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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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6/19

海琴

【原作では】

明石の君は、明石入道の一人娘で、須磨から明石へ移った光源氏と出会い、契りを結びます。

源氏が都へ戻った後に娘を産み、のちに母子で都に近い大堰へ移り住みます。

しかし、娘の将来のため、三歳のころ紫の上の養女とすることを受け入れ、母子は離れて暮らすことになります。

夜になると、明石の海は黒くなった。


月のない夜には、空と海との境も消える。

浜へ寄せる波だけが、白く砕けては闇の中へ戻っていった。


ざあ、と一度。

少し間を置いて、もう一度。


明石の君は、御簾の内で琴を弾いていた。

海から吹く風が、燈台の火を細く揺らしている。

几帳の端が持ち上がるたび、湿った塩の匂いが室内へ入り込んだ。


琴は、母から受け継いだものだった。

都で作られた古い琴である。

長く海辺に置かれていたため、木は潮を吸い、ところどころ色が変わっていた。


それでも音は澄んでいた。

低い音を鳴らすと、海の底に沈んでいたものが、ゆっくり目を覚ますように響く。

明石の君は、その音を好んでいた。


「姫様」


年老いた女房が、御簾の外から声をかけた。


「入道様がお呼びでございます」


琴の音が止まった。


「父上が?」


「はい。源氏の君がお越しになるそうで」


明石の君は、琴から手を離した。

須磨に退いていた光源氏が、嵐を避けて明石へ移る。

その噂は、数日前から邸の中を駆け巡っていた。


父である明石入道は、落ち着きを失っていた。

新しい御簾を掛けさせ、庭を整え、長く使っていなかった部屋にまで香を焚かせた。


「とうとう、この日が来た」


入道はそう言った。


何の日であるかを、明石の君は尋ねなかった。

尋ねなくとも分かっていた。

父は幼い頃から、繰り返し語ってきた。

おまえはこの海辺で朽ちる女ではない。

いつか都の高貴な方に見出され、その血を伝える子を産む。


そのために琴を学べ。

歌を学べ。

都の姫君にも劣らぬ女になれ。


明石の君は父の言葉に従ってきた。

ほかに選べる道を知らなかったからである。

けれど、父の夢を聞くたび、自分が娘ではなく、まだ見ぬ未来へ差し出す品のように思えた。


「お会いする支度をなさいませ」


女房が言った。

明石の君は、海の見えない暗がりへ目を向けた。


「まだ、お会いすると決めてはおりません」


女房は息をのんだ。

邸の外では、波が絶え間なく砕けていた。


◇


光源氏が初めて明石の君の琴を聞いたのは、雨の夜だった。


昼から降り続いた雨が、夜になってさらに強くなっていた。

海も空も荒れている。

風が松を揺らすたび、枝が屋根を引っかく音がした。


明石の君は、いつものように琴を弾いていた。

誰かに聞かせるためではない。

荒れた海の音に、自分の音を重ねたかった。

弾き終えたとき、御簾の外から声がした。


「今の曲は、何というのです」


聞き慣れない男の声だった。

女房たちが慌てて顔を伏せる。

明石の君は扇を取った。


「名のある曲ではございません」


「では、どなたが」


「海を聞いておりますうちに、思いつきました」


御簾の外が静かになった。


「もう一度、弾いていただけませんか」


明石の君は答えなかった。


源氏の君がいる。

父が何年も待っていた男。

自分の行く先を決めるため、海の向こうから現れた人。


そう思うと、指が冷たくなった。


「お嫌であれば、無理にとは申しません」


意外な言葉だった。

父ならば、弾けと命じただろう。


明石の君は琴へ手を置いた。


「一度だけでございます」


「ああ」


今度は、先ほどとは少し違う音から始めた。


雨に打たれる海。

風の下で沈む小舟。

波に削られながらも、そこに立ち続ける岩。

そのようなものを思いながら弾いた。


曲が終わるまで、源氏は一言も発しなかった。


「都にも、これほどの琴を弾く方はおられません」


やがて、彼は言った。

明石の君は扇を握り直した。


「都の女君を、すべて御存じなのですか」


御簾の外で、源氏が小さく笑った。


「手厳しい方ですね」


「本当のことを申し上げただけです」


「では、言い直しましょう」


源氏の声が少し近くなった。


「私は、あなたの琴が好きです」


明石の君は顔を上げた。


美しいとも。

珍しいとも。

都へ持ち帰りたいとも言わなかった。


ただ、好きだと言った。


その言葉だけが、雨音の中に長く残った。


◇


源氏は、明石の君のもとへ通うようになった。

初めのうち、入道は喜びを隠そうともしなかった。


「思ったとおりだ」


「おまえは、都へ上るべき女なのだ」


「源氏の君のお心を離してはならぬ」


明石の君は黙って聞いた。

源氏と過ごす夜を、嫌ってはいなかった。


彼は琴の話をした。

海辺の暮らしを尋ねた。

明石の君が何かを言えば、軽く笑って流すのではなく、言葉を返した。


けれど、朝になれば帰っていく。

次に来る日を告げることもあれば、告げないこともあった。


源氏が来ない夜、父は落ち着きを失った。


「何か気に障ることを申したのではないか」


「もっと優しくなさい」


「男の心は、海よりも移ろいやすい」


明石の君は、そんな父を見ながら思った。

移ろう男の心をつなぎ止めることが、自分の一生の役目になるのだろうか。


ある夜、源氏が言った。


「都へ戻れることになりそうです」


燈台の火が揺れた。

外では、穏やかな波の音がしていた。


「それは、ようございました」


明石の君は答えた。


「ともに来ませんか」


手にしていた扇が、わずかに動いた。


「都へ?」


「このまま、あなたをここへ残したくはない」


「どのような身分で、連れていってくださるのです」


源氏はすぐに答えなかった。


「不自由はさせません」


明石の君は目を伏せた。

その言葉を、どこかで聞いたことがあるような気がした。

父が、何度も口にしていた。


都へ上れば、不自由のない暮らしができる。

高貴な方に愛されれば、何も恐れることはない。


けれど明石の君が尋ねたかったのは、そのようなことではなかった。


「私は、都では何と呼ばれるのでしょう」


源氏が黙った。


「明石から連れてきた女でしょうか」


「そのように扱うつもりは」


「では、あなたの妻と、皆の前でおっしゃいますか」


源氏の目が、わずかに揺れた。

明石の君は、その顔を見て答えを知った。


都には、身分の高い女君たちがいる。

父も兄弟も、強い後見も持たない明石の君は、海辺から連れてこられた女として、どこか目立たぬ場所へ置かれるのだろう。


「今すぐには、難しいこともあります」


源氏が言った。


「けれど、いずれは」


「いずれ」


明石の君は、その言葉を繰り返した。


海辺に暮らす者は、船を待つ。

けれど、いつ来るか分からぬ船を信じ、すべてを捨てて浜に立ち続けることはしない。


「私は、ここに残ります」


「なぜ」


「今のまま都へ参れば、私は私でなくなります」


「そのようなことはさせません」


「あなたに、そのつもりがなくともです」


明石の君は琴へ目を向けた。


「私は、誰かの人目を避けて弾くために、この琴を習ったのではございません」


◇


源氏が都へ戻ったあと、明石の君は子を身ごもっていることを知った。

入道は声を上げて喜んだ。


「女の子であれば、后に」


「男の子であれば、公卿に」


まだ生まれてもいない子の未来を、父は早くも語り始めた。


明石の君は腹へ手を置いた。

この子も、自分と同じように、誰かの夢を叶えるために育てられるのだろうか。


源氏からは、何度も文が届いた。


都へ来るように。

生まれる子のためにも、そのほうがよい。

明石の君は返事を書かなかった。


冬の終わり、女の子が生まれた。


小さな手。

柔らかな髪。

泣くときには、身体全体を使う。

明石の君は、その子を抱きながら、初めて強く願った。


この子の行く先を、ほかの誰にも決めさせたくない。


◇


娘が三つになった頃、源氏から正式な使者が来た。

使者は、娘を都へ迎えたいと伝えた。

源氏の邸には、紫の上という高貴な女君がいる。

その方を母代わりとして育てれば、娘は明石にいるよりも、はるかに高い身分を得られるだろう。


入道は、涙を流して喜んだ。


「これこそ、長年の願いだ」


「姫君を、すぐにお渡ししなさい」


明石の君は、娘を抱き上げた。


「お断りします」


室内が静まり返った。


「何を申す」


入道の顔から笑みが消えた。


「おまえは、この子の未来を潰すつもりか」


「私が育てます」


「海辺の女の手で育てて、何になる」


その言葉が、室内へ落ちた。

明石の君は、しばらく父を見つめた。


「父上も、私をそのように思っておられたのですね」


入道が息をのんだ。


「都へ出なければ価値のない女だと」


「そうではない。おまえのためを思って」


「私のためではございません」


明石の君は、静かに言った。


「父上の夢のためです」


娘が、母の衣を握っている。


「私は、この子を手放しません」


「では、姫君を都から遠ざけるのか」


「私も都へ参ります」


入道は目を見開いた。


「けれど、隠されるためではありません」


明石の君は続けた。


「この子の母として。明石で生まれ育ち、琴を弾く女として参ります」


◇


明石の君は、自ら源氏へ文を書いた。


娘を手放すつもりはございません。

都へ参るのであれば、母子ともに。

私の身分を隠さず、娘の母であることを公に認めてくださるのであれば参ります。

できないのであれば、娘は明石で育てます。


返事は、すぐには来なかった。


十日が過ぎた。

その間、海は何度か荒れた。

風が強い夜には、明石の君は娘を抱き、琴を弾いた。

娘は音を聞きながら眠った。


さらに数日後の朝、都から二人の使者が来た。


一人は源氏の使い。

もう一人は、紫の上の女房だった。


紫の上からの文には、こう記されていた。


娘君を母君から引き離して育てることが、果たして娘君のためでございましょうか。

私に母の代わりを求められても、母そのものになることはできません。

どうぞ、母君も御一緒に都へお越しください。

娘君には、二人の女君から愛された記憶こそ必要でございましょう。


明石の君は、文を読み終えても、しばらく動かなかった。


都の高貴な女君。

自分から娘を奪う人だと思っていた。

けれど、その人は、明石の君を母として認めていた。


源氏の文には、明石の君と娘のために独立した住まいを用意すること。

娘の母が明石の君であると、人前でも隠さないこと。

明石の君の琴を、宮中で奏する機会を設けることが記されていた。


最後に、短い言葉があった。


あなたを都へ呼ぶためには、都のほうを変えねばならなかった。

遅くなって、申し訳ない。


明石の君は、その部分をもう一度読んだ。


◇


都へ向かう船が浜を離れた日は、よく晴れていた。

明石の海は、朝の光を受けて青く輝いている。

入道は浜に立ち、何度も手を合わせた。

明石の君は、娘を膝に抱いていた。

船が進むにつれ、父の姿は小さくなった。


「母上」


娘が海を見ながら尋ねた。


「もう、明石には戻らないのですか」


「戻りますよ」


「都へ行くのに?」


「都へ行っても、明石がなくなるわけではありません」


明石の君は娘の髪を撫でた。


「あなたが生まれた場所ですもの」


船の中には、あの琴もあった。

誰かの邸の奥へ隠すためではない。

明石の君自身の音として、都へ運ぶためだった。


◇


都に用意された邸には、海がなかった。

夜になっても、波の音は聞こえない。

初めのうち、明石の君はその静けさに眠れなかった。


代わりに聞こえるのは、牛車の音。

遠くの門が開く音。

庭の木々を風が渡る音。


源氏は約束どおり、明石の君と娘を隠さなかった。

公の宴にも、明石の君が整えた琴を奏させた。

はじめは、海辺の女が何を、と囁く者もいた。

けれど明石の君が琴を弾くと、声は消えた。


音は、都の夜を満たした。


遠い海。

暗い浜。

風に揺れる松。

都の人々が見たことのない景色が、琴の音の中に現れた。


演奏が終わったあとも、誰もすぐには話さなかった。

やがて、一人の女君が御簾の向こうから言った。


「海とは、このような音がするのですね」


紫の上だった。

明石の君は、御簾を隔てて頭を下げた。


「海そのものではございません」


「では、何の音です」


明石の君は少し考えた。


「海を離れた者が、海を思う音でございます」


紫の上は、しばらく黙っていた。


「いつか、私にも教えてくださいませ」


「私が?」


「ええ。娘君とともに」


その日から、紫の上は時折、明石の君の邸を訪れた。

娘を取り合うためではない。

娘の成長を、ともに見守るために。

紫の上は娘へ都の作法を教えた。

明石の君は琴を教えた。


娘は二人の間を行き来し、どちらにも母上と呼びかけそうになっては、笑った。


「どちらも母上ではいけませんか」


ある日、娘が尋ねた。


紫の上は、明石の君を見た。

明石の君は少し迷い、頷いた。


「あなたがそう呼びたいのであれば」


娘は二人の手を取った。


「では、都の母上と、明石の母上です」


紫の上が笑った。

明石の君も、初めて心から笑った。


◇


都へ来て一年が過ぎた。


明石の君の琴を学びたいという女君は増えた。

宮中に残る古曲と、海辺で生まれた新しい調べを合わせ、明石の君は一冊の譜を整えた。

表紙には、自ら題を書いた。


海琴。


源氏は、その譜を長く眺めた。


「あなたの名も入れてはどうです」


「必要ございません」


「なぜ」


「音を聞けば、私のものだと分かります」


明石の君は答えた。

源氏は少し笑った。


「以前のあなたなら、そのようなことは言わなかった」


「以前の私は、自分の音を、誰かに認めてもらわなければならないと思っておりました」


「今は?」


「私は、私の音を知っております」


源氏は何も言わなかった。

やがて、明石の君の前へ座った。


「私は、あなたを都へ連れてきたと思っていました」


「違うのですか」


「あなたが、都へ来る条件を決めた」


源氏は言った。


「そして私は、それに従った」


明石の君は眉を上げた。


「御不満ですか」


「いいえ」


源氏は笑った。


「ようやく、あなたに選んでもらえたと思っています」


「一度選ばれれば、それでよいのですか」


「いいえ」


返事は早かった。


「これからも選んでもらえるようにいたします」


明石の君は琴の糸へ指を置いた。


「では、明日もいらしてください」


「今宵は帰れということですか」


「娘が、紫の上様のもとから戻ってまいります」


「私も待っていては」


「今日は、母と娘だけで過ごします」


源氏は少し残念そうな顔をした。


それでも立ち上がった。


「では、明日」


「はい」


「必ず参ります」


「お待ちしております」


以前なら、待つという言葉を口にすることが怖かった。

来なければ、惨めになると思っていた。


けれど今は違う。

源氏が来なくとも、明石の君の暮らしはなくならない。


娘がいる。

琴がある。

海を離れても、自分で築いた場所がある。

だからこそ、会いたい人を待つことができた。


◇


その夜。

娘が帰ってくると、明石の君は新しく作った曲を聞かせた。

初めは、低い波の音。

やがて風が加わる。

遠い海を離れ、船が都へ近づくにつれ、音は少しずつ明るくなった。


「この曲は、何というのです」


娘が尋ねた。


明石の君は窓の外を見た。

都の空に、細い月が出ている。

海は見えない。

けれど、目を閉じれば波の音を思い出すことができた。


「まだ、名はありません」


「わたくしが付けてもよいですか」


「どのような名にするのです」


娘は少し考えた。


「帰る海」


明石の君は笑った。


「都へ来た曲なのに?」


「海から来たのでしょう」


娘は言った。


「でしたら、いつでも海へ帰れます」


明石の君は、娘の小さな手を取った。

自分は、都へ来るために明石を捨てたのではない。

海辺で育った女のまま、都へ来た。

娘もまた、どこにいても自分の生まれた場所を失うことはない。


翌朝、源氏は約束どおり訪れた。

門が開く音がする。

娘が廊へ駆けていく。

明石の君は、琴の前に座ったまま、その足音を聞いていた。


誰かに都へ引き上げてもらった女ではない。

娘を手放して、地位を得た母でもない。

自ら条件を告げ、自ら船へ乗り、自らの音で都に居場所を作った女だった。


やがて、源氏と娘の声が近づいてくる。

明石の君は琴へ指を置いた。

窓の外には、都の空が広がっている。


けれど最初の一音を鳴らすと、室内に海が現れた。


深く。

青く。

どこまでも続く海だった。

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