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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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7/19

花守

【原作では】

花散里は、桐壺院の女御であった麗景殿女御の妹で、光源氏が折に触れて訪れる女君でした。

華やかな寵愛を受ける立場ではありませんでしたが、穏やかな人柄で源氏の信頼を得て、のちには夕霧の母代となります。

さらに六条院では夏の町に住み、源氏と穏やかな関係を保ちながら暮らします。

五月雨は、夜になってもやまなかった。

細い雨が蔀を打ち、軒から落ちる雫が、庭石の同じ場所を絶え間なく穿っている。


御簾の外には、闇が溜まっていた。

雨に濡れた橘の葉だけが、燈台の光を受けて鈍く光っている。


麗景殿女御の妹君――のちに花散里と呼ばれる女君は、火鉢のそばで香を焚いていた。


都では、花の盛りはとうに過ぎている。

それでも、この邸の橘には白い花が残っていた。

風が吹くたび、湿った夜気に甘い香りが混じる。


「源氏の君がお越しでございます」


女房の声に、花散里は顔を上げた。

驚きはしなかった。

光源氏は、忘れた頃にこの邸を訪れた。


華やかな宴のあと。

誰かと心がすれ違った夜。

宮中で思うようにならぬことがあった日。

彼はいつも、少し疲れた顔をして現れる。

花散里は、急いで鏡を見ることもなかった。

衣の襟だけを整え、御簾の外へ目を向けた。


「お通ししてください」


雨の匂いとともに、光源氏が入ってきた。

濡れた髪から、かすかに水が落ちている。


「今宵は、ひどい雨でございますね」


花散里が言うと、源氏は笑った。


「だからこそ、こちらへ来たくなったのです」


「晴れた夜には、お思い出しになりませんのね」


冗談のつもりだった。

けれど、源氏は少しだけ目を伏せた。


「耳が痛い」


花散里は女房へ、温かい飲み物を用意するよう命じた。

源氏は、御簾越しに庭の橘を眺めている。


「この香りを嗅ぐと、昔を思い出します」


やがて、源氏は歌を口にした。


橘の香をなつかしみほととぎす

花散る里をたづねてぞとふ


花散里は、静かに笑った。


「ほととぎすは、随分と気まぐれな鳥でございますね」


「来たことを喜んではくださらないのですか」


「喜んでおります」


それは嘘ではなかった。

源氏が訪れれば、邸は明るくなる。

女房たちも、久しぶりに華やいだ声を出す。

姉である麗景殿女御も、昔の宮中を思い出して嬉しそうにする。


「けれど、次にいつお越しになるかは、お尋ねいたしません」


花散里が言うと、源氏は黙った。

外では、雨が降り続いていた。


◇


源氏は、その夜も多くのことを話した。


宮中のこと。

親しい人との行き違い。

誰にも明かせぬ苦しみ。

花散里は、言葉を挟まず聞いた。

必要なときにだけ、短く答えた。


夜が明ける前、源氏は立ち上がった。


「あなたのところへ来ると、心が休まります」


「それは、ようございました」


「いつ来ても、何も変わらない」


源氏は穏やかに言った。

花散里は微笑んだ。

源氏が帰ったあと、女房たちが寝具を片づける。


雨は弱くなっていた。

暗い庭に、白い橘の花が幾つか落ちている。

何も変わらないのではない。

変わらないように、花散里が守っているのだった。


姉の薬を切らさぬこと。

減り続ける米を、冬まで持たせること。

古くなった衣を解き、若い女房の衣へ仕立て直すこと。

雨漏りの場所へ桶を置き、晴れれば職人を探すこと。

去りたいという女房を責めず、行く場所のない者は引き止めること。

誰も怯えずに眠れる邸を保つためには、多くのものが必要だった。


源氏は、それを知らない。

知らないからこそ、何も変わらないと言うことができた。


「姫様」


年老いた女房が、庭から戻ってきた。

手には、雨に打たれて折れた橘の枝がある。


「せっかく咲いておりましたのに」


花散里は枝を受け取った。

白い花は泥に汚れていた。


「水へ挿しておきましょう」


「もう長くは持ちません」


「それでも、今夜までは咲いております」


花散里は、折れた枝を小さな壺へ挿した。


◇


その年の夏、花散里の邸へ、一人の少女が預けられた。


名を小萩といった。

母を病で亡くし、父方の家にも引き取られなかった子だった。

少女の母は、かつて麗景殿女御に仕えていた。

頼る者を失った女房が、せめて数日だけでもと、小萩を連れてきたのである。


「すぐに、引き取り先を探します」


女房は何度も頭を下げた。

花散里は、少女の細い腕を見た。

衣の袖が余っている。

十分に食べていないのだろう。


「急ぐ必要はございません」


「ですが」


「部屋は空いております」


花散里は答えた。


「ここにいたい間は、いればよいのです」


小萩は、初めの数日、ほとんど口を利かなかった。

食事を残せば叱られると思うのか、苦しそうにすべて食べた。


夜になると、母を呼んで泣いた。

花散里は何も尋ねず、少女のそばへ座った。

泣き止むまで髪を撫でた。


ひと月が過ぎる頃には、小萩は庭を走るようになった。

橘の木の下で、女房たちと毬をついた。

笑い声が、古い邸の外まで聞こえた。


その声を聞いて、訪ねてきた男がいた。


藤原信澄という、中納言家の傍流に生まれた公達だった。

小萩の亡き母の兄にあたるという。

年は三十を少し過ぎている。

華やかな男ではなかった。

衣も香も控えめで、話す声は低かった。


「妹の子を引き取っていただいたと、今になって知りました」


信澄は、御簾の外で深く頭を下げた。


「すぐに迎えに来るべきところを」


「遠国へおいでだったと伺いました」


「はい」


信澄は、しばらく言葉を探していた。


「妹とは、長く行き来が途絶えておりました」


花散里は答えなかった。

その理由を尋ねるつもりもなかった。


「小萩を、連れて帰ろうと思います」


そのとき、庭で遊んでいた小萩が、信澄の姿を見た。

少女の顔から、笑みが消えた。

女房の後ろへ隠れる。

信澄は、伸ばしかけた手を止めた。


「私を覚えていないのでしょう」


「幼い頃に一度、お会いになっただけだとか」


「無理もありません」


信澄は小萩へ近づかなかった。


「小萩が嫌がるのであれば、今日は連れて帰りません」


花散里は、少し驚いた。


「よろしいのですか」


「私が親類であることと、あの子が私を頼れることは別でしょう」


信澄は、少女から距離を置いたまま言った。


「しばらく、通わせていただいてもよろしいでしょうか」


「小萩が望むのであれば」


「もちろんです」


その日、信澄は小萩へ、母が幼い頃に使っていたという小さな手箱を渡した。

近づかず、女房へ預けた。

そして、少女が箱を開けるのを遠くから見届けると、静かに帰っていった。


◇


信澄は、それから七日ごとに邸を訪れた。

来る前には、必ず文を寄越した。


小萩に会ってもよいか。

何か必要なものはないか。

花散里が断れば、無理に来ることはなかった。


初めのうち、小萩は女房の陰から出なかった。

やがて手箱の中に入っていた貝を、信澄へ見せるようになった。

次には、母から教わった歌を口にした。

夏の終わりには、信澄が帰るとき、門まで見送るようになった。


「叔父上は、次はいつお越しになりますか」


小萩が尋ねる。


「七日後に」


「雨でも?」


「雨でも」


「お仕事がお忙しくても?」


信澄は少し考えた。


「遅れるのであれば、先に文を送ります」


小萩は安心したように笑った。

花散里は、そのやり取りを御簾の内から聞いていた。


約束した日に来る。

来られなければ、その理由を伝える。

それだけのことが、ひどく珍しく思えた。


◇


秋になる頃、姉の麗景殿女御が寝込んだ。


熱は高くない。

けれど、食事をほとんど取らなくなった。

女房たちは、邸の奥を行き来した。

薬師を呼ぶにも、薬を買うにも金がかかる。

花散里は、残っていた衣の幾つかを売ることにした。


「こちらは、宮中におられた頃の御衣でございます」


女房が惜しそうに言った。


「姉上の命より大切な衣はございません」


花散里は答えた。

その話を、どこからか信澄が聞いた。


翌日、薬師と薬が邸へ送られてきた。

花散里は、すぐに返そうとした。


「受け取れません」


使者へ伝えると、その日の夕刻、信澄本人が訪れた。


「小萩のためです」


「小萩は病ではございません」


「この邸がなくなれば、あの子はまた居場所を失います」


「それでも」


「施しではありません」


信澄は、御簾の外へ帳面を差し出した。


「妹が遺した財の一部です。本来、小萩へ渡るものでした」


帳面には、小さな荘園から得られる収入が記されていた。


「妹の夫の家に預けたままになっていたものを、取り戻しました」


「では、小萩のためにお使いください」


「使っております」


信澄は答えた。


「小萩が、ここで暮らしたいと申しました」


花散里は黙った。


「この邸へ差し上げるのではありません。小萩の暮らしと学びのために使ってください」


「私が預かってもよいのですか」


「あなたより、安心して任せられる方を知りません」


花散里は帳面を見つめた。

信澄は、彼女を助けるという言い方をしなかった。

花散里の誇りを守るために、理由を整えてきたのだろう。


「ありがとうございます」


花散里は、初めて素直に頭を下げた。


◇


麗景殿女御は、少しずつ回復した。


小萩は、花散里のもとで文字や琴を学ぶことになった。

信澄は、少女へ会うために通い続けた。

やがて、小萩が用事で外出している日にも訪れるようになった。


「今日は、小萩はおりません」


花散里が言うと、信澄は困ったように黙った。


「御存じだったのでは?」


「はい」


「では、何の御用でしょう」


庭では、橘の実が色づき始めていた。

信澄は、しばらくその木を見ていた。


「あなたに、お会いしたかったのです」


花散里は扇を持つ手を止めた。


「私に?」


「はい」


信澄は、それ以上の言葉を急がなかった。


「この邸へ来ると、皆が穏やかな顔をしております」


「そうでしょうか」


「女房も、小萩も。御病気の女御様も」


信澄は言った。


「叱られぬよう息を潜めている者が、一人もいない」


花散里は、庭へ目を向けた。


「私は、何もしておりません」


「何もせずに、このような場所ができるとは思いません」


源氏は、この邸を何も変わらないと言った。

信澄は、変わらないように守られていることへ気づいた。


「あなたは、多くの方を迎えてこられたのでしょう」


「行く場所のない者が、たまたま集まっただけです」


「そして、誰も追い出さなかった」


信澄は穏やかに言った。


「けれど、あなた御自身は、どこへ帰るのですか」


花散里は答えられなかった。


この邸が自分の家だった。

姉がいる。

女房たちがいる。

小萩もいる。

けれど、信澄が尋ねているのは、建物のことではないと分かった。


「ここが、私の居場所です」


「では」


信澄は、少し迷ってから言った。


「あなたが疲れたとき、誰が迎えるのですか」


庭から、熟した橘の実が落ちた。

葉に当たり、幾度か鈍い音を立てて、草の中へ沈んだ。


花散里は答えなかった。


◇


その冬、光源氏が幼い夕霧を連れてきた。


葵の上を亡くした若君は、以前より口数が少なくなっていた。

大人の顔をよく見る。

相手が自分を疎んじていないか、確かめるような目だった。


「この子を、しばらく預かっていただけませんか」


源氏が言った。


「あなたならば、安心です」


花散里は、夕霧の前へ膝をついた。


「こちらで暮らすことを、お望みですか」


夕霧は父を見た。

それから、花散里を見た。


「分かりません」


幼い声だった。


「では、分かるまでおいでなさい」


花散里は答えた。


「帰りたいときには、そうおっしゃってよいのですよ」


夕霧は、少しだけ目を見開いた。

その夜から、夕霧も邸で暮らし始めた。


花散里は、母の代わりになろうとはしなかった。

亡き母のことを忘れさせようともしなかった。

夕霧が話したければ聞いた。

話したくなければ、そばに座った。


小萩と夕霧は、初めのうちは互いを警戒した。

やがて、庭で同じ毬を追うようになった。

邸には、以前より多くの笑い声が響いた。


源氏は満足したように言った。


「やはり、あなたにお願いしてよかった」


「若君が、ここをお選びになったのです」


「同じことでしょう」


「違います」


花散里は静かに言った。

源氏は、少し驚いた顔をした。


「この子は、誰かに置かれるものではございません」


花散里は夕霧の髪を撫でた。


「自分が安心できる場所を、自分で選んでよいのです」


源氏は、しばらく花散里を見つめた。


◇


春になり、源氏は六条院へ花散里を迎えたいと申し出た。

夏の町を任せたいという。

夕霧を育てるためにも、そのほうがよい。

暮らしに不自由をさせることもない。


源氏は、そう話した。


「夏の町を、私に?」


「あなたにふさわしい、穏やかな場所です」


花散里は、御簾の外へ広がる庭を見た。


古い橘の木。

雨のたびに濡れる渡殿。

姉が長く暮らした部屋。

小萩と夕霧が走る庭。


「少し、考えさせてくださいませ」


源氏は意外そうだった。

花散里が断るとは、考えていなかったのだろう。


「何か、不満がありますか」


「いいえ」


「では、なぜ」


花散里は、すぐには答えなかった。

源氏の差し出すものは、いつも美しい。


立派な邸。

不自由のない暮らし。

高貴な人々の中での確かな居場所。

けれど、その場所で花散里に求められるのは、やはり同じものだった。


皆を穏やかに迎えること。

夕霧を育てること。

疲れた源氏が帰ってくる場所になること。


「殿は、私に何をお望みなのでしょう」


「何を、とは」


「若君を育てることですか。夏の町を守ることですか。それとも、お疲れになった夜に、何も尋ねずお迎えすることですか」


源氏は言葉を失った。


「私は、それらが嫌なのではございません」


花散里は続けた。


「夕霧様を大切に思っております。殿がお越しになれば、嬉しいとも思います」


「ならば」


「けれど、それだけが私のすべてではございません」


外で、ほととぎすが一声鳴いた。

遠く、短い声だった。


「私は、ここに残りとうございます」


「この古い邸に?」


「はい」


「なぜ」


花散里は庭を見た。


「ここならば、私が誰を迎えるかを、自分で決めることができます」


源氏は長く黙っていた。


「私のところでは、それができないと?」


「殿の邸では、殿の御心がすべての始まりになります」


花散里は穏やかに言った。


「私は一度くらい、自分の心から始まる場所を持ちたいのです」


◇


源氏が帰ったあと、花散里は橘の木の下に立った。

白い花は、すでに散り始めている。

地面に落ちた花弁が、雨上がりの土に貼りついていた。


「六条院へは、いらっしゃらないのですか」


背後から声がした。

信澄だった。

小萩を迎えに来たのだという。


「噂を、お聞きになったのですね」


「はい」


「皆、私が参るものと思っているようです」


「私も、そう思っておりました」


花散里は振り返った。

信澄は、少しだけ寂しそうに見えた。


「行ってほしくないと、お思いでしたか」


「はい」


返事は早かった。

花散里は目を見開いた。


「けれど、私に止める権利はございません」


「また、そのようなことを」


「本当のことです」


信澄は、橘の木を見上げた。


「私は、あなたが選んだ場所にいたいと思っております」


花散里は、落ちた花を一つ拾った。

雨に濡れ、花弁の端が透けている。


「私が、この邸に残ると申したら?」


「通います」


「雨の日も?」


「雨の日も」


「御仕事がお忙しい日も?」


「遅れるのであれば、先に文を送ります」


小萩と交わした約束と、同じ言葉だった。

花散里は、思わず笑った。


「私は、皆の世話ばかりをしております」


「存じております」


「邸のことも、姉のことも。小萩も、夕霧様も」


「はい」


「あなたまで、私に何かを求めるのではございませんか」


信澄は、しばらく考えた。


「求めております」


「何をです」


「嬉しい日にも、悲しい日にも、あなたにお会いしたい」


信澄は言った。


「そして、あなたが疲れた日には、私がお迎えしたい」


花散里は何も言えなかった。


「あなたに、私の家を守ってほしいのではありません」


信澄は続けた。


「あなたが守ってきたものを、私もともに守りたいのです」


「小萩のためではなく?」


「小萩は、どこで暮らすかを自分で選ぶでしょう」


「では、なぜ私を」


信澄は、花散里をまっすぐに見た。


「この邸へ来ると、私は穏やかになります」


花散里の胸が、わずかに沈んだ。

源氏と同じ言葉だった。

けれど信澄は、すぐに続けた。


「けれど、それだけではありません」


「ほかに、何が?」


「嬉しいことがあったとき、最初にあなたへ話したいと思います」


庭に風が吹いた。

橘の花が、幾つか枝を離れた。


「疲れたときだけ、あなたを訪ねる男にはなりたくありません」


信澄の声は静かだった。


「何もない日にも、あなたのそばへ帰りたいのです」


花散里は、手の中の花を見た。

長いあいだ、誰かに必要とされることが、自分の幸せだと思っていた。


頼られる。

任される。

安心すると言われる。

それは嬉しいことだった。


けれど、花散里自身に会いたいと言われたことは、ほとんどなかった。


「私と、夫婦になっていただけませんか」


信澄が言った。


「この邸を離れる必要はございません。私が参ります」


「私は、美しい女ではございません」


「存じております」


あまりに早い返事に、花散里は眉を上げた。

信澄は慌てた。


「いえ、そのような意味では」


花散里は扇で口元を隠した。


「冗談でございます」


「あなたも、そのようなことをおっしゃるのですね」


「時には」


二人の間に、静かな笑いが生まれた。


「一つだけ、お約束ください」


花散里が言った。


「何でしょう」


「御自分が苦しいときだけ、私を思い出さないこと」


信澄は頷いた。


「約束いたします」


「嬉しい日にも?」


「はい」


「何もない日にも?」


「その日が、一番多くなるでしょう」


花散里は、手の中の橘の花を信澄へ差し出した。


「では、その何もない日を、御一緒いたしましょう」


◇


その年の夏、花散里は信澄と夫婦になった。


盛大な宴は開かなかった。

三夜の餅を用意し、親しい者だけが集まった。

麗景殿女御は、久しぶりに華やかな衣をまとった。


小萩は、誰よりも忙しそうに邸の中を走り回った。

夕霧は、信澄を長いあいだ眺めていた。


「あなたは、こちらで暮らすのですか」


「お許しいただけるなら」


信澄が答える。


「私は、花散里様の子ではありません」


夕霧は、少し強い口調で言った。


「存じております」


「母の代わりではないのです」


「それも存じております」


信澄は夕霧の前へ膝をついた。


「あなたには、あなたの母君がおられます」


夕霧は黙った。


「私は、その方に代わるつもりはございません」


「では、何をするのです」


「あなたが困ったときには、話を聞きます」


信澄は言った。


「話したくないときには、そばにおります」


夕霧は花散里を見た。


「花散里様と、同じですね」


「それは、何よりの褒め言葉です」


信澄が答えると、夕霧は少しだけ笑った。


◇


信澄は、約束した日には必ず訪れた。


雨の日にも。

雪の日にも。

何も特別なことのない日にも。

宮中で失敗した日には、そのことを話した。

役目を褒められた日にも、一番に花散里へ知らせた。

ときには、話すことさえなかった。


二人で庭を眺めた。


小萩と夕霧が言い争う声を聞いた。

麗景殿女御が眠ったあと、灯を落とした部屋で、同じ雨音を聞いた。


ある日、光源氏は明るいうちに現れた。

手には、珍しい橘の苗があった。


「何かおつらいことがあったのですか」


花散里が尋ねると、源氏は苦笑した。


「信澄殿から聞きました」


「何をです」


「嬉しい日に、来るべきだと」


源氏は苗を庭へ置いた。


「夕霧が、学問でよい成績を収めたのです」


花散里は、夕霧を見た。

少年は照れたように顔を背けている。


「それは、おめでとうございます」


「あなたに、知らせたかった」


源氏は言った。

花散里は静かに笑った。


「では、今夜は皆でお祝いをいたしましょう」


◇


幾年かが過ぎた。


小萩は美しい字を書く娘に育った。

夕霧は、母の記憶を忘れることなく、まっすぐな青年になった。

麗景殿女御は、穏やかな日々の中で年を重ねた。

行く場所を失った女房や幼い子どもが訪れると、花散里は変わらず迎え入れた。


けれど、以前とは違うことが一つあった。

何もかもを一人で抱える必要はなかった。

米が足りなければ、信澄へ相談した。

屋根が傷めば、ともに職人を探した。

悲しい日には、悲しいと口にした。

疲れた日には、誰かの話を聞く前に、少し休んだ。


ある初夏の夕暮れ。

庭の橘が、白い花をつけていた。

ほととぎすが、遠い木立で鳴いている。

花散里は廂に座り、散った花を拾っていた。

信澄が、宮中から戻ってきた。


「今日は、随分とお早いのですね」


「何もない日でしたので」


「何もないのに、お越しになったのですか」


「約束しましたから」


信澄は、花散里の隣へ座った。


風が吹いた。

橘の花が、二人の前へ静かに落ちる。

信澄が、その一つを拾った。


「花が散ってしまいますね」


「ええ」


「惜しくはありませんか」


花散里は、枝の間に残る白い花を見た。

地面へ落ちた花からも、まだ甘い香りがしている。


「花は、いつか散るものでございます」


「では、何を守るのです」


花散里は、明かりのともり始めた邸を振り返った。


姉の声。

小萩の笑い声。

夕霧が書物を読む声。

女房たちが夕餉の支度をする音。

そこには、今日も帰ってきた人がいる。


「花が散ったあとにも、残るものを」


花散里は答えた。

信澄は、彼女の手を取った。

かつて花散里は、誰かが疲れたときに訪れる里だった。


今は違う。

嬉しい日にも。

何もない日にも。

彼女を目指して帰ってくる人がいる。


庭では、橘の花が一つ、また一つと散っていた。

けれど、その香りは、暮れゆく邸の中にいつまでも残っていた。

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