藤影
【原作では】
藤壺は、先帝の皇女で、亡き桐壺更衣によく似ていることから桐壺帝の女御として入内し、深い寵愛を受けます。
母の面影を重ねて藤壺を慕っていた光源氏は、やがて恋心を抱くようになり、二人の間には皇子が生まれます。
皇子は桐壺帝の子として育てられ、のちに冷泉帝となりますが、その出生の秘密を抱えた藤壺は、桐壺帝の死後に出家します。
藤壺は、自分の顔が亡き桐壺更衣に似ていると言われるたび、少しずつ姿を失っていった。
初めてその言葉を聞いたのは、宮中へ入る前だった。
先帝の皇女として育った藤壺のもとへ、桐壺帝から入内を望む使者が来た。
使者は、彼女を喜ばせようとしたのだろう。
「亡き桐壺更衣様に、生き写しでいらっしゃるとか」
そう言った。
藤壺は、桐壺更衣に会ったことがない。
帝の深い寵愛を受けながら、ほかの妃たちの嫉妬に苦しみ、若くして亡くなった女性。
美しく、優しく、儚かった人。
それだけを聞いていた。
「どこが似ているのでしょう」
藤壺が尋ねると、使者は答えに迷った。
「御顔立ちも、御様子も」
「御様子をご存じなのですか」
「いえ、わたくしは直接には」
使者は口ごもった。
似ているという噂だけが、先に都を巡っていた。
まだ帝と会ってもいないうちから、藤壺は亡くなった女の面影になっていた。
◇
入内した藤壺を、桐壺帝は深く愛した。
初めて対面した夜、帝は長いあいだ彼女の顔を見つめていた。
「本当によく似ている」
最初の言葉が、それだった。
藤壺は、どう答えればよいか分からなかった。
喜べばよいのだろうか。
死者に似ていることで愛されるのを、光栄に思うべきなのか。
「更衣様は、どのような方でいらしたのですか」
藤壺は尋ねた。
帝の顔に、懐かしさと悲しみが浮かんだ。
「優しい人だった」
「はい」
「心が細やかで、何事にも控えめで」
「はい」
「人を責めることを知らなかった」
帝は、亡き人の話を長く続けた。
藤壺は黙って聞いた。
その夜、帝が見ていたのは自分ではない。
そのことは、よく分かった。
それでも藤壺は、帝を嫌いにはならなかった。
帝は穏やかで、教養が深く、藤壺を粗末には扱わなかった。
亡き更衣の面影として始まった寵愛も、時がたてば自分自身へ向けられるかもしれない。
藤壺はそう思った。
あるいは、そう思わなければ、宮中で生きていけなかった。
◇
桐壺帝には、亡き更衣との間に一人の皇子がいた。
光る君と呼ばれた少年である。
のちの光源氏だった。
藤壺より五歳ほど年下で、まだ元服前だった。
初めて藤壺の姿を見たとき、少年は立ち尽くした。
「母君に、似ていらっしゃる」
父と同じことを言った。
藤壺は微笑んだ。
「私は、あなたの母君ではございません」
「分かっています」
少年は答えた。
けれど、その目は、藤壺の向こうに別の人を見ていた。
桐壺帝は、二人が親しくすることを喜んだ。
「藤壺を母と思って、甘えるとよい」
帝は源氏へ言った。
「この人も、そなたを我が子のように思ってくれるだろう」
藤壺には、何も尋ねなかった。
源氏の母になるつもりがあるか。
亡き女性の代わりとして少年を慰めたいか。
藤壺がまだ若く、自分自身も宮中の暮らしに慣れていないことなど、誰も考えなかった。
藤壺は、源氏へ優しく接した。
少年に罪はない。
母を失った寂しさも理解できた。
歌を見せられれば褒めた。
書を教えてほしいと言われれば、手本を選んだ。
けれど、源氏が成長するにつれ、その眼差しは変わった。
母を慕う少年の目ではなくなった。
藤壺は、それに気づいていた。
気づきながら、気づかないふりをした。
◇
源氏が初めて藤壺の御殿へ忍び入った夜、彼女は声を上げることができなかった。
相手は帝の最愛の皇子である。
高い身分を持ち、誰からも愛されている。
藤壺が人を呼べば、何が起こるか。
源氏が罰せられるのか。
藤壺が男を招いたと疑われるのか。
桐壺帝はどう思うのか。
宮中は、どれほど騒ぐのか。
あまりにも多くのことが、一瞬のうちに胸へ押し寄せた。
「お帰りください」
藤壺は何度も言った。
源氏は、長年の思いを語った。
母の面影としてではない。
藤壺自身を愛しているのだと。
けれど、藤壺には分かっていた。
源氏が恋しているのは、藤壺でありながら藤壺ではない。
失った母。
父のもの。
決して手に入れてはならない高貴な女性。
そのすべてが重なって作られた、源氏の心の中の藤壺だった。
「私を御覧ください」
藤壺は言った。
「見ております」
源氏は答えた。
「いいえ」
藤壺は首を振った。
「あなたは、御自分の心だけを御覧になっています」
その言葉も、届かなかった。
◇
源氏が去ったあと、藤壺は長いあいだ動けなかった。
そばには王命婦が控えていた。
源氏を御殿へ通す手助けをした女房だった。
「宮様」
王命婦が声をかける。
藤壺は振り返った。
「なぜ、あの方をお通ししたのです」
「源氏の君が、あまりに深く思っておられましたので」
「思いが深ければ、何をしてもよいのですか」
王命婦は顔を伏せた。
「宮様にも、少しは御心があるのかと」
藤壺は何も答えられなかった。
源氏をまったく憎んでいたわけではない。
幼い頃から知っている。
才があり、美しく、寂しさを抱えた人でもある。
その心へ、哀れみを感じたこともあった。
けれど、哀れんだことと、望んだことは同じではない。
優しくしたことと、部屋へ入ることを許したことも。
「王命婦」
藤壺は言った。
「今後、私の許しなく、誰もこの御殿へ通してはなりません」
「はい」
「源氏の君であっても」
王命婦は一瞬ためらった。
「帝の皇子でいらっしゃいます」
「ここは、私の御殿です」
藤壺は答えた。
「私の許しが必要です」
それは、藤壺が宮中へ入って以来、初めて自分の場所について下した命令だった。
◇
しばらくして、藤壺は子を宿していることに気づいた。
最初に感じたのは、喜びではなかった。
恐怖だった。
桐壺帝は、長く藤壺の懐妊を願っていた。
知らせを聞けば、心から喜ぶだろう。
宮中の誰も、子の父を疑わないかもしれない。
しかし、生まれた子が源氏に似ていたら。
誰かが気づいたら。
源氏自身が、子を自分のものと思ったら。
藤壺は、腹へ手を置いた。
まだ何も動かない。
この子は、宮中の秘密として生まれる。
生まれた瞬間から、誰かの罪と恐れを背負わされる。
藤壺は、それを受け入れたくなかった。
だからといって、子を失いたいとも思わなかった。
「宮様」
王命婦が、心配そうに藤壺を見ていた。
「帝へ、お知らせいたしますか」
藤壺はすぐに答えられなかった。
「源氏の君へは?」
「知らせません」
「ですが」
「知らせません」
藤壺は繰り返した。
「この子を、あの方との秘密の証にはいたしません」
◇
懐妊を知った桐壺帝は、喜びに涙を流した。
藤壺の御殿へ何度も足を運び、身体を案じた。
珍しい果物。
薬。
安産の祈祷。
あらゆるものを用意した。
「男の子であればよい」
帝は言った。
「藤壺によく似た皇子が生まれれば」
藤壺は微笑んだ。
そのたびに、胸の中の秘密が重くなった。
帝は、子を愛している。
まだ生まれていないうちから。
その愛が真実であるほど、藤壺には耐えがたかった。
夜ごと、眠れなくなった。
食事も取れなくなった。
女房たちは、懐妊のためだと思っていた。
「このままでは、御身体に障ります」
王命婦が言った。
「宮様が倒れられては、御子も」
藤壺は、自分の腹を見た。
黙り続ければ、安全なのだろうか。
秘密を守れば、帝も源氏も、子も、表向きは傷つかない。
傷つくのは藤壺だけで済む。
それが、最も穏当な道に思えた。
けれど藤壺は、桐壺更衣のことを思い出した。
誰も責めず。
何も求めず。
帝に愛されながら、静かに衰えていった女性。
藤壺が知っている桐壺更衣は、帝の記憶の中にしかいない。
本当は、何を望んでいたのだろう。
宮中を出たかったのか。
帝へ、守ってほしいと言いたかったのか。
生きたいと、声に出したかったのか。
藤壺には分からない。
ただ、自分まで同じように黙って死ぬことはできなかった。
「帝へ、お願いがございます」
ある夜、藤壺は言った。
「誰も同席しない場で、お話ししたいことがございます」
◇
桐壺帝は、すぐに人を退けた。
部屋には藤壺と帝だけが残った。
庭には月が出ていた。
藤の花は、まだ咲いていない季節だった。
「身体の具合が悪いのか」
帝は心配そうに尋ねた。
「はい」
「医師を増やそう」
「医師では、治せないことでございます」
帝の顔から笑みが消えた。
藤壺は両手を膝の上に置いた。
指が震えていた。
「お腹の子について、申し上げなくてはならないことがございます」
帝は黙って聞いていた。
「この子は」
言葉が喉につかえた。
言えば、すべてが終わるかもしれない。
藤壺の地位。
源氏の未来。
生まれてくる子の命。
それでも、言わなくてはならない。
「この子の父は、帝ではございません」
長い沈黙が落ちた。
帝は、藤壺の言葉を理解できなかったようだった。
「何を」
「源氏の君でございます」
帝は動かなかった。
月の光が、白い顔を照らしていた。
「もう一度、申してくれ」
藤壺は繰り返した。
声は、最初よりもはっきりしていた。
「この子の父は、源氏の君です」
帝が立ち上がった。
近くにあった几帳が倒れた。
外の女房たちが身じろぎする気配がしたが、誰も入ってこなかった。
「いつからだ」
帝の声は低かった。
「一度だけでございます」
「一度」
帝は藤壺を見た。
「そなたは、源氏を」
その先を言えなかった。
愛していたのか。
招いたのか。
裏切ったのか。
そのすべてを尋ねようとしたのだろう。
藤壺は逃げずに帝を見た。
「私は、源氏の君を憎んではおりません」
帝の顔が歪んだ。
「では」
「けれど、あの夜のことを望んではおりませんでした」
藤壺は続けた。
「お帰りくださいと申し上げました」
帝は、しばらく何も言わなかった。
「なぜ、人を呼ばなかった」
「呼べば、私が疑われると思いました」
「私が、そなたを疑うと?」
「今、最初に何をお尋ねになりましたか」
帝は息を止めた。
そなたは源氏を愛していたのか。
帝が最初に確かめようとしたのは、藤壺の言葉ではなく、裏切りの有無だった。
「源氏の君は、帝の皇子です」
藤壺は言った。
「私が声を上げれば、誰が私を信じるのか分かりませんでした」
「私は信じた」
「今も、信じておられますか」
帝は答えられなかった。
怒り。嫉妬。悲しみ。
信じたい思い。そして、疑い。
さまざまな感情が、帝の顔をよぎった。
藤壺は頭を下げた。
「御処分は、お受けいたします」
「処分」
「宮中から退けとおっしゃるのであれば」
「その子も連れてか」
「はい」
「源氏の子を産み、育てると?」
帝の声に怒りが戻った。
藤壺も、腹の底から怒りが湧くのを感じた。
「この子は、源氏の君だけの子ではございません」
彼女は顔を上げた。
「私の子です」
「藤壺」
「私の身体の中で育っております」
藤壺は腹へ手を置いた。
「この子を産むか。どのように育てるか。そのことを、源氏の君と帝のお二人だけで決めないでくださいませ」
帝は言葉を失った。
藤壺は続けた。
「私は、帝を欺いたことをお詫びいたします。すぐに申し上げられなかったことも」
声が震えた。
「けれど、私が恐れて黙ったことと、あの夜に起きたことを、同じ罪として扱わないでください」
月が雲に隠れた。
部屋が暗くなった。
帝は、ゆっくりと座り直した。
「私は」
長い沈黙のあと、帝は言った。
「そなたを、桐壺更衣に似ていると思っていた」
「はい」
「同じように優しく、何も責めず、私を愛する女だと」
藤壺は黙って聞いた。
「そなたが何を恐れているか、考えたことがなかった」
帝は両手で顔を覆った。
「また、同じことをしたのかもしれない」
「同じこと?」
「愛していると言いながら、守らなかった」
桐壺更衣のことだった。
寵愛した。何度も召した。
けれど、周囲の嫉妬から守れなかった。
彼女が衰えても、宮中で生きられる形を変えようとしなかった。
藤壺に対しても、愛していると言いながら、亡き女の役を与えた。
源氏の母の役まで。
「今夜は、答えを出せない」
帝は言った。
「当然でございます」
「そなたの顔を見ることも、苦しい」
藤壺の胸が痛んだ。
それでも頷いた。
「分かりました」
「だが」
帝は顔を上げた。
「そなたを罰することも、今はできない」
「はい」
「子を、どうするかも」
「お考えくださいませ」
藤壺は言った。
「ただし、私の知らないところで決めないでください」
帝は、長く藤壺を見つめた。
「分かった」
その夜、帝は藤壺の御殿を去った。
振り返らなかった。
藤壺は一人になった。
すべてを失ったかもしれない。
それでも、胸の奥にあった重い石は、少しだけ軽くなっていた。
秘密はもう、藤壺だけを押し潰すものではなかった。
◇
三日後、源氏は帝に召された。
どのような話が交わされたのか、宮中の者は知らなかった。
外へ漏れたのは、源氏が青ざめた顔で退出したことだけだった。
その日の夕刻、源氏から藤壺へ文が届いた。
すべてを、父上へお話しになったのですね。
藤壺は返事を書かなかった。
すぐに二通目が届いた。
私を、憎んでおられるのでしょうか。
藤壺は、その文にも返事をしなかった。
三通目には、
一度、お会いしてお話ししたい。
とあった。
藤壺は、初めて返事を書いた。
お会いする必要はございません。
あなたが私を愛していたかどうかを、確かめたいとは思いません。
あの夜、私がお帰りくださいと申したことを、覚えておられるかだけをお尋ねします。
源氏からの返事は、すぐには来なかった。
翌日、短い文が届いた。
覚えております。
藤壺は、その一行を長く見つめた。
では、今後はその言葉を守ってください。
私の許しなく、私の御殿へ来ないこと。
私を母の面影と呼ばないこと。
生まれる子を、私たちの恋の証と思わないこと。
この子は、まず私の子です。
源氏は、それ以降、藤壺へ恋文を送らなかった。
◇
桐壺帝が再び藤壺を訪れたのは、一月ほど後だった。
藤壺の腹は、以前より目立つようになっていた。
帝は、しばらく彼女の姿を見た。
「身体は?」
「落ち着いております」
「食事は取れているか」
「はい」
以前のように近くへ寄ることはなかった。
二人の間には、広い距離があった。
「源氏とは話をした」
帝が言った。
藤壺は黙って聞いた。
「しばらく、宮中から遠ざける」
「どちらへ」
「都の外へ出すほどではない。ただ、そなたの御殿にも、宮中の奥にも近づけない」
「はい」
「源氏は、自分がそなたを深く愛していたと言った」
藤壺は目を伏せた。
「そうでございましょう」
帝は意外そうに彼女を見た。
「否定しないのか」
「人は、愛しながら人を傷つけることがございます」
藤壺は答えた。
「愛がなかったと申せば、あの方は御自分のしたことを考えずに済みます」
帝は黙った。
「愛していたから仕方がなかったというのも、違います」
「では、愛とは何なのだろうな」
帝は、疲れたように言った。
藤壺にも分からなかった。
ただ、愛と呼ばれたもののために、一人の女だけが黙って苦しむのは違うと思った。
「子について、決めた」
帝が言った。
藤壺は顔を上げた。
「生まれた子は、私の皇子として育てる」
「帝」
「血が違うことは分かっている」
帝は続けた。
「だが、この子は、私の后から生まれる。私は父として迎える」
「それで、よろしいのですか」
「よいかどうかは、今も分からない」
帝は正直に答えた。
「源氏への怒りも消えていない。そなたへ何も感じないわけでもない」
藤壺の指が、わずかに動いた。
「それでも、生まれてくる子を、私たち三人の罪の形にはしたくない」
帝は藤壺の腹へ目を向けた。
「子には、何の罪もない」
藤壺は、唇を結んだ。
涙が出そうになった。
「ただし」
帝は言った。
「世間へ真実を明かすことはできない」
「はい」
「この子の命と、源氏の立場と、国の安定に関わる」
「分かっております」
「秘密を抱えることになる」
「私一人で抱えるのではございません」
藤壺は答えた。
帝は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
初めて、秘密は二人の間に置かれた。
藤壺の胸の中だけではなく。
男たちだけで処理されるものでもなく。
藤壺自身が話し合いに加わり、条件を決める真実となった。
◇
皇子は、無事に生まれた。
冷泉院と呼ばれることになる子である。
生まれたばかりの顔を見て、女房たちは口々に言った。
「なんとお美しい」
「帝によく似ておられます」
藤壺は、何も答えなかった。
桐壺帝が皇子を抱いた。
腕は少し震えていた。
皇子は目を閉じ、静かに眠っている。
「軽いものだな」
帝が言った。
「生まれたばかりでございますから」
「この小さな身体へ、私たちは随分と重いものを背負わせようとしている」
藤壺は皇子の頬へ触れた。
「背負わせないようにいたしましょう」
「できるだろうか」
「すべては無理でも」
藤壺は言った。
「少なくとも、何も知らないまま、ほかの人の罪を生きる子にはいたしません」
帝は藤壺を見た。
「いつか、話すつもりか」
「はい」
「真実を?」
「この子自身に関わることでございます」
藤壺は答えた。
「知る時期は選びます。けれど、知るかどうかを、私たちだけで決め続けることはいたしません」
帝は少し迷った。
やがて頷いた。
「そのときは、私も同席しよう」
「いいえ」
藤壺は言った。
帝が驚く。
「最初は、私が話します」
「なぜ」
「この子の出生を、父親同士の話にしたくないからです」
帝は、しばらく藤壺を見つめた。
そして苦く笑った。
「そなたは、随分と強い人だったのだな」
「以前からでございます」
藤壺は微笑んだ。
◇
皇子が成長するにつれ、光源氏に似ているという声は増えた。
額の形。目元。立ち姿。
何気ない笑い方。
桐壺帝は、そのたびに複雑な顔をした。
それでも、皇子を遠ざけなかった。
書を教えた。
楽を聴かせた。
病めば夜通し心配した。
皇子も帝を父として慕った。
藤壺は、その様子を見ながら考えた。
血が違うからといって、二人の間にある時間まで偽物になるわけではない。
帝が皇子を抱いたこと。
名前を呼んだこと。
成長を喜んだこと。
それらはすべて本当だった。
一方で、源氏との血のつながりも消えない。
真実は、どちらか一つを偽物にするための刃ではない。
両方を抱えたまま、生きるためのものでもある。
◇
桐壺帝が病に伏した頃、藤壺は皇子の将来について話し合った。
皇子は、いずれ帝位に近い立場へ進む可能性がある。
そのとき、出生の秘密は国を揺らす。
「皇子を、東宮の候補から外すべきだと思いますか」
藤壺は帝へ尋ねた。
帝は床の中で目を閉じた。
「そなたは、どう思う」
以前なら、帝が決めていただろう。
藤壺の意見を尋ねることはなかった。
「血だけを考えれば、皇子には帝位へ進む資格がないと申す者もいるでしょう」
「そうだな」
「けれど、帝が父として皇子を認め、皇子として育てました」
「それも事実だ」
「私は、秘密を守るためだけに、あの子の道を狭めたくはございません」
藤壺は言った。
「ただし、帝となることが、あの子自身の望みであるかを見たいと思います」
「まだ幼い」
「だから、今すべてを決めるべきではございません」
帝は微笑んだ。
「そなたは、決めさせられることを嫌うようになったな」
「初めから、嫌でございました」
藤壺は答えた。
帝は声を立てずに笑った。
「それも、気づかなかった」
◇
桐壺帝が亡くなったあと、藤壺はすぐには出家しなかった。
息子はまだ若い。
母として伝えることが残っている。
自分の人生を、男との関わりから逃げる形で終わらせたくもなかった。
藤壺は后として宮中に残り、皇子の養育に関わった。
学問を教える者。
仏典を教える者。
弓や馬を教える者。
自ら選び、息子の性格を見ながら替えた。
皇子は穏やかな少年に育った。
人の顔色をよく見る子でもあった。
藤壺は、ときどき不安になった。
自分たちが隠している何かを、すでに感じ取っているのではないか。
◇
皇子が元服を迎える前の春、藤壺は彼を自分の御殿へ呼んだ。
庭には藤の花が咲いていた。
淡い紫の房が、風に揺れている。
「母上」
皇子は、藤壺の前へ座った。
「お話とは、何でしょう」
藤壺は、何度も心の中で言葉を選んでいた。
それでも、息子の顔を見ると、何から話せばよいか分からなくなった。
「あなたの父上についてです」
皇子の顔に、悲しみが浮かんだ。
「亡き帝の?」
「はい。そして、もう一人の方について」
皇子は、すぐには理解しなかった。
藤壺は一つずつ話した。
亡き帝が、血のつながりを知らずに懐妊を喜んだこと。
藤壺が真実を告げたこと。
帝が怒り、傷つき、それでも皇子を自分の子として迎えたこと。
そして、血の上での父が光源氏であること。
皇子は、長いあいだ何も言わなかった。
庭から鳥の声が聞こえた。
「源氏の君が」
ようやく皇子は言った。
「私の父なのですか」
「血の上では」
「では、父上は」
亡き桐壺帝のことだった。
「私の父ではなかったのですか」
藤壺は首を振った。
「あなたを抱き、名を呼び、育つことを喜んだ方です」
「ですが」
「血のつながりはございません」
藤壺は答えた。
「それでも、あの方があなたの父であった時間まで、なくなるわけではございません」
皇子は俯いた。
「父上は、知っておられたのですか」
「あなたが生まれる前に、私からお話ししました」
皇子は顔を上げた。
「母上が?」
「はい」
「怖くは、なかったのですか」
藤壺は少し笑った。
「とても」
「なぜ、話したのです」
「あなたを、私の恐れの中で育てたくなかったからです」
藤壺は言った。
「すべてを公にすることはできませんでした。今もできません」
「では、なぜ私には?」
「あなたの人生だからです」
皇子の目に涙が浮かんだ。
「私は、誰の子なのでしょう」
藤壺は、息子のそばへ寄った。
「私の子です」
皇子は顔を歪めた。
「それだけですか」
「それだけではございません」
藤壺は続けた。
「亡き帝に愛された子です。光源氏の血を受けた子でもあります」
皇子の肩へ手を置いた。
「けれど、どの方の子であるかだけで、あなたのすべてが決まるわけではございません」
皇子は泣いた。
藤壺は、彼が泣きやむまでそばにいた。
答えを急がせなかった。
源氏を父と呼ぶようにも。
亡き帝だけを父と思うようにも。
秘密を喜んで受け入れるようにも求めなかった。
◇
数日後、皇子は再び藤壺のもとを訪れた。
「母上」
「はい」
「源氏の君は、私が知ったことを御存じですか」
「まだ、お話ししておりません」
「私から、お会いしてもよろしいでしょうか」
藤壺は息子を見た。
「会いたいのですか」
「分かりません」
皇子は答えた。
「ただ、一度、顔を見たいと思います」
「では、お会いなさい」
「母上は、お嫌ですか」
「これは、あなたとあの方のことです」
藤壺は言った。
「私が決めることではございません」
皇子は、少し安心したように頷いた。
◇
皇子と源氏の対面は、藤壺の御殿では行われなかった。
藤壺は同席もしなかった。
どのような話をしたのか、皇子へ詳しく尋ねることもしなかった。
皇子が自分から話したのは、一つだけだった。
「源氏の君は、私へ頭を下げられました」
「そうですか」
「自分を父と呼ぶ必要はないと」
藤壺は黙って聞いた。
「それから、母上へしたことを、私に許してもらおうとは思わないと」
皇子は庭を見た。
「私は、何と答えればよいか分かりませんでした」
「答えなくてもよいのです」
「母上は、源氏の君を許しておられますか」
藤壺は、長いあいだ考えた。
「許すという言葉では、うまく申せません」
「今も、お恨みですか」
「恨みだけではございません」
藤壺は答えた。
「幼い頃から知っております。優しいところも、寂しさも、よく存じております」
「では」
「けれど、知っていることと、されたことをなかったことにするのは違います」
皇子は頷いた。
「私も、すぐに父と思わなくてよいのですね」
「はい」
藤壺は言った。
「あなたの心を、急いで一つの名に決めなくてよいのです」
◇
皇子は、のちに冷泉帝として即位した。
即位へ至るまで、藤壺は何度も息子と話した。
帝位を望むのか。
秘密を抱えて立つ覚悟があるか。
亡き桐壺帝の子として国を治めることを、どう考えるか。
冷泉帝は、最後にこう答えた。
「私は、父上が私を皇子として育ててくださったことを、偽物にしたくありません」
「はい」
「源氏の君の血を引くことを、誇りとも罪とも思いません」
「そうですね」
「ただ、私がどのような帝になるかは、私が決めたいと思います」
藤壺は、息子の顔を見た。
かつての自分には、言えなかった言葉だった。
「それならば、お進みなさい」
藤壺は言った。
「私は、あなたの母として支えます」
◇
冷泉帝の即位後、光源氏は大きな権力を持つようになった。
事情を知らぬ人々は、帝が源氏を深く信頼するのは、亡き桐壺帝の皇子同士として親しいからだと考えた。
冷泉帝は、源氏を父として公に遇しようとはしなかった。
かといって、遠ざけることもしなかった。
一人の臣下として、その才を用いた。
ある日、源氏は藤壺へ文を送った。
恋文ではなかった。
帝は、御立派に成長なさいました。
あなたが、お育てになったからでしょう。
藤壺は返事を書いた。
多くの方のお力をいただきました。
けれど、あの方が御自分で育たれたところもございます。
源氏から、もう一通届いた。
私は、生涯、あなたの影を追っていたのかもしれません。
藤壺は、その文を長く見つめた。
桐壺更衣の影。
母の影。
手に入らない后の影。
源氏は、藤壺そのものではなく、いつも何かの影を追っていた。
藤壺は筆を取った。
私は、どなたの影でもございません。
更衣様に似ているところがあったとしても、私はあの方ではない。
あなたの母でも、あなたの恋の形でもございません。
私は、藤壺として生きました。
これからも、そのように生きます。
源氏から返事は来なかった。
それでよかった。
◇
藤壺は、冷泉帝の治世が安定してから、ようやく髪を下ろした。
罪から逃れるためではない。
男との関係を捨てるためでも。
息子を守る役目だけで、自分の人生を終えるためでもなかった。
長く学んできた仏の教えを、自分の意思で選ぶ時が来たと思ったからである。
出家後も、宮中を完全には離れなかった。
冷泉帝が政について意見を求めれば答えた。
ただし、すべてを引き受けることはしなかった。
「母上なら、どうなさいますか」
若い帝が尋ねると、藤壺は時折こう答えた。
「帝御自身で、お考えください」
冷泉帝は困った顔をした。
「母上は、以前より冷たくなられました」
「以前は、御自分で決めることができなかった方が申す台詞ではございません」
藤壺が答えると、冷泉帝は笑った。
「では、考えます」
「そうなさいませ」
母と子は、秘密だけで結ばれているのではなかった。
政治の話。仏典の話。庭の花。
今年の暑さ。食事の好み。
そのような日々の言葉を重ねていた。
◇
ある春の日、冷泉帝が藤壺のもとを訪れた。
庭の藤が、満開になっていた。
「母上」
帝は花を見上げた。
「私は幼い頃、この花が母上のお名前だから咲いているのだと思っておりました」
藤壺は笑った。
「私のために咲くほど、花は暇ではございません」
「では、なぜ藤壺と呼ばれるのです」
「暮らしていた御殿の名です」
「本当のお名前ではないのですね」
「宮中の女は、多くが御殿や父、夫の官職で呼ばれます」
冷泉帝は、少し考えた。
「母上御自身のお名前を、私は存じません」
「そうですね」
「教えてくださいますか」
藤壺は、息子の顔を見た。
幼い頃、誰の子かと泣いた少年。
今は、一国の帝として立っている。
「その名は、今は私だけのものにしておきます」
「私にも?」
「はい」
冷泉帝は不満そうに眉を寄せた。
「母上は、秘密が多すぎます」
「これは、誰かを守るための秘密ではございません」
藤壺は答えた。
「私が、私だけのために持っていたいものです」
冷泉帝はしばらく藤壺を見ていた。
やがて頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「母上が教えたくなったら、教えてください」
藤壺は微笑んだ。
「そのときは」
風が吹き、藤の房が揺れた。
地面には、淡い紫の影が落ちている。
藤壺は、その影を見つめた。
影は花に似た形をしている。
けれど花そのものではない。
光が変われば、長さも形も変わる。
やがて夕暮れになれば消える。
藤壺は長いあいだ、誰かの影として見られてきた。
桐壺更衣の影。
源氏の母の影。
理想の后の影。
罪を犯した女の影。
帝の母の影。
けれど、そのどれも藤壺のすべてではなかった。
彼女は帝へ真実を告げた。
源氏へ拒絶を伝えた。
息子へ出生を明かした。
出家の時期を選んだ。
許すかどうかを、誰にも決めさせなかった。
秘密を持つことと、秘密に支配されることは違う。
誰かに語らないことと、声を奪われることも違う。
「母上」
冷泉帝が呼んだ。
「何です」
「花を御覧になっていたのではないのですか」
「影を見ておりました」
「花より、影がお好きなのですか」
藤壺は首を振った。
「どちらも、同じところにございます」
帝も藤の下を見た。
「よく分かりません」
「分からなくてもよいのです」
「また、それですか」
冷泉帝は笑った。
藤壺も笑った。
「では、花を御覧なさい」
二人は庭へ下りた。
藤の花は高い棚から垂れ、風に揺れていた。
その下を歩けば、花の影が二人の衣へ重なった。
けれど藤壺は、もう影の中へ消えなかった。
誰かに似ているからではなく。
誰かに愛されたからでもなく。
自分で選んだ言葉と、守った人生を持つ一人の女として、明るい春の庭を歩いていた。




