宵花
【原作では】
夕顔は、頭中将との間に娘・玉鬘をもうけた女性で、正妻からの圧迫を逃れて身を隠していました。
その後、素性を隠して通ってきた光源氏と契り、源氏に連れ出されて「なにがしの院」と呼ばれる廃院へ移ります。
そこで物の怪に襲われ、若くして命を落とし、残された玉鬘は乳母たちとともに筑紫へ下ります。
日が沈む頃になると、五条の邸には白い花が開いた。
崩れかけた築地の下。
板の外れた垣の隙間。
人の住まなくなった隣家から伸びた蔓にも、夕闇の中へ浮かび上がるように花が咲いている。
昼には、葉の陰へ身を隠している。
暮れ方になると、いつの間にかそこにいた。
名も告げず、白い顔だけを見せている。
人々は、その花を夕顔と呼んだ。
そして、この荒れた邸に暮らす女もまた、いつからか夕顔と呼ばれていた。
本当の名を知る者は少ない。
知っている者も、今では呼ぼうとしなかった。
夕顔は御簾の内に座り、幼い娘の髪を撫でていた。
娘は遊び疲れ、母の膝へ頬を寄せて眠っている。
小さな手には、古い布で作った人形が握られていた。
「姫様」
女房の右近が、妻戸の外から声をかけた。
「先ほどの御車が、また邸の前で止まりました」
夕顔は娘の髪を撫でたまま、顔を上げた。
「昨日と同じ御車ですか」
「はい。目立たぬ造りではございますが、牛も、供の者も、並の殿方のものではございません」
蔀の外には、もう夜の色が溜まり始めていた。
隣家の板塀は黒い影となり、その下に咲いた夕顔だけが、薄く光って見える。
「何をなさっていたのです」
「花を御覧になっておりました」
「花を?」
「たいそう珍しそうに」
右近は少し笑った。
「一枝、差し上げてはいかがでしょう」
「見知らぬ方へ?」
「見知らぬ方だからこそ、歌だけでも」
夕顔は、眠る娘へ目を落とした。
名も知らぬ男へ文を送ることなど、以前なら考えなかった。
けれど、長く閉じていた心のどこかで、ほんの少し、誰かと言葉を交わしてみたいとも思った。
夕顔は白い扇を取り出した。
右近が摘んできた花を載せ、細い筆で歌を書き添える。
心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顔の花
右近が扇を持って出ていった。
やがて、暮れ残った空の色が消える頃、返事が届いた。
寄りてこそそれかとも見めたそかれに
ほのぼの見つる花の夕顔
夕顔は、その歌を幾度か読み返した。
流れるような文字だった。
言葉にも、余裕がある。
女の心を喜ばせることに慣れた男の歌だった。
「御名は」
夕顔が尋ねると、右近は首を振った。
「明かされませんでした」
夕顔は文を畳んだ。
名を告げない男。
名を尋ねることのできない女。
たそがれの間だけ咲く花には、ふさわしい出会いなのかもしれなかった。
◇
男は、その後も夕顔のもとを訪れた。
いつも夜になってから現れ、夜が明ける前には帰っていく。
御簾の外へ広がる闇とともに訪れ、鳥の声が聞こえるより先に姿を消した。
名は明かさなかった。
夕顔も、初めは尋ねなかった。
華やかな香。
暗がりの中でも分かる、上質な衣。
人へ命じることに慣れていながら、声を荒らげる必要など一度もなかった者の話し方。
身分の高い男であることは分かっていた。
「なぜ、御名を教えてくださらないのです」
ある夜、夕顔は尋ねた。
外では雨が降っていた。
細い雨だった。
軒から落ちる水が、同じ場所を絶えず打っている。
男は、少しだけ笑った。
「名がなければ、会えませんか」
「お呼びすることができません」
「呼ばずとも、参ります」
「いつまで」
男は答えなかった。
代わりに、夕顔の髪へ手を伸ばした。
「そのような先のことを考えず、今宵だけを楽しめばよいでしょう」
優しい声だった。
だからこそ、夕顔の胸には、冷たいものが残った。
男にとっては、今宵だけでよいのだ。
夜が明ければ、帰る場所がある。
夕顔は、几帳の向こうへ目を向けた。
娘は別の部屋で、乳母とともに眠っている。
男は、夕顔に娘がいることを知らない。
夕顔も、知らせようとはしなかった。
娘の父であった人も、かつては夕顔を深く愛していると言った。
けれど、家の者に二人のことを知られると、夕顔を残して去っていった。
自分には抗えない事情がある。
必ず迎えに戻る。
そう告げたきり、来なかった。
何も求めなければ、失望することもない。
夕顔は、そのようにして生きてきた。
「どうしました」
男が尋ねた。
「何でもございません」
夕顔は微笑んだ。
以前から、何もないように笑うことだけは得意だった。
◇
夏の終わり。
男は夕顔を、別の邸へ連れ出した。
「ここは、人の目が多すぎる」
夜が深くなってから、男はそう言った。
牛車の簾の向こうには、五条の町の暗い屋根が続いている。
夕顔は迷った。
娘を置いていきたくなかった。
「夜明けまでには戻ります」
男は言った。
「右近も一緒です。何を心配しているのです」
娘は乳母に抱かれ、静かに眠っていた。
一夜だけ。
朝には戻れる。
夕顔は、娘の寝顔を長く見つめたあと、牛車へ乗った。
連れていかれたのは、街外れにある、なにがしの院と呼ばれる古い邸だった。
高い木々が屋根へ覆いかぶさっている。
門の脇では草が人の背ほどまで伸び、牛車の車輪に踏まれて、湿った音を立てた。
人の住まなくなった建物には、独特の匂いがある。
雨を吸った木。
古い塵。
閉ざされた部屋の中で、長い年月をかけて腐った衣のような匂い。
廊には、近頃人が歩いた跡がなかった。
柱の陰に何かがいるように見えて、見直せば、朽ちた簾が垂れているだけだった。
「ここに、誰か住んでいるのですか」
夕顔が尋ねた。
「今は、誰も」
男は、気にした様子もなく答えた。
「静かでよいでしょう」
静かすぎた。
遠くで虫が鳴いている。
その声も、不意に切れた。
次の声が上がるまでの間に、邸全体が息を潜めているように思えた。
室内には、急いで整えたらしい寝具が置かれていた。
燈台の火が揺れている。
妻戸は閉じられている。
それでも、冷たい風がどこからか入り込み、夕顔の衣の裾を動かした。
「お顔の色が悪い」
男が言った。
「帰りとうございます」
「もう夜も深い」
「それでも」
「夜が明ければ戻りましょう」
男は、夕顔の手を取った。
その手は温かかった。
けれど夕顔の指先は、触れられるほどに冷えていった。
燈台の火が、急に細くなった。
壁に映った二人の影が、長く伸びる。
その間に、もう一つの影があった。
夕顔は息を止めた。
部屋の隅に、一人の女が立っている。
白い袿。
床へ流れる黒い髪。
顔は暗がりに沈んで見えない。
それでも、その女が自分を見ていることだけは分かった。
甘く重い香りがした。
芥子を焚いたときのような、胸の奥へまとわりつく香りだった。
『名もない花』
声は、耳からではなく、身体の内側から聞こえた。
『あの方に摘まれるために、咲いたのですか』
夕顔は息をのんだ。
男は何も気づいていない。
「どうしました」
白い女が、一歩近づいた。
足音はしなかった。
燈台の火が消えた。
闇が落ちた。
冷たい指が、夕顔の胸をつかんだ。
息ができない。
声が出ない。
身体の内側から、力だけが吸い出されていく。
遠くで、子どもの泣き声が聞こえた。
この邸に子どもはいない。
それでも夕顔には、娘の声だと分かった。
母を呼んでいる。
暗い部屋で目を覚まし、夕顔を探している。
帰らなければならない。
夕顔は、動かない指を握った。
『あなたには何もない』
女の声がした。
『名も。家も。あの方に選ばれる理由も』
夕顔は、必死に息を吸った。
「あります」
かすれた声が漏れた。
男が夕顔の肩を抱いた。
「何を」
夕顔は、闇の中に立つ女を見た。
「私には、娘がおります」
影が揺らいだ。
「私を待つ子がいるのです」
胸を押さえていたものが、さらに強くなる。
視界が暗く狭まった。
それでも夕顔は目を閉じなかった。
「私は、名のない花ではありません」
それは、白い女へというより、自分へ言い聞かせる言葉だった。
「誰かに摘まれるために、咲いているのでもない」
娘の声が、もう一度聞こえた。
夕顔は男の腕をつかんだ。
「妻戸を開けてください」
「今、外へ出るのは危険です」
「ここにいるほうが危険です」
夕顔は立ち上がった。
膝に力が入らない。
それでも、床へ手をつき、一歩ずつ戸へ向かった。
右近が駆け寄り、妻戸へ手をかける。
戸は、外側から押さえられているように動かなかった。
「右近」
二人で力を込める。
木が軋んだ。
やがて戸は、何かを振り払うように大きく開いた。
夜の空気が、一気に室内へ流れ込んだ。
庭の草がざわめいた。
消えていた燈台に、火が戻った。
部屋の隅には、誰もいない。
ただ、床に長い黒髪が一本、濡れたように光っていた。
◇
夕顔は夜明けを待たず、五条の邸へ戻った。
娘は、乳母に抱かれて泣いていた。
夕顔の姿を見ると、小さな腕を伸ばした。
「母上」
夕顔は娘を抱き上げた。
小さな身体は温かかった。
その重みを腕に感じた瞬間、身体から力が抜けた。
夕顔は娘を抱いたまま、声を殺して泣いた。
死ぬところだった。
名も知らぬ男の腕の中で。
娘がいることさえ、誰にも知られないまま。
夜が明けると、庭の夕顔はすべて萎れていた。
白い花弁は、雨に濡れた紙のように地面へ垂れている。
けれど蔓は、まだ生きていた。
◇
数日後、男が再び訪れた。
今度は、夜ではなかった。
日が高く、庭の夕顔も葉の陰で花を閉じている。
「お具合は」
「もう、よろしゅうございます」
「先夜は、恐ろしい思いをさせました」
男は頭を下げた。
「私の落ち度です」
夕顔は、御簾の内から男を見た。
「御名を、お聞かせくださいませ」
長い沈黙があった。
やがて男は、自らが光源氏であると明かした。
驚きよりも、納得のほうが大きかった。
名を明かさなかった理由も。
夜にしか訪れなかった理由も。
すべて、その名の大きさの中に隠れていた。
「私のもとへ来ませんか」
光源氏が言った。
「このような場所で暮らさずともよいようにいたします」
夕顔は、娘を膝へ抱いていた。
御簾があるため、光源氏からは見えない。
「どのような者として、置いてくださるのです」
「不自由はさせません」
「私の名を、人前でお呼びになりますか」
光源氏は答えなかった。
「この子のことも、世に明かしてくださいますか」
娘が夕顔の袖で遊んでいる。
御簾の外で、光源氏が動いた。
「子がいるのですか」
「はい」
「父親は」
「今は、それを申し上げるつもりはございません」
夕顔は娘の手を握った。
「私は、あの夜、名もない女として死ぬところでした」
「そのようなことは」
「あなたは、私の名も、私が何を守っているのかも、何一つ御存じなかった」
夕顔は静かに言った。
「それでも、私を愛しているとおっしゃった」
光源氏は言葉を失った。
「人目から隠すことと、守ることは違います」
「では、何を望むのです」
夕顔は、庭の閉じた花を見た。
「朝になっても、私と娘の名を呼んでくださる方と暮らしたいのです」
光源氏は、長いあいだ何も言わなかった。
「私には、それを約束できないとお思いなのですね」
夕顔は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
◇
夕顔は五条の邸を離れた。
あの邸には、夜の気配が染みつきすぎていた。
乳母の縁を頼り、少し離れた場所に小さな家を借りた。
古びてはいたが、屋根は壊れていない。
朝になれば、庭まで日が差した。
夕顔は昼間にも外へ出るようになった。
娘と庭を歩き、自ら白い花の種を植えた。
光源氏からは、何度か文が届いた。
美しい紙。
美しい歌。
夕顔は一度だけ返事を書いた。
どうぞ、御自分が朝に帰る場所を、大切になさいませ。
それきり、文を送ることはなかった。
◇
秋の初め。
一台の牛車が、夕顔の家の前へ止まった。
降りてきた男を見て、右近が息をのんだ。
頭中将だった。
夕顔が、まだ別の名で呼ばれていた頃に愛した男。
娘の父でもあった。
頭中将が夕顔の生存を知ったのは、右近の叔母からだった。
叔母は以前、頭中将の家に仕えていた。
夕顔が死んだという噂を聞き、娘の将来を案じた右近が、ひそかに消息を伝えたのだった。
御簾を隔てて向かい合うのは、幾年ぶりか分からない。
「生きていたのですね」
頭中将の声は震えていた。
「亡くなったとの噂を聞きました」
「一度は、そのようになりかけました」
「なぜ、私を頼らなかったのです」
夕顔は、娘の髪を撫でた。
「頼れば、迎えに来てくださったのですか」
頭中将は答えられなかった。
「家の者があなたを脅したことを知ったのは、姿を消されたあとでした」
「それでも、あなたはお戻りにならなかった」
「探しました」
頭中将は言った。
「けれど、あなたは名も住まいも変えていた」
「見つからなければ、諦めてもよかったのですね」
「違います」
返事は早かった。
けれど、そのあとの言葉が続かなかった。
夕顔は目を伏せた。
「娘に、会わせていただけませんか」
頭中将が言った。
「私の子です」
「あなたの家で、そのように呼べますか」
御簾の外が静かになった。
「人に隠さず、この子を娘だとおっしゃることができますか」
「それは」
「できないのであれば、お会わせいたしません」
「夕顔」
「その名でお呼びにならないでください」
夕顔の声は穏やかだった。
「あなたは、私の本当の名を御存じでしょう」
頭中将の顔に、痛みが走った。
「私は、もう隠されるために戻るつもりはございません」
頭中将は、その日は一人で帰った。
◇
それからひと月後。
再び牛車が止まった。
今度は、ひそかな訪れではなかった。
供の者を従え、明るいうちに門をくぐった。
頭中将は、正式な書状を携えていた。
「父君と家司に、娘のことを明かしました」
夕顔は書状を見つめた。
そこには、幼い姫君が頭中将の娘であることが、父の名とともに記されていた。
娘のための財と、住まいについても定められている。
隠れて暮らさなくともよいように。
父のいない子と呼ばれぬように。
「家の者は、お怒りになったでしょう」
「はい」
頭中将は苦く笑った。
「それでも、今度は逃げませんでした」
「今度は」
「あなたを失ったのは、家の者に逆らえなかったからではありません」
頭中将は言った。
「逆らうと決めなかった、私の責任です」
夕顔は顔を上げた。
「迎えに来たとは申しません」
「なぜです」
「その言葉で、再びあなたの行く先を決めたくはない」
頭中将は、御簾の奥へ書状を差し出した。
「まず、娘に名を返しに参りました」
「名を」
「私の娘として、誰の前でもそう呼びます」
娘が、御簾の隙間から男を見ていた。
「父上なのですか」
幼い声だった。
頭中将の目が大きく見開かれた。
「はい」
声がかすれていた。
「私が、あなたの父です」
娘は夕顔を見た。
夕顔が頷くと、御簾の外へ小さな手を伸ばした。
頭中将は、その手を両手で包んだ。
伏せた顔の下で、肩がかすかに震えていた。
後に玉鬘と呼ばれる姫君が、初めて父の手に触れた日だった。
◇
頭中将は、それから夕顔の家へ通うようになった。
夜だけではなかった。
人目を避けることもなかった。
娘へ書物や人形を持ってきた。
何も持たず、ただ一緒に庭を歩く日もあった。
夕顔が会いたくないと告げた日は、無理に入ろうとはしなかった。
門へ短い文を置いて帰った。
次に訪れる日と、来られない理由が書かれていた。
ある日、頭中将の牛車と、光源氏の牛車が門前で行き合った。
光源氏も、夕顔が生きていることを聞き、再び訪れたのだった。
「随分と堂々と通われるようになりましたね」
光源氏が言った。
「隠して、失いましたから」
頭中将は答えた。
「二度と、同じことはいたしません」
「夕顔が、あなたを選んだと?」
「まだです」
「では、私にも機会はある」
御簾の外から、二人の声が聞こえてくる。
夕顔は扇を閉じた。
「お二人とも、お帰りくださいませ」
外が静かになった。
「今日は、娘と出かける約束がございます」
「私も御一緒しては」
頭中将が言った。
「父親なのですから」
光源氏も口を挟んだ。
「牛車なら、私が御用意できます」
「結構です」
夕顔は、きっぱりと答えた。
「今日は、私と娘だけで参ります」
二人の男は、そろって黙った。
やがて頭中将が、かすかに笑った。
「分かりました」
光源氏も、困ったように息をついた。
「以前のあなたなら、そのようなことはおっしゃらなかった」
「以前の私ではございませんから」
二台の牛車が去ったあと、右近が声を立てて笑った。
「都でも名高い御二方を、同時に追い返す女君など、姫様くらいでございます」
夕顔も笑った。
娘が、その手を引く。
「早く参りましょう」
「ええ」
夕顔は、明るい昼の中へ出た。
顔を隠すためではなく、日差しを避けるために扇を開いた。
◇
一年が過ぎた。
頭中将は、変わらず通い続けた。
娘を正式に自らの子として遇し、夕顔と娘の住む邸を、自分の別邸として公に整えた。
夕顔を妻の一人として迎えたいとも申し出た。
けれど、返事を急かすことはなかった。
ある夕暮れ。
庭の夕顔が、一斉に花を開いた。
頭中将は、娘とともに花の数を数えていた。
「二十三」
娘が言った。
「こちらにもう一つあります」
「では、二十四」
「父上は、数えるのがお下手ですね」
「あなたが速すぎるのです」
二人の笑い声を、夕顔は廂から聞いていた。
頭中将が顔を上げる。
「どうしました」
「いいえ」
夕顔は首を振った。
「何も」
以前は、心を隠すために、その言葉を使っていた。
今は、本当に何も恐れていなかった。
「こちらへいらっしゃいませんか」
頭中将が言った。
夕顔は庭へ下りた。
娘が二人の間に立ち、両方の手を取った。
「母上も、父上と一緒に暮らすのでしょう?」
夕顔は、頭中将を見た。
彼は、答えを求めるような目をしていなかった。
ただ、夕顔の言葉を待っていた。
「あなたは、私をお迎えになるのですか」
夕顔が尋ねた。
頭中将は首を振った。
「あなたが来てくださるなら、ともに帰りたいと思っております」
「同じことではございませんか」
「違います」
頭中将は静かに答えた。
「あなたの行く先を、私が決めるのではありません」
夕顔は、白い花を見た。
夜に咲く花。
人知れず開き、朝には萎む花。
かつて夕顔は、自分もそのような女なのだと思っていた。
暗がりの中でだけ愛される。
誰にも名を知られぬまま、夜が明ければ消えていく。
けれど、もう違う。
朝が来ても、娘は母の名を呼ぶ。
頭中将は、人前でも娘を自分の子と呼ぶ。
夕顔自身も、名を隠さず生きていくことができる。
「では」
夕顔は娘の手を握った。
「私が、あなたとともに参ります」
頭中将は、すぐには何も言わなかった。
娘が嬉しそうに声を上げる。
「父上」
「聞こえています」
頭中将は顔を背けた。
夕顔には、その目がわずかに濡れているのが見えた。
「泣いておられるのですか」
「まさか」
「娘の前で、嘘をついてはいけません」
夕顔が言うと、頭中将は困ったように笑った。
「では、少しだけ」
三人で、白い花の間を歩いた。
◇
翌朝。
庭の夕顔は、朝露に濡れて萎れていた。
白い花弁は閉じ、昨日の面影を失っている。
けれど、蔓の先には新しい蕾がついていた。
夕顔は妻戸を開けた。
光が室内へ入り、眠っていた娘の顔を照らす。
隣では、頭中将が娘に袖をつかまれたまま眠っていた。
昨夜、話をせがまれ、途中で二人とも眠ってしまったらしい。
夕顔は、その姿をしばらく見つめた。
もう、灯の消えた部屋で誰かを待つことはない。
誰かが去ったあとに、何もないふりをする必要もない。
宵に咲く花は、朝には萎む。
けれど夕顔は、朝の光の中に立っていた。
娘が目を覚まし、夕顔へ手を伸ばす。
「母上」
続いて、頭中将も目を開けた。
「おはようございます」
夕顔は笑った。
「おはようございます」
その名を呼ぶ声がある。
帰る場所がある。
そして今度は、自分で選んだ人が、朝になっても隣にいた。




