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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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12/19

雲路

【原作では】

雲居雁は、頭中将の娘で、幼いころから光源氏の息子・夕霧と互いに思い合っていました。

父に二人の仲を反対されて長く引き離されますが、のちに結婚を許され、夫婦となります。

しかし後年、夕霧が落葉の宮に心を寄せて契りを結ぶと、雲居雁は深く傷つき、実家へ戻ります。

雲居雁は、夫が落葉の宮のもとで夜を明かしたと知った朝、泣かなかった。


三条の邸には、朝から子どもたちの声が満ちていた。

東の廊では、幼い姫君が新しい鞠を取り合っている。

庭では、若君が昨夜の雨でできた水たまりを覗き込み、女房に衣の裾を引かれていた。

奥からは、乳母が誰かを叱る声が聞こえる。

そのすべての上を、秋の風が渡っていった。


雲居雁は、夫から届いた文をもう一度読んだ。


昨夜は政務が長引き、宮中にとどまりました。

今宵は必ず帰ります。


短い文だった。

けれど、宮中に勤める兄から、別の知らせが先に届いていた。

夕霧の車は、夜明け前、一条の宮から出たという。


一条の宮。

亡き柏木の妻であった、落葉の宮の住まいだった。


「母上」


幼い若君が、御簾の隙間から顔を出した。


「父上は、いつお帰りになりますか」


「今宵だそうですよ」


「本当に?」


「さあ」


雲居雁は文を畳んだ。


「父上にお尋ねなさい」


「昨日も、帰るとおっしゃったのに」


若君は不満そうに唇を尖らせた。


「笛を教えてくださると」


「そうでしたね」


その前の日には、娘と一緒に絵を見ると約束していた。

さらにその前には、末の子が眠る前に顔を見せると言った。

夕霧は、そのどれも忘れていた。


雲居雁は、文を脇へ置いた。


「紙と筆を持ってきてください」


侍女が驚いた顔をした。


「御返事をお書きになるのですか」


「いいえ」


雲居雁は言った。


「忘れていることが多すぎる方のために、書き留めておくのです」


◇


夕霧と雲居雁は、幼い頃から互いを知っていた。

同じ邸で育ち、顔を合わせれば言い争い、離されれば会いたがった。

二人の仲を知った雲居雁の父は、激しく反対した。


当時の夕霧は、光源氏の子でありながら、まだ高い官位を得ていなかった。

父は娘を、もっと華やかな家へ嫁がせたかった。

雲居雁は父の邸へ連れ戻され、夕霧とは何年も引き離された。

それでも、二人は文を交わした。


会えない年月を耐えた。

父の怒りも、世間の噂も越え、ようやく夫婦となった。

結ばれた日のことを、雲居雁は今も覚えている。


夕霧は、彼女の手を取り、


「もう二度と、あなたを一人で待たせません」


と言った。


あの頃の夕霧は、待たせることがどれほど苦しいかを知っていたはずだった。

けれど、結婚して年月が過ぎた。


子どもが生まれた。

また生まれた。

泣く子を抱き、病む子のそばで夜を明かし、兄弟喧嘩を収めた。

夫の衣を整え、使者へ返事をし、季節ごとの贈り物を手配した。

夕霧が政務へ専念できるよう、邸の暮らしを守った。


いつの間にか夕霧は、雲居雁を待たせてもよいと思うようになっていた。

何日帰らなくても。

約束を忘れても。

雲居雁は、最後には許す。


昔、あれほど自分を愛したのだから。

子どももいるのだから。

帰る場所は、いつまでも変わらずそこにある。

そう信じているようだった。


「随分と長いものになりましたね」


侍女が、書き上げられた紙を見て言った。


「まだ、半分です」


雲居雁は答えた。


紙には、夕霧がこの一月で忘れたことが並んでいた。

若君との笛。

姫君との絵。

末の子の祝い。

雲居雁の父を訪ねる約束。

傷んだ車を直すという話。

女房の一人が暇を願い出ている件。

冬の衣の用意。


どれも一つだけなら、小さなことだった。

けれど、小さなことをすべて忘れてよい人がいるなら、代わりにすべて覚えている人がいる。

夕霧は、それを考えたことがあるだろうか。


「これを、夫の部屋へ置いてください」


「御文とともに?」


「いいえ」


雲居雁は少し考えた。


「夫の衣や書物と一緒に、東の対へ運んでください」


侍女は目を見開いた。


「すべてでございますか」


「すべてです」


「夕霧様を、東の対へ?」


「しばらくは、客としてお迎えします」


「客でございますか」


「お帰りになったら、客らしく丁重におもてなしを」


雲居雁は言った。


「ただし、奥へはお通ししないでください」


◇


夕霧が帰ったのは、夜が深くなってからだった。

約束どおりではあった。

けれど、子どもたちはすでに眠っていた。


門を入った夕霧は、いつもと様子が違うことにすぐ気づいた。

普段なら、女房の誰かが奥へ知らせに走る。

雲居雁が腹を立てている夜でも、夕霧の衣や食事は用意されている。

だが、その夜は誰も慌てなかった。


年長の女房が静かに頭を下げた。


「東の対へ御案内いたします」


「なぜ東へ?」


「宮様より、そちらでお休みいただくようにと」


「雲居雁は?」


「すでにお休みでございます」


夕霧は眉を寄せた。


「話がある。取り次いでくれ」


「明朝、お時間を頂戴するとのことでございます」


「私はこの邸の主人だぞ」


女房は、困ったように微笑んだ。


「そのことにつきましても、明朝お話があるそうです」


東の対へ入ると、夕霧の衣も、書物も、文箱も、きれいに並べられていた。

中央には、長い紙が置かれている。

夕霧は紙を開いた。


最初に書かれていたのは、


『今月、あなたがお忘れになったこと。』


という一文だった。

読み進めるにつれ、夕霧の顔は険しくなった。

忘れたのではない。

忙しかっただけだ。

政務があった。

急な来客があった。

落葉の宮のもとを訪れたのも、亡き柏木の友として、放っておけなかったからだ。

言い訳は幾つでも思いついた。


紙の最後には、こうあった。


『明朝、子どもたちの前で、一つずつ御説明ください。』


夕霧は、紙を落としかけた。


◇


翌朝、夕霧が南の部屋へ入ると、雲居雁だけではなく、子どもたちも並んでいた。

上の子から、まだ乳母の膝を離れない幼子までいる。


「父上」


若君が真っ先に口を開いた。


「笛は?」


「笛?」


「昨日、教えてくださると」


夕霧は息を詰まらせた。


「昨日は、急な用が」


「政務ですか」


雲居雁が尋ねた。


夕霧は妻を見た。

雲居雁は、いつもと変わらぬ美しい衣を着ていた。

髪も乱れていない。

泣いた様子もなかった。

その落ち着きが、かえって恐ろしかった。


「話がある」


夕霧は言った。


「私もございます」


雲居雁は頷いた。


「しかし、まず、子どもたちとのお話を」


姫君が前へ出た。


「父上は、絵を見てくださるとおっしゃいました」


「ああ。今夜にでも」


「今夜は、笛です」


若君が言った。


「では、そのあとに」


「末の弟の祝いの品も、選ぶとおっしゃいました」


別の子が口を挟んだ。


「父上は、夜が三つ必要ですね」


幼い姫君が真面目な顔で言った。


女房たちが、顔を伏せた。

笑いを堪えているのが分かった。


夕霧は咳払いをした。


「一つずつ、必ずする」


「いつですか」


雲居雁が尋ねた。


「近いうちに」


「近いうちとは?」


「そのうちだ」


「それでは、今までと同じです」


雲居雁は、筆と小さな帳面を差し出した。


「日をお書きください」


「私が?」


「御自分の約束ですから」


夕霧は子どもたちの視線を受けながら、一つずつ日を書いた。


笛を教える日。

絵を見る日。

末の子の品を選ぶ日。

すべてを書き終えると、雲居雁は子どもたちを下がらせた。


部屋に二人きりになる。

夕霧はようやく声を低くした。


「これは、何の真似だ」


「何のことでしょう」


「私の物を東へ移し、子どもたちの前で責めるなど」


「私は、事実を並べただけです」


「落葉の宮のことを聞いたのだろう」


雲居雁は夕霧を見た。


「宮中にいらしたのでは?」


夕霧は言葉に詰まった。


「あなたの文には、そう書かれておりました」


「事情があった」


「事情があれば、嘘をついてもよいのですか」


「嘘というほどのものではない」


「宮中にいなかったのに、宮中にいたと書くことを、ほかに何と呼ぶのでしょう」


「あなたが騒ぐと思ったからだ」


雲居雁は、しばらく黙った。


「私が怒るから、嘘をついた」


「そうは言っていない」


「私が怒らなければ、正直に話したと?」


夕霧は答えなかった。


「ずいぶん便利ですね」


雲居雁は言った。


「あなたが嘘をつくのも、帰らないのも、すべて私が怒るせいになるのですから」


「男が別の邸へ通うことは、珍しいことではない」


「ええ」


雲居雁はあっさりと頷いた。

夕霧は、少し意外そうな顔をした。


「世の常であることは存じております」


「ならば」


「夫がほかの女性へ通えば、妻が腹を立てることも、世の常ではございませんか」


夕霧は黙った。


「世の常を持ち出すなら、都合のよい半分だけを選ばないでくださいませ」


◇


雲居雁は、一枚の書付を夕霧の前へ置いた。


「何だ、これは」


「これから夫婦として暮らすための、七つの約定です」


「約定?」


「守っていただけるなら、奥へお戻りください」


「守らなければ?」


「東の対は、日当たりもよく、住み心地がよいそうです」


夕霧は書付を開いた。


一つ。来ると約束した夜に帰れぬときは、日が暮れる前に知らせること。

二つ。子どもと交わした約束は、政務の予定と同じく書き留めること。

三つ。誰かに会うために家族へ嘘をつかないこと。

四つ。雲居雁の怒りを、嫉妬の一言で片づけないこと。

五つ。月に三日は、雲居雁が自分のために使う日とし、その間は夕霧が子どもを見ること。

六つ。守る気のない約束をしないこと。

七つ。夫婦に関わることを、片方だけで決めないこと。


夕霧は途中から眉間へ皺を寄せていた。


「五つ目は何だ」


「書いてあるとおりです」


「あなたが出かけている間、私が子どもを見る?」


「はい」


「乳母がいるだろう」


「あなたは父親でしょう」


「どこへ行くつもりだ」


「父上の邸かもしれません。姉妹のもとかもしれません。どこへ行くかを、毎回あなたの許しへ委ねるつもりはございません」


「三日も?」


「あなたは何日、家を空けましたか」


夕霧は黙った。


「七つ目も曖昧だ」


「落葉の宮のもとへ通うかどうかを、私に相談なさらなかったことです」


「相談して、許すのか」


「内容によります」


「許さないと言われれば?」


「それでも行くなら、私も、それを前提に自分の暮らしを決めます」


雲居雁の声は穏やかだった。


「私は、あなたを鎖でつないでおくつもりはございません。ただ、あなたが自由であるために、私だけが何も知らず、何も選べないのはおかしいと申しているのです」


夕霧は書付を見た。


「夫婦が、このような書付で暮らすものか」


「書かなくとも分かる夫婦であれば、必要なかったでしょう」


夕霧は反論しようとした。

だが、言葉が出なかった。


「すぐにお返事をいただかなくても結構です」


雲居雁は立ち上がった。


「東の対で、ゆっくりお考えくださいませ」


◇


夕霧は、三日間、東の対で過ごした。

雲居雁は、食事も衣も不足なく用意させた。

ただ、奥へは通さなかった。

子どもたちは遠慮なく訪れた。


「父上、笛の日です」


「今日は、政務が」


「帳面には、今日とあります」


若君は、父が自ら書いた帳面を持ってきた。

夕霧は笛を教えた。

若君は、思っていたほど上手ではなかった。

同じところを何度も間違えた。


夕霧が少し厳しく言うと、若君の目に涙が浮かんだ。


「泣くな」


「父上が、もう来ないかもしれないから」


夕霧は言葉を失った。


「今日うまくできなければ、次はないかもしれないと思ったのです」


夕霧は笛を置いた。


「次も来る」


「いつ?」


また日を問われた。

夕霧は帳面を開き、次の日を書いた。

その翌日は、姫君の絵を見た。


花と鳥が描かれていた。

鳥の脚が四本あった。

夕霧が指摘すると、姫君は胸を張った。


「二羽おります」


「身体は一つだが」


「重なっているのです」


夕霧はしばらく絵を見た。


「なるほど」


「母上は、すぐ分かりました」


姫君は勝ち誇ったように言った。


「父上は、あまり絵を御覧にならないから」


夕霧は、また言葉に詰まった。

三日目、雲居雁は約定どおり父の邸へ出かけた。

夕霧は、子どもたちとともに残された。

昼までは、どうということもなかった。

夕霧が書を読んでいる間、子どもたちは庭で遊んでいた。

やがて、一人が泣いて戻ってきた。


兄に押されたという。

兄は、先に馬を取られたと言う。

幼い姫君は眠いと騒ぎ、末の子は乳母でなければ嫌だと泣く。

さらに別の子が、庭の木へ登ったまま下りられなくなった。


「一度に話すな!」


夕霧が声を上げると、全員がさらに泣いた。

夕霧は、木の下に立った。


「飛び降りるな。今行く」


高位の公卿である夕霧が、自ら木へ登った。

袖が枝に引っかかった。

下では、子どもたちが急に泣きやみ、父を見上げている。


「父上も、下りられなくなるのでは?」


「黙っていなさい」


どうにか若君を抱えて下りると、衣の裾は裂け、冠は傾いていた。

そこへ、雲居雁が帰ってきた。

夫の姿を見て、しばらく黙っていた。


「お帰りか」


夕霧は不機嫌に言った。


「ええ」


「随分と早いな」


「日が暮れるまで帰らないつもりでしたが」


雲居雁は、夫の裂けた衣を見た。


「何かございましたか」


「何もない」


木から下ろされた若君が叫んだ。


「父上が、木に登りました」


「まあ」


「衣も破れました」


「それは大変」


雲居雁の口元が、わずかに緩んだ。


「笑っているのか」


「いいえ」


「笑っている」


「あなたが御無事で、何よりです」


「毎日、このようなのか」


夕霧が尋ねた。


「今日は、まだ静かなほうです」


雲居雁は答えた。


◇


その夜、夕霧は久しぶりに雲居雁と同じ部屋で食事をした。

奥へ戻ることを許されたわけではない。

ただ、雲居雁が話をするために呼んだのだった。


「子どもたちは、皆眠りました」


雲居雁が言った。


「そうか」


夕霧は疲れていた。

政務のあとよりも、ひどく疲れていた。


「末の子が、少し熱いようです」


「病か」


夕霧は顔を上げた。


「今のところ、わずかな熱です」


雲居雁は落ち着いていた。


「よくあることなのか」


「子どもが幾人もいれば」


「私は、知らなかった」


「お知らせしても、翌朝には下がっていることが多いですから」


「なぜ、すぐ知らせなかった」


雲居雁は夫を見た。


「あなたが帰らない夜に、誰へ知らせればよいのでしょう」


夕霧は何も言えなかった。


「私は、あなたを困らせたくなくて、知らせないことが多くなりました」


雲居雁は言った。


「政務でお疲れだから。大切なお付き合いがあるから。明日にはお戻りになるから」


燈台の火が、小さく揺れた。


「そのうち、あなたは知らなくてもよいと思うようになったのでしょう」


「そうではない」


「では、知ろうとなさいましたか」


夕霧は黙った。

雲居雁は責め続けなかった。

それが、かえって苦しかった。


「落葉の宮を」


夕霧は口を開いた。


「私は、放っておけなかった」


「柏木様の御遺言ですか」


「それもある」


「ほかには?」


夕霧は答えを探した。

夫を亡くし、母まで失おうとしている高貴な宮。

寂しい邸。

人を寄せつけない静けさ。

夕霧は、その悲しみを自分が癒やせると思った。


「必要とされたかったのかもしれない」


夕霧は、ようやく言った。

雲居雁の目が、わずかに動いた。


「この家では、必要とされていないと?」


「そうではない」


「皆、あなたを必要としております」


雲居雁は言った。


「けれど、必要とされていることに応えるより、新しく誰かを救うほうが、立派なことに思えたのではございませんか」


夕霧は、落葉の宮の暗い邸を思い出した。

自分が訪れれば、灯が増える。

文を送れば、悲しみに閉ざされた宮の心が動く。

そのような物語を、一人で作っていたのかもしれない。


三条の邸では、夕霧は英雄ではない。

約束を忘れる父であり、帰りの遅い夫である。

泣く子をあやし、四本脚の鳥を褒め、木に登らなければならない。


「私は、あなたに救っていただきたいとは思っておりません」


雲居雁は言った。


「一緒に暮らしていただきたいのです」


◇


末の子の熱は、その夜のうちに上がった。

幼子は苦しそうに泣き、雲居雁の袖を離そうとしなかった。

医師が呼ばれた。

薬が用意された。

夕霧は、東の対へ戻らなかった。


「政務はよろしいのですか」


雲居雁が尋ねた。


「朝になれば、人を遣る」


「明日は、大切な集まりがあると」


「こちらのほうが大切だ」


雲居雁は何も答えなかった。

夕霧は幼子の額へ手を当てた。

熱かった。


「いつも、こうしているのか」


「熱が出れば」


「一人で?」


「乳母や女房もおります」


「あなたは眠らずに?」


雲居雁は、子どもの汗を拭いた。


「眠れないものです」


夜半、幼子がようやく眠った。

夕霧は、柱にもたれたまま目を閉じた。

雲居雁が小さく言った。


「東の対へ戻られてもよいのですよ」


「戻らない」


「明日も、お忙しいのでしょう」


「あなたは、いつも次の日があっても、ここにいたのだろう」


雲居雁は、夫を見た。


「はい」


「ならば、私もいる」


その言葉は、かつての甘い約束とは違った。

二度と待たせない。

いつまでも愛する。

そのような美しい言葉ではなかった。


今夜はここにいる。

ただ、それだけだった。

けれど雲居雁には、以前のどんな歌よりも確かな言葉に聞こえた。


◇


翌朝、幼子の熱は下がった。


夕霧は衣を替え、宮中へ向かった。

雲居雁は、七つの約定を置いたままにしていた。

返事を急かさなかった。

その日の夕刻、夕霧から使者が来た。


政務が長引いております。

帰りは亥の刻になる見込みです。

子どもたちには、今宵の約束を明日へ改めたいと伝えてください。


雲居雁は文を読み、小さく笑った。


「亥の刻とは、随分と細かくなりましたね」


侍女も笑った。


「帳面へ書いておきましょうか」


「本人が書くことです」


夕霧は、亥の刻より少し前に帰った。


◇


数日後、夕霧は一条の宮を訪れた。

落葉の宮は、御簾の内から静かに応じた。


「もう、お越しにはならないと思っておりました」


「お伝えしたいことがあり、参りました」


夕霧は言った。


「私は、宮を案じているつもりでございました」


「はい」


「けれど、宮が私を必要としているかどうかを、尋ねたことはなかった」


落葉の宮は答えなかった。


「柏木から託されたこともあり、私が宮を守らなければならないと思い込んでおりました」


「私は、柏木の持ち物ではございません」


「はい」


夕霧は頭を下げた。


「今になって、分かりました」


「雲居雁様に、何か言われたのですか」


「多くのことを」


落葉の宮の声に、わずかな笑いが交じった。


「さぞ、手厳しかったことでしょう」


「ええ」


夕霧も苦く笑った。


「ですが、正しかった」


夕霧は、これまでのように宮の心が変わるのを待つとは言わなかった。

必要なら力になるとも。

ただ、自分の訪れが苦痛だったことを詫び、今後は宮の許しがない限り訪れないと伝えた。


「私は、宮を救いたかったのではなく」


夕霧は言った。


「宮を救う自分でありたかったのかもしれません」


御簾の内から、落葉の宮の声がした。


「それに気づかれたのであれば、雲居雁様を大切になさってくださいませ」


「はい」


「ただし、私に断られたから戻ったような顔はなさらないで」


夕霧は顔を上げた。


「雲居雁様は、誰かに選ばれなかった男が帰る場所ではございません」


その言葉は、夕霧の胸へ深く刺さった。


「心得ました」


◇


夕霧は、その夜、七つの約定へ自分の名を書いた。

ただし、一つだけ、書き加えたいと言った。


「何でしょう」


雲居雁が尋ねた。


「八つ目だ」


夕霧は筆を取った。


八つ。不満を抱いたときは、相手が察するのを待たず、言葉にすること。


雲居雁は書付を読んだ。


「これは、私にも守れと?」


「あなたは長い間、不満をお隠しになっていた」


「言っても聞かなかったでしょう」


「これからは聞く」


「本当に?」


「努力する」


「随分と頼りないお言葉ですこと」


「守れない約束はしないことになっている」


雲居雁は、笑いを堪えられなかった。


「では、私も名を書きましょう」


二人は並んで名を記した。

それは恋文ではなかった。

美しい歌もない。

けれど、長く夫婦でいるために初めて交わした、対等な約束だった。


◇


夕霧の変化は、すぐに都で噂になった。

政務が終われば、以前より早く三条の邸へ帰る。

子どもの祝いの日には、ほかの誘いを断る。

雲居雁が父の邸へ出かける日は、自ら子どもたちの相手をする。

ある宴で、同僚の公卿が笑った。


「夕霧殿は、近頃すっかり奥方の言いなりだそうですな」


周囲の男たちも笑った。

以前の夕霧なら、面目を失ったと腹を立てたかもしれない。

だが、彼は盃を置いた。


「言いなりではない」


「では、何と?」


「約束を守っている」


「夫婦の約束など、女の機嫌を取るためのものでしょう」


夕霧は男を見た。


「守る気がないなら、なぜ約束をするのだ」


笑い声が止まった。


「家を任せ、子を任せ、帰れば迎えられて当然と思いながら、妻との約束だけを軽く扱うのは、おかしなことであろう」


男は気まずそうに盃へ目を落とした。

その話は、すぐに三条の邸まで伝わった。


「夕霧様が、皆様の前でそのように」


侍女は嬉しそうに言った。

雲居雁は、縫い物の手を止めなかった。


「言葉だけなら、何とでも申せます」


「お喜びではないのですか」


「少しは」


雲居雁は答えた。

口元には、笑みが浮かんでいた。


◇


月に三日の雲居雁の外出は、その後も続いた。

父の邸へ行く日もあれば、姉妹と歌を詠む日もあった。

何もせず、静かな別邸で過ごすこともあった。


最初の頃、夕霧はそのたびに尋ねた。


「今日は、どこへ?」


「まだ決めておりません」


「いつ帰る」


「夕刻には」


「誰と会う」


「あなたは、私が出かけるたびに、すべてお尋ねになるのですか」


夕霧は口を閉じた。


「日が暮れる前に帰れなくなれば、お知らせいたします」


雲居雁は言った。


「約定どおりに」


夕霧は苦笑した。


「それならば、仕方がない」


子どもたちは、父と過ごす日を楽しみにするようになった。

夕霧は笛だけでなく、書や弓も教えた。

姫君の四本脚の鳥は、その後、六本脚になった。


「今度は三羽か」


夕霧が尋ねると、姫君は首を振った。


「一羽です」


「一羽に脚が六本?」


「速く走れる鳥なのです」


夕霧は真剣に絵を眺めた。


「なるほど。これは速そうだ」


隣にいた若君が笑った。

夕霧も笑った。

以前なら、子どもの絵を眺める時間など惜しいと思ったかもしれない。

けれど、その時間は、政務を休んで捨てている時間ではなかった。

夕霧自身の暮らしだった。


◇


ある春の日、雲居雁の父が三条の邸を訪れた。

夕霧が落葉の宮へ通っていたことを、ようやく詳しく知ったらしい。

父は、今さらながら激怒していた。


「だから、あの男との婚姻には反対したのだ!」


雲居雁は、父の前でため息をついた。


「いつのお話をなさっているのです」


「お前が戻りたいなら、今すぐ連れて帰る」


「戻りません」


「なぜだ」


「話し合いは済みました」


父は不満そうに夕霧を睨んだ。

夕霧は、深く頭を下げた。


「私が悪うございました」


「当然だ」


父は言った。


「雲居雁を泣かせる男など、夫とは認めぬ」


「父上」


雲居雁は口を挟んだ。


「私が泣いたかどうか、御覧になったのですか」


「泣かなかったのか」


「泣くより先に、夫の荷を東へ移しました」


父は黙った。

夕霧も、わずかに顔を伏せた。


「それならば」


父は少し考えた。


「今からでも、荷ごと私の邸へ送ればよい」


「いりません」


雲居雁は即座に答えた。

そのとき、奥から子どもたちが走ってきた。


「祖父上!」


「一緒に鞠をしてください」


「絵も見てください」


「笛も」


父は一歩下がった。


「いや、今日は夕霧殿へ話が」


「父上は、今日は政務がないそうです」


雲居雁はにこやかに言った。


「せっかくですから、夕刻まで子どもたちをお願いいたします」


「私は、そのようなつもりで来たのでは」


「祖父上、早く」


子どもたちに両袖を引かれ、父は庭へ連れていかれた。

夕霧は、その背中を見ながら言った。


「お父上にも、七つの約定が必要ではないか」


「まず、一日子どもたちと過ごしていただいてから考えます」


二人は顔を見合わせ、笑った。


◇


それから幾年かが過ぎた。

夕霧は、すべての約束を完璧に守ったわけではない。

政務に追われ、知らせが遅れる日もあった。

子どもとの約束を、うっかり忘れることもあった。

雲居雁も、不満をすぐに言葉にできないことがあった。

腹を立て、夫の衣を再び東の対へ送りかけた夜もある。

夫婦は、突然、理想の二人になったわけではなかった。


ただ、以前とは違った。


夕霧が忘れれば、雲居雁は黙って耐えなかった。

雲居雁が怒れば、夕霧は嫉妬だと笑わなかった。

二人は何度も言い争った。

言い争いながら、互いの言葉を聞いた。


ある秋の夕暮れ、雲居雁は西の廊に座っていた。

空には細い雲が流れている。

庭では、子どもたちが成長した声で話していた。


夕霧が隣へ座った。


「今宵は、どちらへも行かれないのですか」


雲居雁が尋ねた。


「帰ると約束した」


「誰と?」


「あなたと」


夕霧は答えた。


雲居雁は空を見上げた。

幼い頃、二人は雲のように遠く隔てられていた。

会えない年月には、同じ月を見ていると思うことで耐えた。

ようやく結ばれたあと、今度は近くにいることへ甘えた。

夫婦になれば、道は終わるのだと思っていた。


けれど、違った。

結ばれたところから、また新しい道が始まる。

近くにいる相手と歩く道は、離れていた頃より難しい。

歩幅が違えば、置いていかれる者がいる。

行き先を片方だけで決めれば、道は二つに分かれる。


「雲居雁」


夕霧が呼んだ。


「何です」


「昔、二度と待たせないと言ったことを覚えているか」


「ええ」


「守れなかった」


「ええ」


雲居雁は頷いた。

夕霧は苦笑した。


「少しは、否定してくれてもよいのではないか」


「守れなかったものは、守れなかったのでしょう」


夕霧は庭へ目を向けた。


「もう、二度ととは言わない」


「賢明です」


「今夜は待たせない」


「はい」


「明日も、できるだけ」


「頼りないお約束ですこと」


「守れない約束はしないことになっている」


雲居雁は笑った。

やがて、夕霧も笑った。

庭から、子どもたちの呼ぶ声がした。

二人は立ち上がった。

夕霧が先へ行きかけ、足を止める。

雲居雁が隣へ並ぶのを待った。

彼女は、そのことに気づいた。

けれど何も言わなかった。


二人は同じ速さで廊を歩いた。

頭上では、夕暮れの雲が長く道を作っていた。


どちらかが先に決めた道ではない。

二人で歩きながら、これからも何度でも選び直していく道だった。

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― 新着の感想 ―
素敵な物語をありがとうございます。 実はIF形式の語りは好きではないのですが、このシリーズはとても読み応えがあって、毎回楽しみながら拝見しております。とくに落葉宮と雲居雁の物語はそれぞれに考えさせられ…
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