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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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8/19

朧月

【原作では】

朧月夜は、右大臣の六の君で、東宮への入内が予定されていました。

桜の宴の夜、宮中で光源氏と出会って契りを結び、のちに尚侍となってからも源氏との逢瀬を重ねます。

やがて二人の密会が発覚し、それが源氏の須磨退去の大きなきっかけとなります。

春の夜は、すべての輪郭を曖昧にしていた。


空は晴れているようで、薄い雲が月を覆っている。

月は隠れきらず、かといって明るく照らすこともない。

宮中の桜は盛りを過ぎ、風が吹くたび、白い花びらが渡殿へ迷い込んだ。


宴はすでに終わっていた。

管絃の音も、酔った公達の笑い声も遠ざかり、御殿の奥には、燈台の火だけが残っている。


右大臣の六の君は、一人で廊を歩いていた。

のちに、朧月夜と呼ばれる女君である。

宴のあいだ、彼女は姉の弘徽殿女御のそばに座り、決められたとおりに笑い、決められたとおりに杯を受けた。

近く東宮へ差し上げられるのだという話も、皆の前では初めて聞いたような顔をした。


父が決めたことだった。

姉が望んだことだった。

家のために必要なことだと、女房たちは言った。

自分が何を望んでいるかを尋ねる者はいなかった。


御簾の外へ出た朧月夜は、桜の枝を見上げた。

薄い月の光が、花の間に滲んでいる。

ふと、幼い頃に聞いた歌が口をついた。


「照りもせず、曇りもはてぬ春の夜の――」


その先を言う前に、背後から男の声がした。


「朧月夜にしくものぞなき」


朧月夜は振り返った。

廊の柱の陰に、一人の公達が立っていた。


宴の名残の香をまとい、月の光の中でも、顔立ちが分かるほど美しい。

見間違えるはずもなかった。


光源氏である。


「立ち聞きとは、よい御趣味ではございませんね」


朧月夜が言うと、源氏は笑った。


「聞かせるようにお詠みになったのでは?」


「誰もいないと思っておりました」


「では、月へ?」


「月ならば、勝手に意味を取り違えることもございません」


源氏は、少し目を細めた。

女性からそのような返事をされたことが、珍しいのだろう。


「あなたは、どなたです」


「お分かりにならないのでしたら、そのままで」


朧月夜は歩き出した。

源氏が後ろからついてくる。


「せめて、お名前を」


「先に御自分から名乗るのが礼儀ではございませんか」


「私を御存じなのでしょう」


「御名を知っていることと、お近づきになりたいことは別でございます」


源氏は足を止めた。

朧月夜は振り返らなかった。


けれど、胸の内では笑っていた。

相手が誰であるかを知っていた。

どのような噂を持つ男であるかも。

高貴な女も、慎ましい女も、彼に見つめられれば心を許すという。


だからこそ、そのまま立ち去りたかった。

源氏の思いどおりにならぬ、最初の女でありたかった。

ところが、廊を曲がる前に、袖が引かれた。


強くはなかった。

振りほどこうと思えば、できるほどの力だった。


朧月夜は、足を止めた。


「お放しくださいませ」


「お嫌ですか」


源氏の声には、いつもの自信がなかった。

朧月夜は、初めて男の顔を正面から見た。


美しい人だった。

けれど、それ以上に、退屈している人の顔だった。

何もかもを与えられ、誰もが自分を愛するため、驚くことを失った人。


「嫌かどうか、まだ分かりません」


朧月夜は答えた。


「では」


「けれど、分からないうちから、お許ししたくもございません」


源氏は袖から手を離した。

その瞬間、朧月夜は、この男をもう少し困らせてみたいと思った。


「明日の夜も、月が朧であれば」


「お会いいただけますか」


「私が、そうしたいと思えば」


朧月夜は言った。

そして、花びらの散る廊を、一人で歩いていった。


◇


二人の逢瀬は、春が終わっても続いた。


源氏は夜ごと文を寄越した。

朧月夜は、すぐには返さなかった。


美しい歌には、わざと短い返歌をした。

熱を込めた文には、天気のことだけを書いた。

それでも、源氏が来る夜には眠らずに待った。


会えば、二人はよく話した。


宮中の噂。

父や姉のこと。

帝のこと。

源氏が愛してきた女たちのこと。


「そのようなことまで、私にお話しになるのですか」


ある夜、朧月夜が尋ねると、源氏は彼女の髪へ触れながら笑った。


「妬いてくださいますか」


「いいえ」


「残念です」


「ただ、よくそれほど多くの方へ、異なる言葉を思いつくものだと感心しております」


源氏は苦笑した。


「あなたには、何を言っても信じていただけない」


「信じさせるのは、言葉ではございませんもの」


「では、何です」


朧月夜は答えなかった。

自分にも、まだ分からなかった。

源氏が帰ったあと、部屋には彼の香だけが残った。

それを愛おしいと思う夜もあった。

次にいつ来るか分からないことへ、腹を立てる夜もあった。

けれど朧月夜は、文の前で泣く女にはなりたくなかった。


来なければ、こちらも待たない。

誰かに呼ばれれば、宴へ出た。

女房たちと管絃を楽しみ、夜が明けるまで歌を交わした。


源氏がそれを知ると、珍しく不満を口にした。


「私が参れぬ夜に、随分と楽しんでおられるそうですね」


「あなたがいらっしゃらないからといって、夜がなくなるわけではございません」


「ほかの男も?」


「気になりますか」


「もちろんです」


朧月夜は笑った。


「それでは、少しは急いでお越しくださいませ」


そんな関係が、朧月夜には心地よかった。

誰にも知られぬかぎりは。


◇


右大臣家では、朧月夜を東宮へ入れる準備が進んでいた。


新しい衣が運ばれた。

女房が選ばれた。

東宮に好まれる香や色が、姉の命で調べられた。

朧月夜は、それらを遠い出来事のように眺めていた。


「六の君」


ある日、弘徽殿女御が妹を呼んだ。

姉の部屋には、濃い香が満ちていた。


「近頃、夜にお姿が見えぬことがあるそうですね」


朧月夜は扇を広げた。


「月を見ております」


「月だけならば、よいのですけれど」


姉の声は静かだった。


「おまえは、東宮へ差し上げる身です」


「いつ、私が承知したのでしょう」


弘徽殿女御の眉が動いた。


「女に、承知も何もございません」


「姉上も、そうでしたか」


部屋の空気が冷えた。

弘徽殿女御は、帝の寵愛を得ている。

けれど、その地位を守るために、いつも誰かと争っていた。

桐壺更衣を憎み、その子である源氏を警戒し、東宮の将来を案じている。


幸福そうに見えたことは、一度もなかった。


「家が、おまえを守るのです」


姉は言った。


「家の言うとおりにすれば、何も恐れることはない」


「家が私を守るのではなく、私を使って家を守るのでしょう」


弘徽殿女御の目が鋭くなった。


「誰から、そのような考えを教わったのです」


「誰にも」


朧月夜は扇を閉じた。


「私が考えました」


「女が余計なことを考えて、幸せになれると思っているのですか」


「考えずに、姉上はお幸せになりましたか」


姉の顔から、血の気が引いた。


朧月夜は、それ以上何も言わず、部屋を出た。

廊へ出ると、足が震えていた。


怖くないわけではなかった。

それでも、自分の言葉をのみ込んで生きるよりはよかった。


◇


夏の初め、朧月夜と源氏の関係は父に知られた。


雷雨の夜だった。

源氏が右大臣邸を訪れているあいだに、風で格子が外れた。

灯が消え、女房が騒ぎ、男の姿を見つけた。

朧月夜の父は怒り狂った。


東宮へ差し上げるはずの娘。

しかも相手は、弘徽殿女御と敵対する源氏である。


「家を滅ぼすつもりか」


父は朧月夜を責めた。


「すべて、あの男にたぶらかされたのであろう」


朧月夜は顔を上げた。


「いいえ」


「何?」


「私が、自分でお会いしました」


父の顔が歪んだ。


「源氏の君に無理をされたと申せ」


「なぜです」


「そうすれば、おまえに傷はつかぬ」


「代わりに、あの方へすべての罪を負わせるのですか」


「家を守るためだ」


朧月夜は、父を見つめた。

源氏を守りたいからではなかった。

自分の望みを、自分のものとして残したかった。

たとえ誤りであったとしても、誰かに操られた結果にされたくはなかった。


「私は、無理をされたのではございません」


「黙れ」


「私が選んだことです」


父の手が上がった。

頬を打たれる前に、朧月夜は目を閉じた。


けれど、手は降りてこなかった。

姉の弘徽殿女御が、父の腕を止めていた。


「顔に傷をつけてはなりません」


冷たい声だった。


「東宮へ差し上げられなくなります」


朧月夜は、ゆっくりと目を開けた。


姉は、自分を助けたのではない。

使えなくなることを恐れたのだ。


その夜、朧月夜は決めた。


父にも。

姉にも。

源氏にも。

自分の行く先を決めさせない。


◇


源氏は、須磨へ退くことになった。

表向きの理由はいくつもあった。

けれど、朧月夜との関係が大きなきっかけになったことを、誰もが知っていた。


都を離れる前夜、源氏は人目を忍んで朧月夜を訪れた。


「ともに来ませんか」


源氏が言った。

雨の音が、庭を覆っていた。


「須磨へ?」


「都には、あなたを責める者ばかりです」


「あなたと参れば、責められなくなるのですか」


「私が守ります」


朧月夜は、男の顔を見た。

源氏は本気だった。

彼なりに、朧月夜を愛しているのだろう。

けれど彼が差し出すものは、いつも同じだった。


自分のもとへ来れば守る。

自分の邸へ来れば満たす。

自分を選べば幸福にする。


「私は、参りません」


「なぜ」


「須磨では、私は何になるのでしょう」


「私の大切な人です」


「都では?」


源氏が黙った。


「都へお戻りになれば、紫の上様のもとへ帰られるのでしょう」


「あなたの住まいも整えます」


「また、隠れてお待ちするのですか」


「隠すつもりは」


「では、私を皆の前でお認めになりますか」


源氏は答えなかった。

外で、雨が強くなった。


「私は、あなたをお慕いしております」


朧月夜は言った。

初めて、はっきりと口にした。


源氏の目が揺れた。


「ですからこそ、ついては参りません」


「分かりません」


「私も、あなたを失うことが怖いのです」


朧月夜は微笑んだ。


「けれど、あなたについていって自分を失うほうが、もっと怖い」


源氏は長いあいだ黙っていた。


「戻ってまいります」


やがて、彼は言った。


「都へ?」


「あなたのもとへ」


「そのとき、私がまだお待ちしていると?」


「待っていてください」


朧月夜は首を振った。


「お約束はいたしません」


「朧月夜」


源氏は、春の夜に彼女を見つけたときの名で呼んだ。


「私は、あなたを忘れません」


「忘れないことと、選ぶことは違います」


朧月夜は答えた。


「お戻りになったとき、もう一度お考えくださいませ」


「何を」


「あなたが私に望むのが、愛する女なのか。それとも、失いたくない女なのかを」


◇


源氏が都を去ったあと、朧月夜は尚侍として宮中へ入った。

父と姉が決めたことだった。

東宮は帝となり、朱雀帝と呼ばれるようになった。

朧月夜は、帝のもとで宮中の文書や女房たちを取りまとめた。


美しさだけでなく、判断の早さでも知られるようになった。

争う女房がいれば、双方の話を聞いた。

家柄の弱い女が侮られれば、役目に応じて席を整えた。

男たちが決めたことを、女房へ伝えるだけではなかった。

必要ならば、帝へ直接意見した。


「朧月夜は、私を恐れないのですね」


ある日、朱雀帝が言った。

朧月夜は、御前の文書を整えながら答えた。


「帝を恐れていては、尚侍の務めは果たせません」


「ほかの者は、皆、私の顔色を見ます」


「顔色を見てほしいのですか」


朱雀帝は笑った。

源氏とは違う笑い方だった。

人を魅了するためではなく、本当に可笑しいときだけ笑う。

帝は幼い頃から、源氏と比べられてきた。


華やかさも。

才も。

人の心を惹きつける力も。

誰もが、光源氏のほうを見た。

朱雀帝自身も、それを知っていた。


「あなたも、源氏のことをお考えになりますか」


不意に尋ねられ、朧月夜は手を止めた。


「そのようなことを、帝がお尋ねになるのですか」


「帝ではなく、一人の男として」


「それができるのでしょうか」


朱雀帝は目を伏せた。


「難しいですね」


「では、帝としてお答えいたします」


朧月夜は文書を閉じた。


「須磨におられる方を、私が思うかどうかは、朝廷の務めとは関わりございません」


「手厳しい」


「御存じだったでしょう」


帝は微笑んだ。


「だから、あなたと話したくなるのです」


朱雀帝は、朧月夜へ無理に近づこうとはしなかった。

文を送ることもなかった。

ただ、政務のあとに彼女を残し、話をすることが増えた。


宮中で起きたこと。

母である弘徽殿女御の強さ。

帝でありながら、自分の望みで決められないこと。

朧月夜は、ときには慰め、ときには厳しいことを言った。


「帝は、お優しすぎます」


「それは、褒めているのですか」


「いいえ」


朱雀帝は、少し傷ついた顔をした。


「優しいだけでは、何も守れません」


「では、どうすれば」


「決めたことの責任を、お引き受けください」


朧月夜は言った。


「誰かの言葉に従っておきながら、望んでいなかったと嘆くのは、優しさではございません」


朱雀帝は黙った。

その言葉は、帝だけでなく、自分自身にも向けたものだった。


◇


数年後、源氏は都へ戻った。

以前よりも大きな力を持ち、以前よりも華やかになって。


宮中の空気は変わった。

源氏へ背を向けていた者たちが、競うように近づいた。

右大臣家の者でさえ、何事もなかったように振る舞った。


源氏から朧月夜へ、文が届いた。

あの春の夜と同じ、薄い色の紙だった。


都へ戻りました。

月は、今も朧でしょうか。


朧月夜は返事を書かなかった。


三日後、源氏は宮中の廊で彼女を待っていた。


「お変わりになりましたね」


源氏が言った。


「年を取りましたから」


「そのような意味ではありません」


「では、どのような?」


源氏は朧月夜を見つめた。

須磨へ去る前と同じ目だった。


朧月夜は、以前のように胸を乱されなかった。

懐かしいとは思った。

今も美しい人だとも。

けれど、自分が彼の人生の中心に置かれることはないと、もう知っていた。


「待っていてくださらなかったのですね」


「お約束しなかったはずです」


「ほかに、心をお寄せする方が?」


「それを聞いて、どうなさるのです」


「取り戻します」


源氏の返事は早かった。

朧月夜は、思わず笑った。


「私は、あなたの持ち物ではございません」


「そういう意味では」


「あなたは昔から、手に入らぬものほど欲しくなるのですね」


源氏の顔から笑みが消えた。


「私の気持ちを、戯れだと?」


「いいえ」


朧月夜は静かに答えた。


「愛してくださったことは、疑っておりません」


「ならば」


「けれど、あなたの愛の中には、いつも多くの女君がおられます」


朧月夜は源氏の袖に散った桜の花びらを見た。


「私は、その中の一人になることを、もう望んでおりません」


「私に、すべてを捨てろと?」


「いいえ」


朧月夜は首を振った。


「私のために誰かを捨てる人を、私は信じません」


「では、何を望んでいるのです」


「私を選ぶ人ではなく、私が選べる人です」


源氏は答えられなかった。


朧月夜は、彼のそばを通り過ぎた。

春の夜とは違い、袖を引かれることはなかった。


◇


朱雀帝が位を退いたのは、その翌年だった。


政務から離れた院は、以前より穏やかな顔をしていた。

けれど、病がちになり、仏道へ心を寄せているという噂もあった。


朧月夜は尚侍の職を辞した。

父は反対した。

姉も、宮中に残るよう命じた。


「院のおそばへ上がりなさい」


弘徽殿女御は言った。


「今ならば、正式な女御にもなれるでしょう」


朧月夜は笑った。


「私はもう、誰かの地位を得るために宮中へ入るつもりはございません」


「では、何をして生きるのです」


「自分の家を持ちます」


「女一人で?」


「女は、一人では家を持てないのですか」


朧月夜は、母から譲られた小さな邸へ移った。

荒れていた庭を整え、長く閉ざされていた部屋を開けた。

宮中を辞めた女房たち。

夫を亡くした女。

家の都合で望まぬ縁談を迫られている娘。

そのような者が、少しずつ集まった。


朧月夜は、彼女たちを哀れんで住まわせたのではない。

歌の上手な者には、歌を教えさせた。

文字を知る者には、文を書かせた。

琴を弾く者には、宴を任せた。

女たちは働き、自分の財を持った。


春になると、邸では夜ごと小さな宴が開かれた。

男も女も招いた。

けれど、誰を招くかは朧月夜が決めた。

帰ってほしい者には、夜が明ける前でも牛車を用意した。


その邸は、いつしか朧月殿と呼ばれるようになった。


◇


朧月殿で最初の大きな花宴を開いた夜、光源氏と朱雀院の二人が招かれた。


源氏は、見事な桜の枝を持ってきた。

朱雀院は、何も持たずに来た。


「院は、手土産もないのですか」


朧月夜が尋ねると、朱雀院は困ったように笑った。


「何を差し上げても、こちらにはすでにありそうでしたので」


「桜ならば、いくらあっても困りませんよ」


源氏が言った。


「散ったあとの片づけを、なさらない方は気楽でございますね」


朧月夜が返すと、周囲の女房たちが笑った。

源氏も苦笑した。


宴では歌が詠まれた。

源氏の歌は華やかで、誰もが感嘆した。

朱雀院の歌は、上手ではなかった。

けれど、約束した場所へ帰る月のことを詠んでいた。


「院は、随分とまっすぐな歌をお詠みになりますね」


朧月夜が言うと、朱雀院は答えた。


「回りくどく詠めば、また意味を取り違えられそうですから」


夜が更けると、客たちは帰っていった。


源氏は最後まで残った。

朱雀院も帰ろうとしなかった。


「お二人とも、そろそろお帰りくださいませ」


朧月夜が言った。


「どちらか一人を残しては?」


源氏が笑う。


「では、院を」


朧月夜が即座に答えると、源氏は目を見開いた。

朱雀院も驚いていた。


「冗談でございます」


朧月夜は扇で口元を隠した。


「お二人とも、お帰りください」


源氏は声を上げて笑った。


「昔よりも、ずっと手強くなりましたね」


「昔からでございます」


源氏は帰り際、朧月夜を振り返った。

その目には、惜しむ色があった。

けれど、追いすがることはなかった。


二人の春は、すでに過ぎたのだと、ようやく理解したのだろう。


◇


翌日の昼、朱雀院が再び訪れた。


夜ではなかった。

先触れを出し、正門から入った。

朧月夜は、庭に面した廂で院を迎えた。


「昨夜、お帰りいただいたばかりではございませんか」


「話し忘れたことがありました」


「文ではいけませんか」


「文では、あなたが読まずに置くかもしれません」


朧月夜は笑った。


「よく御存じで」


朱雀院は、彼女の前へ座った。

帝であった頃より、質素な衣をまとっている。


顔には疲れが残っていた。

それでも、目は穏やかだった。


「私は、近く仏門に入ろうと考えていました」


「伺っております」


「世を離れれば、迷わずに済むと思ったのです」


朧月夜は黙って聞いた。


「けれど、あなたに叱られたことを思い出しました」


「何をでしょう」


「望まぬことを誰かのせいにして、自分は優しかったのだと嘆くなと」


朱雀院は言った。


「仏門へ入ることさえ、私は逃げ道にしようとしていたのかもしれません」


「出家なさりたいのであれば、なさればよいのです」


「止めてはくださらないのですか」


「御自分でお決めになることでしょう」


朱雀院は苦笑した。


「やはり、あなたは手厳しい」


「それを聞くために、お越しになったのですか」


「いいえ」


朱雀院は背筋を伸ばした。


「あなたと、ともに暮らしたいのです」


朧月夜は、すぐには答えなかった。


庭では、昼の光の中を花びらが舞っている。

夜の桜とは違い、一枚一枚がはっきり見えた。


「院のお住まいへ上がれと?」


「いいえ」


朱雀院は首を振った。


「私が、こちらへ通います」


「院が?」


「あなたは、この邸を離れたくないでしょう」


「ええ」


「ここにいる方々も、今の暮らしを続けたいでしょう」


「はい」


「ならば、変えるべきではありません」


朱雀院は言った。


「あなたを私の暮らしへ入れるのではなく、私があなたの暮らしの中へ入れていただきたい」


朧月夜は院の顔を見た。


「私が、お断りしたら?」


「帰ります」


「二度とお越しにならないのですか」


朱雀院は少し考えた。


「宴へ招いていただければ、参ります」


「それだけ?」


「あなたを困らせてまで、そばにいたいとは申しません」


「つらくはありませんか」


「つらいでしょう」


院は正直に答えた。


「けれど、私がつらいからといって、あなたが望まぬ返事をする理由にはなりません」


かつて源氏は、待っていてほしいと言った。

父は、家のために従えと言った。

姉は、女に選ぶ権利はないと言った。

朱雀院だけが、自分の思いを告げたあと、朧月夜の返事を奪おうとしなかった。


「私は、源氏の君を愛しておりました」


朧月夜が言うと、朱雀院の顔がわずかに強張った。


「今も、嫌いではございません」


「はい」


「忘れることもないでしょう」


「分かっております」


「それでも?」


朱雀院は、庭へ目を向けた。


「私にも、忘れられないものがあります」


「何です」


「いつも、兄より劣ると言われてきたことです」


院は静かに笑った。


「けれど、忘れられないものがあることと、その中に住み続けることは違うのでしょう」


朧月夜は、院の横顔を見つめた。


「私は、あなたを誰かから奪いたいのではありません」


朱雀院は続けた。


「あなたが今日、誰といたいかを尋ねたいのです」


朧月夜は目を閉じた。


春の夜。

薄い月。

桜の下で、袖を引いた男。

あの出会いがなければ、自分はここにいなかったかもしれない。


けれど、あの夜へ戻りたいとは思わなかった。


朧月夜は目を開け、明るい庭を見た。


「昼にも、正門からお越しください」


院は笑った。


「今日のように?」


「はい」


「それは、容易なことです」


「容易なことを守れない方が、多いのです」


朱雀院は深く頷いた。


「約束いたします」


「では」


朧月夜は、院へ手を差し出した。


「明日もお越しくださいませ」


朱雀院は、その手を取った。


「正門から?」


「もちろんです」


◇


朱雀院は、約束どおり朧月殿へ通った。


夜だけではない。

朝にも。

雨の昼にも。

何もない夕暮れにも。

やがて、朧月夜は朱雀院の正式な女君として遇されることになった。

けれど、朧月殿を離れなかった。


邸に暮らす女たちも、そのまま残った。

朱雀院は、彼女たちの仕事へ口を出さなかった。

ただ、困ったことがあれば相談に乗った。

院が来る日は、門番も女房たちも、特別に慌てることはなくなった。


「院がお越しです」


その声に、朧月夜は鏡を見ることもなく立ち上がった。

会いたい人が、会うと約束した日に来る。

そのことが、何よりも美しいと思うようになった。


ある春の夜、二人は庭へ出た。

空には、薄い雲がかかっている。

月は照りすぎず、隠れきりもせず、桜の枝の向こうで淡く滲んでいた。


「初めてお会いした夜も、このような月でしたか」


朱雀院が尋ねた。

朧月夜は笑った。


「見ていらしたのですか」


「見てはおりません」


「では、なぜ」


「何度も、お話を聞きましたから」


「誰から?」


朱雀院は答えず、月を見上げた。

遠くで、牛車の音がした。


朧月夜は院の袖を取った。

かつて、自分の袖を引いた男がいた。

その手を振りほどかなかったことを、後悔してはいない。


あの恋は、朧月夜に、自分の心が誰のものでもないと教えた。

けれど今、彼女が袖を取ったのは、自分からだった。


「院」


「はい」


「今夜は、泊まっておいでになりますか」


朱雀院は、少し意外そうな顔をした。


「よろしいのですか」


「私がお尋ねしたのです」


「では、喜んで」


「明日の朝も、正門からお帰りくださいませ」


「裏門から逃げるつもりはありません」


二人は並んで歩いた。

桜の花びらが、肩へ落ちる。

昔の朧月夜は、夜の中でしか恋を選べなかった。


今は違う。

誰かに見つかることを恐れず。

誰かの許しを待たず。

自分が望む人の手を、自分から取ることができる。


月は、相変わらず朧だった。

けれど、二人の行く先は、もう曖昧ではなかった。

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