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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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11/19

秋灯

【原作では】

落葉の宮は、朱雀院の第二皇女で、柏木の妻となりますが、柏木の心は妹・女三宮に向けられ、寂しい結婚生活を送ります。

柏木は女三宮と密かに関係を持ったのち病に伏し、亡くなる前に、親友の夕霧へ落葉の宮の行く末を託します。

柏木の死後、夕霧は落葉の宮に強く求愛し、宮は拒み続けますが、やがて夕霧と夫婦になります。

秋の夜、一条の宮の庭には、絶えず葉が落ちていた。

風は強くない。

それでも乾いた葉は枝を離れ、暗い庭をゆっくりと回りながら、地面へ降りた。


一枚。

また一枚。


朱雀院の第二皇女――のちに人々から落葉の宮と呼ばれる女君は、御簾の内で箏の琴を弾いていた。

その頃の彼女は、まだ落葉の宮ではなかった。

柏木の妻であり、異母妹である女三宮の代わりに選ばれたことさえ、知らずにいた。


◇


柏木は、その夜も来なかった。

夕刻から、細い雨が降っていた。

濡れた萩が重たげに垂れ、風が吹くたび、白い花が泥の上へ落ちていく。

室内には、燈台が二つ置かれていた。


一つは宮のため。

もう一つは、今夜訪れると文を寄越した夫のためだった。


夜が深くなるにつれ、油が減っていく。

傍らには、柏木から届いた短い文が置かれていた。


今宵は必ず参ります。


歌もなかった。

遅れることへの詫びもない。

それでも来ると書かれていたから、宮は待った。


「もう、お休みになってはいかがでしょう」


小少将の君が言った。


「雨も強くなっております。柏木様も、今夜は――」


「来られないのであれば、文が届くでしょう」


宮は答えた。


「まだ、来ないとは決まっておりません」


言いながら、自分が夫をかばっていることに気づいた。

柏木が約束を破るのは、初めてではない。

来ると言った夜に姿を見せず、翌朝になってから、急な用があったとだけ伝えてくる。

何の用であったのかは書かれない。

宮も尋ねなかった。

夫の行方を詮索する、心の狭い妻と思われるのが怖かった。


夜半を過ぎた頃、ようやく廊を踏む足音が聞こえた。

濡れた衣の匂いとともに、柏木が入ってきた。


「遅くなりました」


それだけだった。


「雨の中を、お疲れでございました」


宮は答えた。

責める言葉は口にしなかった。

柏木は燈台の前へ座った。

衣には、この邸では使っていない香が移っていた。

若い梅に似た、清らかな香だった。


「どちらへ、おいででしたの」


思わず尋ねると、柏木の手が止まった。


「宮中です」


「その香は?」


「どなたかの衣から移ったのでしょう」


柏木は袖を払った。

それ以上尋ねるなという仕草だった。

宮は琴へ目を落とした。


「お弾きになっていたのですか」


「はい」


「せっかくです。何か聞かせてください」


柏木はそう言ったが、琴を見てはいなかった。


宮は秋の調べを弾いた。

細い雨。

濡れた草。

枝に残る葉が、一枚ずつ落ちていく音。

宮が好んで弾く曲だった。


けれど曲の途中で、柏木が尋ねた。


「女三宮も、琴をお弾きになりますか」


宮の指が止まりかけた。


女三宮は、宮の異母妹だった。

朱雀院がとりわけ慈しみ、光源氏の妻として六条院へ降嫁させた皇女である。


「妹は、琵琶を好んでおります」


「そうでしたか」


柏木は初めて顔を上げた。

先ほどまでの気怠げな様子が消えていた。


「どのような曲を?」


「私には、詳しくは」


「姉妹なのに?」


「別々に育ちましたから」


宮は、琴の糸から手を離した。

柏木は、わずかに残念そうな顔をした。

宮の曲を聞いていたときには、見せなかった顔だった。


「お続けください」


「もう、よろしゅうございます」


「なぜです」


「お聞きになっておられませんでしたもの」


柏木は眉を寄せた。


「聞いておりました」


「では、どのような曲でしたか」


柏木は答えなかった。

雨の音だけが、二人の間へ入り込んだ。


「宮は、随分と細かなことをお気になさるのですね」


やがて柏木は言った。


謝るのではない。

聞いていなかった自分ではなく、気づいた宮のほうを狭量だと言うのだった。


「お疲れなのでしょう」


宮は答えた。


「今宵は、お休みくださいませ」


柏木は、ほっとしたように横になった。

宮はその顔を見ながら思った。

この人にとって、自分は何なのだろう。


妻。

皇女。

女三宮の姉。

あるいは、手に入らなかった妹の代わり。


答えを尋ねる勇気は、まだなかった。


◇


柏木が女二宮との婚姻を受け入れたのは、女三宮が光源氏へ降嫁したあとだった。

それを宮が知ったのは、婚姻から一年近く経ってからである。

父である朱雀院のもとへ参った折、老いた女房たちの会話を偶然耳にした。


「柏木様は、三の宮様をと望んでおられたそうですのに」


「二の宮様でも、同じ院の姫君ですもの」


同じ院の姫君。

まるで、どちらでもよかったような言い方だった。

宮が一条の邸へ戻ると、柏木から文が届いていた。

珍しく長い文だった。

だが、宮へ会いたいという内容ではなかった。


女三宮へ、珍しい唐の楽譜を届けたい。

光源氏を通すほどのものではないため、姉である宮から贈ったことにしてくれないか。

そのように書かれていた。


宮は、文を何度も読み直した。


「これを、妹へ?」


小少将は困ったように目を伏せた。


「柏木様は、姉君からであれば、女三宮様もお受け取りになりやすいと」


「私の名を使うのですね」


「宮様」


「私が贈ったことにして」


宮は、文に添えられた楽譜へ目を向けた。

見事な表装だった。

紙も、紐も、香も、丁寧に選ばれている。

柏木がどれほど心を込めて整えたか、見ただけで分かった。

宮へ贈られた品で、これほど美しく用意されたものはなかった。


その夜、柏木は宮の返事を待ちきれず、自ら訪れた。


「楽譜は御覧になりましたか」


「はい」


「三宮へお届けいただけますか」


「なぜ、私が?」


柏木の顔に、戸惑いが浮かんだ。


「姉君からであれば、不自然ではありません」


「私は、妹へ贈りたいと思っておりません」


「ただ、御名をお貸しいただくだけです」


宮は、夫の顔を見つめた。


「あなたが妹へ贈りたいものを、私が贈ったことにするのですね」


柏木は黙った。


「なぜ、そのようなことをなさるのです」


「珍しい譜を、音楽のお好きな宮へと思っただけです」


「では、源氏の君を通じてお贈りになればよいでしょう」


「それでは、堅苦しくなる」


「私を使えば、堅苦しくないのですか」


柏木の目に、苛立ちが現れた。


「宮は、以前はそのように人を責める方ではありませんでした」


以前。

夫の心がどこにあるかを知らず、何も言わずに笑っていた頃。


「以前の私なら、何も気づかないと思っておられたのですか」


「何のお話です」


「あなたが本当に望んでおられたのは、女三宮だったのでしょう」


柏木の顔から、表情が消えた。

否定してほしいと思った。

昔のことだと。

今は宮を妻として大切に思っていると。

嘘でもよいから言ってほしいと、宮は願った。


けれど柏木は、長い沈黙のあとに言った。


「今さら、そのような話をして何になります」


否定しなかった。


「では、私は何だったのです」


宮の声が震えた。


「三宮を得られなかったあとに、同じ父を持つ皇女であれば、誰でもよかったのですか」


「誰でもよかったとは申しておりません」


「私でなければならない理由が、ありましたか」


柏木は答えなかった。

その沈黙が、答えだった。

やがて彼は、ひどく疲れたように息を吐いた。


「あなたは、何もおっしゃらない方だと思っておりました」


宮は耳を疑った。


「だから、妻に?」


「穏やかな方だと」


「あなたが何をしても、黙っている女だと?」


「そのような意味では」


「では、どのような意味です」


柏木は立ち上がった。


「今夜は、これ以上お話ししても仕方がない」


宮は、男の背中を見た。

自分が傷つけたことを認める代わりに、話すこと自体を無意味にする。

柏木は楽譜を持って帰った。

止める必要はなかった。

もともと、彼女へ贈られたものではなかった。


◇


それから柏木は、以前にも増して一条の宮を訪れなくなった。

来ても長くは滞在しない。

宮が話しかければ、心ここにない返事をする。

妹の話だけには耳を傾けた。


「三宮は、近頃いかがお過ごしですか」


「存じません」


「姉君なのに?」


何度も同じことを尋ねた。

そのたび、宮の胸の中に冷たいものが積もっていった。

やがて六条院で、女三宮の姿が人目に触れたという噂が流れた。

その頃から、柏木の様子は明らかに変わった。


夜中に目を覚ます。

文を隠す。

宮が近づけば、急いで懐へ入れる。


「どなたからです」


一度だけ尋ねると、柏木は強い声で答えた。


「私にも、あなたに話せぬことはあります」


夫婦だからすべてを話せとは、宮は言っていない。

ただ、自分の目の前で別の女を思い、その相手が誰かも知っているのに、何も知らない顔を求められることに耐えられなかった。


「私には、何も尋ねるなと?」


「そうは申しておりません」


「何も知らぬ妻のふりをしろと?」


柏木は黙った。

そして、いつもの言葉を口にした。


「宮は、物事を悪くお取りになる」


宮は、笑いそうになった。

悪く取らなければ、何が残るのだろう。


夫は本当は自分を愛している。

妹を思っているように見えるのは、姉妹への親しみである。

訪れないのは忙しいため。

隠した文は政務に関わるもの。

すべてを夫に都合よく受け取れば、穏やかな妻でいられる。

その代わり、自分の見たものも、感じたことも、すべて捨てなければならない。


「私は、目が悪いのでしょうか」


宮は尋ねた。


「何のことです」


「それとも、あなたは私が何も見えないと思っておられるのですか」


柏木は答えなかった。


◇


柏木が病に伏したのは、その翌年だった。


急に痩せた。

夜も眠らず、何かに怯えているようだった。

宮は妻として薬を届けた。

自ら見舞いにも行った。

愛されていなかったとしても、夫であることに変わりはないと思った。

柏木は、病床で宮の姿を見ると目を伏せた。


「お越しいただく必要はなかった」


「夫が病んでいるのに?」


「こちらには、人もおります」


「私は、妻ではございませんか」


柏木の顔が歪んだ。


「宮には、申し訳ないことをいたしました」


初めて聞く謝罪だった。

宮は男の枕元へ座った。


「何を、申し訳ないと思っておられるのです」


柏木は答えなかった。


「私を妹の代わりにしたことですか」


沈黙。


「私の名を使って、妹へ近づこうとしたことですか」


柏木は目を閉じた。


「私を妻としながら、ほかの方を思っておられたことですか」


「もう、おやめください」


弱い声だった。


「なぜです」


「私は、もう長くありません」


「死ぬ方へは、何も尋ねてはいけないのですか」


柏木は苦しそうに息をした。

宮は、少し言いすぎたかもしれないと思った。

けれど今尋ねなければ、二度と答えを聞くことはできない。


「一度でも」


宮は言った。


「私を、私として見てくださったことはございましたか」


柏木は、長いあいだ黙っていた。

やがて、かすれた声で言った。


「あなたは、よい方です」


宮は目を閉じた。

答えになっていなかった。


よい方。

穏やかな方。

何も言わず、夫を責めない方。

柏木が望んでいたのは、やはりそのような妻だった。

宮自身ではない。


「愛しては、くださらなかったのですね」


柏木は答えなかった。

そのとき、病で意識が曖昧になったのか、彼は宮の袖をつかんだ。


「宮」


初めて、すがるように呼ばれた。

宮は思わず手を重ねた。


「ここにおります」


柏木は薄く目を開けた。


「三の宮」


宮の手が止まった。

柏木の目は、彼女を見ていなかった。


「どうか、あの方を――」


何を願ったのかは、最後まで言葉にならなかった。

宮は、ゆっくりと袖を引いた。

柏木は気づかなかった。

病床の夫は、最後まで妹を見ていた。


◇


柏木は、死の間際に夕霧を枕元へ呼んだ。

親友である彼へ、妻のことを頼んだという。

宮がそれを知ったのは、柏木が亡くなったあとだった。


「夕霧様に、宮様をお守りするようお頼みになったそうです」


小少将が涙を拭いながら言った。

宮は、何も答えられなかった。

生きているあいだ、妻の望みを一度も尋ねなかった男が、死ぬ間際にも、宮の行く先を別の男へ託した。

まるで、自分が所有していた品を譲るように。


柏木は、よいことをしたと思ったのだろうか。

残される妻を案じた、優しい夫として死んだつもりなのだろうか。

宮は夫のために喪服をまとった。


泣いた。

悲しくないわけではなかった。

共に暮らした人だった。

若くして死んだことを、哀れにも思った。

けれど、その涙の中には怒りがあった。


最後まで自分を見なかった男への怒り。

その男を愛せなかった自分への罪悪感。

それでも妻として美しく悲しむ姿を求める人々への疲れ。


秋の風が吹く頃、人々は宮を落葉の宮と呼ぶようになった。

夫を失い、枝から落ちた皇女。

誰かに拾われるのを待つ女。

宮は、その名が嫌いだった。


◇


柏木の死後、夕霧から文が届くようになった。

初めは親友を亡くした悲しみと、宮を案じる言葉だった。

やがて文には、宮の琴を聞きたい、寂しい一条の宮で誰を頼りに暮らしているのか、といった言葉が交じり始めた。


宮が返事を減らすと、夕霧の文は増えた。

断っても、一条の宮の近くまで訪れた。

雨の夜には、濡れたまま門の外で待った。

世間では、それを深い恋と呼んだ。


「あれほど思われているのに」


女房たちは、ため息をついた。

母である一条御息所も、初めは夕霧を警戒していた。

夕霧には雲居雁という妻がいる。

子どもも多い。

そのような男のもとへ、皇女である娘を置くことなどできないと言った。


しかし夕霧が諦めずに通ううちに、母の言葉も揺らぎ始めた。


「世間が、あれこれ申すようになりました」


御息所は疲れた顔で言った。


「このまま夕霧殿を門前に立たせ続ければ、かえって宮の御名に傷がつきます」


「私が、お招きしたのではございません」


「世間は、そこまで考えません」


「では、訪ね続ける方ではなく、拒んだ私が悪いことになるのですか」


「悪いとは申しません。ただ、女は噂だけでも傷つくものです」


宮は、柏木の病床を思い出した。

自分が望む答えを口にするまで、相手の言葉を聞こうとしない男。

夕霧も、どこか似ていた。


宮が拒むのは、柏木への貞節のため。

悲しみで心が閉ざされているため。

時が経てば、自分の愛情が届くはず。

夕霧は宮の言葉より、自分の作った物語を信じていた。


「私は、待っていただきたいとは申し上げておりません」


宮は言った。


◇


雨の夜、夕霧が門前から帰ろうとしなかった。

一条御息所は、ついに男を通すよう命じようとした。

宮はそれを止めた。


「会いたいと何度言うかではなく、嫌だと言ったときにやめられるかどうかで、私はあの方を見ます」


宮は小少将を呼んだ。


「夕霧様へ、お伝えください。今夜は、お帰りいただきます」


「宮」


母が声を上げた。


「私がお会いしないのは、悲しみで正しい判断ができないからではございません」


宮は言った。


「お会いしたくないと、自分で決めているからです」


翌朝、夕霧から文が届いた。

時が経てば宮の心も和らぐ。

自分はいつまでも待つ。

そのように書かれていた。


宮は、自ら墨をすった。


亡き人への思いのために、あなたを拒むのではございません。

あなたを夫として望まないために、お断りしております。

時が過ぎても、この言葉の意味は変わりません。


書き終えた手は震えていた。

柔らかく言えば、また都合よく読み替えられる。

だから、一つの意味しか持たない言葉を選んだ。


◇


一条御息所は、その冬に亡くなった。


最期に娘の手を握り、言った。


「御自分の灯を、消してはなりません」


母の死後、一条の宮は急に広くなった。

女房の何人かは、頼れる家へ移っていった。

邸の収入は減り、屋根は傷み、北の渡殿は傾いていた。

家司は、宮へ夕霧を頼るよう勧めた。


「この邸を、宮様お一人で保つのは難しゅうございます」


「では、財がどれほど残っているか、帳面を見せてください」


「そのようなことは、男どもへお任せになれば」


「男へ任せた結果、この有様なのでしょう」


宮は帳面を集めた。


母が受け継いだ土地。

朱雀院から与えられた財。

柏木の家から届いていた援助。

一つずつ確かめていった。


その作業の途中で、柏木の家から一つの文箱が届けられた。

夫の遺品のうち、宮に関わりのあるものを集めたという。

中には、宮が贈った歌。

着ることのなかった衣の色目を相談する文。

返事のないまま残された、短い便り。

どれも、宮が覚えているものだった。


箱の底に、見覚えのない黒い袋が入っていた。

紐は固く結ばれている。


「柏木様の御私文でしょうか」


小少将が言った。


「お開けにならないほうが」


宮はしばらく袋を見つめた。

夫婦であったからといって、亡き人のすべてを知る権利があるとは思わない。

けれど、袋に使われた香を知っていた。


あの夜、柏木の衣に移っていた香だった。

若い梅に似た香。

女三宮のもとで好まれていると、かつて聞いたことがあった。


宮は紐を解いた。

中には、数通の文と、書きかけの歌が入っていた。

宛名はない。

だが、誰へ書いたものかはすぐに分かった。


御簾の隙間から姿を見た日のこと。

猫が簾を引いたこと。

思いを抑えられず、夜の御殿へ忍び入ったこと。

相手の怯える様子さえ、自分への慎み深い情けだと受け取っている文。

そして、光源氏の子として育てられている幼子について、自分の面影があるのではないかと記した文。


宮は、途中で読むのをやめた。

手の中の紙が音を立てて震えた。


「宮様」


小少将が顔を覗き込む。


「女三宮だったのですね」


宮は言った。

知っていたはずだった。

柏木が妹を思っていたことを。

けれど、思うことと、実際に何かがあったことは違う。


妹は、柏木の思いを受け入れたのだろうか。

自分が知らないところで、二人は心を通わせていたのか。


宮が夫を待っていた夜。

琴を弾いていた夜。

柏木は妹のもとへ行っていたのか。


胸の奥に、熱いものが広がった。

悲しみより先に、怒りが来た。

柏木だけに向けた怒りではなかった。


女三宮へも。

愛されていた妹へ。

何も知らぬ顔で、姉の夫を受け入れたかもしれない女へ。


「妹へ、文を」


宮は言った。


「お会いしたいと」


◇


女三宮は、すでに髪を下ろしていた。


六条院の一角に設けられた仏間には、香煙が薄く漂っていた。

昼でありながら、御簾の内は暗い。

女三宮は、白い衣に身を包んでいた。


少女のように華奢な姿だった。

落葉の宮は、妹の顔をこれほど近くで見るのが初めてだった。

同じ父を持ちながら、二人はほとんど姉妹として暮らしたことがない。


「突然、押しかけて申し訳ございません」


落葉の宮が言うと、女三宮は小さく首を振った。


「姉上がお越しになるとは、思っておりませんでした」


声は細かった。

宮は、持ってきた黒い袋を膝の前へ置いた。


「柏木の遺品から、これが見つかりました」


女三宮の顔から血の気が引いた。

文を開かなくとも、何が入っているか分かったのだろう。


「お読みになったのですね」


「はい」


女三宮は目を伏せた。


「申し訳ございません」


その一言が、宮の胸を刺した。


「何を謝っておられるのです」


「姉上の夫である方と」


「お慕いしていたのですか」


言葉が強くなった。

女三宮の肩が震えた。


「柏木を、お慕いしていたのですか」


「いいえ」


答えは、かすかな声だった。


「では、なぜ」


「私にも、分かりません」


「分からない?」


宮の声に怒りが滲んだ。


「夫の文には、あなたも心を寄せていたように書かれております」


女三宮は唇を噛んだ。


「姉上は、私があの方を奪ったとお思いですか」


宮は答えなかった。

そう思っていた。

ここへ来るまでは。

女三宮は、自分の手を見つめた。

細い指が、白い衣の上で固く組まれている。


「私は、あの方を選んだのではございません」


女三宮は言った。


「拒む間もなく、選んだことにされたのです」


仏間の奥で、香が一筋、細く立ち上っていた。


「初めて御文をいただいたとき、私はお返事をいたしませんでした」


女三宮は続けた。


「怖かったのです。源氏の君の妻でありながら、ほかの殿方と文を交わしたと知られれば、どうなるのか」


「では、柏木は」


「返事がなくとも、御文を寄越されました」


女三宮の声は、次第に震えていった。


「私が拒んでいるとは、お思いにならなかったのでしょう。女は立場があるから答えられないだけだと。心の中では、自分を慕っているはずだと」


落葉の宮は、夕霧の文を思い出した。


返事がないのは悲しみのため。

時が過ぎれば、心は変わる。

女の言葉より、男が作った物語のほうを信じる。


「ある夜、あの方は部屋へ入ってこられました」


女三宮は目を閉じた。


「女房たちも、すぐには何が起きたのか分かりませんでした」


「あなたは、拒んだのですか」


「声が出ませんでした」


その答えは、落葉の宮が想像していたものと違った。


「何を言えばよいのかも分からなかったのです」


女三宮は言った。


「嫌だと申せば、誰かに聞かれます。助けを呼べば、源氏の君に知られます。父上にも。世間にも」


「それで、黙っていたのですか」


「はい」


女三宮は涙を流さなかった。

それが、かえって痛ましかった。


「黙っていたため、あの方は私が受け入れたと思ったのでしょう」


落葉の宮は、黒い袋を見た。

文の中の柏木は、女三宮の怯えを、恥じらいとして書いていた。

声を出さなかったことを、拒絶ではなく許しと受け取っていた。


「薫は」


宮が尋ねると、女三宮の指が強く組まれた。


「柏木の子なのですか」


長い沈黙のあと、妹は頷いた。


「私が出家したのは、そのためです」


「罪を犯したから?」


女三宮は目を開けた。


「初めは、そう思っておりました」


「今は?」


「何が私の罪だったのか、分からなくなりました」


女三宮は、初めて姉を見た。


「御簾を上げた猫を止められなかったことですか。柏木の御文を、すべて焼かなかったことですか。部屋へ入られた夜、声を上げられなかったことですか」


落葉の宮は答えられなかった。


「皆、私が軽率だったと申しました」


女三宮の声は静かだった。


「源氏の君も、父上も、女房たちも。柏木を招いたのは私ではないのに」


落葉の宮の中で、妹へ向けていた怒りが、行く先を失った。

柏木は、姉を妹の代わりにした。

妹を、手に入れるべき理想の女にした。

どちらの言葉も聞かなかった。

自分を愛しているはずだと決めつけ、二人の人生を自分の恋の物語へ押し込めた。


「私は」


落葉の宮は言った。


「あなたが、柏木に愛されていたのだと思っておりました」


女三宮は、わずかに顔を歪めた。


「愛とは、このようなものなのでしょうか」


その問いに、宮は答えられなかった。

柏木は、妹を愛していたのかもしれない。

少なくとも、自分ではそう信じていた。

けれど、その愛の中に、女三宮の心はなかった。


「私は、あなたを憎もうとして、ここへ参りました」


落葉の宮は言った。

女三宮は驚かなかった。


「そうでございましょう」


「夫を奪った妹だと」


「はい」


「けれど、奪われたのは、私たち二人だったのですね」


女三宮の目から、初めて涙が落ちた。


◇


落葉の宮が一条の宮へ戻ると、夕霧が待っていた。


先触れもなく訪れていたが、門の外で通されるのを待っていた。

以前とは違い、無理に入ろうとはしなかった。

宮は、その日のうちに会うことにした。


御簾の外へ座った夕霧は、宮の顔色を案じるような声で尋ねた。


「どちらへ、お出かけだったのです」


「女三宮のもとへ」


夕霧が黙った。


「柏木の文が見つかりました」


宮は、黒い袋を夕霧の前へ置かせた。


「お読みください」


夕霧は初め、ためらった。

それでも宮に促され、文を開いた。


一通。

また一通。

読み進めるうちに、顔から表情が消えていった。


「柏木は」


夕霧が言った。


「三宮を、心から思っていたのです」


宮の胸に怒りが灯った。


「まだ、そのようにおっしゃるのですか」


「しかし、あれほど苦しみ」


「誰が苦しめたのです」


夕霧は口を閉じた。


「柏木は、返事のない妹へ文を送り続けました。妹の部屋へ、許しなく入りました」


「女三宮様も、まったく御心がなかったとは」


「なぜ、そう思われるのです」


宮は夕霧を見た。


「柏木が、そう書いているからですか」


夕霧は文へ目を落とした。


「これは、柏木の目から書かれたものです」


宮は言った。


「妹は、拒む声さえ出せなかったと申しました。声を出せば、自分のほうが罪を問われると知っていたからです」


「それは」


「あなた方は、男が苦しめば深い恋と呼ぶのですね」


宮の声が震えた。


「その恋のために、女がどのような目に遭ったかは見ようともせずに」


夕霧は何も言えなかった。


「あなたは、柏木が私を最期まで案じていたと申しました」


宮は続けた。


「けれど、あの人は私へ何も尋ねず、あなたへ私を託しました」


「柏木なりに、宮の先を」


「案じたのならば、なぜ私に尋ねなかったのでしょう」


夕霧は顔を伏せた。


「あなたも同じでした」


「私も?」


「私がお断りしても、悲しみのためだと決めつけた。時が経てば心が変わると」


夕霧の肩が、わずかに動いた。


「私は、柏木とは違うと思っておりました」


「私も、そう思いたかったのです」


宮は言った。


「けれど、どちらも私の言葉より、御自分の思いを信じておられた」


庭で、風が吹いた。

落葉が廊へ入り込んだ。

夕霧は長いあいだ黙っていた。

やがて、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


宮は返事をしなかった。

謝罪を受け入れるかどうかも、今すぐに決める必要はなかった。


「この文を、どうなさるのです」


夕霧が尋ねた。


「世に出れば、女三宮様も、薫君も」


「ええ」


「燃やしたほうがよいでしょう」


夕霧は言った。


「柏木のために?」


宮が尋ねると、夕霧は顔を上げた。


「いいえ」


答えるまでに、少し間があった。


「女三宮様と、御子のために」


宮は黒い袋を見た。


「決めるのは、私ではございません」


「では、誰が?」


「この文によって、最も傷つけられる方です」


◇


数日後、女三宮は一条の宮を訪れた。

出家してから、六条院の外へ出ることはほとんどなかったという。

牛車から降りた妹は、以前よりも小さく見えた。


宮は正門で迎えた。

誰かの夫を挟まずに姉妹が向き合うのは、初めてだった。

夜、二人は御簾を上げた部屋に座った。


庭には月が出ていなかった。

燈台が、二つ置かれている。

その間に、柏木の文を入れた黒い袋があった。


「夕霧殿は、燃やしたほうがよいと」


落葉の宮が言った。


「姉上は、どうお思いですか」


「私が決めることではございません」


「なぜです」


「私を傷つける文でもあります。けれど、あなたのことが書かれている」


宮は妹を見た。


「あなたが決めてくださいませ」


女三宮は、長いあいだ袋を見つめた。


「人々は、柏木を哀れな方だと申します」


「ええ」


「叶わぬ恋のために病み、亡くなったと」


「そのように語られております」


「文を燃やせば、これからもそう語られるのでしょうね」


落葉の宮は頷いた。

柏木は、美しい悲恋の男として残る。


妹の部屋へ忍び入ったことも。

妻を代わりにしたことも。

二人の言葉を聞かなかったことも。

すべて隠されたまま。


「それでも、燃やしたいと思います」


女三宮は言った。

落葉の宮は、妹の顔を見た。


「柏木を守るためではございません」


女三宮は続けた。


「薫を守るためです」


まだ幼い子。

自分の出生を知らず、光源氏の子として育つ子。


「あの子が、この文の中の人々に、一生を決められることがないように」


「あなた自身のためでは?」


女三宮は少し考えた。


「私のためでもあります」


そして、静かに言った。


「これ以上、私の人生を、あの方の恋の続きにしたくはございません」


落葉の宮は、燈台の火を見た。


「私もです」


文を残せば、いつか真実を明らかにできるかもしれない。

柏木だけが哀れな男として語られることを、止められるかもしれない。

けれど、それを世へ出せば、女三宮は再び人々の目に晒される。


誰が誘ったのか。

本当に嫌だったのか。

なぜ声を上げなかったのか。

なぜ子を産んだのか。

男の行為ではなく、女の振る舞いばかりが問われるだろう。


「燃やせば、私たちの苦しみまで、なかったことになるでしょうか」


女三宮が尋ねた。


「いいえ」


落葉の宮は答えた。


「私が覚えております」


「姉上が?」


「あなたも、覚えている」


宮は妹の手を取った。


「誰かに信じてもらうためだけに、傷を残しておく必要はございません」


女三宮の目に涙が浮かんだ。


「姉上は、あの方をお許しになりますか」


「いいえ」


宮の答えは早かった。


「許せる日が来るかも分かりません」


「それでも、燃やすのですか」


「許さないまま、あの方の外へ出ることはできます」


落葉の宮は、黒い袋から最初の文を取り出した。


火へ近づける。

紙の端が黒くなった。

細い炎が走り、柏木の文字を飲み込んでいく。


女三宮は、自分が受け取った文も持ち出し、一通の文を手に取った。

二人で、一通ずつ火へ入れた。

女三宮が受け取った文も、受け取らなかった文も、一様に火に沈められた。


愛を訴える歌。

苦しみを書いた文。

相手も自分を思っているはずだと決めつける言葉。

妻を案じていると装いながら、一度も妻の望みを尋ねなかった言葉。

すべてが燃えた。

灰は軽くなり、火の中で崩れた。


最後の文が燃え尽きたあと、女三宮が言った。


「何もなくなってしまいましたね」


「いいえ」


落葉の宮は、妹の手を握ったまま答えた。


「私たちが残っております」


◇


夕霧は、それ以降、一条の宮へ求愛の文を送らなくなった。

ただ一度、謝罪の文が届いた。


自分は柏木の苦しみばかりを見ていたこと。

宮の拒絶を、悲しみによる迷いだと勝手に解釈したこと。

雲居雁にも、長く心配をかけたこと。

言い訳は書かれていなかった。


宮は返事をしなかった。

夕霧が変わったかどうかは、これからの暮らしが示すことだった。


◇


一条の宮は、以前と同じ邸でありながら、少しずつ変わっていった。

落葉の宮は母の残した帳面を調べ、途絶えていた荘園との行き来を戻した。

壊れた屋根を直し、使われていなかった部屋を開いた。

母が守ってきた家を、自分が暮らしたい場所にするためだった。


女三宮は、折々に一条の宮を訪れるようになった。

初めは人目を忍び、夕暮れになってから来た。

やがて、昼にも正門から入るようになった。

薫を連れてくることもあった。

幼い薫は、静かな子だった。


大人の顔をよく見た。

自分が何か悪いことをしていないか、いつも確かめているような目だった。


「琴に触れてみますか」


ある日、落葉の宮が尋ねると、薫は母を見た。

女三宮は困ったように姉を見返した。


「触れてもよいのですよ」


宮が言うと、薫は恐る恐る琴へ近づいた。

小さな指で、一本の糸を弾く。

低い音が、室内へ響いた。

薫は驚き、手を引っ込めた。


「琴が、怒りましたか」


「いいえ」


落葉の宮は笑った。


「御挨拶をしたのです」


「わたくしに?」


「ええ」


薫は、もう一度糸へ触れた。

今度は、少し柔らかな音が鳴った。

落葉の宮は、その横顔を見た。

柏木の面影があるのかもしれない。

けれど、宮には分からなかった。

分かろうとする必要もなかった。


この子は柏木の残した罪でも、悲恋の証でもない。

今ここで琴に触れている、一人の子どもだった。


「もう一度、弾いてもよい?」


「何度でも」


宮は答えた。


「御自分でやめたいと思うまで」


女三宮が、そっと目を伏せた。


◇


姉妹が初めて合奏したのは、その年の秋だった。


一条の宮の庭には、赤や黄の葉が積もっていた。

落葉の宮は琴の前に座った。

女三宮は、琵琶を抱いている。


「長く弾いておりません」


妹が言った。


「私も、人と合わせるのは久しぶりです」


「間違えたら?」


「止めればよいのです」


「最初から?」


「何度でも」


薫は女房の膝に座り、二人を見ていた。

燈台が二つ置かれた。


一つは琴のそば。

もう一つは琵琶のそば。


落葉の宮が、最初の音を鳴らした。

柏木が聞こうとしなかった琴の音。

宮が一人で、誰にも届かぬまま奏でていた音。

少し遅れて、女三宮の琵琶が重なった。


柏木が遠くから思い描いていた琵琶とは違う。

生身の女三宮が、自分の指で奏でる音だった。


初めは、二つの音が合わなかった。

琴が先へ進みすぎ、琵琶が遅れた。

落葉の宮は手を止めた。


「もう一度にいたしましょう」


女三宮が言った。


「今度は、私が姉上の音を聞きます」


「私も、あなたの音を聞きます」


二度目は、先ほどよりもよく重なった。

琴が低く鳴る。

琵琶が、その音へ答える。

片方が強くなれば、もう片方が少し待つ。

音は、どちらかに従うのではなく、互いの居場所を探しながら進んだ。


柏木はかつて、落葉の宮の琴を聞きながら、女三宮の琵琶を思っていた。

そのとき、二人の女は彼の中でしか結ばれていなかった。


妻と、望んだ女。

代わりと、理想。


けれど今、二人の間に柏木はいなかった。

どちらも、柏木へ聞かせるための音ではない。


妹の代わりでもない。

誰かに望まれた女でもない。

二人は初めて、互いの音を聞きながら奏でていた。


曲が終わると、薫が小さな手を打った。


「もう一度」


女三宮が笑った。

落葉の宮は、妹が声を立てて笑うのを初めて聞いた。


「今度は、薫も加わりますか」


「わたくしも?」


「一つだけ、音をお任せしましょう」


宮は薫を自分の隣へ座らせた。


庭で風が吹いた。

一枚の葉が御簾を越え、琴の上へ落ちた。

かつて人々は、宮を落葉と呼んだ。

夫を失い、枝から落ちた皇女。

誰かに拾われるのを待つ女。

けれど、落ちた葉は、失われたものではない。


風に運ばれ、別の葉と出会うこともある。

土へ還り、次の芽を育てることもある。

落葉の宮は、琴の上の葉を取らなかった。


薫の指を一本の糸へ導く。


「ここを」


小さな指が動いた。

一つの音が鳴った。

琴と琵琶の間へ、新しい音が加わった。


日が暮れると、庭は暗くなった。

女房たちが、燈台へ火をともしていく。


一つ。

また一つ。

かつて一条の宮には、帰らない男を待つための灯が置かれていた。


今は違う。

落葉の宮の灯。

女三宮の灯。

薫のための、小さな灯。


誰かを待ち続けるためではない。

ここにいる者の顔を、互いに見るための明かりだった。


秋の風が廊を渡った。

火は、わずかに揺れた。

けれど、どの灯も消えなかった。

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