花守
【原作では】
花散里は、桐壺院の女御であった麗景殿女御の妹で、光源氏が折に触れて訪れる女君でした。
華やかな寵愛を受ける立場ではありませんでしたが、穏やかな人柄で源氏の信頼を得て、のちには夕霧の母代となります。
さらに六条院では夏の町に住み、源氏と穏やかな関係を保ちながら暮らします。
五月雨は、夜になってもやまなかった。
細い雨が蔀を打ち、軒から落ちる雫が、庭石の同じ場所を絶え間なく穿っている。
御簾の外には、闇が溜まっていた。
雨に濡れた橘の葉だけが、燈台の光を受けて鈍く光っている。
麗景殿女御の妹君――のちに花散里と呼ばれる女君は、火鉢のそばで香を焚いていた。
都では、花の盛りはとうに過ぎている。
それでも、この邸の橘には白い花が残っていた。
風が吹くたび、湿った夜気に甘い香りが混じる。
「源氏の君がお越しでございます」
女房の声に、花散里は顔を上げた。
驚きはしなかった。
光源氏は、忘れた頃にこの邸を訪れた。
華やかな宴のあと。
誰かと心がすれ違った夜。
宮中で思うようにならぬことがあった日。
彼はいつも、少し疲れた顔をして現れる。
花散里は、急いで鏡を見ることもなかった。
衣の襟だけを整え、御簾の外へ目を向けた。
「お通ししてください」
雨の匂いとともに、光源氏が入ってきた。
濡れた髪から、かすかに水が落ちている。
「今宵は、ひどい雨でございますね」
花散里が言うと、源氏は笑った。
「だからこそ、こちらへ来たくなったのです」
「晴れた夜には、お思い出しになりませんのね」
冗談のつもりだった。
けれど、源氏は少しだけ目を伏せた。
「耳が痛い」
花散里は女房へ、温かい飲み物を用意するよう命じた。
源氏は、御簾越しに庭の橘を眺めている。
「この香りを嗅ぐと、昔を思い出します」
やがて、源氏は歌を口にした。
橘の香をなつかしみほととぎす
花散る里をたづねてぞとふ
花散里は、静かに笑った。
「ほととぎすは、随分と気まぐれな鳥でございますね」
「来たことを喜んではくださらないのですか」
「喜んでおります」
それは嘘ではなかった。
源氏が訪れれば、邸は明るくなる。
女房たちも、久しぶりに華やいだ声を出す。
姉である麗景殿女御も、昔の宮中を思い出して嬉しそうにする。
「けれど、次にいつお越しになるかは、お尋ねいたしません」
花散里が言うと、源氏は黙った。
外では、雨が降り続いていた。
◇
源氏は、その夜も多くのことを話した。
宮中のこと。
親しい人との行き違い。
誰にも明かせぬ苦しみ。
花散里は、言葉を挟まず聞いた。
必要なときにだけ、短く答えた。
夜が明ける前、源氏は立ち上がった。
「あなたのところへ来ると、心が休まります」
「それは、ようございました」
「いつ来ても、何も変わらない」
源氏は穏やかに言った。
花散里は微笑んだ。
源氏が帰ったあと、女房たちが寝具を片づける。
雨は弱くなっていた。
暗い庭に、白い橘の花が幾つか落ちている。
何も変わらないのではない。
変わらないように、花散里が守っているのだった。
姉の薬を切らさぬこと。
減り続ける米を、冬まで持たせること。
古くなった衣を解き、若い女房の衣へ仕立て直すこと。
雨漏りの場所へ桶を置き、晴れれば職人を探すこと。
去りたいという女房を責めず、行く場所のない者は引き止めること。
誰も怯えずに眠れる邸を保つためには、多くのものが必要だった。
源氏は、それを知らない。
知らないからこそ、何も変わらないと言うことができた。
「姫様」
年老いた女房が、庭から戻ってきた。
手には、雨に打たれて折れた橘の枝がある。
「せっかく咲いておりましたのに」
花散里は枝を受け取った。
白い花は泥に汚れていた。
「水へ挿しておきましょう」
「もう長くは持ちません」
「それでも、今夜までは咲いております」
花散里は、折れた枝を小さな壺へ挿した。
◇
その年の夏、花散里の邸へ、一人の少女が預けられた。
名を小萩といった。
母を病で亡くし、父方の家にも引き取られなかった子だった。
少女の母は、かつて麗景殿女御に仕えていた。
頼る者を失った女房が、せめて数日だけでもと、小萩を連れてきたのである。
「すぐに、引き取り先を探します」
女房は何度も頭を下げた。
花散里は、少女の細い腕を見た。
衣の袖が余っている。
十分に食べていないのだろう。
「急ぐ必要はございません」
「ですが」
「部屋は空いております」
花散里は答えた。
「ここにいたい間は、いればよいのです」
小萩は、初めの数日、ほとんど口を利かなかった。
食事を残せば叱られると思うのか、苦しそうにすべて食べた。
夜になると、母を呼んで泣いた。
花散里は何も尋ねず、少女のそばへ座った。
泣き止むまで髪を撫でた。
ひと月が過ぎる頃には、小萩は庭を走るようになった。
橘の木の下で、女房たちと毬をついた。
笑い声が、古い邸の外まで聞こえた。
その声を聞いて、訪ねてきた男がいた。
藤原信澄という、中納言家の傍流に生まれた公達だった。
小萩の亡き母の兄にあたるという。
年は三十を少し過ぎている。
華やかな男ではなかった。
衣も香も控えめで、話す声は低かった。
「妹の子を引き取っていただいたと、今になって知りました」
信澄は、御簾の外で深く頭を下げた。
「すぐに迎えに来るべきところを」
「遠国へおいでだったと伺いました」
「はい」
信澄は、しばらく言葉を探していた。
「妹とは、長く行き来が途絶えておりました」
花散里は答えなかった。
その理由を尋ねるつもりもなかった。
「小萩を、連れて帰ろうと思います」
そのとき、庭で遊んでいた小萩が、信澄の姿を見た。
少女の顔から、笑みが消えた。
女房の後ろへ隠れる。
信澄は、伸ばしかけた手を止めた。
「私を覚えていないのでしょう」
「幼い頃に一度、お会いになっただけだとか」
「無理もありません」
信澄は小萩へ近づかなかった。
「小萩が嫌がるのであれば、今日は連れて帰りません」
花散里は、少し驚いた。
「よろしいのですか」
「私が親類であることと、あの子が私を頼れることは別でしょう」
信澄は、少女から距離を置いたまま言った。
「しばらく、通わせていただいてもよろしいでしょうか」
「小萩が望むのであれば」
「もちろんです」
その日、信澄は小萩へ、母が幼い頃に使っていたという小さな手箱を渡した。
近づかず、女房へ預けた。
そして、少女が箱を開けるのを遠くから見届けると、静かに帰っていった。
◇
信澄は、それから七日ごとに邸を訪れた。
来る前には、必ず文を寄越した。
小萩に会ってもよいか。
何か必要なものはないか。
花散里が断れば、無理に来ることはなかった。
初めのうち、小萩は女房の陰から出なかった。
やがて手箱の中に入っていた貝を、信澄へ見せるようになった。
次には、母から教わった歌を口にした。
夏の終わりには、信澄が帰るとき、門まで見送るようになった。
「叔父上は、次はいつお越しになりますか」
小萩が尋ねる。
「七日後に」
「雨でも?」
「雨でも」
「お仕事がお忙しくても?」
信澄は少し考えた。
「遅れるのであれば、先に文を送ります」
小萩は安心したように笑った。
花散里は、そのやり取りを御簾の内から聞いていた。
約束した日に来る。
来られなければ、その理由を伝える。
それだけのことが、ひどく珍しく思えた。
◇
秋になる頃、姉の麗景殿女御が寝込んだ。
熱は高くない。
けれど、食事をほとんど取らなくなった。
女房たちは、邸の奥を行き来した。
薬師を呼ぶにも、薬を買うにも金がかかる。
花散里は、残っていた衣の幾つかを売ることにした。
「こちらは、宮中におられた頃の御衣でございます」
女房が惜しそうに言った。
「姉上の命より大切な衣はございません」
花散里は答えた。
その話を、どこからか信澄が聞いた。
翌日、薬師と薬が邸へ送られてきた。
花散里は、すぐに返そうとした。
「受け取れません」
使者へ伝えると、その日の夕刻、信澄本人が訪れた。
「小萩のためです」
「小萩は病ではございません」
「この邸がなくなれば、あの子はまた居場所を失います」
「それでも」
「施しではありません」
信澄は、御簾の外へ帳面を差し出した。
「妹が遺した財の一部です。本来、小萩へ渡るものでした」
帳面には、小さな荘園から得られる収入が記されていた。
「妹の夫の家に預けたままになっていたものを、取り戻しました」
「では、小萩のためにお使いください」
「使っております」
信澄は答えた。
「小萩が、ここで暮らしたいと申しました」
花散里は黙った。
「この邸へ差し上げるのではありません。小萩の暮らしと学びのために使ってください」
「私が預かってもよいのですか」
「あなたより、安心して任せられる方を知りません」
花散里は帳面を見つめた。
信澄は、彼女を助けるという言い方をしなかった。
花散里の誇りを守るために、理由を整えてきたのだろう。
「ありがとうございます」
花散里は、初めて素直に頭を下げた。
◇
麗景殿女御は、少しずつ回復した。
小萩は、花散里のもとで文字や琴を学ぶことになった。
信澄は、少女へ会うために通い続けた。
やがて、小萩が用事で外出している日にも訪れるようになった。
「今日は、小萩はおりません」
花散里が言うと、信澄は困ったように黙った。
「御存じだったのでは?」
「はい」
「では、何の御用でしょう」
庭では、橘の実が色づき始めていた。
信澄は、しばらくその木を見ていた。
「あなたに、お会いしたかったのです」
花散里は扇を持つ手を止めた。
「私に?」
「はい」
信澄は、それ以上の言葉を急がなかった。
「この邸へ来ると、皆が穏やかな顔をしております」
「そうでしょうか」
「女房も、小萩も。御病気の女御様も」
信澄は言った。
「叱られぬよう息を潜めている者が、一人もいない」
花散里は、庭へ目を向けた。
「私は、何もしておりません」
「何もせずに、このような場所ができるとは思いません」
源氏は、この邸を何も変わらないと言った。
信澄は、変わらないように守られていることへ気づいた。
「あなたは、多くの方を迎えてこられたのでしょう」
「行く場所のない者が、たまたま集まっただけです」
「そして、誰も追い出さなかった」
信澄は穏やかに言った。
「けれど、あなた御自身は、どこへ帰るのですか」
花散里は答えられなかった。
この邸が自分の家だった。
姉がいる。
女房たちがいる。
小萩もいる。
けれど、信澄が尋ねているのは、建物のことではないと分かった。
「ここが、私の居場所です」
「では」
信澄は、少し迷ってから言った。
「あなたが疲れたとき、誰が迎えるのですか」
庭から、熟した橘の実が落ちた。
葉に当たり、幾度か鈍い音を立てて、草の中へ沈んだ。
花散里は答えなかった。
◇
その冬、光源氏が幼い夕霧を連れてきた。
葵の上を亡くした若君は、以前より口数が少なくなっていた。
大人の顔をよく見る。
相手が自分を疎んじていないか、確かめるような目だった。
「この子を、しばらく預かっていただけませんか」
源氏が言った。
「あなたならば、安心です」
花散里は、夕霧の前へ膝をついた。
「こちらで暮らすことを、お望みですか」
夕霧は父を見た。
それから、花散里を見た。
「分かりません」
幼い声だった。
「では、分かるまでおいでなさい」
花散里は答えた。
「帰りたいときには、そうおっしゃってよいのですよ」
夕霧は、少しだけ目を見開いた。
その夜から、夕霧も邸で暮らし始めた。
花散里は、母の代わりになろうとはしなかった。
亡き母のことを忘れさせようともしなかった。
夕霧が話したければ聞いた。
話したくなければ、そばに座った。
小萩と夕霧は、初めのうちは互いを警戒した。
やがて、庭で同じ毬を追うようになった。
邸には、以前より多くの笑い声が響いた。
源氏は満足したように言った。
「やはり、あなたにお願いしてよかった」
「若君が、ここをお選びになったのです」
「同じことでしょう」
「違います」
花散里は静かに言った。
源氏は、少し驚いた顔をした。
「この子は、誰かに置かれるものではございません」
花散里は夕霧の髪を撫でた。
「自分が安心できる場所を、自分で選んでよいのです」
源氏は、しばらく花散里を見つめた。
◇
春になり、源氏は六条院へ花散里を迎えたいと申し出た。
夏の町を任せたいという。
夕霧を育てるためにも、そのほうがよい。
暮らしに不自由をさせることもない。
源氏は、そう話した。
「夏の町を、私に?」
「あなたにふさわしい、穏やかな場所です」
花散里は、御簾の外へ広がる庭を見た。
古い橘の木。
雨のたびに濡れる渡殿。
姉が長く暮らした部屋。
小萩と夕霧が走る庭。
「少し、考えさせてくださいませ」
源氏は意外そうだった。
花散里が断るとは、考えていなかったのだろう。
「何か、不満がありますか」
「いいえ」
「では、なぜ」
花散里は、すぐには答えなかった。
源氏の差し出すものは、いつも美しい。
立派な邸。
不自由のない暮らし。
高貴な人々の中での確かな居場所。
けれど、その場所で花散里に求められるのは、やはり同じものだった。
皆を穏やかに迎えること。
夕霧を育てること。
疲れた源氏が帰ってくる場所になること。
「殿は、私に何をお望みなのでしょう」
「何を、とは」
「若君を育てることですか。夏の町を守ることですか。それとも、お疲れになった夜に、何も尋ねずお迎えすることですか」
源氏は言葉を失った。
「私は、それらが嫌なのではございません」
花散里は続けた。
「夕霧様を大切に思っております。殿がお越しになれば、嬉しいとも思います」
「ならば」
「けれど、それだけが私のすべてではございません」
外で、ほととぎすが一声鳴いた。
遠く、短い声だった。
「私は、ここに残りとうございます」
「この古い邸に?」
「はい」
「なぜ」
花散里は庭を見た。
「ここならば、私が誰を迎えるかを、自分で決めることができます」
源氏は長く黙っていた。
「私のところでは、それができないと?」
「殿の邸では、殿の御心がすべての始まりになります」
花散里は穏やかに言った。
「私は一度くらい、自分の心から始まる場所を持ちたいのです」
◇
源氏が帰ったあと、花散里は橘の木の下に立った。
白い花は、すでに散り始めている。
地面に落ちた花弁が、雨上がりの土に貼りついていた。
「六条院へは、いらっしゃらないのですか」
背後から声がした。
信澄だった。
小萩を迎えに来たのだという。
「噂を、お聞きになったのですね」
「はい」
「皆、私が参るものと思っているようです」
「私も、そう思っておりました」
花散里は振り返った。
信澄は、少しだけ寂しそうに見えた。
「行ってほしくないと、お思いでしたか」
「はい」
返事は早かった。
花散里は目を見開いた。
「けれど、私に止める権利はございません」
「また、そのようなことを」
「本当のことです」
信澄は、橘の木を見上げた。
「私は、あなたが選んだ場所にいたいと思っております」
花散里は、落ちた花を一つ拾った。
雨に濡れ、花弁の端が透けている。
「私が、この邸に残ると申したら?」
「通います」
「雨の日も?」
「雨の日も」
「御仕事がお忙しい日も?」
「遅れるのであれば、先に文を送ります」
小萩と交わした約束と、同じ言葉だった。
花散里は、思わず笑った。
「私は、皆の世話ばかりをしております」
「存じております」
「邸のことも、姉のことも。小萩も、夕霧様も」
「はい」
「あなたまで、私に何かを求めるのではございませんか」
信澄は、しばらく考えた。
「求めております」
「何をです」
「嬉しい日にも、悲しい日にも、あなたにお会いしたい」
信澄は言った。
「そして、あなたが疲れた日には、私がお迎えしたい」
花散里は何も言えなかった。
「あなたに、私の家を守ってほしいのではありません」
信澄は続けた。
「あなたが守ってきたものを、私もともに守りたいのです」
「小萩のためではなく?」
「小萩は、どこで暮らすかを自分で選ぶでしょう」
「では、なぜ私を」
信澄は、花散里をまっすぐに見た。
「この邸へ来ると、私は穏やかになります」
花散里の胸が、わずかに沈んだ。
源氏と同じ言葉だった。
けれど信澄は、すぐに続けた。
「けれど、それだけではありません」
「ほかに、何が?」
「嬉しいことがあったとき、最初にあなたへ話したいと思います」
庭に風が吹いた。
橘の花が、幾つか枝を離れた。
「疲れたときだけ、あなたを訪ねる男にはなりたくありません」
信澄の声は静かだった。
「何もない日にも、あなたのそばへ帰りたいのです」
花散里は、手の中の花を見た。
長いあいだ、誰かに必要とされることが、自分の幸せだと思っていた。
頼られる。
任される。
安心すると言われる。
それは嬉しいことだった。
けれど、花散里自身に会いたいと言われたことは、ほとんどなかった。
「私と、夫婦になっていただけませんか」
信澄が言った。
「この邸を離れる必要はございません。私が参ります」
「私は、美しい女ではございません」
「存じております」
あまりに早い返事に、花散里は眉を上げた。
信澄は慌てた。
「いえ、そのような意味では」
花散里は扇で口元を隠した。
「冗談でございます」
「あなたも、そのようなことをおっしゃるのですね」
「時には」
二人の間に、静かな笑いが生まれた。
「一つだけ、お約束ください」
花散里が言った。
「何でしょう」
「御自分が苦しいときだけ、私を思い出さないこと」
信澄は頷いた。
「約束いたします」
「嬉しい日にも?」
「はい」
「何もない日にも?」
「その日が、一番多くなるでしょう」
花散里は、手の中の橘の花を信澄へ差し出した。
「では、その何もない日を、御一緒いたしましょう」
◇
その年の夏、花散里は信澄と夫婦になった。
盛大な宴は開かなかった。
三夜の餅を用意し、親しい者だけが集まった。
麗景殿女御は、久しぶりに華やかな衣をまとった。
小萩は、誰よりも忙しそうに邸の中を走り回った。
夕霧は、信澄を長いあいだ眺めていた。
「あなたは、こちらで暮らすのですか」
「お許しいただけるなら」
信澄が答える。
「私は、花散里様の子ではありません」
夕霧は、少し強い口調で言った。
「存じております」
「母の代わりではないのです」
「それも存じております」
信澄は夕霧の前へ膝をついた。
「あなたには、あなたの母君がおられます」
夕霧は黙った。
「私は、その方に代わるつもりはございません」
「では、何をするのです」
「あなたが困ったときには、話を聞きます」
信澄は言った。
「話したくないときには、そばにおります」
夕霧は花散里を見た。
「花散里様と、同じですね」
「それは、何よりの褒め言葉です」
信澄が答えると、夕霧は少しだけ笑った。
◇
信澄は、約束した日には必ず訪れた。
雨の日にも。
雪の日にも。
何も特別なことのない日にも。
宮中で失敗した日には、そのことを話した。
役目を褒められた日にも、一番に花散里へ知らせた。
ときには、話すことさえなかった。
二人で庭を眺めた。
小萩と夕霧が言い争う声を聞いた。
麗景殿女御が眠ったあと、灯を落とした部屋で、同じ雨音を聞いた。
ある日、光源氏は明るいうちに現れた。
手には、珍しい橘の苗があった。
「何かおつらいことがあったのですか」
花散里が尋ねると、源氏は苦笑した。
「信澄殿から聞きました」
「何をです」
「嬉しい日に、来るべきだと」
源氏は苗を庭へ置いた。
「夕霧が、学問でよい成績を収めたのです」
花散里は、夕霧を見た。
少年は照れたように顔を背けている。
「それは、おめでとうございます」
「あなたに、知らせたかった」
源氏は言った。
花散里は静かに笑った。
「では、今夜は皆でお祝いをいたしましょう」
◇
幾年かが過ぎた。
小萩は美しい字を書く娘に育った。
夕霧は、母の記憶を忘れることなく、まっすぐな青年になった。
麗景殿女御は、穏やかな日々の中で年を重ねた。
行く場所を失った女房や幼い子どもが訪れると、花散里は変わらず迎え入れた。
けれど、以前とは違うことが一つあった。
何もかもを一人で抱える必要はなかった。
米が足りなければ、信澄へ相談した。
屋根が傷めば、ともに職人を探した。
悲しい日には、悲しいと口にした。
疲れた日には、誰かの話を聞く前に、少し休んだ。
ある初夏の夕暮れ。
庭の橘が、白い花をつけていた。
ほととぎすが、遠い木立で鳴いている。
花散里は廂に座り、散った花を拾っていた。
信澄が、宮中から戻ってきた。
「今日は、随分とお早いのですね」
「何もない日でしたので」
「何もないのに、お越しになったのですか」
「約束しましたから」
信澄は、花散里の隣へ座った。
風が吹いた。
橘の花が、二人の前へ静かに落ちる。
信澄が、その一つを拾った。
「花が散ってしまいますね」
「ええ」
「惜しくはありませんか」
花散里は、枝の間に残る白い花を見た。
地面へ落ちた花からも、まだ甘い香りがしている。
「花は、いつか散るものでございます」
「では、何を守るのです」
花散里は、明かりのともり始めた邸を振り返った。
姉の声。
小萩の笑い声。
夕霧が書物を読む声。
女房たちが夕餉の支度をする音。
そこには、今日も帰ってきた人がいる。
「花が散ったあとにも、残るものを」
花散里は答えた。
信澄は、彼女の手を取った。
かつて花散里は、誰かが疲れたときに訪れる里だった。
今は違う。
嬉しい日にも。
何もない日にも。
彼女を目指して帰ってくる人がいる。
庭では、橘の花が一つ、また一つと散っていた。
けれど、その香りは、暮れゆく邸の中にいつまでも残っていた。




