↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/19

萩声

【原作では】

軒端荻は、伊予介の娘で、空蝉の継娘にあたる若い女性です。

空蝉を求めて寝所へ忍び込んだ光源氏は、空蝉に逃げられ、そこに眠っていた軒端荻を空蝉と取り違えます。

源氏は人違いに気づいた後も軒端荻と契りを結び、彼女はのちに蔵人少将と結婚します。

軒端荻が光源氏を嫌いになったのは、彼が自分を空蝉と間違えたからではなかった。

違う女だと気づいたあとも、立ち去らなかったからである。


その夜、軒端荻は空蝉と並んで碁を打っていた。

夏の終わりの風が、軒近くの荻を揺らしていた。葉と葉が触れ合うたび、乾いた音が室内まで聞こえてくる。

空蝉は黒石を持ち、長く盤面を見つめていた。


「まだ、お決まりにならないのですか」


軒端荻が笑うと、空蝉は困ったように眉を寄せた。


「あなたは、考えずに置くのが早すぎます」


「考えております」


「どのあたりを?」


「置いてから考えます」


「それは、考えたことになりません」


二人のそばで、女房たちが笑った。

軒端荻は空蝉とは違い、物静かな女ではなかった。

笑えば歯が見えた。

驚けば声を上げた。

碁に負ければ、相手の打ち方が意地悪だと文句を言った。


都の姫君としては、少し慎みが足りないと言われることもある。

だが、その夜の軒端荻は機嫌がよかった。

空蝉を追い詰め、あと数手で勝てると思っていたからである。


「今夜は、私の勝ちです」


「まだ終わっておりません」


「終わったも同じです」


「それを申すと、負けますよ」


空蝉の言葉どおり、そのあと軒端荻は不用意な一手を置いた。


「あ」


「もう遅うございます」


空蝉は静かに白石を置いた。

盤面の形が一度に変わる。


「今のは、なしです」


「なぜ?」


「今、女房が咳をしたので、気が散りました」


「誰も咳などしておりません」


「庭の虫です」


「では、虫をお責めなさい」


女房たちがまた笑った。

その様子を、几帳の隙間から光源氏が見ているとは、二人とも知らなかった。


◇


夜が深くなり、軒端荻は先に横になった。


空蝉は、源氏が近くにいることへ気づいた。

どうして忍び込めたのか。

誰が手引きをしたのか。

問いただしている時間はなかった。

空蝉は薄衣一枚を残し、暗い部屋から逃れた。


源氏は、空蝉が眠っていると思った場所へ入った。

そこにいたのは、軒端荻だった。

眠りから覚めた軒端荻は、初め、何が起きたのか分からなかった。

男は自分を親しく知る女のように扱った。


「ようやく会えました」


その声には、抑えきれない思いがあった。

けれど、その思いは軒端荻へ向けられたものではない。


男が呼んだ名は、自分の名ではなかった。

軒端荻は身を引いた。


「どなたです」


男は答えなかった。


暗闇の中で、軒端荻の顔へ触れようとした。

その手が一瞬止まった。

違う女だと気づいたのだ。

軒端荻には分かった。


気づいた。それなのに、男は帰らなかった。


軒端荻は拒んだ。

名を尋ねた。人を呼ぼうとした。

しかし男は、声を上げれば軒端荻自身が恥をかくことになると知っていた。


その夜、軒端荻の言葉は、何一つ聞かれなかった。


◇


男が去ったあと、室内には空蝉の薄衣が残されていた。


軒端荻はそれを拾い上げた。

空蝉の香がした。

自分は、初めから求められていなかった。

その事実に傷ついたのではない。


求めていた女ではないと知りながら、そこにいる女で済ませた。

そのことが、何より許せなかった。


空蝉が戻ってきたのは、夜明け前だった。

軒端荻は、薄衣を膝の上へ置いて待っていた。

空蝉は衣を見ると、足を止めた。


「軒端荻」


「光源氏様だったのですね」


空蝉の顔から血の気が引いた。


「なぜ、その名を」


「御自分でお名乗りにはなりませんでした」


軒端荻は言った。


「けれど、あなたの衣を持っていかれた方なら、ほかにはいないでしょう」


空蝉は、その場へ座った。


「申し訳ございません」


「何がです」


「私が逃げたために」


「お逃げになったことは、悪くございません」


軒端荻はすぐに答えた。

自分でも驚くほど、声は静かだった。


「あなたも、望んでおられなかったのでしょう」


「はい」


「ならば、逃げるのは当然です」


空蝉は目を伏せた。


「けれど、あなたを残しました」


「あなたが私を、代わりに差し出したのではございません」


軒端荻は、空蝉の薄衣を差し出した。


「違う女だと気づきながら、止まらなかった方が悪いのです」


空蝉の目から、涙がこぼれた。

軒端荻は泣かなかった。

泣き始めれば、自分の身体が自分のものでなくなったように感じてしまいそうだった。


だから、薄衣を空蝉へ返し、乱れた自分の衣を整えた。


「私は、あの方へ文を送りません」


「もちろんです」


「思い出して、恋しく思ったりもしません」


「はい」


「もし向こうから文が来ても、返しません」


空蝉は頷いた。

軒端荻は、ようやく少し泣いた。

悔し涙だった。


◇


光源氏から最初の文が届いたのは、三日後だった。


上等な薄紫の紙。

心を落ち着かせる香。

流れるような美しい文字。

思いがけず結ばれた縁を、忘れることができない。

軒端荻の面影が、今も心から離れない。


そのような言葉が書かれていた。

軒端荻は、文を最後まで読まなかった。


「お返事は?」


使いの者が尋ねた。


「ございません」


「せめて、受け取ったとだけでも」


「受け取っておりません」


軒端荻は文を返した。

使いは困り果てた。

源氏からの文を、開いたまま返す女など、ほとんどいない。

二通目も返した。

三通目は、封を切らなかった。

四通目には、珍しい香が添えられていた。

軒端荻は香だけを女房へ与え、文は返した。


「香はお受け取りになるのですか」


空蝉が尋ねた。


「香に罪はございません」


「源氏の君は、受け取られたと思うでしょう」


「文は返しました」


軒端荻は香を嗅いだ。


「それに、よい香でございます」


空蝉は一瞬呆れた顔をし、それから笑った。

軒端荻も笑った。

笑えることが、少し嬉しかった。


◇


初めのうち、光源氏は軒端荻の拒絶を深刻には受け取らなかった。


恥じているのだろう。

怒っていても、やがて心は解ける。

女は強く拒むほど、内心では思いを深めていることもある。

源氏は、そのように考えた。


しかし、何通文を送っても返事はない。


歌を送っても。

衣を贈っても。

珍しい菓子を届けても。

物だけは受け取られたが、返歌はなかった。


「菓子は召し上がったそうです」


惟光が報告した。


「文は?」


「そのまま戻されました」


源氏は眉を寄せた。


「では、菓子だけを?」


「たいそうおいしかったと、女房へおっしゃったとか」


「それだけか」


「それだけです」


源氏は、しばらく黙った。

怒っている女ならば、贈り物もすべて返すと思っていた。

恋しい女ならば、文へ何かしら応えるだろう。


軒端荻は、源氏の思い描いたどちらの女にもならなかった。

その態度が、源氏には不可解だった。


◇


軒端荻には、以前から婚姻の話があった。

相手は蔵人少将という若い公達だった。

家同士が進めていた縁である。

少将は身分こそ源氏には及ばなかったが、若く、健康で、何よりよく食べる男だった。


最初の文には、秋の月を眺めながら、まだ見ぬ軒端荻を思うという歌が書かれていた。

軒端荻は返事を書いた。


私の顔を御存じないのに、月のどのあたりが私に似ているのでしょう。


少将からの返事は、翌朝届いた。


顔が似ているとは申しておりません。

月を見て、婚姻の相手となる方のことを考えただけです。


「面白くない返事ですね」


軒端荻が言うと、空蝉は笑った。


「正直ではございます」


軒端荻は、もう一通書いた。


では、月でなくともよかったのですね。


少将は答えた。


はい。庭の柿を見ても、あなたのことを考えました。


軒端荻は声を上げて笑った。


私は、月より柿に似ているのでしょうか。


まだ御顔を知らないため、どちらとも申せません。


「ますます面白くありません」


軒端荻は言いながら、また笑った。

源氏の文は、どれも美しかった。

一行を読むだけで、心を奪われる女がいるのも分かる。


蔵人少将の文は、美しくなかった。

言葉を選びすぎて、かえって何を言いたいのか分からなくなることもあった。

けれど、軒端荻が尋ねたことには答えた。


月か柿かと聞けば、柿かもしれないと答えた。

それが軒端荻には新鮮だった。


◇


二人は御簾を隔てて、何度か話すようになった。


最初の日、少将は緊張のあまり、ほとんど口を利かなかった。

軒端荻は待ちきれずに尋ねた。


「文では、柿のことまでお書きになったのに、今日は何もおっしゃらないのですね」


「直接お話しするのは、慣れておりません」


「女君へ文を送るのは、慣れておられるのですか」


「それほどでも」


「それほどとは、何人ほど?」


少将が咳き込んだ。


「軒端荻様は、何でもお尋ねになるのですね」


「尋ねなければ、分かりませんから」


「分からないままにしておくことも、風情では?」


「都の男君は、分からないことを風情と呼びすぎます」


少将は、しばらく黙ったあと、笑った。


「私も、そのように思うことがございます」


「御自分で曖昧な文をお書きになるのに?」


「書かねば、教養がないと思われます」


「今の文も、あまり教養があるようには見えませんでした」


「ひどい方ですね」


「初めは月、次は柿でしたから」


二人は言い争いながら、その日、思ったより長く話した。


◇


少将は、軒端荻が碁を好むと知ると、一局打ちたいと言った。


「お強いのですか」


「得意です」


実際には、それほどでもなかった。

初めの数手は慎重だったが、軒端荻が石を置くたびに迷い始めた。


「そこへ置くのですか」


少将が言う。


「はい」


「何か、企んでおられますね」


「碁ですから」


「もっと別のところがよいのでは?」


「では、そちらへ置けばよろしいでしょう」


軒端荻は、少将が指した場所へ白石を置いた。

しばらくして、少将の黒石が大きく取られた。


「今のは、私が教えた場所では」


「はい」


「なぜ、私が負けるのです」


「御自分の石を見ずに、私へ教えるからです」


少将は盤を見つめた。


「もう一度」


「負けをお認めになるのなら」


「まだ終わっておりません」


「終わったも同じです」


かつて空蝉へ言ったのと同じ言葉だった。

軒端荻は、自分で気づいて笑った。

少将も笑った。


その日、二人は三局打ち、軒端荻が二度勝った。

少将は一度勝っただけなのに、最後には五分の勝負だったと言い張った。


「三局で一勝なら、負け越しです」


「最後に勝った者が強いのです」


「そのような決まりはございません」


「今、決めました」


「勝手な方ですね」


「軒端荻様にだけは、言われたくありません」


一緒にいると、自分が明るい女を演じる必要はなかった。

笑いたければ笑う。

黙りたければ黙る。

腹が立てば、その場で言う。

少将は軒端荻のすべてを理解したわけではない。

けれど、理解しているふりをしなかった。

それが心地よかった。


◇


軒端荻が蔵人少将と親しくしているという噂は、やがて源氏の耳にも届いた。


「近く婚姻されるとか」


惟光が言った。

源氏は、何でもないように頷いた。


「以前から決まっていた縁だろう」


「そのようでございます」


「軒端荻は、喜んでいるのか」


「よく文を交わしておられるそうです」


「返事を?」


源氏の声が、わずかに変わった。


「少将殿へは、すぐに御返事をなさるとか」


源氏は黙った。

自分の文は、開かれずに戻される。

蔵人少将の拙い歌には、すぐに返事を書く。


なぜなのか。

歌の美しさでは、比べるまでもない。

身分も、容姿も、才も、自分が勝っている。


「どのような返事をしているのだ」


「そこまでは」


「調べよ」


惟光は、少し驚いて源氏を見た。

源氏自身も、自分がなぜそれほど気になるのか分からなかった。

初めは、ただ自尊心が傷ついただけだった。

空蝉には逃げられた。

軒端荻にも拒まれた。

姉妹のように暮らす二人の女が、どちらも自分を選ばない。

それが気に入らなかった。


けれど、軒端荻のことを聞くうち、別の思いが生まれ始めた。

碁に勝てば声を上げて喜ぶ。

負ければ相手の打ち方へ文句を言う。

気取った文には、なにも返さない。

珍しい菓子は喜んで食べる。

源氏があの夜に見ようとしなかった一人の女が、自分の知らない場所で笑っている。

その笑い声を、一度も自分へ向けてくれない。


源氏は、軒端荻自身を知りたいと思うようになった。


◇


源氏から届く文が変わった。

以前のような、忘れられないという美しい言葉ではなかった。


好きな花は何か。

何をしているときが楽しいのか。

碁は本当に強いのか。

蔵人少将の文の、どこが面白いのか。

軒端荻は、どの問いにも答えなかった。


「以前より、軒端荻様御自身を知ろうとしておられるようです」


女房が言った。


「そうですね」


「少しは、お心が動きませんか」


軒端荻は、源氏の文を畳んだ。


「いいえ」


「源氏の君が、これほど一人の女君を知ろうとなさるのは、珍しいことでしょう」


「珍しいことなら、喜ばなくてはならないのですか」


女房は口を閉じた。

軒端荻は、文を使いへ返した。

源氏が変わったことは分かった。

初めて、自分を空蝉の代わりではなく、軒端荻として見ようとしている。

けれど、それは源氏の心の変化である。

軒端荻が喜ぶ義務はなかった。


◇


ある日、蔵人少将が源氏の文のことを知った。

どこから噂が入ったのか、少将はいつもより硬い声で尋ねた。


「源氏の君から、文が届いているのですか」


「届いております」


軒端荻は隠さなかった。


「返事は?」


「しておりません」


「なぜ、源氏の君があなたへ文を」


軒端荻は黙った。

すべてを話したいわけではなかった。

源氏と関わりがあったことを知れば、少将は自分をどのように見るだろう。


源氏に愛された女。

源氏に捨てられた女。

あるいは、夫となる男へ隠し事をした女。


「答えたくございません」


軒端荻は言った。

少将の顔が強張った。


「私には、話せないことですか」


「今は」


「源氏の君には話せて、私には?」


軒端荻は、御簾の内で立ち上がった。


「今日は、お帰りください」


「軒端荻様」


「あなたも、私を源氏の君との関わりだけで見るのであれば、婚姻はいたしません」


少将は黙った。

怒るかと思った。

誰と何があったのか、答えるまで帰らないと言うかもしれない。

だが、しばらくして少将は言った。


「申し訳ございません」


軒端荻は立ったまま、御簾の向こうを見た。


「私は、源氏の君に負けたくないと思いました」


少将は続けた。


「何も知らないのに、勝ち負けの話にしました」


「私は、誰かの勝ち取る品ではございません」


「はい」


少将の声は沈んでいた。


「今日は帰ります」


それだけ言い、少将は帰った。

翌日、短い文が届いた。


話したくないことは、話さなくてよいと思います。

ただ、私がまた勝ち負けを申したときは、すぐに叱ってください。


軒端荻は、文を読み、少し笑った。

すぐには返事をしなかった。


夕方になってから、こう書いた。


叱るだけでよろしいのですか。

碁を一局、負けていただきます。


少将からは、


それは重すぎる罰です。


と返ってきた。


◇


軒端荻が源氏へ会うことを決めたのは、婚姻の日取りが決まったあとだった。

源氏は、最後に一度だけ話したいと願っていた。

文で拒めば、また別の意味を読み取るかもしれない。

軒端荻は、自分の声で終わらせたいと思った。


夜ではなく、昼を選んだ。

源氏が訪れた部屋には、几帳が立てられていた。

けれど燈台も置かれ、室内は明るかった。

あの夜のように、顔も分からない暗闇ではない。


源氏は御簾の外へ座った。


「お会いいただけるとは思いませんでした」


「一度、直接申し上げたかったのです」


源氏は少し黙った。


「私は、あなたにひどいことをした」


軒端荻は答えなかった。


「初めは、空蝉の方だと思った」


「存じております」


「違うと分かったあとも、私は」


源氏は言葉を止めた。


「御自分の誤りを認めるのが、恥ずかしかったのでしょう」


「それだけではない」


「では、先に私を御覧になっていたから、構わないと思ったのですか」


源氏は顔を伏せた。


否定しないことが、答えだった。


「私は長く、あなたを空蝉の方の代わりとして見ていた」


「はい」


「けれど、今は違う」


源氏は顔を上げた。


「今は、あなた自身を思っている」


庭で荻が鳴った。

軒端荻は、その音を聞いた。


あの夜から、源氏に言いたかったことは幾つもあった。

怒り。恥ずかしさ。恐怖。悔しさ。

けれど今、胸の中は不思議なほど静かだった。


「あなたが、ようやく私を御覧になったことは分かりました」


軒端荻は言った。

源氏の顔に、わずかな希望が浮かんだ。


「けれど、それは私があなたを好きになる理由にはなりません」


希望が消えた。


「私は、償いたいと思っている」


「私を妻の一人になさることが、償いでしょうか」


「そのような意味では」


「では、何をお望みなのです」


源氏は答えなかった。


軒端荻が自分を許すこと。

いつか心を開くこと。

源氏の思いを受け入れること。

それらを望んでいるのだろう。


「源氏の君」


軒端荻は言った。


「あなたは、手に入らない女をお好きになるのですね」


源氏の眉が動いた。


「空蝉様が逃げれば追い、私が返事をしなければ、私を知りたいと思われる」


「あなたへの思いは、そのようなものでは」


「では、私が初めから喜んで文を返していたら、これほど思ってくださいましたか」


源氏は答えられなかった。


「私は、あなたに愛され続けるために、逃げ続けるつもりはございません」


軒端荻は、御簾越しに源氏を見た。


「私があなたを拒むことを、恋の一部になさらないでくださいませ」


外から風が入り、御簾がわずかに揺れた。


「あなたは今、私を見ておられるのでしょう」


「はい」


「ならば、私の言葉を聞いてください」


軒端荻は、はっきりと言った。


「私は、あなたを選びません」


源氏は、長いあいだ動かなかった。

やがて、深く頭を下げた。


「分かりました」


その声に、言い訳はなかった。


「今度こそ、聞きます」


源氏は立ち上がった。

去り際、振り返ることはしなかった。

軒端荻も、呼び止めなかった。


◇


婚姻の前夜、軒端荻は蔵人少将へ一通の文を書いた。


あなたへ、話しておきたいことがございます。


以前、私は望まぬ形で、光源氏様と関わることになりました。

詳しくお話しすることは、まだできません。


それでも婚姻を望まれるか、今一度お考えください。


返事は、なかなか来なかった。

軒端荻は覚悟した。

少将が断ったとしても、責めるつもりはなかった。

ただ、その場合には婚姻せず、自分の暮らしを考えようと思った。


夜が深くなった頃、少将から文が届いた。


すぐに返事をすれば、何も考えなかったように見えると思い、遅くなりました。


私は嫉妬しております。

源氏の君の名を聞けば、今も腹が立ちます。


ですが、それは私の心の問題です。

あなたを責める理由にはなりません。


婚姻を望みます。

ただし、あなたが私を選んでくださるならば。


軒端荻は文を読み終えると、空蝉へ渡した。


「どう思われますか」


空蝉は、少し笑った。


「やはり正直な方ですね」


「嫉妬していると、わざわざ書いております」


「嫉妬していないふりをして、あとで責める方よりよろしいでしょう」


「それは、そうですが」


軒端荻は、もう一度文を読んだ。


少将は、自分を救うとは書かなかった。

過去を忘れさせるとも。

何があっても信じるという、美しい誓いもない。


嫉妬する。

腹も立つ。

けれど、それを軒端荻の責任にはしない。

その不完全さが、かえって信じられた。


軒端荻は返事を書いた。


私もあなたへ腹を立てることが、多くあると思います。

それでもよろしければ、婚姻いたしましょう。


返事はすぐに来た。


すでに何度も腹を立てられておりますので、今さらでございます。


軒端荻は、声を立てて笑った。


◇


婚姻後の暮らしは、歌物語のようには進まなかった。


少将は、帰ると約束した夜に遅れることがあった。

軒端荻は、少将が大切に取っておいた菓子を勝手に食べた。

少将は碁に負けると、盤が傾いていたと言い張った。


軒端荻は怒ると早口になり、少将は話についていけなくなった。


「一度に一つずつ、おっしゃってください」


「腹を立てているときに、順序よく話せるものですか」


「では、少し待ちます」


「待たれると、さらに腹が立ちます」


「どうすればよいのです」


「それを一緒に考えるのが、夫でしょう」


「難しい役目です」


少将はため息をついた。

それでも、翌日には二人で考えた。

怒っているときは、まず最後まで話す。


「今後のためです」


「それは恐ろしい」


そのような話をしているうち、いつの間にか笑っていた。


軒端荻は、源氏から受けた傷を忘れたわけではなかった。

突然、夜が怖くなることもあった。

誰かの足音に、身体が強張る日もあった。


少将は初め、どうすればよいか分からなかった。

腕を伸ばして抱こうとし、軒端荻に強く拒まれたこともある。


「触れないでください」


少将はすぐに手を引いた。


「分かりました」


理由を尋ねなかった。

少し離れたところへ座り、軒端荻の呼吸が落ち着くまで待った。


翌朝、軒端荻が謝ろうとすると、少将は言った。


「嫌なものを嫌だと言っただけでしょう」


その言葉に、軒端荻は初めて少将の前で泣いた。

少将は、泣いている理由を分かったとは言わなかった。

ただ、そばにいてよいかと尋ねた。

軒端荻が頷いてから、隣へ座った。


◇


ある秋の夜、光源氏から一通の文が届いた。

婚姻を祝う言葉とともに、一首の歌が書かれていた。


忘れじと思ひし荻の秋風に

今はわが袖ぞ露けかりける


忘れられないと思った荻は、別の家の軒で秋風に鳴っている。

今では、源氏自身の袖が涙で濡れている。


軒端荻が文を読んでいると、少将が横から覗き込んだ。


「源氏の君からですか」


「はい」


少将の顔が、わずかに不機嫌になった。


「よい歌ですね」


「そうですか」


「歌だけは、お上手です」


「歌だけは、とは随分な言い方ですね」


「御返事をなさるのですか」


軒端荻は少し考えた。


「してもよろしいですか」


少将は眉を寄せた。


「なぜ、私に尋ねるのです」


「夫ですから」


「あなたへ届いた文でしょう」


少将は言った。


「御自分でお決めください」


「嫉妬なさらないのですか」


「いたします」


「それでも?」


「嫉妬しているからといって、あなたの返事を決める理由にはなりません」


軒端荻は笑った。


「以前と同じことをおっしゃいますね」


「忘れると叱られますから」


軒端荻は筆を取った。


浦風になびきし荻は根をしめて

今はわが軒の秋の音聞く


かつては、海辺を渡る風に吹かれるまま揺れていた荻。

今は自分の根を張り、自分で選んだ家の軒で秋の音を聞いている。


少将が横から読んだ。


「わが軒とは、この家ですか」


「ほかに、どこがございます」


「私の家ではなく?」


軒端荻は筆を置いた。


「私たちの家です」


少将は満足そうに頷いた。


「よい歌です」


「源氏の君の歌と、どちらが?」


「それは」


少将は迷った。


「正直にお答えください」


「源氏の君のほうが、少し」


軒端荻は、そばにあった扇で少将の肩を打った。


「痛い」


「私の歌を褒めたのではなかったのですか」


「よい歌と、一番よい歌は違います」


「もう一度、碁で決めます」


「歌の優劣を、なぜ碁で?」


「私が勝てるからです」


「それでは、初めから勝負になりません」


二人が言い争っているうちに、女房が菓子を運んできた。

皿には、栗を使った小さな菓子が五つ並んでいた。


少将が二つ取る。

軒端荻も二つ取った。

残りは一つ。


二人は同時に手を伸ばした。


「それは、私のものです」


少将が言う。


「なぜ?」


「昨日、軒端荻が私の分を食べました」


「昨日は昨日です」


「昨日のことを、遡って責めないという約束は?」


「つい最近のことです」


「では、碁で決めましょう」


「また碁ですか」


「もしかして、負けるのが怖いのですか」


「受けて立ちます」


源氏への返歌は、女房の手で届けられた。

軒端荻は、使いが門を出るところを見なかった。

少将と碁盤を挟み、最後の菓子をどちらが食べるかという、きわめて大切な勝負を始めていたからである。


◇


源氏は軒端荻の歌を、長いあいだ手元へ置いた。


自分のもとへなびかなかった女。

手に入らなかったからこそ美しいのではなく、源氏の知らない場所で、自分の暮らしを選んだ女。

それ以降、源氏が軒端荻へ文を送ることはなかった。

彼女の拒絶を、ようやく恋の駆け引きではなく、拒絶として受け取ったのである。


軒端荻も、源氏を許したとは言わなかった。

憎み続けるとも決めなかった。

源氏が自分を思っていることを、勝利として大切に抱えることもしなかった。

振った男に思われ続けることより、今、目の前にいる人と笑えることのほうが大切だった。


◇


秋が深まり、庭の荻は日に日に色を薄くした。

風が吹くたび、軒近くで葉が鳴った。


少将は碁盤の前で頭を抱えている。

軒端荻が置いた白石によって、黒石の大半が囲まれようとしていた。


「今の一手を、戻していただけませんか」


「なぜです」


「妻には、夫を立てる心が必要です」


「夫には、妻の強さを認める心が必要です」


「そのような教えは聞いたことがありません」


「今、私が作りました」


少将は盤を見つめた。


「では、負けた者は何をするのです」


「明日の菓子を買ってください」


「家の金で?」


「御自分の分から」


「それは厳しい」


「勝てばよろしいのです」


軒端荻は白石を置いた。

勝負が決まった。


「私の勝ちです」


少将は盤を見た。


「最後に確認したいのですが」


「何です」


「盤は、傾いておりませんか」


軒端荻は笑った。


庭の荻も、風に揺れて鳴った。

かつて、軒端荻の声は暗い部屋で聞かれなかった。


嫌だという声も。

自分は別の女だという声も。

けれど今は、誰かの代わりとしてではなく、自分の名で笑い、怒り、尋ね、選んでいた。


荻は、風が吹くから鳴る。

けれど、その音は風だけのものではない。

地に根を張った荻が、そこにあるから生まれる。


軒端荻は、もう誰かの風を待ってはいなかった。

自分で選んだ軒の下で。

自分の暮らしの中で。

笑い声を、秋の庭いっぱいに響かせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。