海琴
【原作では】
明石の君は、明石入道の一人娘で、須磨から明石へ移った光源氏と出会い、契りを結びます。
源氏が都へ戻った後に娘を産み、のちに母子で都に近い大堰へ移り住みます。
しかし、娘の将来のため、三歳のころ紫の上の養女とすることを受け入れ、母子は離れて暮らすことになります。
夜になると、明石の海は黒くなった。
月のない夜には、空と海との境も消える。
浜へ寄せる波だけが、白く砕けては闇の中へ戻っていった。
ざあ、と一度。
少し間を置いて、もう一度。
明石の君は、御簾の内で琴を弾いていた。
海から吹く風が、燈台の火を細く揺らしている。
几帳の端が持ち上がるたび、湿った塩の匂いが室内へ入り込んだ。
琴は、母から受け継いだものだった。
都で作られた古い琴である。
長く海辺に置かれていたため、木は潮を吸い、ところどころ色が変わっていた。
それでも音は澄んでいた。
低い音を鳴らすと、海の底に沈んでいたものが、ゆっくり目を覚ますように響く。
明石の君は、その音を好んでいた。
「姫様」
年老いた女房が、御簾の外から声をかけた。
「入道様がお呼びでございます」
琴の音が止まった。
「父上が?」
「はい。源氏の君がお越しになるそうで」
明石の君は、琴から手を離した。
須磨に退いていた光源氏が、嵐を避けて明石へ移る。
その噂は、数日前から邸の中を駆け巡っていた。
父である明石入道は、落ち着きを失っていた。
新しい御簾を掛けさせ、庭を整え、長く使っていなかった部屋にまで香を焚かせた。
「とうとう、この日が来た」
入道はそう言った。
何の日であるかを、明石の君は尋ねなかった。
尋ねなくとも分かっていた。
父は幼い頃から、繰り返し語ってきた。
おまえはこの海辺で朽ちる女ではない。
いつか都の高貴な方に見出され、その血を伝える子を産む。
そのために琴を学べ。
歌を学べ。
都の姫君にも劣らぬ女になれ。
明石の君は父の言葉に従ってきた。
ほかに選べる道を知らなかったからである。
けれど、父の夢を聞くたび、自分が娘ではなく、まだ見ぬ未来へ差し出す品のように思えた。
「お会いする支度をなさいませ」
女房が言った。
明石の君は、海の見えない暗がりへ目を向けた。
「まだ、お会いすると決めてはおりません」
女房は息をのんだ。
邸の外では、波が絶え間なく砕けていた。
◇
光源氏が初めて明石の君の琴を聞いたのは、雨の夜だった。
昼から降り続いた雨が、夜になってさらに強くなっていた。
海も空も荒れている。
風が松を揺らすたび、枝が屋根を引っかく音がした。
明石の君は、いつものように琴を弾いていた。
誰かに聞かせるためではない。
荒れた海の音に、自分の音を重ねたかった。
弾き終えたとき、御簾の外から声がした。
「今の曲は、何というのです」
聞き慣れない男の声だった。
女房たちが慌てて顔を伏せる。
明石の君は扇を取った。
「名のある曲ではございません」
「では、どなたが」
「海を聞いておりますうちに、思いつきました」
御簾の外が静かになった。
「もう一度、弾いていただけませんか」
明石の君は答えなかった。
源氏の君がいる。
父が何年も待っていた男。
自分の行く先を決めるため、海の向こうから現れた人。
そう思うと、指が冷たくなった。
「お嫌であれば、無理にとは申しません」
意外な言葉だった。
父ならば、弾けと命じただろう。
明石の君は琴へ手を置いた。
「一度だけでございます」
「ああ」
今度は、先ほどとは少し違う音から始めた。
雨に打たれる海。
風の下で沈む小舟。
波に削られながらも、そこに立ち続ける岩。
そのようなものを思いながら弾いた。
曲が終わるまで、源氏は一言も発しなかった。
「都にも、これほどの琴を弾く方はおられません」
やがて、彼は言った。
明石の君は扇を握り直した。
「都の女君を、すべて御存じなのですか」
御簾の外で、源氏が小さく笑った。
「手厳しい方ですね」
「本当のことを申し上げただけです」
「では、言い直しましょう」
源氏の声が少し近くなった。
「私は、あなたの琴が好きです」
明石の君は顔を上げた。
美しいとも。
珍しいとも。
都へ持ち帰りたいとも言わなかった。
ただ、好きだと言った。
その言葉だけが、雨音の中に長く残った。
◇
源氏は、明石の君のもとへ通うようになった。
初めのうち、入道は喜びを隠そうともしなかった。
「思ったとおりだ」
「おまえは、都へ上るべき女なのだ」
「源氏の君のお心を離してはならぬ」
明石の君は黙って聞いた。
源氏と過ごす夜を、嫌ってはいなかった。
彼は琴の話をした。
海辺の暮らしを尋ねた。
明石の君が何かを言えば、軽く笑って流すのではなく、言葉を返した。
けれど、朝になれば帰っていく。
次に来る日を告げることもあれば、告げないこともあった。
源氏が来ない夜、父は落ち着きを失った。
「何か気に障ることを申したのではないか」
「もっと優しくなさい」
「男の心は、海よりも移ろいやすい」
明石の君は、そんな父を見ながら思った。
移ろう男の心をつなぎ止めることが、自分の一生の役目になるのだろうか。
ある夜、源氏が言った。
「都へ戻れることになりそうです」
燈台の火が揺れた。
外では、穏やかな波の音がしていた。
「それは、ようございました」
明石の君は答えた。
「ともに来ませんか」
手にしていた扇が、わずかに動いた。
「都へ?」
「このまま、あなたをここへ残したくはない」
「どのような身分で、連れていってくださるのです」
源氏はすぐに答えなかった。
「不自由はさせません」
明石の君は目を伏せた。
その言葉を、どこかで聞いたことがあるような気がした。
父が、何度も口にしていた。
都へ上れば、不自由のない暮らしができる。
高貴な方に愛されれば、何も恐れることはない。
けれど明石の君が尋ねたかったのは、そのようなことではなかった。
「私は、都では何と呼ばれるのでしょう」
源氏が黙った。
「明石から連れてきた女でしょうか」
「そのように扱うつもりは」
「では、あなたの妻と、皆の前でおっしゃいますか」
源氏の目が、わずかに揺れた。
明石の君は、その顔を見て答えを知った。
都には、身分の高い女君たちがいる。
父も兄弟も、強い後見も持たない明石の君は、海辺から連れてこられた女として、どこか目立たぬ場所へ置かれるのだろう。
「今すぐには、難しいこともあります」
源氏が言った。
「けれど、いずれは」
「いずれ」
明石の君は、その言葉を繰り返した。
海辺に暮らす者は、船を待つ。
けれど、いつ来るか分からぬ船を信じ、すべてを捨てて浜に立ち続けることはしない。
「私は、ここに残ります」
「なぜ」
「今のまま都へ参れば、私は私でなくなります」
「そのようなことはさせません」
「あなたに、そのつもりがなくともです」
明石の君は琴へ目を向けた。
「私は、誰かの人目を避けて弾くために、この琴を習ったのではございません」
◇
源氏が都へ戻ったあと、明石の君は子を身ごもっていることを知った。
入道は声を上げて喜んだ。
「女の子であれば、后に」
「男の子であれば、公卿に」
まだ生まれてもいない子の未来を、父は早くも語り始めた。
明石の君は腹へ手を置いた。
この子も、自分と同じように、誰かの夢を叶えるために育てられるのだろうか。
源氏からは、何度も文が届いた。
都へ来るように。
生まれる子のためにも、そのほうがよい。
明石の君は返事を書かなかった。
冬の終わり、女の子が生まれた。
小さな手。
柔らかな髪。
泣くときには、身体全体を使う。
明石の君は、その子を抱きながら、初めて強く願った。
この子の行く先を、ほかの誰にも決めさせたくない。
◇
娘が三つになった頃、源氏から正式な使者が来た。
使者は、娘を都へ迎えたいと伝えた。
源氏の邸には、紫の上という高貴な女君がいる。
その方を母代わりとして育てれば、娘は明石にいるよりも、はるかに高い身分を得られるだろう。
入道は、涙を流して喜んだ。
「これこそ、長年の願いだ」
「姫君を、すぐにお渡ししなさい」
明石の君は、娘を抱き上げた。
「お断りします」
室内が静まり返った。
「何を申す」
入道の顔から笑みが消えた。
「おまえは、この子の未来を潰すつもりか」
「私が育てます」
「海辺の女の手で育てて、何になる」
その言葉が、室内へ落ちた。
明石の君は、しばらく父を見つめた。
「父上も、私をそのように思っておられたのですね」
入道が息をのんだ。
「都へ出なければ価値のない女だと」
「そうではない。おまえのためを思って」
「私のためではございません」
明石の君は、静かに言った。
「父上の夢のためです」
娘が、母の衣を握っている。
「私は、この子を手放しません」
「では、姫君を都から遠ざけるのか」
「私も都へ参ります」
入道は目を見開いた。
「けれど、隠されるためではありません」
明石の君は続けた。
「この子の母として。明石で生まれ育ち、琴を弾く女として参ります」
◇
明石の君は、自ら源氏へ文を書いた。
娘を手放すつもりはございません。
都へ参るのであれば、母子ともに。
私の身分を隠さず、娘の母であることを公に認めてくださるのであれば参ります。
できないのであれば、娘は明石で育てます。
返事は、すぐには来なかった。
十日が過ぎた。
その間、海は何度か荒れた。
風が強い夜には、明石の君は娘を抱き、琴を弾いた。
娘は音を聞きながら眠った。
さらに数日後の朝、都から二人の使者が来た。
一人は源氏の使い。
もう一人は、紫の上の女房だった。
紫の上からの文には、こう記されていた。
娘君を母君から引き離して育てることが、果たして娘君のためでございましょうか。
私に母の代わりを求められても、母そのものになることはできません。
どうぞ、母君も御一緒に都へお越しください。
娘君には、二人の女君から愛された記憶こそ必要でございましょう。
明石の君は、文を読み終えても、しばらく動かなかった。
都の高貴な女君。
自分から娘を奪う人だと思っていた。
けれど、その人は、明石の君を母として認めていた。
源氏の文には、明石の君と娘のために独立した住まいを用意すること。
娘の母が明石の君であると、人前でも隠さないこと。
明石の君の琴を、宮中で奏する機会を設けることが記されていた。
最後に、短い言葉があった。
あなたを都へ呼ぶためには、都のほうを変えねばならなかった。
遅くなって、申し訳ない。
明石の君は、その部分をもう一度読んだ。
◇
都へ向かう船が浜を離れた日は、よく晴れていた。
明石の海は、朝の光を受けて青く輝いている。
入道は浜に立ち、何度も手を合わせた。
明石の君は、娘を膝に抱いていた。
船が進むにつれ、父の姿は小さくなった。
「母上」
娘が海を見ながら尋ねた。
「もう、明石には戻らないのですか」
「戻りますよ」
「都へ行くのに?」
「都へ行っても、明石がなくなるわけではありません」
明石の君は娘の髪を撫でた。
「あなたが生まれた場所ですもの」
船の中には、あの琴もあった。
誰かの邸の奥へ隠すためではない。
明石の君自身の音として、都へ運ぶためだった。
◇
都に用意された邸には、海がなかった。
夜になっても、波の音は聞こえない。
初めのうち、明石の君はその静けさに眠れなかった。
代わりに聞こえるのは、牛車の音。
遠くの門が開く音。
庭の木々を風が渡る音。
源氏は約束どおり、明石の君と娘を隠さなかった。
公の宴にも、明石の君が整えた琴を奏させた。
はじめは、海辺の女が何を、と囁く者もいた。
けれど明石の君が琴を弾くと、声は消えた。
音は、都の夜を満たした。
遠い海。
暗い浜。
風に揺れる松。
都の人々が見たことのない景色が、琴の音の中に現れた。
演奏が終わったあとも、誰もすぐには話さなかった。
やがて、一人の女君が御簾の向こうから言った。
「海とは、このような音がするのですね」
紫の上だった。
明石の君は、御簾を隔てて頭を下げた。
「海そのものではございません」
「では、何の音です」
明石の君は少し考えた。
「海を離れた者が、海を思う音でございます」
紫の上は、しばらく黙っていた。
「いつか、私にも教えてくださいませ」
「私が?」
「ええ。娘君とともに」
その日から、紫の上は時折、明石の君の邸を訪れた。
娘を取り合うためではない。
娘の成長を、ともに見守るために。
紫の上は娘へ都の作法を教えた。
明石の君は琴を教えた。
娘は二人の間を行き来し、どちらにも母上と呼びかけそうになっては、笑った。
「どちらも母上ではいけませんか」
ある日、娘が尋ねた。
紫の上は、明石の君を見た。
明石の君は少し迷い、頷いた。
「あなたがそう呼びたいのであれば」
娘は二人の手を取った。
「では、都の母上と、明石の母上です」
紫の上が笑った。
明石の君も、初めて心から笑った。
◇
都へ来て一年が過ぎた。
明石の君の琴を学びたいという女君は増えた。
宮中に残る古曲と、海辺で生まれた新しい調べを合わせ、明石の君は一冊の譜を整えた。
表紙には、自ら題を書いた。
海琴。
源氏は、その譜を長く眺めた。
「あなたの名も入れてはどうです」
「必要ございません」
「なぜ」
「音を聞けば、私のものだと分かります」
明石の君は答えた。
源氏は少し笑った。
「以前のあなたなら、そのようなことは言わなかった」
「以前の私は、自分の音を、誰かに認めてもらわなければならないと思っておりました」
「今は?」
「私は、私の音を知っております」
源氏は何も言わなかった。
やがて、明石の君の前へ座った。
「私は、あなたを都へ連れてきたと思っていました」
「違うのですか」
「あなたが、都へ来る条件を決めた」
源氏は言った。
「そして私は、それに従った」
明石の君は眉を上げた。
「御不満ですか」
「いいえ」
源氏は笑った。
「ようやく、あなたに選んでもらえたと思っています」
「一度選ばれれば、それでよいのですか」
「いいえ」
返事は早かった。
「これからも選んでもらえるようにいたします」
明石の君は琴の糸へ指を置いた。
「では、明日もいらしてください」
「今宵は帰れということですか」
「娘が、紫の上様のもとから戻ってまいります」
「私も待っていては」
「今日は、母と娘だけで過ごします」
源氏は少し残念そうな顔をした。
それでも立ち上がった。
「では、明日」
「はい」
「必ず参ります」
「お待ちしております」
以前なら、待つという言葉を口にすることが怖かった。
来なければ、惨めになると思っていた。
けれど今は違う。
源氏が来なくとも、明石の君の暮らしはなくならない。
娘がいる。
琴がある。
海を離れても、自分で築いた場所がある。
だからこそ、会いたい人を待つことができた。
◇
その夜。
娘が帰ってくると、明石の君は新しく作った曲を聞かせた。
初めは、低い波の音。
やがて風が加わる。
遠い海を離れ、船が都へ近づくにつれ、音は少しずつ明るくなった。
「この曲は、何というのです」
娘が尋ねた。
明石の君は窓の外を見た。
都の空に、細い月が出ている。
海は見えない。
けれど、目を閉じれば波の音を思い出すことができた。
「まだ、名はありません」
「わたくしが付けてもよいですか」
「どのような名にするのです」
娘は少し考えた。
「帰る海」
明石の君は笑った。
「都へ来た曲なのに?」
「海から来たのでしょう」
娘は言った。
「でしたら、いつでも海へ帰れます」
明石の君は、娘の小さな手を取った。
自分は、都へ来るために明石を捨てたのではない。
海辺で育った女のまま、都へ来た。
娘もまた、どこにいても自分の生まれた場所を失うことはない。
翌朝、源氏は約束どおり訪れた。
門が開く音がする。
娘が廊へ駆けていく。
明石の君は、琴の前に座ったまま、その足音を聞いていた。
誰かに都へ引き上げてもらった女ではない。
娘を手放して、地位を得た母でもない。
自ら条件を告げ、自ら船へ乗り、自らの音で都に居場所を作った女だった。
やがて、源氏と娘の声が近づいてくる。
明石の君は琴へ指を置いた。
窓の外には、都の空が広がっている。
けれど最初の一音を鳴らすと、室内に海が現れた。
深く。
青く。
どこまでも続く海だった。




