朝露
【原作では】
朝顔の姫君は、桃園式部卿宮の娘で、若いころから光源氏の求愛を受けていました。
その後、賀茂の斎院として神に仕えますが、父の死をきっかけに斎院を退き、桃園の邸へ戻ります。
源氏は再び熱心に求婚しますが、朝顔はその思いを受け入れず、二人が結ばれることはありませんでした。
夜明け前の賀茂の森は、雨に濡れていた。
昨夜のうちに雨はやんでいる。
それでも、楢や榊の葉から雫が落ちるたび、暗い土の上で小さな音がした。
一つ。
また一つ。
遠くで川が流れている。
水の音に混じり、まだ目を覚ましていない鳥が、寝言のように短く鳴いた。
斎院は、簀子の端に立っていた。
のちに朝顔の姫君と呼ばれる、桃園式部卿宮の娘である。
白い衣の裾が、朝の冷たい風に揺れた。
庭の垣には、槿の花が咲いていた。
夜の湿り気を宿し、薄紫の花弁が重たげに垂れている。
一つの花に、大きな露が結ばれていた。
夜明けの光を受ける前の露は、色を持たない。
透明なまま、落ちる時を待っている。
「斎院様」
背後から女房が呼んだ。
振り返ると、長年仕えてきた弁の君が、廊の奥で手をついていた。
「御退出のお支度が整いました」
斎院は、もう一度だけ森を見た。
父が亡くなった。
そのため、自分は賀茂の神に仕える役目を退く。
今日からは、斎院ではない。
帝の御代が変わるたび、あるいは近親者の死によって、斎院はその役目を終える。決まりに従っただけのことである。
けれど人々は、気の毒そうに言った。
長く神に仕え、婚期を逃した姫君。
父まで亡くし、今さら都へ戻っても、迎える夫はいない。
斎院は、垣の花へ手を伸ばした。
触れる前に、露が落ちた。
花弁がわずかに揺れる。
「参りましょう」
彼女は言った。
白い衣を脱ぐことを、悲しいとは思わなかった。
ただ、その下にいる自分が何者であるのかを、これから決めなければならなかった。
◇
桃園の邸は、斎院が覚えていた頃よりも古びていた。
父の生前には、多くの人が出入りしていた。
管絃の音が聞こえ、季節ごとに宴が開かれた。
今では庭の草が伸び、渡殿の板はところどころ軋んだ。
邸を守っていた父の妹、女五の宮は、斎院の帰りを喜んだ。
「これで、ようやく人並みの暮らしができますね」
初めの夜、叔母はそう言った。
「人並みとは、どのようなものでしょう」
朝顔が尋ねると、女五の宮は目を丸くした。
「夫を持ち、子を育てる暮らしですよ」
「今から?」
「今だからこそです」
叔母は声を潜めた。
「源氏の君が、以前からあなたをお慕いではありませんか」
朝顔は、文机の上に置かれた一通の文へ目を向けた。
都へ戻ったその日に、光源氏から届けられたものだった。
父の死を悼む言葉。
斎院を退いた朝顔の身を案じる言葉。
そして最後には、若い頃から変わらぬ思いが、美しい歌とともに書かれていた。
朝顔は、まだ返事をしていなかった。
「源氏の君ほどの方は、ほかにおりません」
女五の宮は言った。
「身分も、お姿も、御才覚も。あの方に大切にされれば、何も心配することはないでしょう」
「紫の上がおられます」
「正妻ではありません」
「正妻であるかどうかではございません」
朝顔は文を閉じた。
「源氏の君のもとには、多くの女君がおられます」
「男とは、そういうものですよ」
女五の宮は当然のように言った。
「その中でも、特に大切にされればよいのです」
朝顔は黙った。
特に大切にされる。
その言葉を聞くと、ひどく狭い場所へ押し込められるような気がした。
多くの女の中で、誰より愛されるために待つ。
男が来れば喜び、来なければ耐える。
ほかの女より上であることを確かめ続ける。
それが人並みの幸せであるならば、朝顔には少しも羨ましくなかった。
◇
源氏は、叔母を見舞うという名目で、たびたび桃園の邸を訪れた。
明るいうちに来ることもあれば、月のない夜に忍んで来ることもあった。
女五の宮は、源氏が訪れるたび、朝顔の部屋との間にある戸を少しずつ開けさせた。
「せめて、御声だけでも」
叔母は言った。
朝顔は御簾の内に座り、源氏と季節の話をした。
斎院で過ごした年月。
賀茂の祭。
都を離れているあいだに亡くなった人々。
藤壺の宮の死について話すとき、源氏の声はわずかに低くなった。
「都は、随分と変わりました」
朝顔が言った。
「あなたがお帰りになったから、変わったのでしょう」
「私一人で、世が変わるものでしょうか」
「私にとっては」
源氏はそう答えた。
美しい言葉だった。
若い頃の朝顔なら、その一言を何日も胸の中で繰り返したかもしれない。
けれど、斎院として多くの祭祀を見てきた今の彼女は知っていた。
人は、神の前では誰もが似た願いを口にする。
自分だけを見てほしい。
失いたくない。
いつまでも変わらずにいてほしい。
願いが切実であることと、それが叶えられることは別だった。
「源氏の君」
「何でしょう」
「私を、どのような女と思っておられますか」
御簾の外が静かになった。
「気高く、慎み深い方です」
「それだけですか」
「才がおありで、物事をよく御覧になる」
「ほかには?」
源氏は困ったように笑った。
「随分と難しい問いをなさる」
朝顔も小さく笑った。
「私をよく御存じないのですね」
「これから知りたいと思っております」
「御存じないまま、長く思い続けておられたのですか」
「お会いできぬからこそ、思いが募ることもあります」
朝顔は目を伏せた。
「それでは、あなたが思っておられるのは、私ではございません」
源氏は答えなかった。
「御簾の向こうにいて、手に入らない女を思っておられるのでしょう」
「そのように冷たくおっしゃらなくとも」
「冷たいのではございません」
朝顔は静かに言った。
「確かめたいだけです」
「何を?」
「私を手に入れたあとにも、あなたが私を見続けるかどうかを」
源氏は長く黙っていた。
廊の外で、秋の虫が鳴いていた。
「御疑いなのですね」
「ええ」
朝顔は隠さなかった。
「あなたをではなく、恋というものを」
◇
秋が深くなると、源氏から朝顔の花を添えた文が届いた。
昔見た花を忘れられずにいるが、今は盛りを過ぎてしまっただろうか。
そのような意味の歌だった。
女五の宮は、文を読むと涙ぐんだ。
「これほど思われているのですよ」
「長く思われることと、大切にされることは同じでしょうか」
「また、そのようなことを」
朝顔は墨をすり、返歌を書いた。
秋が終わり、霧の垣に濡れながら、あるのかないのか分からぬほど色褪せた朝顔。
自分をそのような花になぞらえた歌だった。
けれど、本当に言いたかったのは、年を取ったということではない。
花の盛りを惜しむように女を見る人へ、花ではない自分を見つけてほしかった。
返事を受け取った源氏は、その夜、桃園の邸を訪れた。
いつもより強い香がした。
「花の盛りが過ぎたなどと、なぜあのような歌を」
源氏の声には、珍しく焦りがあった。
「盛りが過ぎれば、思いも消えるのではありませんか」
「私の心を、その程度のものと?」
「では、私が老いても?」
「もちろんです」
「病んでも?」
「お支えします」
「あなたのもとにいる多くの女君と、仲良くできなくとも?」
源氏は少し言葉に詰まった。
「あなたなら、そのようなことは」
「なさらないと、なぜ分かるのです」
朝顔は言った。
「あなたは私を、争わず、恨まず、静かに待つ女だと思っておられる」
「違うのですか」
「分かりません」
朝顔は、初めて声を強めた。
「私にも、妬む心があるかもしれません。あなたが来なければ、恨むかもしれない。紫の上を傷つけるかもしれません」
源氏は黙った。
「それでも、私を望まれますか」
「あなたを、そのような目に遭わせはしません」
「六条御息所にも、そうお思いだったのではありませんか」
御簾の外から、わずかに息をのむ音がした。
「葵の上にも。夕顔にも」
「その名を、今ここで」
「語ってはいけない方々なのですか」
朝顔は尋ねた。
「あなたに愛された女君たちです」
源氏の衣が動いた。
立ち上がったのかと思ったが、彼は帰らなかった。
「私が、皆を不幸にしたとおっしゃるのですか」
「いいえ」
朝顔は首を振った。
「人の幸せや不幸せが、すべて一人の男によって決まるとは思いません」
「では」
「ただ、私は同じ場所へ入りたくないのです」
朝顔は、御簾の向こうにいる男を見た。
姿はほとんど見えない。
燈台の火が、衣の端だけを照らしている。
「私は、あなたを嫌ってはおりません」
「ならば」
「お慕いしているのかもしれません」
源氏が動きを止めた。
「けれど、好きであることだけで、あなたの妻にならなければならないのでしょうか」
「それが、自然なことでしょう」
「誰にとって?」
源氏は答えなかった。
「私は、あなたを思う心を持ったまま、あなたを選ばないこともできます」
朝顔は言った。
「その心まで、あなたへ差し出す必要はございません」
◇
その冬、女五の宮が病に伏した。
朝顔は叔母のそばを離れず、薬を調え、夜ごと手を握った。
病は少しずつ重くなった。
ある雪の夜、女五の宮は朝顔へ言った。
「私は、あなたが心配です」
「何がでしょう」
「私がいなくなれば、この邸を誰が守るのです」
「私がおります」
「女一人で?」
「女房たちもおります」
「いつまで?」
叔母の声は弱かった。
「荘園のことも、家司に任せきりでしょう。蓄えも、以前ほどはありません」
朝顔は答えられなかった。
斎院を退いてから、邸のことは女五の宮と家司が担っていた。
朝顔は、何がどれほどあるのかを知らなかった。
「だから、源氏の君のもとへ」
叔母は、息を整えながら言った。
「愛だけではありません。女には、守ってくれる男が必要なのです」
朝顔は、叔母の手を包んだ。
冷たい手だった。
「男がいなければ、私は暮らせないのでしょうか」
「そういう世です」
「誰も、変えられないのですか」
女五の宮は、疲れたように目を閉じた。
「世を変えようなどと、考えないほうが幸せですよ」
叔母が眠ったあと、朝顔は帳簿を持ってこさせた。
家司は渋った。
「姫君が御覧になるようなものではございません」
「誰が決めたのです」
「昔から、そのように」
「その昔から、我が家の財は減り続けているのですか」
家司は黙った。
帳簿には、朝顔の知らない文字が並んでいた。
荘園から入る米。
女房たちへ渡す衣。
邸の修理。
寺への布施。
家司の一人が、長年にわたり収入の一部を自分の家へ移していることも分かった。
朝顔は、三日間眠らずに帳簿を調べた。
斎院で祭祀の日取りや奉仕する者の名を確認していた経験が役立った。
一つずつ照らし合わせれば、数字の嘘は見えてきた。
四日目の朝、朝顔は家司たちを集めた。
「これより、荘園からの報告は私が確認いたします」
年長の男が、困ったように顔を見合わせた。
「姫君が、そのようなことをなさらずとも」
「私が知らないままでいれば、この邸はなくなります」
「源氏の君に御相談されては」
「これは、桃園の家のことです」
朝顔は帳簿を閉じた。
「源氏の君の家ではございません」
◇
女五の宮は、春を待たずに亡くなった。
葬儀が終わると、桃園の邸から人が減った。
叔母を頼っていた者たちは、ほかの家へ移った。
源氏は、以前にも増して朝顔を案じた。
「六条院へお越しください」
彼は言った。
「あなた一人で、この広い邸を守る必要はありません」
「一人ではございません」
「女房たちだけでは、心細いでしょう」
「心細くないとは申しません」
朝顔は答えた。
「けれど、心細いからといって、望まぬ場所へ移るつもりはございません」
「私のもとが、望まぬ場所なのですか」
「あなたのもとへ行けば、私は再び誰かに守られる女へ戻ります」
「守られることが、なぜいけないのです」
「いけないのではございません」
朝顔は言った。
「ただ、私は自分でも守れるものがあると知ったのです」
「帳簿を調べることが?」
「帳簿も。邸も。ここで暮らす人々も」
源氏は庭を見た。
雪解けの土の中から、若い草が出ていた。
「では、私にできることはありませんか」
「ございます」
源氏が顔を上げた。
「桃園の荘園が、私の管理であることを、公の場で認めてくださいませ」
「私が?」
「家司たちは、女の言葉だけでは従いません」
「それでは、私の名を使えばよい」
「あなたの名の下へ入れるのではございません」
朝顔は、はっきりと言った。
「私が管理することを、あなたが証人となってください」
源氏は苦笑した。
「随分と難しい頼み方をなさる」
「お嫌ですか」
「いいえ」
源氏は少し考えた。
「あなたを私のもとへ迎えるより、難しいかもしれません」
「だからこそ、お願いしております」
◇
桃園の邸へ、最初に身を寄せたのは、弁の君の姪だった。
十六歳の娘だった。
父が、年の離れた地方官へ嫁がせようとしているという。
「夫となる方を嫌っているのですか」
朝顔が尋ねると、娘は首を振った。
「お会いしたことがございません」
「では、なぜ逃げてきたのです」
「会ったことのない方を、嫌うことも慕うこともできません」
娘は震える声で答えた。
「けれど、行きたくないと申しても、誰も聞いてくれませんでした」
朝顔は、若い頃の自分を見ているように感じた。
源氏を嫌ってはいなかった。
むしろ、心を惹かれていた。
だからこそ、拒むことを理解してもらえなかった。
「しばらく、ここにおいでなさい」
朝顔は言った。
「父君とは、私が文を交わしましょう」
「追い返さないのですか」
「あなたが御自分で答えを決めるまでは」
娘は泣いた。
次に訪れたのは、夫を亡くした女だった。
夫の兄弟が荘園を奪おうとしていた。
女は文字を読むことができず、自分が何を受け取る権利を持つのかも知らなかった。
朝顔は、帳簿を持ってこさせた。
弁の君とともに、契りの文を一つずつ調べた。
その女が受け継ぐべき土地を確かめ、源氏と親しい役人へ証人を頼んだ。
やがて、桃園の邸にはさまざまな女が集まるようになった。
結婚を急かされている娘。
仕えていた女主人を失った女房。
夫の家を出たものの、帰る実家のない女。
出家を考えているが、本当に世を捨てたいのか分からない女。
朝顔は、誰にも一つの答えを与えなかった。
夫を持つべきだとも。
一人で生きるべきだとも。
尼になるべきだとも言わなかった。
ただ、決めるまで暮らせる部屋を与えた。
文字を知らない者には、文字を教えた。
歌や琴に秀でた者には、ほかの娘へ教える役目を任せた。
裁縫のできる者は衣を仕立てた。
薬草に詳しい者は、庭で草木を育てた。
女たちは、自分にできることで邸の暮らしを支えた。
いつしか桃園の邸は、夫を持たぬ女が身を寄せる哀れな場所ではなくなった。
ここで学びたいと、自ら門を叩く娘も現れた。
◇
源氏は、ときどき桃園の邸を訪れた。
以前のように夜中に忍んで来ることはなくなった。
先触れを寄越し、明るいうちに正門から入った。
庭で娘たちが文字を習っているのを見て、驚いた。
「皆、出家する方々なのですか」
「いいえ」
朝顔は答えた。
「夫を持つ者もおります。自分の家へ帰る者も。ここで暮らし続ける者も」
「何を目指しているのです」
「それぞれ違います」
「まとまりがありませんね」
「同じところへ行くために集まったのではございませんから」
源氏は笑った。
「あなたらしい」
「私らしさを、ようやく御存じになりましたか」
朝顔が尋ねると、源氏は少し黙った。
「以前よりは」
「まだ、すべてではございませんよ」
「それでは、これからも通わなければ」
「夜に忍んでいらっしゃる必要はございません」
「もう、門を開けてもいただけないでしょう」
「昼ならば開いております」
二人は、ときおり歌を交わした。
昔のような恋の誘いではなかった。
庭の花。
降った雪。
亡くなった人々。
季節の移ろいを知らせる文だった。
源氏が紫の上の話をすることもあった。
朝顔は、求められれば意見を述べた。
慰めるために、自分を差し出すことはしなかった。
ある日、源氏が尋ねた。
「私を拒んだことを、後悔したことはありませんか」
朝顔は、庭の槿を見た。
夏の朝だった。
垣には、淡い花が幾つも開いている。
「ございます」
源氏は驚いたように彼女を見た。
「あるのですか」
「あなたのもとへ行けば、どのような暮らしだったのだろうと思うことはあります」
「それならば、今からでも」
「最後までお聞きくださいませ」
朝顔は笑った。
「選ばなかった道を思うことと、選んだ道を悔いることは違います」
源氏は口を閉じた。
「あなたを選ばなかったために、寂しい夜もございました」
朝顔は言った。
「誰かに抱きしめられたいと思ったことも」
「では、なぜ」
「寂しさは、間違いの証ではございません」
朝顔は、朝露を宿した花へ目を向けた。
「正しい道を選べば、何も失わず、いつも満たされるわけではないのでしょう」
選ぶということは、選ばなかったものを失うことでもある。
源氏を拒んだからといって、恋する心が消えたわけではなかった。
それでも朝顔は、その寂しさごと、自分の選択として抱いていた。
「あなたは、強い方ですね」
源氏が言った。
「いいえ」
朝顔は首を振った。
「強くなければ選べないのなら、多くの女は何も選べません」
「では、何が必要なのです」
朝顔は、邸の中から聞こえる女たちの声を聞いた。
「選び終えるまで、追い出されない場所です」
◇
数年が過ぎた。
桃園の邸は、以前よりも賑やかになった。
女五の宮が生きていた頃とは違う賑わいだった。
華やかな公達が集まる宴ではない。
娘が文字を読む声。
庭の薬草について語る声。
帳簿を前に、荘園から届いた米の量を確かめる声。
ときには、誰かが泣く声もした。
喧嘩も起きた。
皆が穏やかに暮らしたわけではない。
夫のもとへ戻ると決めた女を、ほかの女が責めたこともあった。
出家を選んだ娘へ、本当にそれでよいのかと問い詰める者もいた。
そのたび、朝顔は言った。
「自分の選んだ道を、ほかの人にも選ばせる必要はございません」
独り身でいることを選ぶ女が、妻になる女より優れているわけではない。
夫を持つ女が、独りで暮らす女より満たされているとも限らない。
どの道であっても、自分が決め、その後も選び直せることが大切だった。
かつて桃園へ逃げてきた十六歳の娘は、三年後、自分で選んだ男と夫婦になった。
父が決めた地方官ではなかった。
桃園の邸で文字を教えていた若い官人だった。
「ここを出ても、よろしいのでしょうか」
娘が尋ねた。
「なぜ、いけないのです」
「私は、一人で生きることを学んだのに」
「一人で生きられる者だけが、夫を選んではならないのですか」
朝顔は笑った。
「戻りたくなれば、いつでも門を叩きなさい」
娘は泣きながら頭を下げた。
出ていく者もいた。
戻ってくる者もいた。
生涯ここで暮らすと決める者もいた。
門は、どちらのためにも開かれていた。
◇
朝顔が出家を決めたのは、さらに年月が過ぎてからだった。
世に絶望したためではない。
夫を持てなかったからでもない。
神に仕えた年月と、桃園で女たちの暮らしを見守った年月を経て、今度は仏の教えを深く学びたいと思った。
「やはり、最後には出家なさるのですね」
弁の君が言った。
「世を捨てられるのですか」
「いいえ」
朝顔は答えた。
「世を捨てるために髪を下ろすのではございません」
「では、何のために?」
「これからの暮らしを選ぶためです」
朝顔は、桃園の邸を離れなかった。
髪を下ろしたあとも、女たちの相談を聞いた。
帳簿を確かめた。
祭祀や仏事について教えた。
出家は、すべてを諦めた女の終わりではなかった。
彼女にとっては、新しい学びの始まりだった。
その知らせを聞いた源氏から、文が届いた。
長い文だった。
若い頃から朝顔を思っていたこと。
結ばれなかったことを、今も惜しく感じること。
それでも、朝顔が選んだ道を尊く思うこと。
朝顔は、短い返事を書いた。
誰も選ばなかったのではございません。
私は、私の朝を選びました。
その文を受け取った源氏が、何を思ったのかは分からない。
返事は来なかった。
けれど数日後、桃園の邸へ新しい紙と墨が届けられた。
送り主の名は、どこにも書かれていなかった。
朝顔は、それを返さなかった。
女たちが学ぶために使った。
◇
ある夏の明け方。
朝顔は、一人で庭へ出た。
夜のあいだに、短い雨が降ったらしい。
草も木も濡れている。
垣の槿には、淡い紫の花が開いていた。
花弁の上に、幾つもの露が光っている。
かつて賀茂の森で見た朝露を思い出した。
あの日、自分は斎院でなくなった。
守られていた場所を失い、何者でもない女として都へ戻った。
人々は、自分の盛りは過ぎたと言った。
夫も子も持たず、何も残せない女だと思った者もいただろう。
朝顔は、庭を振り返った。
まだ起きるには早い時刻だったが、邸の一角には灯がともっていた。
夜泣きする子どもをあやしている女がいる。
朝の勤行を始めた尼がいる。
遠国へ送る文を、夜通し書いていた娘もいる。
この邸で学び、去っていった女たちもいた。
ここへ戻らず、自分の場所で暮らしている者もいる。
朝顔には、夫も子もいなかった。
けれど、自分の暮らした年月が、何も結ばなかったとは思わなかった。
花の露が朝日に照らされた。
一瞬、玉のように輝く。
それから、音もなく花弁を滑り落ちた。
露は消える。
花も、夕方までには萎むだろう。
それでも、朝が失われるわけではない。
「おはようございます」
背後から声がした。
振り返ると、まだ幼い娘が立っていた。
母とともに桃園へ身を寄せている子だった。
髪は寝乱れ、片方の袖が裏返っている。
「お早いのですね」
朝顔が言うと、娘は眠そうに目をこすった。
「朝顔の花を見たかったのです」
「これは、槿でございますよ」
「でも、皆、朝顔の姫様のお花だと言っています」
娘は垣へ近づいた。
「すぐに萎れてしまうの?」
「ええ」
「かわいそう」
朝顔は、しばらく花を見た。
「そうでしょうか」
「だって、今日だけなのでしょう」
「今日、咲くために咲いたのです」
娘は不思議そうに首を傾げた。
「明日の花は、明日咲きます」
朝顔は言った。
「今日の花が、明日まで咲き続けなくてもよいのですよ」
娘は分かったような、分からないような顔をした。
やがて、朝顔の手を握った。
「朝のお勤めに行きましょう」
「はい」
二人は並んで廊へ戻った。
背後で、露がもう一つ落ちた。
朝顔は、誰かに選ばれなかった女ではなかった。
恋を恐れて、人生から逃げた女でもない。
愛するかもしれなかった男を選ばず、代わりに、自分が毎朝目を覚ます場所を選んだ。
誰と暮らすか。
何を学ぶか。
誰のために門を開くか。
そのすべてを、自分で決められる日々を選んだ。
庭へ朝日が差し込む。
槿の花が、淡い光の中で開いている。
朝露は消えていた。
けれど彼女の朝は、そこから始まった。




