紫野
【原作では】
紫の上は、幼いころ北山で光源氏に見いだされ、二条院へ引き取られて育てられ、のちに源氏の最愛の伴侶となります。
しかし、朱雀院の皇女・女三宮が源氏のもとへ降嫁すると、深く傷つきながらも、その苦しみを胸に抑えて受け入れます。
その後、出家を願いますが源氏に許されず、病を重ねた末、源氏に先立って亡くなります。
女三宮を迎える御殿の支度は、紫の上に任されていた。
光源氏がそれを告げたとき、紫の上はいつものように微笑んだ。
「宮はまだお若い。見知らぬところへ降るのは、さぞ心細いことだろう」
「さようでございましょう」
「あなたが心を配ってくれれば、私も安心できる」
「承知いたしました」
答えた声には、何の乱れもなかった。
源氏は安堵したように笑った。
紫の上なら、分かってくれる。
そう信じ切った笑みだった。
◇
数日後、女三宮のための衣や調度が、春の町へ運び込まれた。
淡い紅梅。白に近い桜。
芽吹いたばかりの柳の色。
若い皇女にふさわしい、清らかで華やかな色ばかりだった。
紫の上は、女房たちとともに一つずつ見分した。
几帳の帷は重すぎない色にする。
屏風の絵には、もの寂しい山水より、春の野を描いたものがよい。
香は甘くなりすぎず、若々しいものを選ぶ。
紫の上の指示に、迷いはなかった。
「さすがは紫の上様でございます」
年若い女房が、感嘆したように言った。
「これならば、女三宮様も六条院の御正室として、さぞ美しくお見えになりましょう」
紫の上の手が止まった。
「御正室」
確かめるように、その言葉を繰り返した。
女房は、自分が何か失礼なことを言ったのかと不安そうに顔を上げた。
「はい。皇女様でいらっしゃいますから」
悪意はなかった。
ただ、誰もが知っていることを口にしただけだった。
女三宮は、朱雀院の皇女である。
六条院へ降れば、源氏の妻の一人になるのではない。
皇女として、紫の上より上の位置に置かれる。
紫の上は長い年月、六条院の女主人として暮らしてきた。
女房たちを束ねた。
宴を整えた。
源氏の姫君を育てた。
ほかの御方々との間に波風が立たないよう、あらゆるところへ心を配った。
都の誰もが、源氏に最も愛されている女性は紫の上だと知っていた。
けれど、その年月も、働きも、愛情も、紫の上へ正式な座を与えるものではなかった。
皇女が来れば、紫の上より上に座る。
それを美しく整える役目まで、紫の上へ任されていた。
「こちらの御衣はいかがでしょう」
女房が、薄い桜色の衣を差し出した。
紫の上は手を伸ばした。
若い女三宮によく似合うだろう。
源氏も、きっと喜ぶ。
そのように思った途端、指が動かなくなった。
衣の上に、丸い染みが落ちた。
一つ。
そして、もう一つ。
女房が息をのんだ。
「紫の上様」
紫の上は、桜色の衣を見つめたまま動かなかった。
「お泣きになっております」
そう言われて初めて、紫の上は自分の頬へ触れた。
指先が濡れた。
なぜ濡れているのか、すぐには分からなかった。
胸の奥には、ずっと何かがあった。
けれど、それに名を与えたことはなかった。
源氏の考えは理解できる。
朱雀院の頼みを断りにくいことも。
女三宮がまだ幼く、何の罪もないことも。
源氏の心が自分から離れたわけではないという言葉も。
すべて理解できた。
だから、何を感じるべきなのか分からなかった。
「私は」
紫の上の声がかすれた。
「悲しいのでしょうか」
女房たちは答えられなかった。
紫の上は、自分の濡れた指を見つめた。
「女三宮様がお嫌いなのではございません」
「はい」
「あの方には、何の罪もないのです」
「はい」
「それでも、私は悲しいのでしょうか」
長く仕えてきた女房が、紫の上のそばへ膝を進めた。
「誰にも罪がなくとも、お悲しいことはございます」
紫の上は目を閉じた。
その言葉を聞いた途端、涙がさらにあふれた。
声を上げて泣いたのではない。
頬を伝う涙を拭うこともできず、ただ、さめざめと泣き続けた。
悲しかった。
源氏がほかの女性を迎えることが。
その女性が、自分より上の妻になることが。
自分が守ってきた場所で、自分の位置が初めから仮のものであったと知らされることが。
そして、そのすべてを理解し、笑って受け入れる役目を源氏から求められたことが。
一人の女房が、そっと部屋を出ていった。
◇
間もなく、渡殿を急ぐ足音が聞こえた。
御簾が大きく揺れた。
「紫の上」
源氏だった。
泣いていると聞き、驚いて駆けつけたのだろう。
衣も十分には整っておらず、息がわずかに乱れていた。
部屋へ入った源氏は、広げられた衣と、その前で泣いている紫の上を見た。
「どうしたのだ」
紫の上は、すぐには答えなかった。
「身体が苦しいのか」
首を振った。
「誰かが、何か申したのか」
また首を振った。
源氏は紫の上の前へ座った。
長くともに暮らしてきたが、彼女がこのように泣く姿を見たことはほとんどなかった。
紫の上は、怒りをあらわにしない。
人を責めない。
源氏がどのような難しいことを持ち込んでも、最後にはその心を理解し、美しい形に整えてくれた。
「何が悲しいのだ」
源氏は、静かに尋ねた。
紫の上は顔を上げた。
涙に濡れた顔を、扇で隠そうとはしなかった。
「私にも、今、分かったところでございます」
「何が?」
「私が悲しんでいることが」
源氏の目が、傍らの衣へ移った。
「女三宮のことか」
「はい」
紫の上がはっきり答えると、源氏は困ったように眉を寄せた。
「以前にも申したように、これは朱雀院の深い御意向で」
「存じております」
「宮はまだお若い。あなたと張り合うような方ではない」
「それも存じております」
「あなたへの心が変わるわけではない」
「それも、何度も伺いました」
「ならば」
源氏は言いよどんだ。
紫の上は、その顔を見つめた。
「女三宮様をお迎えすれば、私が悲しむことを、御存じなかったのですか」
源氏は、すぐには答えなかった。
「まったく思わなかったわけではない」
やがて、慎重に言った。
「少しは心を痛めることもあるだろうと」
紫の上は息を止めた。
源氏は知っていた。
何も気づかずに、自分へ支度を任せたのではない。
「それでも」
紫の上は尋ねた。
「私ならば分かると思われたのですね」
「あなたは、誰よりも私の心を分かってくれる」
源氏は、慰めるように言った。
「朱雀院の御心も、六条院のことも、宮の幼さも。あなたならば、すべてを理解してくれると思った」
紫の上の目から、また涙がこぼれた。
「では」
声が震えた。
「私の心は、どなたが分かってくださるのでしょう」
源氏は黙った。
「あなたのお心を分かることばかり、私は求められてまいりました」
「紫の上」
「あなたが何をお望みか。どのようにすればお困りにならないか。どのように振る舞えば、六条院が穏やかでいられるか」
紫の上は、膝の上で手を握った。
「けれど、私が何を感じているかを、あなたはお尋ねにならなかった」
「尋ねれば、何と答えたのだ」
紫の上は、桜色の衣へ目を落とした。
少し前まで、答えを知らなかった。
けれど、今は分かっていた。
「いやでございます」
短い言葉だった。
美しく整えられてもいない。
相手を傷つけないよう、婉曲に包んだ言葉でもない。
源氏は、意味を測りかねたように紫の上を見た。
「何がいやなのだ」
「女三宮様を、この六条院へお迎えになることが」
「降嫁を断れと申すのか」
「何をなさるかは、あなたがお決めになるのでしょう」
「では、どうせよというのだ」
「まず、私がいやだと申し上げていることを、お聞きください」
紫の上は涙を拭わなかった。
「女三宮様を憎んでいるのではございません。あの方には何の罪もない」
「ならば」
「あなたが、あの方を私より上の妻としてお迎えになることが悲しいのです」
源氏が口を開きかけた。
紫の上は、その前に続けた。
「愛のお話だけをしているのではございません」
「身分など、形にすぎない。私の心では、あなたが」
「形にすぎないとおっしゃるのは、その形によって何も失わない方だからでございます」
源氏は言葉を失った。
「私は、あなたのお心だけを頼りに、ここにおりました」
紫の上は言った。
「正式な座を持たずとも、最も愛されているのだからよいのだと、自分に言い聞かせてまいりました」
女三宮のための衣が、二人の間に広げられていた。
「けれど今、そのお心を頼りにしていた私へ、身分など形にすぎないとおっしゃるのですか」
「あなたの立場を奪うつもりはない」
「おつもりがなくとも、女三宮様は私より上の方として迎えられます」
紫の上の声は静かだった。
「そしてあなたは、その方を迎える支度を、私へお命じになりました」
「命じたつもりはない」
「私ならばしてくれると、思われたのでしょう」
源氏は答えなかった。
「あなたでなければ、頼めなかった」
やがて言った。
「六条院のことを、最もよく分かっているのはあなただ」
紫の上は、しばらく源氏を見つめた。
「それは、お褒めの言葉ではございません」
「なぜ」
「私が傷ついても、あなたを困らせないと思っていらしたということでしょう」
「そのようなつもりでは」
「私はこれまで、あなたが私へ甘えておられることを、愛されていることだと思っておりました」
源氏の顔に、痛みが浮かんだ。
紫の上の胸も痛んだ。
源氏が愛していないとは思っていない。
むしろ、愛しているからこそ、紫の上を頼ったのだろう。
自分の最も深い心を分かる女。
どのような矛盾も受け止める女。
自分が何をしても、最後には帰ることのできる女。
その愛は、紫の上を大切にすると同時に、逃げられない場所へ置いていた。
「御婚儀のお支度は、ほかの方へお任せください」
紫の上は言った。
「あなたが御自分でお決めになったことを、私が美しく整え、私まで喜んでいるように見せることはいたしません」
「あなたがしなければ、誰が」
「どなたかがなさいます」
「あなたのようにはできない」
「私のようにする必要はございません」
源氏は長く黙っていた。
紫の上は、もう一度言った。
今度は、声を震わせなかった。
「いやでございます」
源氏は、その言葉を聞くしかなかった。
◇
女三宮の降嫁が取りやめになることはなかった。
源氏には、朱雀院の願いを退けられない事情があった。
皇女を託されることは、家の名誉でもあった。
紫の上は、その事情を理解していた。
理解していたが、婚儀の支度へ戻らなかった。
ほかの女房たちが、慣れない手つきで御殿を整えた。
色の取り合わせが重すぎる。
屏風と几帳の趣がわずかに合っていない。
紫の上が見れば、すぐに直せることばかりだった。
女房たちは何度も相談へ来た。
「少しだけでも、御覧いただけませんか」
「お任せした方々でお決めください」
「源氏の君様もお困りでございます」
その言葉を聞くたび、紫の上の心は揺れた。
源氏が困っている。
これまでなら、それだけで立ち上がった。
けれど、今は手を出さなかった。
誰かが不完全に整えた婚儀でも、日は来た。
六条院が崩れることはなかった。
源氏が困っても、誰かが代わりを務めた。
紫の上が引き受けなければ成り立たないと思っていたものの多くは、形を変えながらも続いていった。
◇
女三宮が六条院へ入った夜、紫の上は春の町で一人、琴を弾いた。
祝いの曲ではなかった。
かといって、嘆きの曲でもない。
何を弾きたいのか分からず、指の動くまま音を重ねた。
途中で音が外れた。
紫の上は手を止めた。
以前なら、最初から弾き直しただろう。
今夜は、そのまま琴の蓋を閉じた。
遠くから、人々の気配が聞こえた。
華やかな婚儀。
皇女を迎えた六条院。
源氏は今、女三宮のもとにいる。
紫の上は悲しかった。
その悲しみを、否定しなかった。
女三宮を恨む必要もなかった。
源氏を愛していないことにする必要も。
ただ、自分は悲しい。
その事実を、自分の中に置いておいた。
◇
数日後、女三宮が紫の上へ挨拶に訪れた。
御簾を隔てた若い宮の声には、不安がにじんでいた。
「こちらのことは、何も分かりませんので」
「初めから、お分かりになる必要はございません」
紫の上は答えた。
女三宮は、紫の上が自分の降嫁を嫌がったことを知らないのだろう。
あるいは、何かを感じ取っているのかもしれない。
「源氏の君は、紫の上様へお尋ねすれば何でも分かるとおっしゃいました」
紫の上は、胸の奥に小さな痛みを感じた。
源氏はまた、自分へ頼ろうとしている。
女三宮の不安まで、紫の上に受け止めさせようとしている。
けれど、目の前の若い皇女に罪はなかった。
紫の上は、少し考えてから言った。
「六条院のことは、女房たちがお教えするでしょう」
「紫の上様は?」
「私も、お会いすればお話しいたします」
女三宮が、ほっとしたように息をついた。
紫の上は続けた。
「ただし、何もかも私のとおりになさる必要はございません」
「ですが、源氏の君は」
「宮様は、宮様のお好きなものを、お選びになればよいのです」
若い声が、少し明るくなった。
「私の好きなものを?」
「はい」
「猫を、そばに置いてもよろしいでしょうか」
あまりに幼い問いに、紫の上は思わず微笑んだ。
「逃げないようになさるなら」
女三宮も、小さく笑った。
紫の上は、この人を支配したいとは思わなかった。
母のように導く役目も。
源氏との間を取り持つ役目も。
ただ、目の前にいれば一人の女性として話す。
それでよいと思った。
◇
女三宮の降嫁後も、源氏は以前と同じように紫の上のもとへ通った。
贈り物をした。
歌を詠んだ。
「やはり、あなたといると心が休まる」
そう言って、紫の上のそばでくつろいだ。
以前なら、愛されている証と思った言葉だった。
けれど今は、その言葉の中に、源氏の甘えが見えた。
女三宮の幼さに戸惑えば、紫の上のもとへ来る。
六条院の調整に疲れれば、紫の上へ話す。
自分で選んだ婚姻によって生まれた不都合まで、紫の上に慰めてもらおうとする。
ある夜、源氏は女三宮の御殿の女房たちが不慣れで困ると、長く語った。
紫の上は黙って聞いていた。
「あなたが少し見てやってくれれば、何もかもうまくゆくのだが」
源氏が言った。
「いたしません」
紫の上は答えた。
源氏は驚いた。
「宮を嫌っているのか」
「そのようなことは、申しておりません」
「では、なぜ」
「あなたがお迎えになった方の御殿です。あなたと宮様でお整えください」
「私には、そのような細かなことは」
「これまで私がしてきたので、おできにならないだけでございましょう」
源氏は、不満そうに紫の上を見た。
「冷たくなった」
その言葉に、紫の上の胸が痛んだ。
それでも、謝らなかった。
「今までが、引き受けすぎたのです」
◇
紫の上は、次第に身体を弱らせた。
食事が取れなくなった。
夜になると息苦しさを覚え、眠れない日が続いた。
ある朝、高い熱を出した。
源氏は枕元を離れなかった。
僧を呼び、医師を呼び、あらゆる祈祷をさせた。
「私を置いていかないでくれ」
薄れる意識の中で、源氏の声を聞いた。
「あなたがいなければ、私は」
紫の上は、目を開けられなかった。
あなたがいなければ。
また、その言葉だった。
源氏が困るから。
六条院が立ちゆかないから。
姫君たちが悲しむから。
女房たちが途方に暮れるから。
自分が生きる理由は、いつも誰かの側にあった。
紫の上は、暗い水の底で、自分へ問いかけた。
私は、生きたいのでしょうか。
すぐには答えが出なかった。
けれど、庭の木々を思い出した。
まだ見たことのない春。
琴を途中でやめた夜。
女三宮が猫の話をして笑った声。
源氏に「いやです」と言ったとき、初めて自分の身体の中に戻ってきたような感覚。
もう少し、自分が何を望むのか知りたい。
「薬を」
紫の上は、かすかな声で言った。
源氏が顔を近づけた。
「何と?」
「薬をくださいませ」
苦くても飲む。
生きたいから。
誰かのためではなく、自分の明日を見たいから。
紫の上は薬を飲んだ。
熱は長く続いたが、やがて下がった。
◇
身体が回復したあと、紫の上は源氏へ言った。
「六条院を出ようと思います」
源氏は、すぐには意味を理解しなかった。
「療養なら、別の町へ移ればよい」
「六条院の中ではございません」
「では、どこへ」
「北山に近い、小さな邸へ」
長く使われていない邸だった。
庭も荒れ、屋根も傷んでいる。
「そのようなところでは暮らせない」
「暮らせるよう、必要なところだけ直します」
「新しい御殿を造ろう」
「要りません」
「庭も、あなたの好みに」
「整えないでください」
源氏は苛立ったように紫の上を見た。
「何のために、そのようなところへ行くのだ」
「分かりません」
「目的もなく、六条院を出るのか」
「はい」
「出家するのか」
「今はいたしません」
「では、何をする」
紫の上は、少し考えた。
「何もしない日を、持ちたいと思います」
源氏は理解できないという顔をした。
「あなたがいなくなれば、六条院はどうなる」
「どなたかがなさるでしょう」
「あなたのようにできる者はいない」
「私のようにする必要はございません」
かつて婚儀の支度を拒んだときと、同じ言葉だった。
「私は、あなたを誰よりも愛している」
源氏は言った。
「存じております」
「ならば、なぜ離れる」
紫の上は、胸の痛みを隠さなかった。
「私も、あなたを愛していなかったとは申しません」
「では」
「今も、愛していないとは申しません」
源氏は紫の上を見つめた。
「それでも、愛された形のまま、最後まで生きなくてはならないのでしょうか」
「私は、あなたを苦しめるつもりなど」
「おつもりの話ではございません」
紫の上は言った。
「私は、いやだと申し上げました」
源氏の顔が強張った。
「それでも、あなたは女三宮様をお迎えになりました」
「事情があった」
「はい。あなたには、そうなさらなければならない理由がおありでした」
紫の上は静かに続けた。
「そして私にも、ここを出なければならない理由がございます」
源氏は俯いた。
「私を許せないからか」
「許すことと、ここに残ることを同じにしたくございません」
「では、いつか戻るのか」
「お約束はできません」
源氏の顔に、深い悲しみが浮かんだ。
紫の上の胸にも、同じような悲しみがあった。
けれど悲しいことと、戻ることは同じではない。
そのことを、紫の上はもう知っていた。
◇
六条院を出る日、紫の上は驚くほど少ない荷物しか持たなかった。
琴を一面。
幾つかの書物。
普段使う衣。
祖母の形見の、小さな文箱。
女房たちは、春の町の屏風や香炉を持っていくよう勧めた。
紫の上は断った。
「あの品々は、あの場所に置いておきましょう」
「桜を一本、移してはいかがでしょう」
「移さなくて結構です」
「紫の上様のための庭でございますのに」
紫の上は、春の町を見渡した。
美しい庭だった。
池の水も。枝の傾きも。花の咲く時期も。
すべて考え抜かれている。
自分のために造られたと、誰もが言った庭。
けれど紫の上は、一本の菫を残すことさえ、自分で決めた記憶がなかった。
「桜は、ここで咲けばよいのです」
源氏は、車のそばまで見送りに来た。
「私は、訪ねてもよいのか」
「前もって、文をくださいませ」
源氏は目を見開いた。
「私が?」
「はい」
「夫が妻を訪ねるのに、許しが要るのか」
紫の上は少し考えた。
「新しい邸では、私が客を迎えるかどうかを決めます」
「私は客なのか」
「今は」
紫の上は答えた。
源氏は深く傷ついた顔をした。
紫の上も泣きそうになった。
それでも車へ乗った。
簾が下ろされる。
車が動き始めると、六条院の門が遠ざかった。
紫の上は、一度だけ簾を上げた。
源氏が立っていた。
長い年月をともに過ごした人。
愛した人。
自分を育て、自分の世界を作り、その世界から出ることを最も難しくした人。
紫の上の頬を、涙が伝った。
「御気分が悪いのですか」
女房が尋ねた。
「いいえ」
「お泣きになっております」
紫の上は頬へ触れた。
今度は、自分がなぜ泣いているのか分かっていた。
「悲しいのです」
紫の上は言った。
「源氏の君様を、今もお慕いでいらっしゃるからですか」
「はい」
「では、お戻りになりますか」
紫の上は、涙に濡れた指を見つめた。
「いいえ」
静かに答えた。
「悲しいことと、戻ることは、同じではございません」
◇
北山に近い邸は、源氏の言ったとおり荒れていた。
屋根は、雨が漏らない程度に直した。
庭には名も知らない草が伸びている。
池はなく、邸の外を細い流れが通っていた。
雨が降れば濁り、晴れた日が続けば浅くなる。
六条院の遣水のように、石の位置まで計算された水ではない。
初めの夜、紫の上は眠れなかった。
静かすぎた。
誰も紫の上を呼ばない。
どの衣がよいか。
誰へ返事をするか。
女三宮の御殿で何が足りないか。
源氏が今夜どこへ行くか。
何も尋ねられなかった。
何も決めなくてよいことが、初めは恐ろしかった。
朝になると、紫の上は琴を取り出した。
源氏の好んだ春の曲を弾き始めた。
途中で、手を止めた。
「お続けにならないのですか」
女房が尋ねた。
「今日は、やめます」
「御気分が?」
「いいえ」
紫の上は琴の蓋を閉じた。
「やめたくなったからです」
それだけの理由で途中でやめても、何も壊れなかった。
◇
ある朝、食事に出された魚の端が焦げていた。
女房が青ざめた。
「すぐに取り替えます」
「これでよいでしょう」
紫の上は、焦げたところを少し除いて口にした。
苦かった。
けれど、食べられないほどではない。
「紫の上様へ、このようなものを」
女房は泣きそうな顔をした。
紫の上は、自分がどれほど周囲を緊張させてきたかに気づいた。
怒ったことはほとんどない。
けれど、自分が何でも美しく整えてきたため、周囲も間違えてはならないと思っていたのだろう。
「少し苦いですね」
紫の上が言うと、女房はさらに青ざめた。
紫の上は笑った。
「けれど、今日はこれをいただきます」
何もなかったことにせず、怒りもせず、苦いものを苦いと言う。
そのようなことさえ、紫の上には新しかった。
◇
源氏は、何度も訪ねたいと文を送った。
最初の七日は断った。
八日目、昼の訪れならばと返事をした。
源氏は、日が高いうちにやって来た。
華やかな車は、山里の狭い道に似つかわしくなかった。
紫の上は、御簾の内で迎えた。
源氏は部屋を見回した。
「暗いな」
「六条院よりは」
「几帳も足りない」
「これで足ります」
「庭には、少し手を入れたほうがよい」
「このままでよいのです」
源氏は、言いたいことを飲み込むように黙った。
「苦労しているのではないか」
「焦げた魚をいただきました」
「そのようなものを?」
「少し苦うございました」
源氏は眉を寄せた。
紫の上は思わず笑った。
「苦しいために、ここへ来たのではございません」
「では、何が楽しいのだ」
「まだ、分かりません」
「分からないばかりだな」
源氏は寂しそうに言った。
「以前のあなたは、何でも分かってくれた」
「以前は、分からないと申し上げることができなかったのです」
源氏は黙った。
しばらくして、紫の上へ尋ねた。
「今日は、私に会いたかったのか」
紫の上は、自分の心を探った。
「はい」
源氏の顔が、少し明るくなった。
「では、次はいつ」
「それは、まだ分かりません」
源氏は苦笑した。
「あなたは変わった」
「そうかもしれません」
「私が変えてしまったのか」
紫の上は首を振った。
「誰か一人のためではございません」
庭を見た。
伸びた草が、風に揺れている。
「私は、自分の心を、自分で尋ねることにしたのです」
◇
季節が秋へ移ると、庭の草はさらに伸びた。
女房たちは、虫が増えるから刈ったほうがよいと勧めた。
紫の上は、歩く道の周りだけ刈るように頼んだ。
すべてを放っておくことが自由なのではない。
不便なところは整える。
けれど、美しく見せるためだけに、すべてを同じ高さにそろえる必要はない。
秋の終わり、名も知らない黄色い花が咲いた。
「何という花でしょう」
女房が尋ねた。
「分かりません」
「お調べいたしますか」
紫の上は首を振った。
「咲いていることは分かりますから」
冬には雪が降った。
重みに耐えられず、木の枝が一本折れた。
「庭師を呼びましょう」
「危なくないなら、春まで置いておきましょう」
「枯れるかもしれません」
「そのときは、そのときです」
紫の上は、折れた枝を眺めた。
不格好だった。
けれど、不格好なまま冬を越す木を、見てみたいと思った。
◇
春が近づいた頃、源氏から文が届いた。
花の咲く頃、一度そちらで御一緒に眺めたいと思います。
よろしいでしょうか。
紫の上は、すぐには返事を書かなかった。
桜が咲く頃、源氏に会いたいだろうか。
一人で花を見たいかもしれない。
ともに昔の春を思い出したいかもしれない。
今は、まだ分からなかった。
「御返事は?」
女房が尋ねた。
「花が咲く頃に決めます」
「源氏の君様がお待ちになります」
「待っていただきましょう」
誰かを待たせることを、初めて恐ろしいと思わなかった。
自分の心が動く前に、相手の望みへ答えを与えなくてよい。
◇
ある朝、紫の上は庭へ下りた。
風はまだ冷たかった。
桜の蕾は固く、花の気配はほとんどない。
足元に、小さな紫の花が咲いていた。
菫だった。
誰かが植えたものではない。
石の隙間から、幾つも顔を出している。
女房があとから庭へ下りてきた。
「菫が増えておりますね」
「ええ」
「桜の根元まで広がる前に、少し抜きましょうか」
紫の上は首を振った。
「今年は、このままにしておきましょう」
「来年には、もっと増えるかもしれません」
「そうかもしれません」
「庭の形が変わります」
紫の上は、小さな花へ指を触れた。
「どのようになるのか、私はまだ知りませんから」
六条院の春の町では、どの花がどこに咲くか、あらかじめ決められていた。
紫の上も、そうだった。
源氏の好む色。
源氏の望む教養。
源氏の妻としてふさわしい振る舞い。
何を愛し、何を許し、どのように悲しむかまで、美しい形を求められていた。
けれど、今いる庭には、まだ決まった形がない。
桜は片側だけ多く咲くかもしれない。
折れた枝は枯れるかもしれない。
菫が思いがけない場所まで広がるかもしれない。
紫の上自身も、これから何を好むのか分からなかった。
春を愛しているのか。
秋のほうが好きなのか。
源氏に会いたい日。
会いたくない日。
琴を弾きたい日。
途中でやめたい日。
寂しい日。
一人でいることが嬉しい日。
そのすべてを、同じ自分の心として持っていてよい。
迷ってもよい。泣いてもよい。
源氏を愛したまま、戻らなくてもよい。
紫の上は、庭の端へ目を向けた。
草が、それぞれ異なる方向へ伸びている。
風が吹くと、桜の枝も、細い竹も、足元の菫も、同じ速さではなく揺れた。
整った庭ではなかった。
けれど紫の上は、その庭を美しいと思った。
誰かが完成させた春ではない。
まだ、どのようになるか分からない春だった。
紫の上は廊へ腰を下ろした。
庭の菫が、風に揺れた。
囲われた庭の名ではなく。
誰かに与えられた女の名でもなく。
紫の花が、野に咲くように。
紫の上は、まだ名のない自分の春を待っていた。




