の前では初めて聞いたような顔をした。
父が決めたことだった。
姉が望んだことだった。
家のために必要なことだと、女房たちは言った。
自分が何を望んでいるかを尋ねる者はいなかった。
御簾の外へ出た朧月夜は、桜の枝を見上げた。
薄い月の光が、花の間に滲んでいる。
ふと、幼い頃に聞いた歌が口をついた。
「照りもせず、曇りもはてぬ春の夜の――」
その先を言う前に、背後から男の声がした。
「朧月夜にしくものぞなき」
朧月夜は振り返った。
廊の柱の陰に、一人の公達が立っていた。
宴の名残の香をまとい、月の光の中でも、顔立ちが分かるほど美しい。
見間違えるはずもなかった。
光源氏である。
「立ち聞きとは、よい御趣味ではございませんね」
朧月夜が言うと、源氏は笑った。
「聞かせるようにお詠みになったのでは?」
「誰もいないと思っておりました」
「では、月へ?」
「月ならば、勝手に意味を取り違えることもございません」
源氏は、少し目を細めた。
女性からそのような返事をされたことが、珍しいのだろう。
「あなたは、どなたです」
「お分かりにならないのでしたら、そのままで」
朧月夜は歩き出した。
源氏が後ろからついてくる。
「せめて、お名前を」
「先に御自分から名乗るのが礼儀ではございませんか」
「私を御存じなのでしょう」
「御名を知っていることと、お近づきになりたいことは別でございます」
源氏は足を止めた。
朧月夜は振り返らなかった。
けれど、胸の内では笑っていた。
相手が誰であるかを知っていた。
どのような噂を持つ男であるかも。
高貴な女も、慎ましい女も、彼に見つめられれば心を許すという。
だからこそ、そのまま立ち去りたかった。
源氏の思いどおりにならぬ、最初の女でありたかった。
ところが、廊を曲がる前に、袖が引かれた。
強くはなかった。
振りほどこうと思えば、できるほどの力だった。
朧月夜は、足を止めた。
「お放しくださいませ」
「お嫌ですか」
源氏の声には、いつもの自信がなかった。
朧月夜は、初めて男の顔を正面から見た。
美しい人だった。
けれど、それ以上に、退屈している人の顔だった。
何もかもを与えられ、誰もが自分を愛するため、驚くことを失った人。
「嫌かどうか、まだ分かりません」
朧月夜は答えた。
「では」
「けれど、分からないうちから、お許ししたくもございません」
源氏は袖から手を離した。
その瞬間、朧月夜は、この男をもう少し困らせてみたいと思った。
「明日の夜も、月が朧であれば」
「お会いいただけますか」
「私が、そうしたいと思えば」
朧月夜は言った。
そして、花びらの散る廊を、一人で歩いていった。
◇
二人の逢瀬は、春が終わっても続いた。
源氏は夜ごと文を寄越した。
朧月夜は、すぐには返さなかった。
美しい歌には、わざと短い返歌をした。
熱を込めた文には、天気のことだけを書いた。
それでも、源氏が来る夜には眠らずに待った。
会えば、二人はよく話した。
宮中の噂。
父や姉のこと。
帝のこと。
源氏が愛してきた女たちのこと。
「そのようなことまで、私にお話しになるのですか」
ある夜、朧月夜が尋ねると、源氏は彼女の髪へ触れながら笑った。
「妬いてくださいますか」
「いいえ」
「残念です」
「ただ、よくそれほど多くの方へ、異なる言葉を思いつくものだと感心しております」
源氏は苦笑した。
「あなたには、何を言っても信じていただけない」
「信じさせるのは、言葉ではございませんもの」
「では、何です」
朧月夜は答えなかった。
自分にも、まだ分からなかった。
源氏が帰ったあと、部屋には彼の香だけが残った。
それを愛おしいと思う夜もあった。
次にいつ来るか分からないことへ、腹を立てる夜もあった。
けれど朧月夜は、文の前で泣く女にはなりたくなかった。
来なければ、こちらも待たない。
誰かに呼ばれれば、宴へ出た。
女房たちと管絃を楽しみ、夜が明けるまで歌を交わした。
源氏がそれを知ると、珍しく不満を口にした。
「私が参れぬ夜に、随分と楽しんでおられるそうですね」
「あなたがいらっしゃらないからといって、夜がなくなるわけではございません」
「ほかの男も?」
「気になりますか」
「もちろんです」
朧月夜は笑った。
「それでは、少しは急いでお越しくださいませ」
そんな関係が、朧月夜には心地よかった。
誰にも知られぬかぎりは。
◇
右大臣家では、朧月夜を東宮へ入れる準備が進んでいた。
新しい衣が運ばれた。
女房が選ばれた。
東宮に好まれる香や色が、姉の命で調べられた。
朧月夜は、それらを遠い出来事のように眺めていた。
「六の君」
ある日、弘徽殿女御が妹を呼んだ。
姉の部屋には、濃い香が満ちていた。
「近頃、夜にお姿が見えぬことがあるそうですね」
朧月夜は扇を広げた。
「月を見ております」
「月だけならば、よいのですけれど」
姉の声は静かだった。
「おまえは、東宮へ差し上げる身です」
「いつ、私が承知したのでしょう」
弘徽殿女御の眉が動いた。
「女に、承知も何もございません」
「姉上も、そうでしたか」
部屋の空気が冷えた。
弘徽殿女御は、帝の寵愛を得ている。
けれど、その地位を守るために、いつも誰かと争っていた。
桐壺更衣を憎み、その子である源氏を警戒し、東宮の将来を案じている。
幸福そうに見えたことは、一度もなかった。
「家が、おまえを守るのです」
姉は言った。
「家の言うとおりにすれば、何も恐れることはない」
「家が私を守るのではなく、私を使って家を守るのでしょう」
弘徽殿女御の目が鋭くなった。
「誰から、そのような考えを教わったのです」
「誰にも」
朧月夜は扇を閉じた。
「私が考えました」
「女が余計なことを考えて、幸せになれると思っているのですか」
「考えずに、姉上はお幸せになりましたか」
姉の顔から、血の気が引いた。
朧月夜は、それ以上何も言わず、部屋を出た。
廊へ出ると、足が震えていた。
怖くないわけではなかった。
それでも、自分の言葉をのみ込んで生きるよりはよかった。
◇
夏の初め、朧月夜と源氏の関係は父に知られた。
雷雨の夜だった。
源氏が右大臣邸を訪れているあいだに、風で格子が外れた。
灯が消え、女房が騒ぎ、男の姿を見つけた。
朧月夜の父は怒り狂った。
東宮へ差し上げるはずの娘。
しかも相手は、弘徽殿女御と敵対する源氏である。
「家を滅ぼすつもりか」
父は朧月夜を責めた。
「すべて、あの男にたぶらかされたのであろう」
朧月夜は顔を上げた。
「いいえ」
「何?」
「私が、自分でお会いしました」
父の顔が歪んだ。
「源氏の君に無理をされたと申せ」
「なぜです」
「そうすれば、おまえに傷はつかぬ」
「代わりに、あの方へすべての罪を負わせるのですか」
「家を守るためだ」
朧月夜は、父を見つめた。
源氏を守りたいからではなかった。
自分の望みを、自分のものとして残したかった。
たとえ誤りであったとしても、誰かに操られた結果にされたくはなかった。
「私は、無理をされたのではございません」
「黙れ」
「私が選んだことです」
父の手が上がった。
頬を打たれる前に、朧月夜は目を閉じた。
けれど、手は降りてこなかった。
姉の弘徽殿女御が、父の腕を止めていた。
「顔に傷をつけてはなりません」
冷たい声だった。
「東宮へ差し上げられなくなります」
朧月夜は、ゆっくりと目を開けた。
姉は、自分を助けたのではない。
使えなくなることを恐れたのだ。
その夜、朧月夜は決めた。
父にも。
姉にも。
源氏にも。
自分の行く先を決めさせない。
◇
源氏は、須磨へ退くことになった。
表向きの理由はいくつもあった。
けれど、朧月夜との関係が大きなきっかけになったことを、誰もが知っていた。
都を離れる前夜、源氏は人目を忍んで朧月夜を訪れた。
「ともに来ませんか」
源氏が言った。
雨の音が、庭を覆っていた。
「須磨へ?」
「都には、あなたを責める者ばかりです」
「あなたと参れば、責められなくなるのですか」
「私が守ります」
朧月夜は、男の顔を見た。
源氏は本気だった。
彼なりに、朧月夜を愛しているのだろう。
けれど彼が差し出すものは、いつも同じだった。
自分のもとへ来れば守る。
自分の邸へ来れば満たす。
自分を選べば幸福にする。
「私は、参りません」
「なぜ」
「須磨では、私は何になるのでしょう」
「私の大切な人です」
「都では?」
源氏が黙った。
「都へお戻りになれば、紫の上様のもとへ帰られるのでしょう」
「あなたの住まいも整えます」
「また、隠れてお待ちするのですか」
「隠すつもりは」
「では、私を皆の前でお認めになりますか」
源氏は答えなかった。
外で、雨が強くなった。
「私は、あなたをお慕いしております」
朧月夜は言った。
初めて、はっきりと口にした。
源氏の目が揺れた。
「ですからこそ、ついては参りません」
「分かりません」
「私も、あなたを失うことが怖いのです」
朧月夜は微笑んだ。
「けれど、あなたについていって自分を失うほうが、もっと怖い」
源氏は長いあいだ黙っていた。
「戻ってまいります」
やがて、彼は言った。
「都へ?」
「あなたのもとへ」
「そのとき、私がまだお待ちしていると?」
「待っていてください」
朧月夜は首を振った。
「お約束はいたしません」
「朧月夜」
源氏は、春の夜に彼女を見つけたときの名で呼んだ。
「私は、あなたを忘れません」
「忘れないことと、選ぶことは違います」
朧月夜は答えた。
「お戻りになったとき、もう一度お考えくださいませ」
「何を」
「あなたが私に望むのが、愛する女なのか。それとも、失いたくない女なのかを」
◇
源氏が都を去ったあと、朧月夜は尚侍として宮中へ入った。
父と姉が決めたことだった。
東宮は帝となり、朱雀帝と呼ばれるようになった。
朧月夜は、帝のもとで宮中の文書や女房たちを取りまとめた。
美しさだけでなく、判断の早さでも知られるようになった。
争う女房がいれば、双方の話を聞いた。
家柄の弱い女が侮られれば、役目に応じて席を整えた。
男たちが決めたことを、女房へ伝えるだけではなかった。
必要ならば、帝へ直接意見した。
「朧月夜は、私を恐れないのですね」
ある日、朱雀帝が言った。
朧月夜は、御前の文書を整えながら答えた。
「帝を恐れていては、尚侍の務めは果たせません」
「ほかの者は、皆、私の顔色を見ます」
「顔色を見てほしいのですか」
朱雀帝は笑った。
源氏とは違う笑い方だった。
人を魅了するためではなく、本当に可笑しいときだけ笑う。
帝は幼い頃から、源氏と比べられてきた。
華やかさも。
才も。
人の心を惹きつける力も。
誰もが、光源氏のほうを見た。
朱雀帝自身も、それを知っていた。
「あなたも、源氏のことをお考えになりますか」
不意に尋ねられ、朧月夜は手を止めた。
「そのようなことを、帝がお尋ねになるのですか」
「帝ではなく、一人の男として」
「それができるのでしょうか」
朱雀帝は目を伏せた。
「難しいですね」
「では、帝としてお答えいたします」
朧月夜は文書を閉じた。
「須磨におられる方を、私が思うかどうかは、朝廷の務めとは関わりございません」
「手厳しい」
「御存じだったでしょう」
帝は微笑んだ。
「だから、あなたと話したくなるのです」
朱雀帝は、朧月夜へ無理に近づこうとはしなかった。
文を送ることもなかった。
ただ、政務のあとに彼女を残し、話をすることが増えた。
宮中で起きたこと。
母である弘徽殿女御の強さ。
帝でありながら、自分の望みで決められないこと。
朧月夜は、ときには慰め、ときには厳しいことを言った。
「帝は、お優しすぎます」
「それは、褒めているのですか」
「いいえ」
朱雀帝は、少し傷ついた顔をした。
「優しいだけでは、何も守れません」
「では、どうすれば」
「決めたことの責任を、お引き受けください」
朧月夜は言った。
「誰かの言葉に従っておきながら、望んでいなかったと嘆くのは、優しさではございません」
朱雀帝は黙った。
その言葉は、帝だけでなく、自分自身にも向けたものだった。
◇
数年後、源氏は都へ戻った。
以前よりも大きな力を持ち、以前よりも華やかになって。
宮中の空気は変わった。
源氏へ背を向けていた者たちが、競うように近づいた。
右大臣家の者でさえ、何事もなかったように振る舞った。
源氏から朧月夜へ、文が届いた。
あの春の夜と同じ、薄い色の紙だった。
都へ戻りました。
月は、今も朧でしょうか。
朧月夜は返事を書かなかった。
三日後、源氏は宮中の廊で彼女を待っていた。
「お変わりになりましたね」
源氏が言った。
「年を取りましたから」
「そのような意味ではありません」
「では、どのような?」
源氏は朧月夜を見つめた。
須磨へ去る前と同じ目だった。
朧月夜は、以前のように胸を乱されなかった。
懐かしいとは思った。
今も美しい人だとも。
けれど、自分が彼の人生の中心に置かれることはないと、もう知っていた。
「待っていてくださらなかったのですね」
「お約束しなかったはずです」
「ほかに、心をお寄せする方が?」
「それを聞いて、どうなさるのです」
「取り戻します」
源氏の返事は早かった。
朧月夜は、思わず笑った。
「私は、あなたの持ち物ではございません」
「そういう意味では」
「あなたは昔から、手に入らぬものほど欲しくなるのですね」
源氏の顔から笑みが消えた。
「私の気持ちを、戯れだと?」
「いいえ」
朧月夜は静かに答えた。
「愛してくださったことは、疑っておりません」
「ならば」
「けれど、あなたの愛の中には、いつも多くの女君がおられます」
朧月夜は源氏の袖に散った桜の花びらを見た。
「私は、その中の一人になることを、もう望んでおりません」
「私に、すべてを捨てろと?」
「いいえ」
朧月夜は首を振った。
「私のために誰かを捨てる人を、私は信じません」
「では、何を望んでいるのです」
「私を選ぶ人ではなく、私が選べる人です」
源氏は答えられなかった。
朧月夜は、彼のそばを通り過ぎた。
春の夜とは違い、袖を引かれることはなかった。
◇
朱雀帝が位を退いたのは、その翌年だった。
政務から離れた院は、以前より穏やかな顔をしていた。
けれど、病がちになり、仏道へ心を寄せているという噂もあった。
朧月夜は尚侍の職を辞した。
父は反対した。
姉も、宮中に残るよう命じた。
「院のおそばへ上がりなさい」
弘徽殿女御は言った。
「今ならば、正式な女御にもなれるでしょう」
朧月夜は笑った。
「私はもう、誰かの地位を得るために宮中へ入るつもりはございません」
「では、何をして生きるのです」
「自分の家を持ちます」
「女一人で?」
「女は、一人では家を持てないのですか」
朧月夜は、母から譲られた小さな邸へ移った。
荒れていた庭を整え、長く閉ざされていた部屋を開けた。
宮中を辞めた女房たち。
夫を亡くした女。
家の都合で望まぬ縁談を迫られている娘。
そのような者が、少しずつ集まった。
朧月夜は、彼女たちを哀れんで住まわせたのではない。
歌の上手な者には、歌を教えさせた。
文字を知る者には、文を書かせた。
琴を弾く者には、宴を任せた。
女たちは働き、自分の財を持った。
春になると、邸では夜ごと小さな宴が開かれた。
男も女も招いた。
けれど、誰を招くかは朧月夜が決めた。
帰ってほしい者には、夜が明ける前でも牛車を用意した。
その邸は、いつしか朧月殿と呼ばれるようになった。
◇
朧月殿で最初の大きな花宴を開いた夜、光源氏と朱雀院の二人が招かれた。
源氏は、見事な桜の枝を持ってきた。
朱雀院は、何も持たずに来た。
「院は、手土産もないのですか」
朧月夜が尋ねると、朱雀院は困ったように笑った。
「何を差し上げても、こちらにはすでにありそうでしたので」
「桜ならば、いくらあっても困りませんよ」
源氏が言った。
「散ったあとの片づけを、なさらない方は気楽でございますね」
朧月夜が返すと、周囲の女房たちが笑った。
源氏も苦笑した。
宴では歌が詠まれた。
源氏の歌は華やかで、誰もが感嘆した。
朱雀院の歌は、上手ではなかった。
けれど、約束した場所へ帰る月のことを詠んでいた。
「院は、随分とまっすぐな歌をお詠みになりますね」
朧月夜が言うと、朱雀院は答えた。
「回りくどく詠めば、また意味を取り違えられそうですから」
夜が更けると、客たちは帰っていった。
源氏は最後まで残った。
朱雀院も帰ろうとしなかった。
「お二人とも、そろそろお帰りくださいませ」
朧月夜が言った。
「どちらか一人を残しては?」
源氏が笑う。
「では、院を」
朧月夜が即座に答えると、源氏は目を見開いた。
朱雀院も驚いていた。
「冗談でございます」
朧月夜は扇で口元を隠した。
「お二人とも、お帰りください」
源氏は声を上げて笑った。
「昔よりも、ずっと手強くなりましたね」
「昔からでございます」
源氏は帰り際、朧月夜を振り返った。
その目には、惜しむ色があった。
けれど、追いすがることはなかった。
二人の春は、すでに過ぎたのだと、ようやく理解したのだろう。
◇
翌日の昼、朱雀院が再び訪れた。
夜ではなかった。
先触れを出し、正門から入った。
朧月夜は、庭に面した廂で院を迎えた。
「昨夜、お帰りいただいたばかりではございませんか」
「話し忘れたことがありました」
「文ではいけませんか」
「文では、あなたが読まずに置くかもしれません」
朧月夜は笑った。
「よく御存じで」
朱雀院は、彼女の前へ座った。
帝であった頃より、質素な衣をまとっている。
顔には疲れが残っていた。
それでも、目は穏やかだった。
「私は、近く仏門に入ろうと考えていました」
「伺っております」
「世を離れれば、迷わずに済むと思ったのです」
朧月夜は黙って聞いた。
「けれど、あなたに叱られたことを思い出しました」
「何をでしょう」
「望まぬことを誰かのせいにして、自分は優しかったのだと嘆くなと」
朱雀院は言った。
「仏門へ入ることさえ、私は逃げ道にしようとしていたのかもしれません」
「出家なさりたいのであれば、なさればよいのです」
「止めてはくださらないのですか」
「御自分でお決めになることでしょう」
朱雀院は苦笑した。
「やはり、あなたは手厳しい」
「それを聞くために、お越しになったのですか」
「いいえ」
朱雀院は背筋を伸ばした。
「あなたと、ともに暮らしたいのです」
朧月夜は、すぐには答えなかった。
庭では、昼の光の中を花びらが舞っている。
夜の桜とは違い、一枚一枚がはっきり見えた。
「院のお住まいへ上がれと?」
「いいえ」
朱雀院は首を振った。
「私が、こちらへ通います」
「院が?」
「あなたは、この邸を離れたくないでしょう」
「ええ」
「ここにいる方々も、今の暮らしを続けたいでしょう」
「はい」
「ならば、変えるべきではありません」
朱雀院は言った。
「あなたを私の暮らしへ入れるのではなく、私があなたの暮らしの中へ入れていただきたい」
朧月夜は院の顔を見た。
「私が、お断りしたら?」
「帰ります」
「二度とお越しにならないのですか」
朱雀院は少し考えた。
「宴へ招いていただければ、参ります」
「それだけ?」
「あなたを困らせてまで、そばにいたいとは申しません」
「つらくはありませんか」
「つらいでしょう」
院は正直に答えた。
「けれど、私がつらいからといって、あなたが望まぬ返事をする理由にはなりません」
かつて源氏は、待っていてほしいと言った。
父は、家のために従えと言った。
姉は、女に選ぶ権利はないと言った。
朱雀院だけが、自分の思いを告げたあと、朧月夜の返事を奪おうとしなかった。
「私は、源氏の君を愛しておりました」
朧月夜が言うと、朱雀院の顔がわずかに強張った。
「今も、嫌いではございません」
「はい」
「忘れることもないでしょう」
「分かっております」
「それでも?」
朱雀院は、庭へ目を向けた。
「私にも、忘れられないものがあります」
「何です」
「いつも、兄より劣ると言われてきたことです」
院は静かに笑った。
「けれど、忘れられないものがあることと、その中に住み続けることは違うのでしょう」
朧月夜は、院の横顔を見つめた。
「私は、あなたを誰かから奪いたいのではありません」
朱雀院は続けた。
「あなたが今日、誰といたいかを尋ねたいのです」
朧月夜は目を閉じた。
春の夜。
薄い月。
桜の下で、袖を引いた男。
あの出会いがなければ、自分はここにいなかったかもしれない。
けれど、あの夜へ戻りたいとは思わなかった。
朧月夜は目を開け、明るい庭を見た。
「昼にも、正門からお越しください」
院は笑った。
「今日のように?」
「はい」
「それは、容易なことです」
「容易なことを守れない方が、多いのです」
朱雀院は深く頷いた。
「約束いたします」
「では」
朧月夜は、院へ手を差し出した。
「明日もお越しくださいませ」
朱雀院は、その手を取った。
「正門から?」
「もちろんです」
◇
朱雀院は、約束どおり朧月殿へ通った。
夜だけではない。
朝にも。
雨の昼にも。
何もない夕暮れにも。
やがて、朧月夜は朱雀院の正式な女君として遇されることになった。
けれど、朧月殿を離れなかった。
邸に暮らす女たちも、そのまま残った。
朱雀院は、彼女たちの仕事へ口を出さなかった。
ただ、困ったことがあれば相談に乗った。
院が来る日は、門番も女房たちも、特別に慌てることはなくなった。
「院がお越しです」
その声に、朧月夜は鏡を見ることもなく立ち上がった。
会いたい人が、会うと約束した日に来る。
そのことが、何よりも美しいと思うようになった。
ある春の夜、二人は庭へ出た。
空には、薄い雲がかかっている。
月は照りすぎず、隠れきりもせず、桜の枝の向こうで淡く滲んでいた。
「初めてお会いした夜も、このような月でしたか」
朱雀院が尋ねた。
朧月夜は笑った。
「見ていらしたのですか」
「見てはおりません」
「では、なぜ」
「何度も、お話を聞きましたから」
「誰から?」
朱雀院は答えず、月を見上げた。
遠くで、牛車の音がした。
朧月夜は院の袖を取った。
かつて、自分の袖を引いた男がいた。
その手を振りほどかなかったことを、後悔してはいない。
あの恋は、朧月夜に、自分の心が誰のものでもないと教えた。
けれど今、彼女が袖を取ったのは、自分からだった。
「院」
「はい」
「今夜は、泊まっておいでになりますか」
朱雀院は、少し意外そうな顔をした。
「よろしいのですか」
「私がお尋ねしたのです」
「では、喜んで」
「明日の朝も、正門からお帰りくださいませ」
「裏門から逃げるつもりはありません」
二人は並んで歩いた。
桜の花びらが、肩へ落ちる。
昔の朧月夜は、夜の中でしか恋を選べなかった。
今は違う。
誰かに見つかることを恐れず。
誰かの許しを待たず。
自分が望む人の手を、自分から取ることができる。
月は、相変わらず朧だった。
けれど、二人の行く先は、もう曖昧ではなかった。




