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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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13/19

早瀬

【原作では】

近江の君は、内大臣の夢の話をきっかけに、その娘として都へ迎えられます。

しかし、早口な話し方や都の姫君らしからぬ振る舞いを父や周囲から笑われ、異母姉・弘徽殿女御のもとへ行儀見習いに出されます。

その後も、尚侍になりたいという望みを父にからかわれるなど、物語の中でたびたび笑いものとして描かれます。

近江の君が、初めて父と会ったときのことである。


内大臣は、几帳の向こうに座る娘へ、優しく尋ねた。


「都へ来るまで、何か不自由はなかったか」


「ございませんでしたけれど、逢坂の関の手前で牛が動かなくなりまして、御者は腹が減ったのだと言いましたが、私は左の前脚を痛めたのだと思ったのです。そこで近くの家から藁を分けてもらって、その代わりに乳母が持っていた干した栗を差し上げたところ、その家の童が牛の脚へ巻く布を持ってきてくれまして――」


内大臣は、二度瞬きをした。

近江の君は続けた。


「それから山科で車の車輪が外れました。あれはひどい音でした。乳母などは雷が落ちたと申しましたが、空は晴れておりましたから、そのようなはずはございませんでしょう。ところが供の者は皆、車輪を直せぬと申すのです。都から迎えに来た方々なのに、車輪一つ直せないとは不思議でございました。それで――」


「待ちなさい」


内大臣が言った。

近江の君は口を閉じた。


「もう少し、ゆっくり話せるか」


「はい」


娘は神妙に頷いた。

そして、先ほどよりわずかに間を置いて話し始めた。


「それで、私が――」


「いや、その話は、もうよい」


「牛の話でございますか。車輪の話でございますか」


「どちらもだ」


「では、何をお話しすればよろしいのでしょう」


内大臣は答えに詰まった。


目の前にいるのは、長いあいだ捜していた娘だった。

顔立ちは、確かに自分と似ている。

眉の形も、笑ったときに片方の頬だけが深く窪むところも。

近江で下々の者に交じって育ったというが、よく見れば愛嬌のある顔をしている。

身なりを整え、都の作法を教えれば、少し変わったところはあっても、立派な姫君になるかもしれない。


内大臣は、そう思おうとした。


「まずは、都の暮らしに慣れるとよい」


「はい。都には、人が多うございますね」


「そうだな」


「邸の者だけでも、何人いらっしゃるのですか」


「さあ」


「食事は、どなたが何人分を用意するのですか。薪はどこから運ぶのでしょう。今朝、北の門に荷車が三台ございましたけれど、一台は車輪が沈んでおりました。あのままでは、雨が降れば動かせなくなります」


内大臣は、再び二度瞬きをした。

娘は、邸へ到着して半日も経っていない。

それなのに、主人である内大臣も知らない北門の荷車を見ていた。


「そのようなことを、姫君が気にするものではない」


「では、どなたが気にするのですか」


「家司がおる」


「その方は、車輪が沈んでいることを御存じですか」


内大臣は眉を寄せた。


「近江の君」


「はい」


「姫君は、そのように次々と問いを重ねるものではない」


「一度に一つずつなら、よろしいのですか」


「そういうことではない」


「難しゅうございますね、都は」


近江の君は、心から感心したように言った。


◇


近江の君が見つかったのは、内大臣が奇妙な夢を見たことがきっかけだった。


自分には、まだ知らぬ娘がいる。

その娘は遠い国にあり、父が迎えに来るのを待っている。

そう夢に告げられた内大臣は、すぐに人を遣わした。


光源氏が、素性の知れぬ美しい姫君を六条院で養っているという噂を耳にした頃でもあった。

その姫君――玉鬘は、内大臣がかつて愛した夕顔との間に生まれた、実の娘だった。

だが、そのことを内大臣はまだ知らない。


源氏ばかりが、どこからともなく美しい姫君を見つけてくる。

自分にも、思いがけない姫君がいるかもしれない。

その期待を抱いて捜させたところ、長男の柏木が近江国で一人の娘を見つけた。

母はすでに亡くなり、娘は乳母や土地の者に囲まれて育っていた。

父の名を知らされると、近江の君は大いに喜んだ。


「父上は、大層御立派な方だと聞いております」


迎えの者へ、彼女は言った。


「都で一番でございますか」


使者は困った。


「一番かどうかは、何を比べるかによります」


「官位です」


「大層高くていらっしゃいます」


「財は?」


「それも、十分に」


「顔は?」


「御立派でございます」


「性格は?」


使者は、少し間を置いた。


「お会いになれば分かります」


近江の君は、その返事を聞いて首を傾げた。

けれど、父が自分を捜してくれたことは嬉しかった。


母を亡くしてから、父とはどのような人なのだろうと、幾度も考えた。

都から迎えの車が来た夜、近江の君は眠れなかった。

父は自分を見ると、何と言うのだろう。

よく来たと抱き締めてくれるだろうか。

母に似ていると言うだろうか。

それとも、自分と同じ目をしていると笑うだろうか。


だが実際に会った父が最初に気にしたのは、娘の話す速さだった。


◇


近江の君の教育は、翌日から始まった。


歩き方。

座り方。

扇の持ち方。

笑うときに、歯を見せないこと。

尋ねられていないことは話さないこと。

尋ねられても、すぐには答えないこと。


「なぜ、すぐに答えてはいけないのですか」


近江の君が尋ねると、作法を教える女房は言った。


「姫君には、奥ゆかしさが必要だからです」


「答えが分かっていても?」


「少しためらうのです」


「分からないふりを?」


「そのほうが、上品に見えます」


近江の君は、しばらく考えた。


「分からない方は、分からないままでよいのですか」


女房は頭を抱えた。

歌の稽古も始まった。

近江の君は、歌が嫌いではなかった。

近江にいた頃も、田植え歌や舟歌を聞いて育った。

ただし、都の人々が好む歌は、何を言いたいのか分かりにくかった。


ある日、女房が一首を示した。

逢うことのできない相手を思い、夜の月を眺める歌だった。


「この方は、会いたいのでございますね」


近江の君が言った。


「そのように読み取れます」


「では、会いに行けばよいのでは?」


「それができないから、歌にするのです」


「なぜ、できないのですか」


「さまざまな事情があるのでしょう」


「事情を書かないから、分からないのです」


「事情をすべて書けば、歌ではなくなります」


近江の君は感心した。


「都の歌とは、肝心なところを書かないものなのですね」


やがて彼女は、自分でも歌を詠むよう求められた。

近江の君は、しばらく筆を持って考えた。

そして、こう書いた。


待つ人の来ぬ夜に寝れば朝となり

起きればやはり来ぬ人は来ぬ


女房たちは黙った。


「いかがでしょう」


近江の君が尋ねる。


「分かりやすくは、ございます」


「ありがとうございます」


褒められたと思った近江の君は、嬉しそうに笑った。


その日のうちに、歌は邸中へ広まった。

女房たちは、扇で口を隠して笑った。

若い公達まで面白がって口ずさんだ。

近江の君は、初めのうち、なぜ笑われているのか分からなかった。


やがて、廊の向こうで自分の話し方を真似る女房の声を聞いた。

わざと息継ぎをせず、意味のない言葉を並べている。

その周りで、何人もの女が笑っていた。

近江の君は声をかけなかった。

見つからないように自分の部屋へ戻った。

そして、乳母へ尋ねた。


「私の話は、それほどおかしいでしょうか」


乳母は困った顔をした。


「少し、お速いだけでございます」


「歌も?」


「都の歌とは、少し違うのでしょう」


「私には、よく分かる歌なのですが」


「わたくしにも、よく分かります」


乳母は言った。


近江の君は膝を抱えた。

近江では、彼女が話せば、皆が話を聞いた。

早口だとは言われたが、笑われたことはなかった。


魚を売りに来た女が値段をごまかせば、すぐに気づいた。

村の者同士が言い争えば、双方の話を聞き、どこで食い違ったのかを見つけた。

子どもがいなくなれば、誰が最後にどこで見たかを尋ね、捜す場所を決めた。

皆が一度に話しても、近江の君は聞き分けることができた。


だが、都では、言葉の中身より、どのように話すかが大切らしい。


「父上も、お笑いになっているのでしょうか」


乳母は答えなかった。

答えないことが、答えだった。


◇


ある日の夕暮れ、内大臣は近江の君を呼び出した。


部屋には、長男の柏木と、幾人かの息子たちもいた。

近江の君は、教えられたとおりにゆっくり歩いた。

教えられたとおり、少し離れた場所へ座った。


「弘徽殿女御のもとへ、行儀見習いに上がらせようと思う」


内大臣が言った。


弘徽殿女御は、内大臣の長女である。

近江の君にとっては、異母姉に当たる。


「姉上のもとへ?」


近江の君は顔を輝かせた。


「姉妹とは、どのように話すのでしょう。父上と娘よりは、速く話してもよろしいのでしょうか」


弟の一人が、吹き出した。

内大臣は険しい顔をした。


「姉上のおそばで、都の姫君としての振る舞いを学びなさい」


「私は今、姫君ではないのですか」


部屋が静かになった。


「そうではない」


内大臣は言った。


「姫君らしさが、まだ身についていないということだ」


「姫君らしくなれば、ここへ戻ってもよいのでしょうか」


「それは、今後の振る舞いによる」


近江の君は、父の顔を見た。

自分を捜したのは、この人だった。

遠い近江まで人を遣わし、娘として迎えた。


けれど、実際に会った娘が望んでいたものと違ったため、別の場所へ送ろうとしている。


「父上は」


近江の君は尋ねた。


「娘を捜しておられたのですか」


内大臣の眉が動いた。


「何を言う」


「それとも、源氏の君の姫君より美しく、上品な娘を捜しておられたのですか」


柏木が顔を上げた。

弟たちは、息を潜めた。


「誰から、そのような話を聞いた」


「誰からでもよろしいではございませんか。違うのであれば」


内大臣は、すぐに否定しなかった。

近江の君は、その沈黙を見逃さなかった。


「私は、父上のお探しになっていた娘ではなかったのですね」


「近江の君」


「けれど、見つけたのは私です」


彼女は笑った。

いつものように歯を見せて笑いそうになり、途中で口元を扇で隠した。


「御安心くださいませ。弘徽殿女御様のもとで、立派な姫君になってまいります」


声は明るかった。


だが、その夜、近江の君は乳母の胸で泣いた。

泣く声まで人に笑われる気がして、衣を口へ押し当てた。


◇


弘徽殿女御のもとには、大勢の女房が仕えていた。


皆、衣の色目も、香の選び方も美しかった。

話す声は静かで、歩く姿も優雅だった。


近江の君が到着すると、女房たちは丁寧に迎えた。

しかし、彼女が部屋へ下がると、すぐにささやき声が始まった。


「本当に、あの方が内大臣様の?」


「顔は似ていらっしゃるわ」


「お声も、よく通ること」


近江の君には、すべて聞こえていた。

耳がよいのである。

弘徽殿女御は、妹へ冷たくはなかった。

ただ、どう扱えばよいか分からない様子だった。


「困ったことがあれば、何でもおっしゃい」


初めて会った日、女御は優しく言った。


「では、一つよろしいでしょうか」


近江の君は答えた。


「ええ」


「こちらでは、朝に届いた文が、夕方までお返しされずに積まれております。贈り物も、誰から何が届いたのか、誰もすべては御存じないようです。昨日届いた反物が、今朝には見当たらないと女房たちが騒いでおりました。それから、南の廊の箱に入っている冬の衣と、東の蔵の帳面の数が合っておりません」


弘徽殿女御は、目を丸くした。


「困ったこととは、あなたのことを申したのです」


「私は、困ってはおりません」


女御は笑うべきか迷ったようだった。

やがて、口元を袖で隠した。


「あなたは、本当に父上に似ていますね」


近江の君は、あまり嬉しくなかった。


◇


弘徽殿では、近く大きな宴が催されることになっていた。


帝の御前へ出す菓子や果物。

高貴な客へ贈る衣。

女房たちが身につける装束。

楽人へ与える禄。

何日も前から、あらゆる品が運び込まれた。


女房たちは忙しく廊を行き交った。

近江の君にも役が与えられた。


初めは、部屋の隅で扇を畳むだけだった。

だが、彼女はすぐに手を止めた。


「この扇は、三十本でございますか」


そばの女房へ尋ねる。


「そう聞いております」


「二十八本しかございません」


「そのようなはずは」


「数えましょうか」


「数えなくとも、帳面には三十と」


近江の君は、扇を六本ずつ並べた。


六、十二、十八、二十四。

残りは四本。


「二十八です」


女房は不機嫌そうに帳面を見た。


「二本は、どなたかが別の部屋へ運んだのでしょう」


「どなたが?」


「さあ」


「いつ?」


「存じません」


「どこへ?」


「近江の君」


女房は声を低くした。


「細かなことばかり尋ねていないで、言われたことをなさいませ」


近江の君は黙った。

だが翌日、扇は二本足りないままだった。

さらに、宴に用いる予定の薫物が一壺なくなった。

唐から渡ったという貴重な香だった。

女房たちは騒ぎ始めた。


最後に蔵へ入ったのは、近江出身の若い下仕えだった。

娘は盗んでいないと泣いた。


「けれど、あなた以外に入った者はいないのです」


年長の女房が厳しく言った。


「近江から来た者は、これだから」


誰かが小声で言った。

近江の君は、部屋の外にいた。

その言葉を聞くと、すぐに中へ入った。


「この方は、盗んでおりません」


「何を根拠に?」


「この方が蔵へ入ったとき、香はすでになかったからです」


年長の女房は眉を吊り上げた。


「どうして分かるのです」


「昨日、扇を捜して蔵の前まで参りました。戸が開いたとき、中を見ましたが、香の壺はございませんでした」


「見落としたのでしょう」


「置かれていたのは、大きな箱が七つ、小さな箱が十二、反物が二十一巻、香の壺が五つです。唐の壺は、ございませんでした」


「一目見ただけで、分かるはずがありません」


「分かります」


近江の君は答えた。


「双六の盤と同じです。どこに何が幾つあるか、一度見れば、おおよそ覚えます」


女房たちは顔を見合わせた。


「では、いつなくなったと?」


近江の君は、その場にいた女房たちを見渡した。


「一昨日の夕刻から、昨日の昼までの間です。壺を最後に見たのは、どなたですか」


誰も答えなかった。


「一昨日、蔵へ入った方は?」


三人が名乗り出た。

近江の君は、それぞれに何を運んだのかを尋ねた。


一人は衣。

一人は文箱。

もう一人は、宴に用いる道具。


「道具とは?」


「高坏です」


「幾つ?」


「十ほど」


「どの箱へ?」


女房は答えられなかった。

近江の君は蔵へ向かった。

中へ入り、箱を一つずつ見て回る。

やがて、最も大きな箱を指した。


「これを開けてください」


中には、高坏が重ねられていた。

その下から、布に包まれた香の壺が出てきた。


「運ぶ途中で、ひとまず箱へ入れたのではございませんか」


近江の君は、道具を運んだ女房へ言った。

女房の顔が赤くなった。


「あのときは、ほかにも人がいて」


「忘れたのでしょう」


近江の君は責めなかった。


「忘れることはございます。ただ、盗んだと決める前に、捜したほうがよろしいです」


泣いていた下仕えの娘が、何度も頭を下げた。

周囲の女房たちは、気まずそうに目を逸らした。


その夜、弘徽殿女御は近江の君を呼んだ。


「香を見つけたそうですね」


「はい」


「人の出入りや、品の数を覚えるのが得意なのですか」


「近江では、荷を運ぶ手伝いをしておりましたから」


「姫君が?」


「人手が足りないときには、誰でも働きます」


近江の君は言った。


「魚が十尾届いたのに、九尾しか売った銭がなければ、誰かが食べたのか、数え間違えたのか、確かめなくてはなりません」


女御は、少し考えた。


「宴の品をすべて数え直していただけますか」


近江の君は目を輝かせた。


「よろしいのですか」


「ええ。ただし」


「ゆっくり話すことですか」


「皆に分かる速さでお願いします」


「努めます」


近江の君は、これまでで一番真剣な顔で頷いた。


◇


宴の前日、嵐が来た。


朝から空が暗くなり、昼には激しい雨が降り始めた。

都へ入る道の一つで、橋が流されたという知らせが届いた。

宴のために注文した果物と菓子の半分が、川の向こうに取り残された。

さらに、楽人の一部も来られない。

弘徽殿の女房たちは混乱した。


「宴を延期するしかございません」


「今から帝へ申し上げるのですか」


「客人への知らせは?」


「すでに皆様、御出立の用意を」


誰も決められなかった。

身分の高い女房ほど、誤ったことを言うのを恐れ、互いに顔を見合わせた。

弘徽殿女御も困り果てていた。


近江の君は、雨に煙る庭を見た。


「川向こうの荷は、どこで止まっておりますか」


「今は、そのようなことを尋ねている場合では」


女房の一人が言った。


「どこですか」


近江の君は繰り返した。

使者が地名を答えた。


「橋は、すべて流れたのですか」


「大きな橋だけです。上流の小さな橋は残っておりますが、荷車は通れません」


「人は?」


「人ならば」


「では、果物と菓子を車から降ろし、籠へ分けて運べます。上流の橋を渡らせ、こちら側から別の車を出しましょう」


「そのようなことを、誰が指図するのです」


「女御様です」


近江の君は、弘徽殿女御を見た。


「御命令くださいませ」


女御は一瞬迷い、それから頷いた。


「そのように」


近江の君は、すぐに人を動かした。


「こちら側の車を三台、上流へ。空の籠をできるだけ積んでください。雨除けの油衣も。川向こうには、荷を小分けにするよう使者を。果物は傷みやすいものを先に。菓子は濡れぬよう、箱ごと布で包んでください」


言葉が速くなった。

女房の一人が口を挟む。


「近江の君、少しゆっくり」


「では、あなたは車を。そちらの方は籠。あなたは使者への文を。これなら分かりますか」


「分かります」


「では、すぐに」


次に、近江の君は残っている品を数えた。

果物が届かなかった場合、何人分が不足するのか。

今ある菓子を、どの大きさに分ければ足りるのか。

蔵に眠っている干し柿や栗を使えないか。


彼女は双六の盤を持ってこさせた。


「遊んでいる場合ではございません」


女房が呆れた。


「遊びません。人と品の数を並べるのです」


盤の上へ、石を置いていく。


白い石は客。

黒い石は菓子。

賽の目ごとに、座る場所と必要な品を分けた。


「上座の御方々へは、届いている唐菓子を。ほかの皆様へは、栗と干し柿を使ったものを加えます」


「同じ品でなくともよいのでしょうか」


「足りないものを、足りるように見せかけるよりよろしいです」


「しかし、田舎の品では」


「田舎の栗は、お嫌いですか」


近江の君は真顔で尋ねた。

女房は口ごもった。


「私は好きです」


弘徽殿女御が言った。

近江の君は女御を見て、にっこり笑った。


「では、決まりでございます」


楽人が足りない件についても、近江の君は女房たちへ尋ねた。

琵琶を弾ける者。

琴を弾ける者。

笛は不得手でも、歌える者。

宮中に上がる女房たちは、多くが何らかの楽器を学んでいた。


ただ、人前で奏するほどではないと遠慮していたのである。


「上手でなくては、いけませんか」


近江の君が尋ねた。


「帝の御前です」


「間違えたら、皆で笑えばよいのです」


女房たちは青ざめた。


「笑ってはなりません」


「私のことは、いつも笑っていらっしゃるのに?」


誰も答えられなかった。

近江の君は、少し笑った。


「では、間違えないよう、今から合わせましょう」


◇


宴は、予定どおり開かれた。


川の向こうから運ばれた果物は、開始ぎりぎりに届いた。

栗と干し柿を使った菓子は、思いのほか評判がよかった。

楽人の不足を補った女房たちの演奏も、華やかさには欠けたが、親しみ深いものとなった。


最後には、弘徽殿女御自身が歌を口ずさんだ。

宴が終わる頃には、嵐も収まっていた。

誰もが、うまくいったと胸を撫で下ろした。


だが、近江の君は一人、廊を走っていた。


「扇が一本、足りません!」


声が響く。


「まだ数えていらしたのですか」


女房たちは笑った。

以前と同じようでいて、少し違う笑いだった。

近江の君を馬鹿にする声ではない。

また始まったと、親しい者へ向ける笑いだった。


「一本くらい、よいではありませんか」


「よくございません。一本を許せば、二本なくなります」


「どなたかが、お持ち帰りになったのでは?」


「では、どなたが?」


「また始まりました」


女房たちは笑いながら、扇を捜し始めた。

足りない一本は、弘徽殿女御の敷物の下から見つかった。


「女御様がお隠しになったのですか」


近江の君が尋ねる。


「まさか」


女御は声を立てて笑った。

近江の君も笑った。

今度は、歯を隠さなかった。


◇


宴の評判は、内大臣の耳にも届いた。


娘が嵐の中で荷を動かし、不足した品を補い、宴を滞りなく終わらせた。

弘徽殿女御が、近江の君なしには間に合わなかったと話している。

内大臣は驚いた。


しばらくして、近江の君を邸へ呼び戻す文を送った。


都の作法も、随分と身についたことであろう。

一度、こちらへ戻りなさい。


近江の君は文を読み、首を傾げた。


「作法が身についたから、戻れとおっしゃっております」


乳母が嬉しそうに言った。


「お戻りになりますか」


「いいえ」


近江の君は即座に答えた。


「なぜでございます」


「まだ、戻りたくありません」


「けれど、父君が」


「私が役に立つと分かったから、呼び戻すのでしょう」


近江の君は、文を畳んだ。


「役に立たないと思っていたときには、姉上のもとへ送ったのに」


以前なら、それでも父に認められたことを喜んだかもしれない。

だが今の近江の君には、自分を必要としてくれる場所があった。

弘徽殿女御は、彼女の早口を直せとは言わなくなった。

話が速すぎれば、速すぎると言う。


近江の君も、相手が聞き取れていなければ、言い直すようになった。

どちらか一方だけが、すべてを変えるのではない。


「御返事は、どうなさいますか」


乳母が尋ねる。

近江の君は筆を取った。


父上のもとへ戻ることは、今しばらく御待ちくださいませ。

私は弘徽殿女御様のもとで、まだ学ぶことがございます。

都の作法を学んだのではなく、都の方々へ品を数えることを教えております。


乳母は文を読み、顔を曇らせた。


「最後の一行は、お消しになったほうが」


「なぜです」


「父君がお怒りになります」


「事実でございます」


「事実をすべて書かぬのが、都の作法では?」


近江の君は、しばらく考えた。


「乳母も、都に染まりましたね」


◇


内大臣は文を読むと、予想どおり腹を立てた。


だが、娘を力ずくで連れ戻すことはできなかった。

弘徽殿女御が、近江の君を手放そうとしなかったからである。


「この者は、私のもとで大切な役を果たしております」


女御は父へ言った。


「どのような役だ」


「私たちが忘れていることを、すべて覚えております」


「それは、女房のすることだろう」


「近江の君は、私の妹です」


女御は静かに答えた。


「そして、私のもとで働くことを自分で望んでおります」


内大臣は、不満そうに黙った。


「父上は、近江の君に何を望んでおられたのです」


「立派な姫君となることだ」


「立派とは?」


「人前へ出して、恥ずかしくない娘だ」


弘徽殿女御は、父を見た。


「先日の宴で、近江の君を恥ずかしいと思った者はおりませんでした」


内大臣は答えなかった。


「父上は、あの子が笑われることを恐れているのではなく、あの子のために御自分が笑われることを恐れておられるのでしょう」


娘から指摘され、内大臣の顔が赤くなった。


「女御まで、近江の君のような物言いをするようになったな」


「姉妹でございますから」


女御は、わずかに笑った。


◇


近江の君は、弘徽殿女御のもとで、贈答や調度の差配を任されるようになった。


誰から何が届いたか。

何を返したか。

宴には、何人が来るか。

必要な衣や食事は幾つか。

病んでいる女房は誰か。

実家から便りが届かず、不安を抱えている者は誰か。

近江の君は、品の数だけでなく、人の顔と声も覚えていた。

下仕えの者であっても、名を間違えなかった。


「三日前、母君が病んでいると申しておりましたね」


近江の君にそう言われ、驚いて泣き出す女房もいた。

都の人々は、身分の高い者の言葉は覚えていても、低い者の話を聞いていないことが多かった。


近江の君は違った。

誰が話しても、同じように聞いた。

ただし、話があまりに長いと、途中で口を挟んだ。


「つまり、何をしてほしいのですか」


都の人々は、そのような尋ね方を無作法だと言った。

だが、答えを曖昧にしなければならない者には、かえってありがたかった。

やがて、ほかの御殿からも相談が届くようになった。


宴の品が合わない。

女房同士の役が重なっている。

同じ日に二つの予定を入れてしまった。

近江の君は、話を聞けばすぐに答えた。


「それは、こちらを一日早めれば済みます」


「その方には、曖昧にせず、来なくてよいと伝えましょう」


「数が足りないのではなく、同じものを二か所へ置いているだけです」


「お二人とも、自分は悪くないと申しておりますが、どちらも少しずつ悪うございます」


最後の言葉には、相談に来た者まで笑った。


近江の君の部屋には、いつも誰かがいた。

静かで奥ゆかしい姫君の部屋とは、ほど遠い。

文が運ばれ、帳面が積まれ、女房たちが出入りする。

部屋の隅には、双六の盤が置かれていた。

近江の君は盤の上へ石を並べ、品や人の動きを考えた。


「尚侍になりたいと、以前はおっしゃっていましたね」


ある日、弘徽殿女御が尋ねた。


「はい」


「今も?」


近江の君は、盤の上の石を動かした。


「尚侍になれば、皆が私を立派な姫君だと思うかと考えておりました」


「今は、違うのですか」


「思わない方は、何になっても思わないでしょう」


近江の君は答えた。


「それに、尚侍になれば、今より忙しくなるのでしょう?」


「おそらく」


「では、遠慮いたします。これ以上忙しくなれば、双六をする暇がなくなります」


弘徽殿女御は笑った。


「あなたらしいお答えです」


「姉上」


「何です」


「それは、褒めておられますか」


「今度は、褒めております」


◇


それからしばらくして、弘徽殿で女房たちの双六の会が開かれた。


近江の君が始めたものである。

身分の高い女も、低い女も、盤の前では同じように賽を振った。

ただし、負けた者は、勝った者の仕事を一つ引き受けるという決まりだった。


「そのような賭け事は、品がないのでは」


年長の女房が最初に反対した。

だが、一度勝って、翌日の仕事を一つ減らしてもらうと、誰より熱心に参加するようになった。


その夜は、内大臣も招かれていた。

娘がどのように暮らしているのか、ようやく自分の目で見に来たのである。


「父上も、なさいますか」


近江の君が尋ねた。


「私が?」


「お嫌いですか」


「嫌いではないが」


内大臣は周囲を見た。

娘の部屋には、多くの女房が集まっていた。

誰も近江の君を笑い物にはしていない。


彼女が話せば、皆が耳を傾ける。

彼女が笑えば、皆も笑う。

近江の君は、都の姫君らしくはなっていなかった。


声は大きい。

話も速い。

嬉しければ、歯を見せて笑う。

それでも、ここにいる誰より生き生きとしていた。


「一度だけだ」


内大臣は盤の前へ座った。


「父上、双六はお強いのですか」


「昔は、よくしたものだ」


「昔とは、いつです」


「細かなことを聞くな」


「負けたときの言い訳に使われては困りますから」


周囲の女房たちが笑った。

内大臣は、少し顔を赤くした。


二人は賽を振った。

初めは内大臣が勝っていた。


「御覧なさい」


得意げに言う。


「賽の目は、身分を知っているようだ」


「その賽は、父上が御持参になったものでしょう」


「何が言いたい」


「何も」


近江の君は笑った。


やがて形勢が変わった。

内大臣が大きな目を出すことだけを願い、急いで石を進める一方で、近江の君は盤全体を見ていた。


どこを空けるか。

どの石を残すか。

相手が次に何をするか。

最後に近江の君が賽を振る。

出た目は六だった。


石を進めると、勝負が決まった。


「私の勝ちでございます」


内大臣は盤を見つめた。


「運がよかっただけだ」


「双六は、賽を振る前から始まっております」


近江の君は言った。


「何がどこにあるか、次に何が起こるかを見るのです」


「私に説教をするつもりか」


「まさか」


近江の君は、賽を拾った。


「負けた方には、勝った者の仕事を一つ引き受けていただく決まりです」


内大臣の顔が引きつった。


「私は、何をすればよい」


近江の君は、少し考えた。


「私を近江まで迎えに行ってくださった方々へ、礼をお伝えくださいませ」


内大臣は意外そうな顔をした。


「まだ、礼をしていないのか」


「父上からは、しておられないでしょう」


内大臣は黙った。

娘を見つけたのは、自分の夢と命令の力だと思っていた。

だが、近江から都まで娘を守り、壊れた車輪を直し、牛をいたわりながら連れてきた者たちがいた。

その者たちの名を、内大臣は一人も覚えていなかった。


「分かった」


しばらくして、彼は言った。


「必ず、礼をしよう」


「お忘れにならないでください」


「忘れぬ」


「いつまでに?」


「お前は、本当に」


内大臣は眉を寄せた。

けれど、以前のように娘を黙らせようとはしなかった。


「三日のうちにする」


「承知いたしました」


近江の君は満足そうに頷いた。


◇


双六の会が終わり、女房たちが去ったあと、内大臣は娘の部屋に残った。


「近江の君」


「はい」


「以前、お前に尋ねられたことがあったな」


「何でございましょう。父上から御返事をいただいていないことは、幾つもございます」


「私が、娘を捜していたのか。それとも、源氏に誇れる姫君を捜していたのかと」


近江の君は、手にしていた賽を盤へ置いた。


「覚えておられたのですね」


「忘れたかったのだろう」


内大臣は言った。


「私は、立派な娘が見つかると期待していた」


近江の君は黙って聞いた。


「美しく、上品で、誰に見せても羨まれるような娘を」


「はい」


「お前が来たとき、思っていた者と違うと感じた」


「よく存じております」


「それで、お前を変えようとした」


「はい」


内大臣は、居心地悪そうに視線を逸らした。


「だが、今は」


「立派な娘になりましたか」


近江の君が尋ねる。

内大臣は答えに迷った。

近江の君は笑った。


「御無理におっしゃらなくて結構です」


「いや」


内大臣は娘を見た。


「お前は、私が思っていたものとは違う」


「はい」


「だが、私が思っていたものより、よほど役に立つ」


近江の君は顔をしかめた。


「そこは、よほど立派だとおっしゃるところでは?」


「急にそのようなことを言えば、嘘になる」


近江の君は、しばらく父を見た。

それから、声を立てて笑った。


「父上も、少しは都の作法をお捨てになったのですね」


「何のことだ」


「肝心なところを隠さず、お話しになりました」


内大臣も、やがて笑った。

娘と父が、初めて同じことを笑った夜だった。


◇


近江の君は、内大臣の邸へ戻らなかった。

けれど、父のもとを訪ねるようにはなった。

内大臣も、ときおり弘徽殿へ娘を訪ねた。

娘の早口を聞き取れないときは、以前のように黙れとは言わず、


「もう一度、初めから」


と言った。


近江の君も、父が分かる速さで言い直した。

すべてが美しく収まったわけではない。

内大臣は、人前で娘が大声で笑うと、今も顔をしかめる。


近江の君は、父が長々と遠回しな話をすると、


「つまり、何をお望みなのですか」


と途中で尋ねる。


二人は、そのたびに言い争った。

ただ、言い争ったあとも、どちらかが一方を別の場所へ追いやることはなくなった。


◇


ある春の日、近江から便りが届いた。


かつて近江の君を育てた乳母の親族が、都へ来るという。

近江の君は、朝から落ち着かなかった。


「到着は、まだですか」


「先ほどもお尋ねになりました」


女房が笑う。


「道が混んでいるのかもしれません」


「山科で車輪が外れていなければよいのですが」


「その話を、またなさるのですか」


「大切な話です」


昼を過ぎた頃、ようやく車が到着した。

降りてきたのは、近江でともに遊んだ女たちだった。


都の装いには慣れていない。

声も大きい。

門をくぐった途端、近江の君の名を呼んだ。

都の女房たちが驚いて振り返る。

近江の君は廊を走った。

姫君らしく歩くことも、歯を隠すことも忘れ、昔の友人たちのもとへ駆け寄った。


「遅かったではありませんか。どこで何がございましたの。牛は。車は。逢坂の関は混んでおりましたか。途中で雨は。皆は元気ですか。それから――」


「お待ちくださいませ」


都の女房の一人が言った。


「少し、ゆっくり」


近江の君は口を閉じた。

一瞬だけ、昔のように恥ずかしそうな顔をした。

すると、別の女房が笑って言った。


「わたくしたちは、もう近江の君のお話に慣れておりますけれど、御客人が答えられません」


周囲から、明るい笑い声が上がった。

近江の君も笑った。


「では、一つずつお尋ねします」


彼女は大きく息を吸った。


「皆は、元気ですか」


近江から来た女たちは、声をそろえた。


「元気でございます」


「それなら、よろしいです」


近江の君は頷いた。

それから、我慢できずに続けた。


「では次に、牛と車と逢坂の関と雨と――」


「一つずつでは?」


皆が笑った。

近江の君の声は、春の庭を駆け抜けた。

都の人々は、かつてその声を騒がしいと笑った。


姫君らしくないと。

田舎者らしいと。

けれど、早瀬の水を止めれば、澄んだ流れになるわけではない。

水は淀み、行き場を失う。

近江の君は、流れを遅くすることを覚えた。

曲がることも。

相手が渡り終えるまで、待つことも。

それでも、流れることをやめなかった。


彼女の部屋では、今日も人が行き交っている。


文が届く。

相談が持ち込まれる。

誰かが笑う。

双六の賽が、盤の上を転がる。


近江の君は、出た目を見る前に顔を上げた。

話しかけた女房の声を聞き逃さなかったからである。


「はい。どうなさいました」


その声は速く、明るく、よく通った。

もう誰も、その声を小さくするようには言わなかった。

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