桐帰
【原作では】
桐壺更衣は、身分こそ高くないものの桐壺帝の深い寵愛を受け、光源氏を産みますが、その寵愛ゆえに周囲の嫉妬と嫌がらせに苦しみます。
源氏が三歳の夏、更衣は病が重くなり、宮中を退出したいと願いますが、帝はなかなか許そうとしません。
ついに幼い源氏を宮中に残して母の邸へ帰りますが、その夜、若くして亡くなります。
光る君を産んでから、桐壺更衣は、夜を恐れるようになった。
日が落ちると、帝からの使いが来る。
御前へ参るように。
今宵は琴を聴かせてほしい。
少し顔を見るだけでよい。
帝は更衣を深く愛していた。
産後の身体を案じ、珍しい薬や滋養のある食べ物を絶えず贈った。光る君の顔を見るため、自ら桐壺へ渡ってくることもあった。
けれど、帝が更衣を愛すれば愛するほど、宮中の妬みは深くなった。
御前へ向かう廊に、汚れた水をまかれた。
通り道の戸を閉ざされた。
更衣の衣に焚きしめる香へ、悪い匂いのするものを混ぜられたこともある。
帝は、それを知るたびに怒った。
誰の仕業か調べさせると言い、更衣を慰めるため、以前より頻繁に召した。
召しが増えれば、妬みも増えた。
更衣は帝の心を傷つけたくなくて、身体がつらくても御前へ参った。
光る君が眠ってから局を出る。
戻ってくる頃には、夜が明けかけている。
幼い光る君は、乳母に抱かれながら、母の帰りを待っていた。
◇
ある朝、更衣が御前から戻ると、光る君は目を覚ましていた。
まだ言葉も十分ではない頃だった。
更衣の顔を見ると、幼子は乳母の腕から身を乗り出した。
「母上」
更衣は急いで抱き取った。
光る君は、母の首へ両腕を回した。
「おりませんでした」
「御前へ参っておりました」
「どこへ?」
「父上のところです」
「帰ってきた?」
「はい。帰ってまいりました」
光る君は、しばらく母の顔を確かめるように見つめた。
それから安心したように、胸へ頬を寄せた。
更衣は幼子の背を撫でた。
光る君の身体は温かかった。
自分が帰るまで、この子は何度目を覚ましたのだろう。
その日、更衣は昼近くまで眠った。
目を覚ますと、枕元に光る君が座っていた。
手には、木で作られた小さな馬を持っている。
乳母が庭へ連れていこうとしても、母のそばを離れなかったという。
「母上は、また行きますか」
光る君が尋ねた。
「今日は参りません」
「夜は?」
更衣は答えに詰まった。
帝から召しがあれば、行かなければならない。
そう言おうとして、光る君の目を見た。
幼子は、母の答えを待っていた。
「今夜は、ここにおります」
更衣は言った。
光る君は笑った。
その笑顔を見たとき、更衣の胸に、初めて小さな疑いが生まれた。
自分は、いつまでこの子へ同じ約束をできるのだろう。
◇
その夜、帝から使いが来た。
「今宵、御前へ参るようにとの仰せでございます」
更衣は、眠りかけている光る君を見た。
小さな手が、更衣の袖を握っていた。
「今夜は参れないと、お伝えください」
女房が驚いて顔を上げた。
「お断りになるのでございますか」
「光る君へ、ここにいると約束いたしました」
「ですが、帝がお待ちでございます」
更衣は、しばらく黙った。
帝が待っている。
その言葉を聞けば、これまでは必ず立ち上がった。
自分が参らなければ、帝は寂しがる。
心が離れたと思うかもしれない。
ほかの妃のもとへ行くかもしれない。
けれど、今夜更衣を待っているのは、帝だけではなかった。
「お伝えください」
更衣は繰り返した。
「今夜は、光る君のそばにおりますと」
◇
ほどなくして、帝自身が桐壺へ渡ってきた。
女房たちが慌てて道を開ける。
帝は、眠る光る君と、その傍らにいる更衣を見た。
「具合が悪いのか」
「いいえ」
「では、なぜ来なかった」
更衣は、光る君の手を袖からそっと外した。
幼子は眠ったままだった。
「この子へ、今夜はここにいると約束いたしました」
帝の顔に、驚きが浮かんだ。
「幼子との約束のために、私の召しを断ったのか」
「はい」
「この子には、乳母も女房もいる」
「母は、私一人でございます」
帝は黙った。
更衣は、帝が怒るのを覚悟していた。
けれど帝は、眠る光る君を見つめたあと、御簾の近くへ座った。
「ここにいてはならないか」
更衣は少し驚いた。
「静かになさるなら」
帝は不満そうに眉を寄せた。
「私を子どものように扱うな」
「眠っている子のそばでは、どなたも静かになさるものです」
帝は、更衣を見た。
やがて、声を立てずに笑った。
「分かった」
その夜、帝は更衣を御前へ呼ばなかった。
桐壺で、母子の眠りを見守りながら夜を明かした。
更衣は、少しだけ安心した。
けれど、翌日から何かが変わったわけではなかった。
◇
帝は、また更衣を召した。
更衣も、また参った。
断れば帝を傷つけるという思いは、簡単には消えなかった。
光る君が眠ったあとで出ればよい。
朝までには戻ればよい。
そう自分へ言い聞かせた。
けれど、更衣が夜ごと御前へ参るうちに、身体は少しずつ弱っていった。
食事が取れない。
朝、起き上がることができない。
光る君を抱いても、腕に力が入らない。
ある日、更衣は廊を歩く途中で目まいを起こした。
女房に支えられ、ようやく局へ戻った。
光る君は、床へ伏した母のそばへ座った。
「母上は、寝ていますか」
「少しお身体がおつらいのです」
乳母が答えた。
光る君は、更衣の顔をのぞき込んだ。
「母上」
更衣は目を開けようとしたが、身体が動かなかった。
「母上は、いなくなりますか」
その言葉に、更衣は目を開けた。
光る君の顔が、すぐそばにあった。
「なぜ、そのようなことを?」
「皆が、母上は弱いと申しています」
「誰が?」
「女房が」
乳母が青ざめた。
「そのような意味ではございません」
光る君は、更衣の袖を握った。
「いなくならないでください」
更衣は、幼子を抱き寄せようとした。
けれど、腕に力が入らなかった。
代わりに、光る君の手を握った。
「いなくなりません」
そう言いながら、更衣は恐ろしくなった。
このまま宮中にいれば、その約束を守れないかもしれない。
自分も、いつか帝に愛されたまま衰え、光る君を残して死ぬかもしれない。
そのとき、この子は何を思うのだろう。
自分がよい子でなかったから、母が消えたと思うだろうか。
もっと強く袖を握っていればよかったと、自分を責めるだろうか。
更衣は、幼子の手を握ったまま、初めてはっきりと思った。
死にたくない。
帝を悲しませないためでもない。
光る君を帝の皇子として立派に育てるためでもない。
この子のそばで、生きていたい。
◇
更衣は、その夜、帝へ会いたいと願い出た。
自ら会いたいと申したのは、久しぶりだった。
帝は喜んで桐壺へ渡ってきた。
けれど、更衣の顔を見ると、すぐに表情を曇らせた。
「また痩せた」
「はい」
「医師を増やそう」
「医師のお話ではございません」
帝は、更衣の前へ座った。
「何を望む」
更衣は、長いあいだ言葉を探した。
「宮中を退出したく存じます」
帝は、更衣の言葉を理解できなかったようだった。
「どこへ?」
「母の邸へ戻ります」
「療養ならば、しばらく里へ下がることを許そう」
「しばらくではございません」
帝の顔から、笑みが消えた。
「何を言っている」
「光る君とともに、宮中を出ます」
「認めない」
帝の返事は早かった。
「そなたは私の更衣だ。光る君は皇子だ」
「はい」
「二人とも、ここにいるべきだ」
「ここでは、生き続けられません」
「警護を増やす」
「それでも、私は夜ごと御前へ召されます」
「私が会いたいからだ」
「存じております」
「それが何だというのだ」
更衣は、帝を見た。
「お召しになることと、お守りになることは違います」
帝の顔が強張った。
「私は、そなたを守ろうとしている」
「帝は、私を御自分のそばへ置こうとしておられます」
「それが守ることだろう」
「私が、ここでは生きられないと申し上げても?」
帝は答えなかった。
「私は、帝をお慕いしております」
更衣は続けた。
「お心を失いたいとは思っておりません」
「ならば、ここにいればよい」
「愛されるために、死にたくはないのです」
帝の目が揺れた。
更衣の声も震えた。
「私は、この子の母として生きたいのです」
眠っている光る君のほうへ、目を向けた。
「この子は、私がいついなくなるのかと恐れております」
「幼い子の申すことだ」
「幼いからこそ、恐れるのです」
更衣は帝へ向き直った。
「この子をお愛しなら、母を失わせないでくださいませ」
帝は、光る君を見た。
幼子は何も知らずに眠っている。
「光る君は、宮中へ残す」
帝が言った。
更衣の身体が強張った。
「皇子は、ここで育つべきだ」
「いいえ」
「そなたの母の邸では、皇子にふさわしい教育も警護も」
「この子に今必要なのは、母が明日の朝もいると信じられることです」
「私も父だ」
「はい」
更衣は答えた。
「だからこそ、父としてお考えください」
帝は、傷ついた顔をした。
「私から、この子まで奪うのか」
「奪うのではございません」
「では何だ」
「帝が、この子に会いにいらしてください」
「私が?」
帝は、信じられないように聞き返した。
更衣は頷いた。
「御前へ召すのではなく」
「帝である私が、そなたの邸へ通えというのか」
「この子の父でいらっしゃるのでしょう」
帝は長く黙った。
怒り。悲しみ。寂しさ。
さまざまなものが、帝の顔を通り過ぎた。
やがて、低い声で尋ねた。
「もし、認めないと言えば?」
更衣は、光る君の寝顔を見た。
「それでも、私は出ます」
帝は目を閉じた。
◇
退出の日、空は薄曇りだった。
更衣は光る君を抱き、車へ乗った。
帝から贈られた華やかな品の多くは、桐壺へ残した。
持っていくのは、衣と琴。
光る君の玩具。
幾つかの書物。
母から贈られた古い文箱。
帝は、最後まで姿を見せなかった。
代わりに、一通の文が届いた。
そなたが去れば、私は何を頼りにすればよいのか。
更衣は、しばらく文を見つめた。
以前なら、すぐに返事を書いただろう。
帝を安心させる言葉を選び、戻る日を約束したかもしれない。
けれど今は、光る君を抱いていた。
「母上」
幼子が尋ねた。
「どこへ行くのですか」
「母上の母君のお邸です」
「おばあさま?」
「そうです」
「父上も来ますか」
更衣は少し考えた。
「いらっしゃりたいなら」
「父上なのに?」
「父上でも、来たいとおっしゃらなければ、私には分かりません」
「母上が呼ぶのではないのですか」
「お呼びする日もございます」
「呼ばない日も?」
「ございます」
光る君は不思議そうだった。
宮中では、帝が呼べば誰もが参る。
帝が誰かの返事を待つことはない。
「父上は、来たい日に来られないのですか」
「人のお家へ行くときは、その方へ尋ねます」
「母上のお家だから?」
更衣は、光る君の手を握った。
「そうです」
車が動き始めた。
更衣は、帝の文へ返事を書かなかった。
今日だけは、帝の寂しさより先に、光る君と自分の行く先を考えたかった。
◇
母の邸は、宮中よりずっと小さかった。
女房の数も少ない。
屋根の色も褪せ、庭には古い桐の木が一本立っていた。
それでも、廊を塞ぐ者はいなかった。
更衣の衣へ、悪い香を混ぜる者も。
帝のもとへ参る道で、背後を恐れる必要もなかった。
最初の夜、光る君は何度も目を覚ました。
知らない天井。
宮中とは違う風の音。
遠くで鳴く虫。
幼子は、母の姿を探した。
「母上」
「ここにおります」
更衣は、そのたびに答えた。
「どこにも行きませんか」
「今夜は行きません」
「明日は?」
「明日の朝も、ここにおります」
光る君は、更衣の衣を握ったまま眠った。
翌朝、目を覚ますと、母は隣にいた。
光る君は何も言わず、更衣の顔へ手を伸ばした。
確かめるように頬へ触れた。
「母上は、ずっとここにいらっしゃいました」
更衣は、その手へ頬を寄せた。
◇
母の邸へ移ってから、光る君は更衣のあとをどこまでもついて歩いた。
庭へ出れば、庭へ。
琴を弾けば、そのそばへ。
更衣が母と話しているあいだも、衣の端を握っていた。
少しでも姿が見えなくなると、すぐに探した。
ある日、更衣が隣の部屋で衣を替えていると、光る君が泣きながら入ってきた。
「母上が、いなくなった」
「ここにおります」
更衣は幼子を抱き上げた。
「何も言わずに行かないでください」
光る君の声は、怒っているようでも、怯えているようでもあった。
「申し訳ありません」
更衣は答えた。
「隣の部屋へ行くだけでも、申しましょう」
「すぐ帰りますか」
「はい」
それから更衣は、部屋を出る前に光る君へ伝えるようにした。
庭を一回りしてきます。
女房と話してきます。
琴を取りに行ってきます。
すぐ戻ります。
初めのうち、光る君は後を追おうとした。
更衣は、無理に残らせなかった。
一緒に来たい日には連れていった。
乳母と待てる日には、待たせた。
そして、約束したとおり戻った。
何度も。何度も。
光る君は少しずつ、母の姿が見えなくなっても、必ず消えたわけではないと知った。
◇
更衣は、光る君を叱ることもあった。
ある日、光る君は女房の大切にしていた硯を落とし、割った。
驚いた幼子は、割れた硯を庭の草むらへ隠した。
女房が探しているのを見ても、黙っていた。
更衣が事情を尋ねると、光る君は首を振った。
「知りません」
更衣は、庭の草に墨がついているのを見つけた。
「光る君」
幼子の肩が震えた。
「あなたが落としたのですね」
光る君は唇を結んだ。
「違います」
更衣は、すぐには責めなかった。
光る君の前へ座った。
「割ったことより、知らないと申したことを、母上は悲しく思います」
光る君の目に涙が浮かんだ。
「怒っていますか」
「怒っております」
「では、母上は私が嫌いですか」
更衣は息を止めた。
幼子の中では、怒られることと、愛されなくなることがまだ結びついている。
更衣は、光る君の手を取った。
「してはいけないことでした」
「はい」
「硯を落としたことも、隠したことも、知らないと申したことも」
光る君は俯いた。
「けれど、あなたを嫌いになったのではありません」
光る君が顔を上げた。
「怒っていても?」
「怒っていても、愛しております」
「本当に?」
「本当です」
「明日も?」
「明日も」
「硯を割っても?」
「硯を割ることは、もうしないでください」
更衣がそう言うと、光る君は涙を浮かべながら、少し笑った。
そのあと、女房へ自分から謝った。
◇
帝からは、毎日のように文が届いた。
最初の文には、戻るようにと書かれていた。
次の文には、光る君だけでも御前へ連れてくるようにと。
その次には、更衣がいない宮中は火の消えたようだとあった。
更衣は、すぐには返事をしなかった。
四日目、文の内容が変わった。
身体の具合はいかがか。
光る君は、夜によく眠っているだろうか。
更衣は初めて返事を書いた。
よく眠れるようになりました。
光る君も、朝まで目を覚まさない日が増えております。
帝から、すぐに返事が届いた。
会いたい。
更衣は筆を取った。
三日後の昼でしたら、お会いできます。
大勢の供はお連れにならないでくださいませ。
◇
帝が訪れる日、更衣は光る君へ伝えた。
「今日、父上がいらっしゃいます」
「父上が?」
光る君は喜んだ。
「母上も一緒ですか」
「おります」
「父上は、母上を連れて帰りますか」
更衣は、幼子の不安に気づいた。
「今日は、お話をして、お帰りになります」
「母上は?」
「ここに残ります」
光る君は、ようやく安心したように頷いた。
帝は、約束の時刻より早く到着した。
更衣は、前の夜に光る君が何度か目を覚ましたため、昼寝をしていた。
女房が慌てて起こそうとしたが、更衣の母が止めた。
「約束より早くいらしたのでしょう。目を覚ますまで、待っていただきなさい」
女房は青ざめた。
けれど、門へ出てそのように伝えた。
帝は車の中で、信じられないように聞き返した。
「私を待たせるというのか」
命じれば、更衣をすぐに起こさせることができた。
けれど帝は、しばらく黙ったあとで言った。
「待とう」
帝は門の外で待った。
宮中では、誰も帝を待たせない。
帝が来れば、眠っている者も起きる。
病んでいても身支度をする。
帝は初めて、自分の来訪より一人の女の眠りが優先される場所にいた。
◇
更衣が目を覚ますと、帝が待っていると知らされた。
一瞬、身体が反射的に起き上がろうとした。
急がなくては。
帝を待たせてはならない。
けれど、更衣は一度息をついた。
約束の時刻より早かったのは、帝のほうだ。
髪を整え、光る君の様子を見てから、帝を迎えた。
帝は不機嫌そうだった。
「随分と待った」
「お待ちくださり、ありがとうございます」
「少しも悪いとは思わないのか」
「約束の時刻には、間に合いました」
帝は何か言い返そうとした。
そのとき、光る君が走ってきた。
「父上」
帝の顔から、不機嫌さが消えた。
幼子を抱き上げる。
「私を忘れていなかったか」
「昨日も、父上のお話をしました」
「どのような?」
「人のお家へ行くときは、来てもよいか尋ねるのです」
帝は更衣を見た。
「父上も尋ねたのですか」
光る君が聞いた。
「尋ねた」
帝は答えた。
「母上は、よいと申したのですか」
「申した」
「だから会えたのですね」
光る君は満足そうに笑った。
帝は、その笑顔を見ながら、何も言わなかった。
◇
帝は、母子をすぐに宮中へ戻すことを諦めなかった。
更衣が元気になれば戻るだろうと思っていた。
新しい警護を置く。
桐壺へ続く廊を改める。
嫌がらせをした者を調べる。
さまざまな案を示した。
更衣は一つずつ聞いた。
けれど、戻るとは言わなかった。
「何が足りない」
帝は尋ねた。
「宮中が変わったとしても、私が戻りたいと思うかは、別のことでございます」
「そなたは、もう私を必要としないのか」
更衣は首を振った。
「お会いしたい日もございます」
「ならば」
「会いたい日があることと、いつも御前にいなくてはならないことは違います」
帝は、苦い顔をした。
「私は、そなたを失ったように思う」
「私は、ここにおります」
「そばにはいない」
「そばにいない者は、失った者なのでございますか」
帝は答えられなかった。
◇
更衣は、光る君だけを自分の世界にしなかった。
初めの頃、光る君は母が外へ出ようとすると泣いた。
「私も行きます」
「今日は、母上だけで参ります」
「どこへ?」
「近くのお寺へ」
「なぜ?」
「静かに仏様のお話を聞きたいからです」
「私より、仏様が大事なのですか」
更衣は、光る君の前へ座った。
「あなたを愛しております」
「では、一緒にいてください」
「あなたを愛していても、一人で出かけたい日がございます」
光る君の顔が歪んだ。
「帰ってきますか」
「夕暮れまでに」
「本当に?」
「はい」
「私が泣いても?」
更衣は、光る君を抱きしめた。
「あなたが泣いていても、遊んでいても、母上は帰ってまいります」
光る君は、更衣の衣をつかんだ。
「行かないでください」
更衣の胸は痛んだ。
今すぐ外出をやめれば、幼子は安心するだろう。
けれど、更衣が光る君の不安に従い続ければ、息子は、自分がつなぎ止めなければ母は消えると思い続ける。
「寂しいですね」
更衣は言った。
光る君は泣きながら頷いた。
「母上も、少し寂しゅうございます」
「では、行かなければよいです」
「それでも、今日は参ります」
更衣は、光る君の手をゆっくりと自分の衣から外した。
「夕暮れには戻ります」
◇
その日、光る君は何度も門のほうを見た。
「母上は、まだですか」
「まだお昼です」
乳母が答えた。
しばらく遊んでは、また尋ねる。
空が少しずつ赤くなる。
光る君は、門の近くまで歩いていった。
「本当に帰りますか」
「お約束なさいました」
「約束を忘れたら?」
「更衣様は、お忘れになりません」
それでも光る君は、門を見つめ続けた。
やがて、遠くで車の音がした。
光る君は耳を澄ませた。
車が門の前へ止まる。
簾が上がり、更衣が降りてきた。
「母上」
光る君は駆け出した。
更衣は両腕を広げた。
幼子は、その胸へ飛び込んだ。
「帰ってまいりました」
更衣は言った。
「遅かったです」
「夕暮れまでと申しました」
「もう夕暮れです」
「ですから、戻りました」
光る君は母の顔を見上げた。
「私が待っていたからですか」
更衣は首を振った。
「あなたが待っていても、遊んでいても、母上は帰ってまいります」
「なぜですか」
更衣は、幼子の頬へ触れた。
「ここが、母上の帰りたい家だからです」
光る君は、しばらくその言葉を考えていた。
「私がいるから?」
「あなたがいることも、帰りたい理由の一つです」
「一つ?」
「おばあさまもおります。母上の琴も、本もございます。庭の桐も」
光る君は少し不満そうだった。
「私は、一番ではないのですか」
更衣は微笑んだ。
「愛するものに、いつも順番をつけなくてもよいのですよ」
「でも、私は母上が一番です」
「今は、それでもよいでしょう」
更衣は光る君を抱き上げた。
「いつか、ほかにも大切なものが増えます」
「母上より?」
「比べなくてもよいものが、増えるのです」
光る君は、よく分からない顔で母の肩へ頬を寄せた。
けれど、母が帰ってきたことだけは分かっていた。
◇
帝が更衣を訪ねる回数は、少しずつ増えた。
ただし、訪れる前には文を送った。
更衣が会えないと返す日もあった。
帝は初め、不満を隠せなかった。
私より大切な用があるのか。
更衣は返した。
大切さを比べているのではございません。
明日は母と過ごす約束をしております。
別の日、帝はこう書いた。
会いたくないのか。
更衣は答えた。
お会いしたいと思っております。
けれど、今日は疲れております。
やがて帝の文は短くなった。
明日の午後、訪ねてもよいだろうか。
更衣も、短く返した。
お待ちしております。
あるいは、
明日は難しゅうございます。三日後でしたら。
帝は、三日待った。
光る君は、その様子を見て育った。
父上は、会いたいと言う。
母上は、会える日を答える。
会えないと言われても、父上は母上を嫌いにならない。
母上も、父上を慕いながら、いつも会うわけではない。
二人が別々の場所で暮らしていても、関係は消えなかった。
◇
ある日、帝は光る君と庭で遊んでいた。
幼子は、帝の冠についた飾りへ手を伸ばした。
帝が頭を引く。
「それには触るな」
光る君は手を止めた。
「父上は、嫌なのですか」
「そうだ」
「では、触りません」
光る君は、すぐに別のものへ興味を移した。
帝は、少し驚いたように息子を見た。
更衣は離れたところから、その様子を見ていた。
「何だ」
帝が尋ねる。
「何でもございません」
「今、笑っただろう」
「少しだけ」
「なぜ」
更衣は答えた。
「嫌だと申せば、止まってもらえるのは、嬉しいことでございますね」
帝は、苦い顔をした。
しばらくして、自分も笑った。
◇
光る君は成長するにつれ、母が必ずしも自分の望みを叶えないことを知った。
もっと一緒にいてほしいと頼んでも、更衣が一人で琴を弾く時間があった。
帝の訪れる日は、光る君を乳母へ預け、二人だけで話すこともあった。
光る君が部屋へ入ろうとすると、更衣は言った。
「今は、父上とお話ししております」
「私も入ります」
「あとで」
「なぜですか」
「母上にも、あなたのいないところでお話ししたいことがございます」
光る君は不満そうに廊へ座った。
やがて乳母に誘われ、庭へ遊びに行った。
しばらくして、更衣は約束どおり光る君を呼んだ。
「もうよいのですか」
「はい」
「母上は、私がいないほうがよいのですか」
「あなたがいない時間も必要なのです」
光る君は悲しそうな顔をした。
更衣は、その感情を慌てて消そうとはしなかった。
「寂しかったのですね」
「はい」
「けれど、母上が一人で過ごしたいことは、あなたを愛していないという意味ではございません」
「分かりません」
「今は、分からなくてもよいのです」
更衣は光る君の隣へ座った。
「分からないままでも、母上はここにおります」
光る君は、少しずつ機嫌を直した。
「明日も?」
「明日も」
◇
宮中では、桐壺更衣の色が褪せたと噂された。
帝の寵愛を失い、里へ退いた。
以前ほど華やかな衣をまとわなくなった。
人前へ出ることも減った。
退紅の衣のように、鮮やかな紅から遠ざかった女だと。
けれど、更衣は以前よりよく眠った。
食事を取り、庭を歩き、ときには声を立てて笑った。
帝を愛する心も消えてはいなかった。
ただ、その愛のために夜ごと危険な廊を歩くことはなくなった。
帝が寂しいと言っても、すぐに御前へ駆けつけることも。
光る君が泣いても、すべての外出をやめることもなかった。
更衣は、誰かの寂しさを埋めるためだけに生きることをやめた。
その代わり、帰ると約束した日には帰った。
光る君を叱ったあとも、そばにいた。
帝と会えない日にも、次に会える日を伝えた。
愛するとは、いつも望みを叶えることではない。
呼ばれれば必ず参ることでも。
相手を一人にしないため、自分のすべてを差し出すことでもない。
離れても、帰ること。
怒っても、見捨てないこと。
相手の心が自分以外へ向く時間を認めること。
更衣は、それを言葉だけではなく、日々の暮らしで光る君へ示した。
◇
ある春の夕方、更衣は一人で母と寺へ出かけた。
光る君は、以前のように泣かなかった。
「夕暮れには戻りますか」
「はい」
「遅れたら?」
「遅れそうなら、使いを出します」
「分かりました」
光る君は、母の衣をつかまなかった。
門のところまで見送った。
更衣の車が見えなくなると、少し寂しくなった。
けれど、庭へ戻り、乳母と遊んだ。
木の枝を集め、石を並べ、小さな家を作った。
日が傾く頃、遠くから車の音が聞こえた。
光る君は立ち上がった。
走り出しかけて、途中で足を止めた。
母は、自分が走って迎えなくても帰ってくる。
そう思った。
それでも、嬉しくて門へ向かった。
更衣が車から降りた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
光る君は答えた。
更衣は、その声に微笑んだ。
「今日は、何をしておりましたか」
「家を作りました」
「どなたのお家ですか」
光る君は少し考えた。
「帰ってきたい人のお家です」
「それは、よいお家ですね」
更衣は、光る君の手を取った。
二人で庭へ戻る。
古い桐の木の向こうに、淡い夕焼けが広がっていた。
光る君は、母の手を握って歩いた。
強く引き留めるためではない。
明日には離すことができると知っている手だった。
この子が、これから一度も人を傷つけずに生きるとは限らない。
美しさや才を褒められ、多くの望みを叶えられれば、自分の願いは誰にでも受け入れられると思う日が来るかもしれない。
けれど光る君は、母の消えた面影を探して育つことはなかった。
誰かを母の代わりへ作り替えなくてもよかった。
人が離れるたび、二度と戻らないと怯えなくてもよかった。
愛する人に自分以外の心があることを、幼い頃から知っていた。
何より、光る君は、帰ってくる人の足音を知って育った。




