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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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4/19

宵花

【原作では】

夕顔は、頭中将との間に娘・玉鬘をもうけた女性で、正妻からの圧迫を逃れて身を隠していました。

その後、素性を隠して通ってきた光源氏と契り、源氏に連れ出されて「なにがしの院」と呼ばれる廃院へ移ります。

そこで物の怪に襲われ、若くして命を落とし、残された玉鬘は乳母たちとともに筑紫へ下ります。

日が沈む頃になると、五条の邸には白い花が開いた。


崩れかけた築地の下。

板の外れた垣の隙間。

人の住まなくなった隣家から伸びた蔓にも、夕闇の中へ浮かび上がるように花が咲いている。

昼には、葉の陰へ身を隠している。

暮れ方になると、いつの間にかそこにいた。

名も告げず、白い顔だけを見せている。


人々は、その花を夕顔と呼んだ。

そして、この荒れた邸に暮らす女もまた、いつからか夕顔と呼ばれていた。


本当の名を知る者は少ない。

知っている者も、今では呼ぼうとしなかった。


夕顔は御簾の内に座り、幼い娘の髪を撫でていた。

娘は遊び疲れ、母の膝へ頬を寄せて眠っている。

小さな手には、古い布で作った人形が握られていた。


「姫様」


女房の右近が、妻戸の外から声をかけた。


「先ほどの御車が、また邸の前で止まりました」


夕顔は娘の髪を撫でたまま、顔を上げた。


「昨日と同じ御車ですか」


「はい。目立たぬ造りではございますが、牛も、供の者も、並の殿方のものではございません」


蔀の外には、もう夜の色が溜まり始めていた。

隣家の板塀は黒い影となり、その下に咲いた夕顔だけが、薄く光って見える。


「何をなさっていたのです」


「花を御覧になっておりました」


「花を?」


「たいそう珍しそうに」


右近は少し笑った。


「一枝、差し上げてはいかがでしょう」


「見知らぬ方へ?」


「見知らぬ方だからこそ、歌だけでも」


夕顔は、眠る娘へ目を落とした。


名も知らぬ男へ文を送ることなど、以前なら考えなかった。

けれど、長く閉じていた心のどこかで、ほんの少し、誰かと言葉を交わしてみたいとも思った。


夕顔は白い扇を取り出した。

右近が摘んできた花を載せ、細い筆で歌を書き添える。


心あてにそれかとぞ見る白露の

光そへたる夕顔の花


右近が扇を持って出ていった。


やがて、暮れ残った空の色が消える頃、返事が届いた。


寄りてこそそれかとも見めたそかれに

ほのぼの見つる花の夕顔


夕顔は、その歌を幾度か読み返した。

流れるような文字だった。

言葉にも、余裕がある。

女の心を喜ばせることに慣れた男の歌だった。


「御名は」


夕顔が尋ねると、右近は首を振った。


「明かされませんでした」


夕顔は文を畳んだ。


名を告げない男。

名を尋ねることのできない女。

たそがれの間だけ咲く花には、ふさわしい出会いなのかもしれなかった。


◇


男は、その後も夕顔のもとを訪れた。

いつも夜になってから現れ、夜が明ける前には帰っていく。

御簾の外へ広がる闇とともに訪れ、鳥の声が聞こえるより先に姿を消した。

名は明かさなかった。


夕顔も、初めは尋ねなかった。


華やかな香。

暗がりの中でも分かる、上質な衣。

人へ命じることに慣れていながら、声を荒らげる必要など一度もなかった者の話し方。

身分の高い男であることは分かっていた。


「なぜ、御名を教えてくださらないのです」


ある夜、夕顔は尋ねた。


外では雨が降っていた。

細い雨だった。

軒から落ちる水が、同じ場所を絶えず打っている。


男は、少しだけ笑った。


「名がなければ、会えませんか」


「お呼びすることができません」


「呼ばずとも、参ります」


「いつまで」


男は答えなかった。

代わりに、夕顔の髪へ手を伸ばした。


「そのような先のことを考えず、今宵だけを楽しめばよいでしょう」


優しい声だった。


だからこそ、夕顔の胸には、冷たいものが残った。

男にとっては、今宵だけでよいのだ。


夜が明ければ、帰る場所がある。

夕顔は、几帳の向こうへ目を向けた。

娘は別の部屋で、乳母とともに眠っている。


男は、夕顔に娘がいることを知らない。

夕顔も、知らせようとはしなかった。

娘の父であった人も、かつては夕顔を深く愛していると言った。

けれど、家の者に二人のことを知られると、夕顔を残して去っていった。


自分には抗えない事情がある。

必ず迎えに戻る。

そう告げたきり、来なかった。

何も求めなければ、失望することもない。

夕顔は、そのようにして生きてきた。


「どうしました」


男が尋ねた。


「何でもございません」


夕顔は微笑んだ。

以前から、何もないように笑うことだけは得意だった。


◇


夏の終わり。

男は夕顔を、別の邸へ連れ出した。


「ここは、人の目が多すぎる」


夜が深くなってから、男はそう言った。

牛車の簾の向こうには、五条の町の暗い屋根が続いている。


夕顔は迷った。

娘を置いていきたくなかった。


「夜明けまでには戻ります」


男は言った。


「右近も一緒です。何を心配しているのです」


娘は乳母に抱かれ、静かに眠っていた。


一夜だけ。

朝には戻れる。

夕顔は、娘の寝顔を長く見つめたあと、牛車へ乗った。


連れていかれたのは、街外れにある、なにがしの院と呼ばれる古い邸だった。

高い木々が屋根へ覆いかぶさっている。

門の脇では草が人の背ほどまで伸び、牛車の車輪に踏まれて、湿った音を立てた。

人の住まなくなった建物には、独特の匂いがある。


雨を吸った木。

古い塵。

閉ざされた部屋の中で、長い年月をかけて腐った衣のような匂い。

廊には、近頃人が歩いた跡がなかった。

柱の陰に何かがいるように見えて、見直せば、朽ちた簾が垂れているだけだった。


「ここに、誰か住んでいるのですか」


夕顔が尋ねた。


「今は、誰も」


男は、気にした様子もなく答えた。


「静かでよいでしょう」


静かすぎた。

遠くで虫が鳴いている。

その声も、不意に切れた。

次の声が上がるまでの間に、邸全体が息を潜めているように思えた。

室内には、急いで整えたらしい寝具が置かれていた。


燈台の火が揺れている。

妻戸は閉じられている。

それでも、冷たい風がどこからか入り込み、夕顔の衣の裾を動かした。


「お顔の色が悪い」


男が言った。


「帰りとうございます」


「もう夜も深い」


「それでも」


「夜が明ければ戻りましょう」


男は、夕顔の手を取った。

その手は温かかった。

けれど夕顔の指先は、触れられるほどに冷えていった。


燈台の火が、急に細くなった。

壁に映った二人の影が、長く伸びる。

その間に、もう一つの影があった。

夕顔は息を止めた。


部屋の隅に、一人の女が立っている。


白い袿。

床へ流れる黒い髪。

顔は暗がりに沈んで見えない。

それでも、その女が自分を見ていることだけは分かった。


甘く重い香りがした。

芥子を焚いたときのような、胸の奥へまとわりつく香りだった。


『名もない花』


声は、耳からではなく、身体の内側から聞こえた。


『あの方に摘まれるために、咲いたのですか』


夕顔は息をのんだ。

男は何も気づいていない。


「どうしました」


白い女が、一歩近づいた。

足音はしなかった。


燈台の火が消えた。

闇が落ちた。

冷たい指が、夕顔の胸をつかんだ。


息ができない。

声が出ない。

身体の内側から、力だけが吸い出されていく。

遠くで、子どもの泣き声が聞こえた。


この邸に子どもはいない。

それでも夕顔には、娘の声だと分かった。


母を呼んでいる。

暗い部屋で目を覚まし、夕顔を探している。

帰らなければならない。


夕顔は、動かない指を握った。


『あなたには何もない』


女の声がした。


『名も。家も。あの方に選ばれる理由も』


夕顔は、必死に息を吸った。


「あります」


かすれた声が漏れた。

男が夕顔の肩を抱いた。


「何を」


夕顔は、闇の中に立つ女を見た。


「私には、娘がおります」


影が揺らいだ。


「私を待つ子がいるのです」


胸を押さえていたものが、さらに強くなる。

視界が暗く狭まった。

それでも夕顔は目を閉じなかった。


「私は、名のない花ではありません」


それは、白い女へというより、自分へ言い聞かせる言葉だった。


「誰かに摘まれるために、咲いているのでもない」


娘の声が、もう一度聞こえた。

夕顔は男の腕をつかんだ。


「妻戸を開けてください」


「今、外へ出るのは危険です」


「ここにいるほうが危険です」


夕顔は立ち上がった。

膝に力が入らない。

それでも、床へ手をつき、一歩ずつ戸へ向かった。


右近が駆け寄り、妻戸へ手をかける。

戸は、外側から押さえられているように動かなかった。


「右近」


二人で力を込める。


木が軋んだ。

やがて戸は、何かを振り払うように大きく開いた。

夜の空気が、一気に室内へ流れ込んだ。

庭の草がざわめいた。


消えていた燈台に、火が戻った。

部屋の隅には、誰もいない。

ただ、床に長い黒髪が一本、濡れたように光っていた。


◇


夕顔は夜明けを待たず、五条の邸へ戻った。

娘は、乳母に抱かれて泣いていた。

夕顔の姿を見ると、小さな腕を伸ばした。


「母上」


夕顔は娘を抱き上げた。

小さな身体は温かかった。

その重みを腕に感じた瞬間、身体から力が抜けた。

夕顔は娘を抱いたまま、声を殺して泣いた。


死ぬところだった。

名も知らぬ男の腕の中で。

娘がいることさえ、誰にも知られないまま。

夜が明けると、庭の夕顔はすべて萎れていた。

白い花弁は、雨に濡れた紙のように地面へ垂れている。


けれど蔓は、まだ生きていた。


◇


数日後、男が再び訪れた。

今度は、夜ではなかった。

日が高く、庭の夕顔も葉の陰で花を閉じている。


「お具合は」


「もう、よろしゅうございます」


「先夜は、恐ろしい思いをさせました」


男は頭を下げた。


「私の落ち度です」


夕顔は、御簾の内から男を見た。


「御名を、お聞かせくださいませ」


長い沈黙があった。

やがて男は、自らが光源氏であると明かした。

驚きよりも、納得のほうが大きかった。


名を明かさなかった理由も。

夜にしか訪れなかった理由も。

すべて、その名の大きさの中に隠れていた。


「私のもとへ来ませんか」


光源氏が言った。


「このような場所で暮らさずともよいようにいたします」


夕顔は、娘を膝へ抱いていた。

御簾があるため、光源氏からは見えない。


「どのような者として、置いてくださるのです」


「不自由はさせません」


「私の名を、人前でお呼びになりますか」


光源氏は答えなかった。


「この子のことも、世に明かしてくださいますか」


娘が夕顔の袖で遊んでいる。

御簾の外で、光源氏が動いた。


「子がいるのですか」


「はい」


「父親は」


「今は、それを申し上げるつもりはございません」


夕顔は娘の手を握った。


「私は、あの夜、名もない女として死ぬところでした」


「そのようなことは」


「あなたは、私の名も、私が何を守っているのかも、何一つ御存じなかった」


夕顔は静かに言った。


「それでも、私を愛しているとおっしゃった」


光源氏は言葉を失った。


「人目から隠すことと、守ることは違います」


「では、何を望むのです」


夕顔は、庭の閉じた花を見た。


「朝になっても、私と娘の名を呼んでくださる方と暮らしたいのです」


光源氏は、長いあいだ何も言わなかった。


「私には、それを約束できないとお思いなのですね」


夕顔は答えなかった。

答えないことが、答えだった。


◇


夕顔は五条の邸を離れた。

あの邸には、夜の気配が染みつきすぎていた。


乳母の縁を頼り、少し離れた場所に小さな家を借りた。

古びてはいたが、屋根は壊れていない。

朝になれば、庭まで日が差した。

夕顔は昼間にも外へ出るようになった。

娘と庭を歩き、自ら白い花の種を植えた。


光源氏からは、何度か文が届いた。


美しい紙。

美しい歌。

夕顔は一度だけ返事を書いた。


どうぞ、御自分が朝に帰る場所を、大切になさいませ。


それきり、文を送ることはなかった。


◇


秋の初め。


一台の牛車が、夕顔の家の前へ止まった。

降りてきた男を見て、右近が息をのんだ。


頭中将だった。

夕顔が、まだ別の名で呼ばれていた頃に愛した男。

娘の父でもあった。


頭中将が夕顔の生存を知ったのは、右近の叔母からだった。

叔母は以前、頭中将の家に仕えていた。

夕顔が死んだという噂を聞き、娘の将来を案じた右近が、ひそかに消息を伝えたのだった。

御簾を隔てて向かい合うのは、幾年ぶりか分からない。


「生きていたのですね」


頭中将の声は震えていた。


「亡くなったとの噂を聞きました」


「一度は、そのようになりかけました」


「なぜ、私を頼らなかったのです」


夕顔は、娘の髪を撫でた。


「頼れば、迎えに来てくださったのですか」


頭中将は答えられなかった。


「家の者があなたを脅したことを知ったのは、姿を消されたあとでした」


「それでも、あなたはお戻りにならなかった」


「探しました」


頭中将は言った。


「けれど、あなたは名も住まいも変えていた」


「見つからなければ、諦めてもよかったのですね」


「違います」


返事は早かった。

けれど、そのあとの言葉が続かなかった。

夕顔は目を伏せた。


「娘に、会わせていただけませんか」


頭中将が言った。


「私の子です」


「あなたの家で、そのように呼べますか」


御簾の外が静かになった。


「人に隠さず、この子を娘だとおっしゃることができますか」


「それは」


「できないのであれば、お会わせいたしません」


「夕顔」


「その名でお呼びにならないでください」


夕顔の声は穏やかだった。


「あなたは、私の本当の名を御存じでしょう」


頭中将の顔に、痛みが走った。


「私は、もう隠されるために戻るつもりはございません」


頭中将は、その日は一人で帰った。


◇


それからひと月後。


再び牛車が止まった。

今度は、ひそかな訪れではなかった。

供の者を従え、明るいうちに門をくぐった。

頭中将は、正式な書状を携えていた。


「父君と家司に、娘のことを明かしました」


夕顔は書状を見つめた。


そこには、幼い姫君が頭中将の娘であることが、父の名とともに記されていた。

娘のための財と、住まいについても定められている。

隠れて暮らさなくともよいように。

父のいない子と呼ばれぬように。


「家の者は、お怒りになったでしょう」


「はい」


頭中将は苦く笑った。


「それでも、今度は逃げませんでした」


「今度は」


「あなたを失ったのは、家の者に逆らえなかったからではありません」


頭中将は言った。


「逆らうと決めなかった、私の責任です」


夕顔は顔を上げた。


「迎えに来たとは申しません」


「なぜです」


「その言葉で、再びあなたの行く先を決めたくはない」


頭中将は、御簾の奥へ書状を差し出した。


「まず、娘に名を返しに参りました」


「名を」


「私の娘として、誰の前でもそう呼びます」


娘が、御簾の隙間から男を見ていた。


「父上なのですか」


幼い声だった。

頭中将の目が大きく見開かれた。


「はい」


声がかすれていた。


「私が、あなたの父です」


娘は夕顔を見た。

夕顔が頷くと、御簾の外へ小さな手を伸ばした。

頭中将は、その手を両手で包んだ。

伏せた顔の下で、肩がかすかに震えていた。


後に玉鬘と呼ばれる姫君が、初めて父の手に触れた日だった。


◇


頭中将は、それから夕顔の家へ通うようになった。


夜だけではなかった。

人目を避けることもなかった。

娘へ書物や人形を持ってきた。

何も持たず、ただ一緒に庭を歩く日もあった。


夕顔が会いたくないと告げた日は、無理に入ろうとはしなかった。

門へ短い文を置いて帰った。

次に訪れる日と、来られない理由が書かれていた。


ある日、頭中将の牛車と、光源氏の牛車が門前で行き合った。

光源氏も、夕顔が生きていることを聞き、再び訪れたのだった。


「随分と堂々と通われるようになりましたね」


光源氏が言った。


「隠して、失いましたから」


頭中将は答えた。


「二度と、同じことはいたしません」


「夕顔が、あなたを選んだと?」


「まだです」


「では、私にも機会はある」


御簾の外から、二人の声が聞こえてくる。

夕顔は扇を閉じた。


「お二人とも、お帰りくださいませ」


外が静かになった。


「今日は、娘と出かける約束がございます」


「私も御一緒しては」


頭中将が言った。


「父親なのですから」


光源氏も口を挟んだ。


「牛車なら、私が御用意できます」


「結構です」


夕顔は、きっぱりと答えた。


「今日は、私と娘だけで参ります」


二人の男は、そろって黙った。

やがて頭中将が、かすかに笑った。


「分かりました」


光源氏も、困ったように息をついた。


「以前のあなたなら、そのようなことはおっしゃらなかった」


「以前の私ではございませんから」


二台の牛車が去ったあと、右近が声を立てて笑った。


「都でも名高い御二方を、同時に追い返す女君など、姫様くらいでございます」


夕顔も笑った。

娘が、その手を引く。


「早く参りましょう」


「ええ」


夕顔は、明るい昼の中へ出た。

顔を隠すためではなく、日差しを避けるために扇を開いた。


◇


一年が過ぎた。


頭中将は、変わらず通い続けた。

娘を正式に自らの子として遇し、夕顔と娘の住む邸を、自分の別邸として公に整えた。

夕顔を妻の一人として迎えたいとも申し出た。

けれど、返事を急かすことはなかった。


ある夕暮れ。

庭の夕顔が、一斉に花を開いた。

頭中将は、娘とともに花の数を数えていた。


「二十三」


娘が言った。


「こちらにもう一つあります」


「では、二十四」


「父上は、数えるのがお下手ですね」


「あなたが速すぎるのです」


二人の笑い声を、夕顔は廂から聞いていた。

頭中将が顔を上げる。


「どうしました」


「いいえ」


夕顔は首を振った。


「何も」


以前は、心を隠すために、その言葉を使っていた。

今は、本当に何も恐れていなかった。


「こちらへいらっしゃいませんか」


頭中将が言った。

夕顔は庭へ下りた。

娘が二人の間に立ち、両方の手を取った。


「母上も、父上と一緒に暮らすのでしょう?」


夕顔は、頭中将を見た。

彼は、答えを求めるような目をしていなかった。

ただ、夕顔の言葉を待っていた。


「あなたは、私をお迎えになるのですか」


夕顔が尋ねた。

頭中将は首を振った。


「あなたが来てくださるなら、ともに帰りたいと思っております」


「同じことではございませんか」


「違います」


頭中将は静かに答えた。


「あなたの行く先を、私が決めるのではありません」


夕顔は、白い花を見た。


夜に咲く花。

人知れず開き、朝には萎む花。

かつて夕顔は、自分もそのような女なのだと思っていた。


暗がりの中でだけ愛される。

誰にも名を知られぬまま、夜が明ければ消えていく。


けれど、もう違う。

朝が来ても、娘は母の名を呼ぶ。

頭中将は、人前でも娘を自分の子と呼ぶ。

夕顔自身も、名を隠さず生きていくことができる。


「では」


夕顔は娘の手を握った。


「私が、あなたとともに参ります」


頭中将は、すぐには何も言わなかった。

娘が嬉しそうに声を上げる。


「父上」


「聞こえています」


頭中将は顔を背けた。

夕顔には、その目がわずかに濡れているのが見えた。


「泣いておられるのですか」


「まさか」


「娘の前で、嘘をついてはいけません」


夕顔が言うと、頭中将は困ったように笑った。


「では、少しだけ」


三人で、白い花の間を歩いた。


◇


翌朝。


庭の夕顔は、朝露に濡れて萎れていた。

白い花弁は閉じ、昨日の面影を失っている。

けれど、蔓の先には新しい蕾がついていた。


夕顔は妻戸を開けた。

光が室内へ入り、眠っていた娘の顔を照らす。

隣では、頭中将が娘に袖をつかまれたまま眠っていた。

昨夜、話をせがまれ、途中で二人とも眠ってしまったらしい。


夕顔は、その姿をしばらく見つめた。


もう、灯の消えた部屋で誰かを待つことはない。

誰かが去ったあとに、何もないふりをする必要もない。


宵に咲く花は、朝には萎む。

けれど夕顔は、朝の光の中に立っていた。

娘が目を覚まし、夕顔へ手を伸ばす。


「母上」


続いて、頭中将も目を開けた。


「おはようございます」


夕顔は笑った。


「おはようございます」


その名を呼ぶ声がある。

帰る場所がある。


そして今度は、自分で選んだ人が、朝になっても隣にいた。

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