秋記
【原作では】
秋好中宮は、六条御息所と前東宮の娘で、朱雀帝の斎宮となり、母とともに伊勢へ下りました。
斎宮を退いて都へ戻ったのち母を亡くし、光源氏の後見を受けて冷泉帝に入内し、中宮となります。
六条院では秋の町を里邸とし、春の町に住む紫の上と、春と秋の趣を競い合いました。
秋好中宮が、母の名を消した文を見つけたのは、冷泉帝の御代に編まれた新しい記録の中だった。
その日は朝から雨が降っていた。
宮中の築地を濡らす雨は細く、庭の萩を傾けるほどではない。葉の先に小さな雫が集まり、重くなれば音もなく落ちた。
中宮の御前には、出来上がったばかりの巻物が置かれていた。
宮中で催された儀式や宴、行幸、歌合などを記し、後の世へ残すためのものだった。
薄い紙には、男たちの名が連なっている。
帝。
大臣。
中納言。
参議。
誰がどの衣を着たか。
誰がどの席に座ったか。
誰がどの歌を詠み、誰が褒めたか。
その一方で、女たちは、
女房。
ある女君。
高貴な御方。
そのように書かれていた。
秋好中宮は、ゆっくりと巻物を読み進めた。
伊勢に関する箇所で、指が止まった。
先の斎宮、母君の喪により退下す。
それだけだった。
母君。
六条御息所という名はない。
伊勢へ下る娘に付き添い、長い旅をしたことも。
斎宮の御所で多くの女房を束ねたことも。
都から離れた土地で娘を守り、歌を詠み、手紙を書いたことも。
何一つ記されていなかった。
その次の行には、斎宮を迎えるために派遣された男の官人の名が、官位とともに丁寧に記されている。
中宮は巻物を閉じた。
「こちらを編んだのは、どなたです」
そばに控えていた女房が答えた。
「式部省の博士と、文章生たちでございます」
「女房は加わっていないのですね」
「おそらくは」
「母の名がございません」
女房は目を伏せた。
「六条御息所様につきましては、さまざまな噂がございますので」
「噂があるから、名を書かなかったのですか」
「後の世へ残すには、御慎重になったのかと」
秋好中宮は、もう一度巻物へ手を置いた。
慎重に扱われた結果、母は一行の中からも消えていた。
生きていた頃には、嫉妬深い女と囁かれた。
死んだ後には、生霊となって人を害した女として語られた。
けれど記録に残る段になると、その名さえ書かれない。
悪く語るときには名を呼ばれ、何かを成したことを書くときには母君とぼかされる。
「不思議なものですね」
中宮は言った。
「何がでございますか」
「女の罪は名とともに残るのに、女の働きからは名が消えるのです」
◇
その年の秋、六条院では春と秋の優劣が、再び話題になっていた。
春を好む紫の上。
秋を好む秋好中宮。
どちらの庭が美しいか。
どちらの季節が優れているか。
人々は面白がって歌を詠み、花や紅葉を贈り合った。
秋好中宮は、春が嫌いなわけではなかった。
桜も好ましいと思う。
霞に煙る山も、雪解けの水も美しい。
それでも、人々は彼女を秋の中宮と呼んだ。
母と過ごした伊勢の秋。
神域の森を染める紅葉。
潮風に鳴る薄。
都へ戻る牛車から見た、暮れかけた空。
秋は、中宮にとって失ったものを思う季節であり、同時に、失ったものの形が最もよく見える季節だった。
「今年も、春秋の歌合をなさってはいかがでしょう」
光源氏が言った。
六条院の秋の御殿を訪れた日のことである。
「紫の上も、春の歌を集めておられるようです」
「また、春と秋を競わせるのですか」
「皆が楽しみにしております」
源氏は笑った。
「中宮は、秋を負けさせるおつもりはないのでしょう」
「勝たなくともよろしいのです」
「おや」
源氏は意外そうな顔をした。
「秋をお好みではなかったのですか」
「好きであることと、勝たせたいことは別でございましょう」
中宮は答えた。
「桜が美しいからといって、紅葉が損なわれるわけではございません」
「それでは、歌合になりませんね」
源氏は楽しそうに言った。
「勝敗があるから、人は熱を入れるものです」
「勝敗がなければ、歌を詠まないのでしょうか」
「少なくとも、男たちは詠みたがらないかもしれません」
「では、男君たちには勝敗をお与えしましょう」
中宮は微笑んだ。
「女たちには、別のものを」
「別のものとは?」
「名を残していただきます」
源氏の笑みが、わずかに止まった。
◇
秋好中宮が考えたのは、これまでにない歌合だった。
春と秋、それぞれの歌を集める。
そこまでは、いつもと同じである。
ただし、歌を詠んだ者の名を、身分にかかわらず記す。
后や女御だけではない。
女房。乳母。下仕え。楽人。
宮中へ品を納める家の女。
歌を詠める者であれば、誰でもよい。
さらに、歌とともに短い記録を添える。
どこでその景色を見たのか。
誰といたのか。
何を思って詠んだのか。
歌だけでは後世に伝わらない、その人自身の言葉を残すのである。
「それでは、歌集ではなく、日記のようになります」
年長の女房である弁の君が言った。
「日記では、いけませんか」
「高貴な方の御日記ならばともかく、名もない女房の話まで残すなど」
「彼女たちは名がないのではございません」
中宮は言った。
「記されていないだけです」
弁の君は口を閉じた。
「歌は、その人の心から生まれるのでしょう」
「はい」
「ならば、心を持つ者の名を消して、歌だけを残すのはおかしなことです」
「しかし、父や夫の名が知られれば、それでどなたの歌か分かります」
「父や夫が詠んだのではございません」
中宮の声は穏やかだった。
だが、女房たちは、それ以上反対しなかった。
「それに」
中宮は続けた。
「歌だけではなく、仕事の記録も集めたいと思います」
「仕事、でございますか」
「宴の衣を用意した方。食事を差配した方。楽器を整えた方。病人の看病をした方。伊勢へ向かう旅の支度をした方」
女房たちは互いに顔を見合わせた。
「そのようなことを記録して、何になるのでしょう」
若い女房が尋ねた。
「何になるかを決めるのは、後の世の方です」
中宮は答えた。
「ただ、なかったことにはさせません」
◇
最初に文を寄せたのは、紫の上だった。
中宮が春の歌を集めるため、六条院の春の御殿へ依頼を送ったところ、紫の上自身の歌とともに、何枚もの紙が届けられた。
桜の宴で衣を縫った女房。
花を移し植えた下仕え。
雪の下から若菜を摘んだ女。
それぞれの名と、短い言葉が記されている。
最後に、紫の上からの文が添えられていた。
春の花は、咲いたときだけ人に見られます。
けれど、枝を守り、土を整えた者の名を、花は語りません。
秋の御方が記してくださるなら、春からも多くの名をお送りいたします。
中宮は文を読み、笑った。
「春に先を越されましたね」
弁の君が言う。
「勝負ではございません」
「けれど、少し悔しそうでいらっしゃいます」
中宮は文を畳んだ。
「では、秋も急ぎましょう」
それから中宮の御殿は、にわかに忙しくなった。
女房たちが文を書き、集め、読み上げる。
歌の上手な者ばかりではない。
季節の言葉が入っていない歌。
長すぎる歌。
何を言いたいのか分からない歌。
中には、歌ではなく、ただの不満を書いてくる者もいた。
秋になると、落葉を掃いても掃いても終わらない。
それを読んだ若い女房たちは笑った。
だが中宮は、
「この方の名は?」
と尋ねた。
「六条院の庭を掃く、阿古という下仕えでございます」
「残しましょう」
「歌ではございません」
「秋について、これほど確かな言葉もないでしょう」
別の紙には、こう書かれていた。
春の宴で、御方々は桜を御覧になっていた。
私は風で倒れた几帳を、一晩中押さえていた。
「こちらも歌ではございません」
「けれど、春の宴の記録です」
中宮は答えた。
「几帳を押さえた者がいなければ、皆が落ち着いて桜を見ることはできなかったのでしょう」
女房たちは、次第に面白がるようになった。
美しい歌だけを選ぶのではない。
上手でなくとも、その人にしか書けない言葉を探す。
それは歌合というより、宮中全体の声を拾う仕事になっていった。
◇
ただし、すべてが順調だったわけではない。
男の官人たちから反対が出た。
「身分の低い者の名を、高貴な方々と同じ巻へ記すのはいかがなものか」
式部省の博士が、中宮の女房を通じて意見を述べた。
「後世の者が、身分の違いを見失います」
中宮は博士を御前へ呼んだ。
御簾を隔てての対面だった。
「博士は、先日編まれた宮中の記録にも関わっておられましたね」
「はい。恐れ多くも」
「伊勢斎宮について書かれた箇所を、覚えておられますか」
「もちろんでございます」
「先の斎宮が、母君の喪により退下したと」
「はい」
「その母君の名を、なぜ書かなかったのです」
博士は、しばらく答えなかった。
「六条御息所様については、後世へどのように伝えるべきか、判断が難しく」
「では、名を書かずにおいたのですか」
「慎重を期しました」
「斎宮に随行した男の官人の名は、すべて書かれております」
「公の役目を果たした者ですので」
「母も、斎宮に随行しました」
「それは、母君として」
「母であれば、役目ではないと?」
博士の声が止まった。
「娘を遠い伊勢まで守り、女房を束ね、祭祀の暮らしを整えることは、公の役目ではございませんか」
「しかし、女君の行いは、家の内のことで」
「斎宮の御所が、家の内だけで成り立っていたとお思いですか」
御簾の外で、博士が身じろぎした。
「私は、母を清らかな聖女として記せと申しているのではございません」
中宮は言った。
「母には、褒められぬ心もあったでしょう。人を恨んだことも。嫉妬したことも」
そばに控える女房たちが、息を潜めた。
「けれど、それだけではございません」
中宮は続けた。
「一人の人の中に、恨みと愛情が同時にあることを、記録することはできないのですか」
博士は答えた。
「記録は、事実を簡潔に残すものでございます」
「何を事実として選ぶかを決めるのは、書く者でしょう」
御簾の向こうは静かだった。
雨上がりの庭から、水の落ちる音が聞こえた。
「博士」
中宮は言った。
「女の心は複雑だから書けないとおっしゃるのであれば、男の心もすべて消してはいかがでしょう」
「それでは、記録になりません」
「女だけを消しても、記録にはなりません」
◇
博士は、中宮の歌合に名を貸すことを拒んだ。
だが、妨げることもできなかった。
冷泉帝が、中宮の企てを面白がったからである。
「女たちの記録を集めているそうだね」
帝は、中宮の御殿を訪れた夜に尋ねた。
「御耳に入りましたか」
「式部省の者が、困り果てていた」
帝は笑った。
「身分の違いが分からなくなると」
「名の横へ身分を記せば済むことです」
「中宮らしい答えだ」
帝は、積み上げられた紙を見た。
「すべて読むのか」
「そのつもりでございます」
「春と秋の歌だけではないようだね」
「集め始めると、歌にならない言葉のほうが多うございました」
「たとえば?」
中宮は一枚の紙を取った。
「宴の夜、灯を守っていた女房の記録です」
風が強く、火が七度消えた。
八度目に灯した火で、朝まで御殿を照らした。
帝は文を読んだ。
「これは、誰の言葉だ?」
「少納言の局に仕える、いさという女房です」
「私は、その宴へ出ていたのかな」
「御覧になった灯を、誰が守っていたかは御存じなかったでしょう」
帝は、少し考えた。
「知らなかった」
「私もでございます」
中宮は答えた。
「だから、記したいのです」
帝は、しばらく紙の山を眺めていた。
「出来上がったら、最初に読ませてほしい」
「御覧になりますか」
「中宮がこれほど熱を入れているものを、読まぬわけにはいかない」
中宮は頭を下げた。
帝が立ち去ったあと、弁の君が小さく息を吐いた。
「これで、博士も何も言えませんね」
「帝を盾にしたかったわけではございません」
「けれど、盾は厚いほうがよろしゅうございます」
中宮は思わず笑った。
「弁も、随分と率直になりましたね」
「中宮様のもとで、名とともに言葉を残すことになりましたので」
◇
秋が深まるにつれ、紙はさらに増えた。
伊勢からも文が届いた。
かつて斎宮に仕えていた女房たちからだった。
六条御息所が亡くなってから、長い年月が過ぎている。
それでも、母を覚えている者がいた。
御息所様は、月の明るい夜には、御自ら斎宮様の御髪を梳いておられました。
伊勢へ着いたばかりの頃、都を恋しがる若い女房のために、三日続けて故郷の話をなさいました。
神事の前、斎宮様がお熱を出されたとき、御息所様は一晩中、御枕元を離れませんでした。
一方で、美しい話ばかりではなかった。
御機嫌を損ねられた日は、誰も御前へ近づけませんでした。
都から光源氏様の御噂が届くと、御息所様は一日、何も召し上がりませんでした。
御自分を粗末にした方々のお名を、長くお忘れにはなりませんでした。
弁の君は、それらの文を前にして困った顔をした。
「こちらも、すべて残されますか」
「残します」
中宮は答えた。
「御息所様の御名誉を、かえって損なうのでは」
「母の名誉のために、別の母を作り上げるつもりはございません」
中宮は、文を一枚ずつ重ねた。
優しかった母。
誇り高かった母。
嫉妬した母。
傷つけられたことを、長く忘れられなかった母。
娘を守った母。
どれか一つだけが、六条御息所ではない。
「人は、母を恐ろしい女として語ります」
中宮は言った。
「その語りを消して、美しい母だけを残せば、私も同じことをすることになります」
「同じこと?」
「一人の女から、都合のよい部分だけを取り出すことです」
弁の君は、しばらく考えた。
「では、中宮様御自身のことも、お書きになりますか」
中宮は顔を上げた。
「私のこと?」
「皆様の名と心を残すのであれば、編んだ方のことも残すべきではございませんか」
「私は、編者として名が出ます」
「それだけでは、足りません」
弁の君は言った。
「中宮様が、なぜ秋をお好きなのか。なぜこの記録を作ろうとなさったのか」
中宮は答えに迷った。
人の言葉を残すことには熱心でありながら、自分の心を記すことは考えていなかった。
「書くことが、ございません」
「本当に?」
「私は、母のような激しい恋もしておりません。伊勢で大きな事件があったわけでも」
「大きな事件がなければ、残すことはないのでしょうか」
中宮は、博士へ自分が言った言葉を思い出した。
何を事実として選ぶかを決めるのは、書く者である。
弁の君が笑った。
「御自分の言葉から逃げるのは、お許しいただけません」
「随分と厳しい編者ですね」
「中宮様に教わりました」
◇
秋好中宮は、その夜、一人で筆を取った。
何を書けばよいのか分からなかった。
母についてなら、幾らでも書けると思っていた。
幼い頃、母がどのように笑ったか。
伊勢へ向かう道で、雨に濡れた山を見て何と言ったか。
都へ戻ったあと、どれほど弱っていたか。
けれど、自分については言葉が出なかった。
自分は、誰なのだろう。
六条御息所の娘。
先の斎宮。
光源氏の養女。
冷泉帝の中宮。
秋を好む女。
どれも間違いではない。
けれど、どれも誰かとの関係や、与えられた立場である。
中宮は筆を置いた。
庭では、風が紅葉を散らしていた。
一枚の葉が階へ落ちる。
続いて、別の葉が重なる。
母は、生前に何を残したかったのだろう。
光源氏への思いだろうか。
斎宮となった娘への願いだろうか。
それとも、誰にも知られないまま消えた、もっと小さな何かだろうか。
中宮は再び筆を取った。
私は、秋を好む。
最初の一行を書いた。
秋は、失われるものが目に見える季節だからである。
花は咲いたときに見られる。
葉は落ちるときに初めて、そこにあった数を知られる。
私は、母を恐ろしい人と思ったことがある。
優しい人と思ったこともある。
母のようにはなりたくないと願い、母のように忘れられたくないとも願った。
私は、母のためだけに、この記録を作るのではない。
母だけを残せば、また一人の高貴な女のために、ほかの女たちを消すことになる。
私は、名を記す。
美しい歌を詠んだ者も。
落葉を掃いた者も。
灯を守った者も。
そして、私自身も。
そこまで書くと、中宮は筆を止めた。
自分について書いたのは、初めてだった。
誰かに読ませるためではない。
帝に愛されるためでも、源氏の期待に応えるためでも、母の名誉を守るためだけでもない。
自分がここにいたと、自分の言葉で残すためだった。
◇
歌合の日が来た。
六条院の庭は、春と秋の二つに分けて飾られた。
春の側には、季節外れの桜の枝や、霞を模した薄絹。
秋の側には、紅葉、薄、女郎花。
男たちは、どちらが勝つかと賑やかに語り合っていた。
紫の上は、春の御殿から訪れ、中宮の近くに座った。
「秋の御方は、随分と多くの紙を集められましたね」
「春からも、たくさん届きました」
「皆、書き始めると止まらなくなったようです」
紫の上は笑った。
「これまで、書いても誰も読まないと思っていたのでしょう」
「私も、同じでした」
中宮が言うと、紫の上は少し驚いた顔をした。
「中宮様も?」
「自分のことを、初めて書きました」
紫の上は、しばらく中宮を見つめた。
「それは、ぜひ読ませていただきたいです」
「恥ずかしゅうございます」
「皆には、名を出すようお命じになったのでしょう」
「命じたわけでは」
「では、お願いしたのですね」
紫の上は微笑んだ。
「御自分だけ逃げることはできません」
どこか弁の君に似たことを言う。
中宮も笑った。
歌合が始まった。
春の歌。
秋の歌。
見事な歌には、感嘆の声が上がる。
少し不出来な歌には、気まずい沈黙が落ちる。
男たちは真剣に優劣を論じた。
やがて、すべての歌が披露された。
判者が立ち上がる。
「今年の勝ちは――」
「お待ちください」
秋好中宮が言った。
場が静まった。
「まだ、読まれていないものがございます」
女房たちが、大きな箱を運び込んだ。
その中には、春と秋の記録が収められていた。
中宮は最初の巻を開いた。
「春の宴の記録です」
中宮の女房が読み上げる。
三月十日。
夜半より強い風。
左近少将の乳母である真木が、倒れかけた桜の枝を女房三人とともに支えた。
夜明けまで枝は折れず、翌日の宴で花を咲かせた。
続いて、別の記録。
九月二十日。
紅葉の賀の前夜、灯が七度消えた。
少納言の局のいさが、八度目の火を灯し、朝まで守った。
人々は、初めは戸惑っていた。
だが、記録が読み上げられるにつれ、会場のあちこちから声が上がった。
「あれは、あの宴のことか」
「確かに風の強い夜だった」
「あの灯を守った者がいたのか」
高貴な人々が覚えている華やかな場面の裏に、名も知らなかった者たちの働きがあった。
中宮は、最後に一枚の紙を手に取った。
六条御息所についての記録だった。
「先の斎宮が伊勢へ下った年の記録です」
会場に、わずかな緊張が走った。
六条御息所の名を、公の場でどのように語るのか。
皆が耳を澄ませた。
六条御息所、娘である斎宮に随行し、伊勢へ下る。
女房四十余名の旅支度を整え、道中の病人三名を自ら見舞う。
伊勢到着後、都を恋しがる若い女房らのため、月に一度、故郷の歌を詠む会を開く。
誇り高く、怒りを長く忘れぬ人であった。
また、娘を深く愛し、斎宮の暮らしを支えた人であった。
静寂が落ちた。
母を褒めるだけの記録ではない。
恐ろしい噂を否定するための文でもない。
一人の女が、矛盾を抱えたまま、生きたことを残す言葉だった。
光源氏が、春の側の席から中宮を見ていた。
その顔にどのような思いがあるのか、中宮には分からなかった。
母への後悔か。懐かしさか。
あるいは、自分がどのように記されるのかという恐れか。
中宮は、源氏の心を推し量るのをやめた。
今日は、男の心を読み解く日ではない。
女たちの名を読む日だった。
◇
すべての記録が読み終えられた。
判者が困ったように尋ねた。
「それでは、春と秋の勝敗は、どのように」
男たちは、ようやく本来の歌合を思い出したようだった。
中宮は紫の上を見た。
紫の上も、中宮を見返した。
「春の勝ちでよいのではございませんか」
中宮が言った。
会場がざわめく。
「まあ」
紫の上が笑った。
「秋の中宮様が、そのようなことを」
「春の歌は、見事でございました」
「秋にも、素晴らしい歌が多くございました」
「では、引き分けに?」
「それでは、判者の方々がお困りでしょう」
二人が真剣に相談する様子を見て、帝が笑った。
「勝敗は、男たちに決めさせればよい」
冷泉帝は言った。
「中宮たちは、すでに別のものを得たようだから」
帝の目は、名の記された巻物へ向けられていた。
判者は、結局、春をわずかな勝ちとした。
春の側では歓声が上がった。
秋の側の女房たちは悔しがった。
「中宮様が、初めから勝つ気がおありでなかったからです」
弁の君が言う。
「勝つ気はございましたよ」
「先ほど、なくともよいと」
「負ければ、やはり悔しいものです」
中宮が答えると、周囲の女房たちが笑った。
紫の上が春の花を一枝、中宮へ贈った。
中宮は代わりに、色づいた楓の枝を渡した。
「来年は、秋が勝ちます」
中宮が言う。
「勝敗は必要ないのでは?」
「それとこれとは別でございます」
今度は、紫の上が声を立てて笑った。
◇
歌合で披露された記録は、のちに何巻もの書物へまとめられた。
春の記。夏の記。秋の記。冬の記。
どの巻にも、高貴な者だけでなく、女房や下仕えの名が記された。
歌だけではない。
衣を織ったこと。子どもを育てたこと。病人を看取ったこと。旅をしたこと。
失敗したこと。腹を立てたこと。笑ったこと。
それぞれの者が、自分の言葉で残した。
その中でも、秋の巻が最も厚くなった。
落葉を掃く者たちが、競うように日々の不満を書いたからである。
十一月三日。
昨日、すべて掃いた。
今朝、昨日より多く落ちていた。
十一月五日。
中宮様は落葉を美しいとおっしゃる。
掃かなくてよいのであれば、私も美しいと思う。
これを読んだ秋好中宮は、声を上げて笑った。
「名は?」
「阿古でございます。最初に落葉のことを書いた者です」
「阿古へ、冬の衣を一重、贈ってください」
「褒美でございますか」
「落葉を美しいと申した者が、そのために風邪をひいては困ります」
その話を聞き、阿古はさらに一枚の文を寄せた。
十二月一日。
中宮様より衣をいただいた。
来年も落葉を掃くことにする。
その記録も、名とともに秋の巻へ加えられた。
◇
式部省の博士は、しばらくして再び中宮の御前へ参った。
完成した記録を、正式な文書として宮中の文庫に収めたいと申し出たのである。
「身分の低い者の名を残すことへ、反対しておられたのでは?」
中宮が尋ねると、博士は頭を下げた。
「浅慮でございました」
「急に、お考えが変わったのですか」
「記録を拝見し、これまでの書物に欠けていたものを知りました」
博士は一冊の巻物を差し出した。
以前、中宮が読んだ宮中の記録だった。
伊勢斎宮についての箇所に、紙が一枚加えられている。
先の斎宮、母六条御息所の喪により退下す。
御息所は斎宮の伊勢下向に随行し、長くその暮らしを支えた。
長い文章ではなかった。
母のすべてが、この二行で伝わるわけでもない。
それでも、母君とだけ記されていた場所に、六条御息所の名があった。
「お許しいただけるならば、今後の記録にも、女房らの名を可能なかぎり記したいと存じます」
博士は言った。
「私の許しは、必要ございません」
中宮は答えた。
「名を持っているのは、その方々ですから」
◇
幾年か後、秋好中宮は伊勢から届いた古い文箱を開いた。
中には、母が生前に書いた手紙が収められていた。
娘へ送るつもりで書きながら、渡されなかったものらしい。
紙は茶色く変わり、文字も薄れている。
あなたが、私のようにならぬことを願う。
けれど、私を恥じて生きることも願わぬ。
人は、女の心を一つの名で呼びたがる。
恋。嫉妬。恨み。
けれど、本当の心は、そのどれよりも広く、醜く、美しい。
あなたは、あなたの心を、誰か一人に名づけさせてはならない。
中宮は、長いあいだ手紙を見つめていた。
母がいつ書いたのかは分からない。
本当に娘へ渡すつもりだったのかも。
なぜ渡さなかったのかも。
それを勝手に美しい物語へ変えることはしなかった。
ただ、母がこの言葉を書いた。
その事実を残せばよい。
中宮は、新しい紙を用意した。
母の文を写し、その下へ自分の言葉を書いた。
六条御息所の娘、これを読む。
母の心を、すべて理解したとは思わない。
それでも、母が一つの噂だけで語られることを望まない。
私もまた、秋を好む中宮という名だけでは足りない。
私は、母を愛し、恐れた。
春の美しさを知りながら、秋を選んだ。
帝の后であり、かつての斎宮であり、この記録を編んだ一人の女である。
最後に、自分の名を記した。
肩書ではない。
誰かの娘としてでもない。
秋好中宮自身の名を。
◇
その年の秋も、六条院の紅葉は美しかった。
中宮の御殿には、記録を届ける女たちが絶えなかった。
それぞれが、自分の名と、自分の言葉を持ってきた。
「中宮様」
弁の君が、一冊の新しい巻物を運んできた。
「今年の秋の記でございます」
中宮は最初の頁を開いた。
八月七日。
今年、初めて紅葉した葉を、庭の女房・千代が見つける。
「千代は、どなたです」
「先月から勤め始めた、若い女房です」
「お呼びください」
「なぜでございますか」
「最初の紅葉を、私より先に見つけた方です。どの木だったのか、尋ねたいのです」
しばらくして、千代という女房が、おそるおそる御前へ出た。
まだ宮中の作法にも慣れていない。
顔を上げることもできず、声を震わせた。
「どの木が、最初に色づいたのですか」
中宮が尋ねる。
「西の渡殿に近い、楓でございます」
「一枚だけ?」
「はい」
「どのような色でした」
千代は少し考えた。
「火がつく前の炭のような、暗い赤でございました」
中宮は目を細めた。
「よい言葉ですね」
千代が驚いて顔を上げた。
「その言葉も、記していただきましょう」
「私の言葉を?」
「あなたが見つけ、あなたがそう思ったのですから」
千代の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
中宮は女房たちとともに、西の渡殿へ向かった。
楓は、すでに半ばまで色づいていた。
最初の一枚がどれだったのか、もう分からない。
けれど、その葉を見つけた者の名は、巻物の最初に残っている。
風が吹いた。
赤い葉が一枚、枝を離れた。
誰かが拾うより先に、別の葉も落ちた。
秋好中宮は、それらを眺めた。
葉は、落ちるから失われるのではない。
そこにあったことを、誰にも見られずに終えるとき、初めて失われる。
「今年も、厚い巻になりそうですね」
弁の君が言った。
「ええ」
中宮は答えた。
「書くことがなくなるまで、続けましょう」
「そのような日は、来るのでしょうか」
庭では、女房たちが落葉を拾いながら話していた。
誰かが笑う。
誰かが呼びかける。
一人が、今の言葉も記録へ入れようと言い出した。
「来ないかもしれませんね」
中宮は微笑んだ。
秋の庭には、数えきれないほどの葉があった。
その一枚一枚に異なる色と形があるように、人の生にも、誰か一人の言葉にも、同じものはなかった。
名を呼べば、そこに人が現れる。
言葉を記せば、その人が見た季節が残る。
母の秋。
中宮の秋。
名も知られなかった女たちの秋。
それらは一つの巻の中で重なりながら、どれもほかの誰かの物語にはならなかった。
風が、頁をめくった。
中宮は紙を押さえた。
まだ何も書かれていない、白い頁だった。
やがて誰かの名が、そこへ記される。
秋好中宮は筆を取り、頁の端へ小さく日付を入れた。
その日から始まる言葉を迎えるために。




