白猫
【原作では】
女三宮は、朱雀院の皇女で、父の意向により光源氏の妻として六条院へ迎えられます。
ある春の日、飼っていた唐猫が御簾を引き上げたことで柏木に姿を見られ、柏木は女三宮への思いを募らせます。
やがて柏木は女房の手引きで寝所に忍び入り、女三宮は柏木の子・薫を産んだのち、出家します。
女三宮が、生まれて初めて自分で選んだものは、一匹の白い猫だった。
その日、朱雀院の御前には、三匹の子猫が入った籠が置かれていた。
一匹は黒。
一匹は薄い灰色。
もう一匹は、耳の先から尾の先まで雪のように白かった。
三匹は互いの身体へもぐり込み、小さな声で鳴いている。
「好きなものを一匹、選びなさい」
父に言われ、女三宮は籠の前へ膝をついた。
どの猫もかわいらしかった。
黒い猫は活発で、籠から出ようと前脚を伸ばしている。
灰色の猫は眠たげに目を細めている。
白い猫だけが、ほかの二匹に踏まれながら、何もせずにじっとしていた。
女三宮が手を差し出すと、白い猫は細い鼻を近づけた。
指先の匂いを嗅ぎ、それから、舐めた。
「この子にいたします」
「白いものを選んだか」
朱雀院は満足そうに笑った。
「三宮には、よく似合う」
女三宮も笑った。
何を選んでもよいと言われ、その選択を誰にも変えられなかったのは、それが初めてだった。
白猫を抱き上げる。
柔らかな身体から、かすかに乳の匂いがした。
「名は、何とする」
父が尋ねる。
女三宮は少し考えた。
「雪と」
「見たままではないか」
「はい」
父は声を立てて笑った。
周囲の女房たちも笑った。
けれど、女三宮は恥ずかしいとは思わなかった。
白いから、雪。
それでよかった。
自分が選んだ名だった。
その日の夕刻、朱雀院は娘の婚姻について告げた。
「三宮を、源氏の君へ託そうと思う」
女三宮は、膝の上で眠る雪を見た。
「源氏の君とは、六条院の?」
「そうだ」
「私より、ずっと御年上の方ですね」
朱雀院の笑みが、わずかに曇った。
「御立派な方だ。私が出家したあとも、三宮を大切に守ってくださる」
「私は、六条院へ行くのですか」
「そうなる」
「いつ、お決めになったのです」
「以前から考えていた」
「私には、いつお尋ねになるおつもりだったのですか」
朱雀院は答えなかった。
女三宮は、眠っている猫の背を撫でた。
「今、お尋ねになってくださいませ」
「何を?」
「私が、源氏の君の妻になりたいかどうかです」
御前が静まった。
女房たちが、息を潜める。
朱雀院は困ったような顔をした。
「三宮には、まだ分からぬことだ」
「分からないのであれば、なぜ結婚することだけは決められるのですか」
「結婚とは、好いた嫌っただけで決めるものではない」
「では、私が嫌だと申し上げても、変わらないのですね」
父は目を伏せた。
その沈黙で、女三宮には分かった。
「分かりました」
彼女は言った。
「何が分かったのだ」
「父上は、私の気持ちをお知りになりたいのではございません」
声は震えなかった。
「私が、父上のお決めになったことを喜ぶかどうかだけを、お知りになりたいのです」
朱雀院は、しばらく何も言わなかった。
やがて、穏やかに諭すような声で言った。
「源氏の君ならば、三宮が不自由することはない」
「不自由とは、衣や食べ物のことでしょうか」
「それだけではない」
「では、自分の暮らす場所や、誰と夫婦になるかを決められないことは、不自由ではないのですか」
「三宮」
朱雀院の声が、少し強くなった。
「女が一人で生きることは難しい」
「一人で生きたいとは申しておりません」
女三宮は父を見た。
「決めるときに、私もそこにいたいと申しているのです」
膝の上で、雪が目を覚ました。
小さく鳴き、女三宮の袖へ爪を立てた。
彼女は猫を抱き直した。
「私は、源氏の君の妻になりたいとは思いません」
初めて、はっきりと口にした。
「それでも、六条院へ行かなくてはならないのでしょうか」
朱雀院は、答えなかった。
◇
女三宮の婚姻は、予定どおり進められた。
高貴な皇女を迎えるため、六条院では新しい御殿が整えられた。
衣、調度、屏風、香。
女三宮が好きだと聞き及んだ品々が、次々と運び込まれた。
ただし、何が好きかを、本人に尋ねた者はいなかった。
婚儀の日、女三宮は幾重もの衣をまとった。
身体が沈むほど重かった。
乳母が髪を整え、頬へ白粉を重ねる。
「お美しゅうございます」
「そうですか」
「源氏の君も、さぞお喜びになるでしょう」
女三宮は鏡の中の自分を見た。
美しく装われた少女がいる。
自分ではない誰かのようだった。
足元では、雪が衣の裾へじゃれついている。
「猫を婚儀の場へ連れていくなど」
乳母が困った顔をした。
「六条院へも連れてまいります」
「もちろんでございます。けれど、今だけは」
女三宮は雪を抱き上げた。
「この子は、私が選んだものです」
乳母は、それ以上何も言わなかった。
◇
六条院での女三宮は、大切に扱われた。
少なくとも、誰もがそう言った。
御殿は広かった。
仕える女房も多い。
珍しい香や、異国の織物が贈られた。
光源氏は穏やかで、声を荒らげることもなかった。
「三宮は、まだ幼いから」
何かにつけて、そう言った。
女三宮が御殿の使い方について尋ねれば、
「そのようなことは、家司へ任せればよい」
女房の人選へ意見を述べれば、
「難しいことを考えずともよい」
宮中の儀式について学びたいと言えば、
「急ぐことはない」
と答えた。
そして、女三宮の前では、紫の上の話をした。
「紫の上は、若い頃から何事にも心が行き届いていてね」
衣の色目。花の移し植え。
女房たちへの気遣い。楽の技。歌。
どの話にも、紫の上が出てきた。
「紫の上様は、何でもおできになるのですね」
女三宮が言うと、源氏は微笑んだ。
「三宮も、いずれは」
いずれ。
今は、何もできない。
そう言われているようだった。
ある夜、女三宮は尋ねた。
「私は、何をすればよろしいのでしょう」
「何もしなくてよい」
光源氏は答えた。
「美しく、穏やかに暮らしていればよいのだ」
「それが、妻の役目でございますか」
「三宮には、まだ難しいことは分からぬだろう」
女三宮は黙った。
幼いから。
頼りないから。
分からないから。
父も、夫も、同じことを言った。
何も教えず、何も任せず、何も決めさせない。
そして、何もできない女だと言う。
雪だけが、女三宮の膝へ上がってきた。
彼女は白い背を撫でた。
「雪は、私が頼りないと思いますか」
猫は答えず、喉を鳴らした。
◇
女三宮は、自分から学ぶことにした。
最初に呼んだのは、父のもとで長く仕えていた老女房だった。
宮中の儀式。荘園から届く収入。
女房たちの役目。文の書き方。
物を贈る際の決まり。
光源氏には知らせなかった。
知らせれば、急ぐ必要はないと止められると思ったからである。
老女房は、初めのうち戸惑っていた。
「宮様が、そのようなことをお知りになる必要は」
「必要があるかどうかも、私が決めてはいけないのですか」
女三宮に問われ、老女房は口を閉じた。
学び始めると、女三宮は覚えが悪いわけではなかった。
ただ、これまで覚える必要がないとされてきただけだった。
分からないことは、何度も尋ねた。
一度で理解できなければ、恥じずに聞き直した。
老女房は、次第に教えることを楽しむようになった。
「宮様は、御自分を頼りないとお思いですか」
ある日、老女房が尋ねた。
「皆、そのように申します」
「わたくしは、そうは思いません」
女三宮は筆を止めた。
「なぜです」
「頼りない方は、分からないことを隠します」
老女房は答えた。
「宮様は、分からないとおっしゃる。そして、分かるまでお尋ねになります」
女三宮は、初めてその言葉を聞いた。
自分は頼りなくない。
誰かにそう言われたのは、生まれて初めてだった。
◇
女三宮が六条院で暮らし始めてから、雪はますます大きくなった。
白い毛は長く、尾はふさふさとしていた。
女房たちは、猫が御簾の紐へじゃれつくことを心配した。
「外から御姿が見えてしまいます」
「では、紐を高いところへ結んでください」
女三宮は言った。
「猫を閉じ込めるのではなく?」
女房が尋ねる。
「この子が悪いのではございません」
雪は、人の決まりを知らない。
御簾の内と外。
見てよいものと、見てはならないもの。
高貴な女の姿を男が見ることの意味。
猫に分かるはずがない。
それでも女房たちは、雪が御簾へ近づくたびに追い払った。
ある春の日、女三宮は庭に近い部屋で琵琶を弾いていた。
雪は、几帳の影で眠っている。
風が吹き、梅の香が流れ込んだ。
そのとき、庭の向こうを一人の男が通った。
柏木だった。
光源氏の息子である夕霧の友人で、宮中でも評判の公達だった。
女三宮は、名を知っているだけだった。
柏木が御殿の近くまで来ることは、珍しいことではない。
六条院には、多くの人が出入りする。
女三宮は気に留めなかった。
ところが、雪が目を覚ました。
風に揺れる御簾の紐へ飛びつく。
「雪」
女三宮が呼ぶより早く、猫は紐を引いた。
御簾が大きく持ち上がった。
庭から、部屋の中が見えた。
女房たちが悲鳴を上げる。
女三宮は、反射的に袖で顔を隠した。
御簾はすぐに下ろされた。
外から、誰かの足音が遠ざかる。
「雪を捕まえて!」
女房の一人が叫んだ。
別の女房が猫へ駆け寄る。
女三宮は立ち上がった。
「乱暴にしてはなりません」
「ですが、宮様の御姿が!」
「雪には分かりません」
「縛って、奥へ置きましょう」
「この子を罰しても、見た方が見なかったことにはなりません」
女三宮は雪を抱き上げた。
猫は、騒ぎの意味も分からず、彼女の胸へ顔を埋めた。
◇
その夜から、柏木の文が届くようになった。
最初の文には、女三宮を偶然見たことへの詫びが書かれていた。
同時に、姿を忘れられないとも。
女三宮は返事をしなかった。
二通目。
三通目。
文は続いた。
柏木は、自分の心が抑えられないことを書いた。
女三宮も同じ思いであれば、ほんの一言でよいから返してほしいと。
女三宮は女房へ命じた。
「すべて、お返ししてください」
「お返事を添えますか」
「いいえ」
「何も書かなければ、恥じらっておられると思われるかもしれません」
女三宮は考えた。
返事をしなければ、恥じらい。
返せば、心がある。
どちらを選んでも、柏木に都合よく受け取られるのだろう。
彼女は筆を取った。
御文をいただく理由はございません。
今後、私へ文を寄越さず、御殿へ近づかぬようにしてください。
短い文だった。
歌にはしなかった。
遠回しな言葉も使わなかった。
返事を受け取った柏木は、その夜、さらに長い文を寄越した。
女三宮が身を守るため、心にもない拒絶を書いているのだろうと。
自分には分かっていると。
「分かっていないから、書いたのです」
女三宮は文を閉じた。
「もう、取り次がないでください」
女房たちは従った。
それでも、柏木の文は別の者を通じて届いた。
花に結ばれ。
楽譜へ隠され。
女房への贈り物へ紛れ込んだ。
女三宮は、見つけるたびに焼いた。
「光源氏様へ、お話しなさいますか」
老女房が尋ねた。
女三宮は迷った。
源氏が自分を守ってくれるだろうか。
それとも、姿を見られた女三宮の不注意を責めるだろうか。
雪を飼っていたこと。
御簾の近くで琵琶を弾いていたこと。
柏木に文を送らせる隙を作ったこと。
「まだ、申し上げません」
女三宮は答えた。
「その代わり、夜の警護を増やしてください」
「理由を聞かれます」
「私が望んでいると」
老女房は頷いた。
だが、家司は女三宮の命令だけでは警護を変えようとしなかった。
「源氏の君の御指図がなければ」
「この御殿の主は、私ではないのですか」
「もちろん、宮様でございます」
「では、なぜ私の命令では動けないのです」
家司は答えなかった。
「源氏の君の御殿の一部を、宮様へお預けしている形でございますので」
預けられている。
自分のために造られた御殿でありながら、自分のものではない。
女三宮は、その夜、初めて父に文を書いた。
私が嫌だと申し上げても、婚姻は変わりませんでした。
柏木に近づかぬよう伝えても、文は止まりません。
警護を増やすよう命じても、夫の許しが必要だと言われます。
父上。
私の言葉は、どこまで届けば、言葉として扱われるのでしょう。
返事は、すぐには来なかった。
◇
柏木が女三宮の部屋へ入ったのは、雨の夜だった。
外では風が強く、廊を渡る足音が雨音に紛れていた。
女三宮は、雪とともに奥の部屋で休んでいた。
女房の一人が、源氏からの使いだと聞いて男を通した。
几帳の外から声がした。
「宮様」
女三宮は目を覚ました。
知っている声ではない。
雪が低く唸った。
「どなたです」
返事はなかった。
几帳が動いた。
女三宮は起き上がった。
「そこから先へ、入ってはなりません」
男の影が止まった。
「三宮」
柏木の声だった。
女三宮は、身体が冷たくなるのを感じた。
「お帰りください」
「一度だけ、お話を」
「文で、お伝えしました」
「人目があるため、心にもないことをお書きになったのでしょう」
「心から書きました」
「私は、宮を苦しめるつもりは」
「今、苦しめております」
女三宮は声を上げた。
「誰か!」
外に控えていたはずの女房たちから、すぐに返事はなかった。
柏木が、さらに一歩近づいた。
「声を上げれば、宮のお名前に傷がつきます」
その言葉に、女三宮の恐怖が怒りへ変わった。
侵入した男ではなく、助けを呼ぶ女が恥じる。
柏木は、それを知っている。
知っていて、声を上げられないと思っている。
「誰か!」
女三宮は、今度はさらに大きな声で呼んだ。
しかし誰も助けには来なかった。
柏木は女三宮を押さえつける。
口元に布を押し込められ、女三宮の世界は真っ暗に落ちていった。
◇
雪が柏木へ飛びかかった。
白い身体が男の袖へ爪を立てる。
柏木が驚き、腕を振った。
猫は畳へ落ち、甲高く鳴いた。
「雪!」
女三宮は、そばにあった青銅の鏡をつかんだ。
柏木へ向ける。
「それ以上近づけば、これを投げます」
「宮」
「お帰りください」
足音が聞こえた。
老女房と、数人の女房が駆け込み、女三宮を後ろに隠し込んだ。
その後ろに、警護の男たちもいた。
柏木は顔を伏せた。
服装の乱れた高貴な公達を取り押さえることを、皆ためらっている。
「捕らえてください」
女三宮は命じた。
誰も動かなかった。
「宮様、まずはお静かに」
年長の女房が言った。
「このことが表へ漏れれば」
「漏らしたのは、私ですか」
「そうではございません」
「では、入ってきた方を捕らえてください」
警護の男が、ようやく柏木の前へ進んだ。
柏木は抵抗しなかった。
「宮を傷つけるつもりはなかった」
彼は言った。
女三宮は、震える手で鏡を握ったまま答えた。
「傷つけるつもりがなければ、何をしても傷つかないとお思いですか」
◇
光源氏が来たのは、夜が明ける前だった。
柏木は別の部屋に留められている。
女三宮の部屋には、乱れた几帳と、倒れた燈台が残っていた。
雪は、女三宮の腕の中で震えていた。
前脚を少し痛めている。
「なぜ、私へ早く知らせなかった」
光源氏は最初に言った。
女三宮は夫を見た。
「何をですか」
「柏木が文を寄越していたことを」
「知らせれば、何となさったのです」
「もちろん、近づかせなかった」
「私は、近づけぬよう命じました」
「三宮の命令だけでは、家司も困るだろう」
「なぜです」
光源氏は黙った。
「ここは、私の御殿ではなかったのですか」
「そのような話をしているのではない」
「私には、同じ話です」
女三宮は雪を抱く腕へ力を込めた。
「私が嫌だと申しても、誰も動かなかった。柏木は、私の言葉を恥じらいだと思いました。家司は、あなたの命令がなければ警護を増やせないと申しました」
「それでも、私へ話すことはできただろう」
「話せば、私は何を責められましたか」
「責めるなど」
「猫を御簾の近くへ置いたことですか。外から見える場所で琵琶を弾いたことですか。文を寄越されるような姿を見せたことですか」
光源氏は目を伏せた。
女三宮には、その一瞬で十分だった。
夫も、考えていたのだ。
なぜ女三宮は見られたのか。
なぜ柏木に思われたのか。
女三宮が何かをしたのではないかと。
「柏木は、どうする」
光源氏が尋ねた。
「私にお尋ねになるのですか」
「三宮が、捕らえよと命じたと聞いた」
「はい」
「表沙汰にすれば、三宮の名も傷つく」
「また、私の名ですか」
「高貴な女君の部屋へ、男が忍び入ったと知られれば」
「柏木の名は、傷つかないのですか」
「もちろん、柏木も」
「けれど、隠すよう勧められるのは私です」
光源氏は答えなかった。
女三宮は、夫を見つめた。
「私は、柏木がこの部屋へ入ったことを隠しません」
「三宮」
「何も起きなかったから、隠せとおっしゃるのでしょうか」
女三宮の声は震えていた。
「何かが起きてからでなければ、私の嫌だという言葉には、何の重さもないのですか」
その問いに、光源氏は答えられなかった。
◇
女三宮は、その日のうちに朱雀院へ文を送った。
今度の文は、娘から父への訴えではなかった。
皇女としての要求だった。
柏木が、許しなく私の部屋へ入りました。
私は以前より文を拒み、御殿へ近づかぬよう伝えておりました。
このことを、私の不注意として隠すことは望みません。
父上と源氏の君に、私の前でお話しいただきたいことがございます。
朱雀院は、すぐに六条院へ来た。
出家した身でありながら、顔色を変えていた。
光源氏も同席した。
柏木の父である内大臣も呼ばれた。
女三宮は御簾の内へ座った。
いつものように、男たちの言葉を聞くだけの場ではない。
自分から話すための場だった。
「柏木がしたことについては、厳しく処分いたします」
内大臣が最初に言った。
「我が子ながら、弁解の余地はございません」
「何を処分なさいますか」
女三宮が尋ねた。
内大臣は口を閉じた。
「官位を下げるのでしょうか。しばらく外へ出さないのでしょうか」
「それは、帝の御判断にも」
「私は、柏木の官位について話すために、皆様をお呼びしたのではございません」
女三宮は父を見た。
「父上」
「三宮」
朱雀院の声には、痛ましさがあった。
「恐ろしい思いをしただろう」
「はい」
「すまなかった」
女三宮は、しばらく父の顔を見た。
謝られたかったはずだった。
けれど、その一言で終わらせたくはなかった。
「私が源氏の君との婚姻を望まないと申し上げたことを、覚えておられますか」
朱雀院の表情が固まった。
「今、それを」
「今だから、お尋ねしております」
女三宮は続けた。
「私は嫌だと申しました。それでも父上は、私には何も分からないとおっしゃった」
「三宮を守るためだった」
「その結果、私は自分の御殿で、警護一つ変えることができませんでした」
朱雀院は目を伏せた。
女三宮は光源氏へ向き直った。
「源氏の君」
「はい」
「あなたは私に、何もせず、美しく穏やかに暮らせばよいとおっしゃいました」
光源氏は答えなかった。
「何もさせず、何も決めさせず、私を頼りない女だとお思いでした」
「そのようなつもりでは」
「つもりの話をしているのではございません」
女三宮は言った。
「私は、自分の言葉が聞かれなかった結果について話しております」
御簾の外で、誰も動かなかった。
「私は、柏木だけを責めればよいのですか」
女三宮は尋ねた。
「文を拒んでも、止めなかった柏木を。部屋へ入った柏木を。それは当然です」
雪が、女三宮の隣で丸くなっている。
痛めた前脚には、白い布が巻かれていた。
「けれど、柏木が私の言葉を聞かなかったことと、父上や源氏の君が聞かなかったことは、まったく別なのでしょうか」
朱雀院が息を呑んだ。
「同じではない」
光源氏が言った。
「私たちは、三宮を大切に」
「柏木も、私を大切に思っていたと申しました」
女三宮は静かに答えた。
「大切に思うことと、相手の言葉を聞くことは、同じではないのですね」
◇
女三宮は三つのことを求めた。
一つ。自分の御殿の人事と警護について、女三宮自身が最終的に決めること。
一つ。柏木の侵入を、女三宮の不注意として処理せず、彼が拒絶を無視したことを内大臣家の記録へ残すこと。
そして、もう一つ。
「私は、六条院を離れます」
女三宮が言うと、光源氏が顔を上げた。
「どちらへ」
「父上より、私自身のための邸をいただきます」
朱雀院が目を見開いた。
「父上が出家なさった後、私が一人で生きられないから、この婚姻を決めたとおっしゃいました」
「そうだ」
「では、夫へ渡す代わりに、私が自分で暮らせるものをくださいませ」
女三宮は言った。
「土地と、邸と、それを保つための財を」
その場にいた男たちは黙った。
高貴な姫君のために婚姻相手を探すことは当然でも、姫君自身が暮らしを保てるだけの財を渡すという考えは、誰も口にしなかった。
「私が何もできないと思われるのであれば」
女三宮は続けた。
「できるようになるまで、教える者もつけてくださいませ」
朱雀院は長いあいだ娘を見つめていた。
「三宮は、そこまで考えていたのか」
「考える時間だけは、たくさんございました」
父は顔を伏せた。
「分かった」
やがて言った。
「三宮の望む邸を用意しよう」
光源氏は、苦しそうな顔をした。
「私とは、もう夫婦ではいられないと?」
女三宮は夫を見た。
嫌いではなかった。
光源氏は彼女へ暴力を振るわなかった。
衣も、御殿も与えた。
ただ、女三宮を一人の大人として見ることができなかった。
「私たちは、最初から夫婦だったのでしょうか」
女三宮は尋ねた。
光源氏は答えなかった。
◇
女三宮が六条院を離れる日、紫の上が訪れた。
二人きりで話したことは、ほとんどなかった。
女三宮は紫の上を恐れていた。
自分より美しく、賢く、何事にも行き届いた女性。
光源氏が、何かにつけて女三宮と比べた人。
けれど、御簾を隔てて向かい合った紫の上は、静かな声で言った。
「お発ちになると伺いました」
「はい」
「お寂しくなります」
女三宮は、何と答えればよいか分からなかった。
「私は、紫の上様に嫌われていると思っておりました」
思い切って言うと、紫の上は少し笑った。
「私も、三宮様にそう思われていると感じておりました」
「源氏の君は、いつもあなたを褒めました」
「三宮様の前で?」
「はい」
紫の上は目を伏せた。
「私の前では、三宮様の高貴なお立場をお話しになりました」
女三宮は顔を上げた。
「では、私たちは互いに」
「比べられていたのでしょう」
紫の上は答えた。
二人の間にあったのは、憎しみではない。
一人の男によって作られた、見えない競い合いだった。
「三宮様が御自分の邸へ移られることを、私はうらやましく思います」
紫の上は言った。
女三宮は驚いた。
「六条院のすべてを取り仕切っておられる方が?」
「取り仕切っていることと、自分のものであることは違います」
紫の上は、穏やかに笑った。
「どうか、御自分の御殿を、御自分のお好きな場所になさってくださいませ」
「はい」
「それから」
紫の上は、雪を見た。
猫は女三宮の隣で、長い尾を揺らしている。
「その猫を、あまり御簾の近くへ置かれませんように」
女三宮は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
紫の上の目元が笑っている。
「皆様、同じことを申します」
女三宮も笑った。
「けれど、この子は、言うことを聞きません」
「それは、頼もしいことです」
二人は、初めて同じものを見て笑った。
◇
女三宮が移った邸は、六条院ほど広くはなかった。
庭も小さい。
池には水草が多く、初めのうちは水面さえよく見えなかった。
それでも、女三宮は気に入った。
どの女房を置くか。
夜の警護を何人にするか。
門をいつ閉じるか。
庭へ何を植えるか。
一つずつ、自分で決めた。
分からないことは、老女房へ尋ねた。
間違えたことも多い。
薪を多く買いすぎた。
衣を注文する時期を誤った。
雨漏りの修理に、必要以上の銭を払った。
家司に騙されかけたこともある。
そのたびに、女三宮は帳面を開き、何が悪かったのかを聞いた。
「宮様は、以前よりずっと御立派になられました」
乳母が言う。
女三宮は首を振った。
「以前から、私でございました」
「では、何が変わられたのでしょう」
女三宮は考えた。
「失敗することを、許されるようになりました」
六条院では、何も任されなかった。
失敗しない代わりに、何もできなかった。
今は違う。
間違えれば、直す。
知らなければ、学ぶ。
決めれば、責任も負う。
それが大人になることなのだと、女三宮は初めて知った。
◇
柏木は、官位を一時退けられ、父の邸へ閉じ込められた。
やがて病に伏したという知らせが届いた。
女三宮は、見舞いの文を送らなかった。
周囲の者は、薄情だとは言わなかった。
少なくとも、彼女の前では。
柏木からは、一度だけ文が来た。
自分は女三宮を心から愛していた。
その思いが深かったために、過ちを犯した。
どうか許してほしい。
女三宮は、最後まで読んだ。
そして返事を書いた。
あなたが何を感じていたかを、私は否定いたしません。
けれど、あなたの思いが深かったことは、私の拒絶を軽くする理由にはなりません。
私は、あなたを許すために生きるのではございません。
どうか、御自分のしたことを、愛という一言で終わらせないでください。
その文を最後に、柏木とのやり取りは途絶えた。
ほどなく、彼は亡くなった。
女三宮は知らせを聞き、長いあいだ黙っていた。
喜びはしなかった。
悲しみとも違った。
一人の人が死んだ。
自分を恐れさせた男。
それでも、若く、苦しんで死んだ男。
女三宮は、一度だけ経を読んだ。
許すためではない。
死を喜ぶ自分にならないためだった。
◇
それから数月後、女三宮は身体の変化に気づいた。
柏木が侵入した夜、雪が彼に飛び掛かる前に、女三宮には記憶のない時間があった。
誰にも話したくない記憶だった。
医師の診立てを聞き、女三宮は何も言えなくなった。
子を宿している。
父親が誰であるかは、彼女にしか分からない。
女房たちは青ざめた。
「源氏の君へ、お知らせを」
乳母が言った。
「なぜです」
「御子を、源氏の君の御子として」
「そのようにすれば、何もなかったことにできますか」
「宮様」
女三宮は、自分の腹へ手を置いた。
まだ、何も感じない。
この中にいる子に、罪はない。
柏木の子だからといって。
望んだ形で授かった子ではないからといって。
「私は、この子を産みます」
女三宮は言った。
「そして、私の子として育てます」
「父君の名は、どうなさいます」
「必要になれば、真実を伝えます」
「世間が」
「世間は、この子を育ててはくれません」
女三宮は乳母を見た。
「私が育てます」
朱雀院と光源氏へも知らせた。
光源氏は、子を自分の子として公に扱うと申し出た。
女三宮は断った。
「あなたの名で守らなければ、この子は生きられないのでしょうか」
「三宮と子を守りたいのだ」
「守るという言葉を、もう一度考えてくださいませ」
女三宮は答えた。
「真実を隠し、私たちをあなたの妻と子として囲うことが、守ることなのでしょうか」
「では、どうすれば」
「この子が暮らせる財と立場を、あなたと父上から与えてください」
女三宮は言った。
「名は、私が与えます」
子は、薫と名づけられた。
身体から、かすかに良い香が漂うと言われたからである。
ただし女三宮は、その香を柏木の名残とは呼ばなかった。
薫自身の香だった。
◇
薫は、よく泣く子ではなかった。
静かに周囲を見ていることが多かった。
女三宮が抱けば、衣の紐を握った。
雪が近づけば、白い毛へ小さな手を伸ばした。
「爪を立てられますよ」
女三宮が止めても、薫は猫へ触れたがった。
雪は初め、幼子を避けていた。
やがて、薫のそばで眠るようになった。
一人と一匹が並ぶと、白い塊が二つあるようだった。
「雪は、薫が好きなのですね」
乳母が言う。
「好きなのでしょうか」
女三宮は尋ねた。
「いつも、そばにおりますから」
「そばにいるだけで、好きだと決めてはいけません」
女三宮が真面目に言うので、乳母は目を丸くした。
それから、二人で笑った。
「では、雪へ尋ねなくてはなりませんね」
「ええ」
女三宮は猫へ顔を近づけた。
「薫のそばにいてもよいのですか」
雪は大きなあくびをした。
「お返事は?」
乳母が尋ねる。
「今は、眠いそうです」
◇
薫が歩くようになると、女三宮の邸は急に騒がしくなった。
猫を追いかける。
池へ入ろうとする。
帳面へ墨をこぼす。
女三宮が大切にしていた琵琶の糸へ手を伸ばす。
「触れてもよいですか、とお尋ねなさい」
女三宮は何度も教えた。
薫は、まだ言葉をうまく話せない。
それでも、琵琶を指差して、
「よい?」
と尋ねるようになった。
「今日は、よろしいです」
女三宮は答えた。
別の日には、
「今日は、いけません」
と言った。
薫は不満そうな顔をした。
それでも、手を引いた。
「嫌だと申されたときは、その先へ進んではなりません」
薫がどこまで理解しているかは分からない。
女三宮は、幼い子へ何度も同じ言葉を伝えた。
「どうして?」
薫が少し大きくなって尋ねた。
「相手のものだからです」
「琵琶が?」
「琵琶も。身体も。心も」
薫は考えた。
「雪も?」
ちょうど雪の尾をつかもうとしていたところだった。
「雪もです」
薫は手を止めた。
「雪、よい?」
猫は返事をせず、薫から離れていった。
「いけないって」
薫は残念そうに言った。
「そうですね」
女三宮は笑った。
「では、追いかけないでおきましょう」
◇
数年後、朱雀院が女三宮の邸を訪れた。
出家後、父が娘の住まいへ足を運ぶことは珍しかった。
庭には、女三宮が選んだ白い萩が咲いていた。
池の水草は整理され、水面には空が映っている。
薫は廊で雪と遊んでいた。
猫はすっかり年を取り、動きもゆっくりになっている。
「三宮」
朱雀院は、娘の前へ座った。
「よい邸になった」
「ありがとうございます」
「源氏の君も、三宮がこれほど何事もできるとは思わなかったと」
女三宮は、少し笑った。
「何もできないと思っていた方が、間違っていたのでしょう」
朱雀院は、気まずそうに目を伏せた。
「そのとおりだ」
以前の父なら、軽く笑って終わらせたかもしれない。
今は、娘の言葉を否定しなかった。
「私は、三宮を守りたかった」
父は言った。
「はい」
「だが、守ることと、閉じ込めることを取り違えた」
女三宮は黙って聞いた。
「三宮が嫌だと申したとき、私は、幼い娘の我が儘だと思った」
「はい」
「今になって、あのとき何をすべきだったのか、考える」
「婚姻をやめていただきたかったです」
女三宮は答えた。
朱雀院は苦く笑った。
「三宮は、容赦がない」
「曖昧に申し上げれば、また違う意味に受け取られますから」
父は、しばらくして頷いた。
「そうだな」
薫が、廊の向こうから走ってきた。
「母上」
「走ると転びますよ」
「雪が、動かない」
女三宮は立ち上がった。
雪は、日の当たる場所で横になっていた。
白い毛は以前より薄く、呼吸も小さい。
女三宮は猫のそばへ座った。
「雪」
猫は目を開けた。
薫が触れようとする。
「今は、そっと」
女三宮は言った。
薫は手を引いた。
「触れてよい?」
女三宮は猫の様子を見た。
雪は逃げなかった。
「背中を、優しくなら」
薫は、小さな手で猫の背を撫でた。
雪は目を細めた。
朱雀院は、その様子を離れたところから見ていた。
「その猫が」
父が言った。
「三宮が、あの日選んだ猫か」
「覚えておられたのですか」
「白いから雪と名づけた」
女三宮は笑った。
「見たままだと、父上はお笑いになりました」
「あの頃の三宮は、小さかった」
「はい」
「けれど、選ぶことは知っていたのだな」
女三宮は雪の背を撫でた。
「誰でも、知っているのではございませんか」
「何を?」
「好きなものを選ぶことも、嫌なものを拒むことも」
女三宮は父を見た。
「周りの者が、それを選択として扱うかどうかが違うだけです」
◇
雪は、その冬に死んだ。
朝、女三宮が目を覚ますと、いつも眠っている場所で、静かに動かなくなっていた。
薫は何度も猫を呼んだ。
「雪は、眠っているの?」
「いいえ」
「起きない?」
「もう、起きません」
薫は泣いた。
女三宮も泣いた。
白い身体を布で包み、庭の萩の下へ埋めた。
女房たちは、小さな石を置いた。
薫は、その上へ白い花を一輪載せた。
「雪は、いなくなったの?」
薫が尋ねた。
「ここには、もうおりません」
「そうしたら、雪はどこへ行ったの?」
女三宮は答えを探した。
浄土へ行ったと教えることもできた。
生き物は皆、別の命に生まれ変わると話すことも。
けれど、薫には、今の自分の言葉で伝えたかった。
「雪がいたという事実は、なくなりません」
「どうして?」
「薫が覚えているでしょう」
「母上も?」
「ええ」
「雪は、母上が選んだの?」
「そうです」
女三宮は頷いた。
「私が初めて、自分で選んだものです」
薫は、しばらく石を見つめていた。
「母上は、私のことも選んだ?」
女三宮の胸が詰まった。
「ええ」
彼女は薫の肩を抱いた。
「あなたを産むことも、育てることも、私が選びました」
「私も、母上を選んだんだ」
薫は言った。
「そうなのですか」
「うん」
女三宮は笑った。
「それは、嬉しいことです」
◇
やがて薫が七歳になる頃、女三宮は髪を下ろした。
誰かに罪を問われたからではない。
男との関わりを恥じたからでもない。
長く学んできた仏の教えを、自分の暮らしの中心に置きたいと思ったからだった。
ただし、邸を捨てることはしなかった。
薫を手放すことも。
出家した女は俗世を離れるべきだと説く者もいた。
女三宮は答えた。
「私が何を捨て、何を残すかは、私が決めます」
朱雀院は、もう反対しなかった。
光源氏からも、祝いの品が届いた。
紫の上からは、白い念珠が贈られた。
文には、短くこうあった。
御自分の道を、御自分で選ばれたことを、嬉しく思います。
女三宮は、その文を何度も読んだ。
出家の日、薫は母の短くなった髪を不思議そうに見た。
「母上は、違う人になったの?」
「いいえ」
女三宮は答えた。
「前と同じ私です」
「髪が違う」
「髪は違います」
「母上は母上?」
「そうです」
薫は安心したように頷いた。
「それならよかった」
◇
女三宮の邸には、のちに白い猫がもう一匹住みついた。
どこから来たのか分からない。
庭の隅で痩せて鳴いていたのを、薫が見つけた。
「飼ってもよい?」
薫は母へ尋ねた。
女三宮は猫を見た。
雪とは似ていなかった。
白い毛は汚れ、片方の耳が少し欠けている。
「薫が世話をするのであれば」
「する」
「食事も?」
「うん」
「水も?」
「うん」
「嫌がっているときは、抱かないことも?」
薫は少し迷った。
「できる」
「では、猫にも尋ねてみましょう」
二人は少し離れて座った。
薫が手を差し出す。
猫はすぐには近づかなかった。
逃げもしなかった。
長いあいだ、こちらを見ていた。
「待つの?」
薫が小声で尋ねる。
「猫が決めるまで」
女三宮は答えた。
夕暮れが近づいた。
庭へ長い影が伸びる。
やがて白猫は、ゆっくりと薫のほうへ歩いてきた。
差し出された指の匂いを嗅ぐ。
それから、小さく頭を押しつけた。
薫は顔を輝かせた。
「よいって」
「そうかもしれませんね」
「名は、何にしよう」
女三宮は笑った。
「薫が選びなさい」
「白くて丸いから、もち」
「もち、ですか」
「だめ?」
女三宮は、昔の父と同じように、見たままだと言いそうになった。
けれど、言わなかった。
薫が選んだ名だった。
「よい名です」
白猫は薫の膝へ乗った。
女三宮は、その様子を見つめた。
かつて一匹の猫が御簾を引いたために、女三宮の人生が壊れたと、人々は語った。
けれど、猫はただ紐にじゃれただけだった。
女三宮を見たのは柏木である。
拒絶を無視したのも。
御殿へ忍び入ったのも。
娘の言葉を聞かなかったのは、父と夫だった。
猫ではない。
女三宮は、白猫を不幸の始まりにはしなかった。
猫を愛したことも。
琵琶を弾いたことも。
御簾の内にいたことも。
声を上げたことも。
子を産んだことも。
どれ一つ、自分の罪にはしなかった。
庭では、白い萩が揺れていた。
薫の膝で、猫が喉を鳴らしている。
「母上」
「何です」
「もちは、ここが好きかな」
女三宮は、猫を見た。
猫は丸くなり、目を閉じようとしている。
「今は、ここにいたいのでしょう」
「ずっと?」
「それは、もちが決めます」
薫は少し考え、頷いた。
「では、今日、いてくれたらいいな」
女三宮も頷いた。
「ええ」
今日、ここにいる。
明日のことは、明日選ぶ。
誰かの愛に囲われるのではなく。
誰かに守られる名のもとで、言葉を奪われるのでもなく。
女三宮は、自分で選んだ邸にいた。
自分で選んだ教えを守り。
自分で選んだ子を育て。
自分で選ぶことを教えながら。
夕暮れの風が、御簾を揺らした。
白猫は目を開けた。
けれど紐へ飛びつくことはなく、薫の膝の上で、もう一度静かに目を閉じた。




