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もしも『源氏物語』の姫君たちが、幸せを選べたなら  作者: くるみ


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3/19

紅音

【原作では】

末摘花は、亡き常陸宮の姫君で、父を失った後、荒れた邸で琴を友にひっそりと暮らしていました。

光源氏は琴の音をきっかけに彼女へ関心を持ち、契りを結びますが、その容貌に驚き、のちには憐れみから援助を続けます。

源氏の須磨退去で援助が途絶えると再び困窮しますが、帰京した源氏と再会し、のちに二条東院へ迎えられます。

夜半から、邸のどこかで水の落ちる音がしていた。


一滴。

長い間を置いて、もう一滴。

雨はとうにやんでいる。

朽ちた屋根の裏へ入り込んだ水が、黒ずんだ梁を伝い、忘れた頃に床へ落ちてくるのだった。


燈台の火は小さい。

油を惜しんでいるためでもあったが、火を大きくすれば、荒れた室内があまりにはっきり見えてしまう。


傾いた几帳。

縁の擦り切れた畳。

色を失った壁。

人の住まなくなった渡殿の奥には、夜よりも濃い暗がりが沈んでいる。


常陸宮の姫君――人々が陰で末摘花と呼ぶ女君は、その暗がりへ背を向けて、琴を弾いていた。

薄明かりの中でも、鼻先の紅だけは隠れなかった。

それを笑う者がいることを、姫君は知っていた。

けれど琴へ指を置けば、そのことを忘れることができた。


亡き父が遺した琴だった。

表には細かな傷が走り、糸も新しいものではない。

それでも、末摘花が指を置くと、深く澄んだ音がした。

古い邸の隅々へ入り込み、誰もいない部屋を一つずつ呼び覚ましていくような音だった。


琴の前には、数冊の譜が広げられている。

紙は黄ばみ、ところどころ虫に食われていた。

音を示す文字が欠けた箇所には、末摘花自身の細い筆跡がある。


幼い頃に聞いた、父の琴。

一度しか聞かなかった曲もあった。

覚えている音を拾い、残された詞と前後の調べから、失われたところを補っていく。

幾年もかけて、少しずつ続けてきたことだった。


「姫様」


年老いた女房が、几帳の向こうから声をかけた。


「そろそろ、お休みになりませ」


「あと少しだけ」


「灯の油が、もうございません」


末摘花の指が止まった。

燈台の皿には、底が見えていた。


「では、消してください」


「譜が見えなくなります」


「この先は、覚えております」


女房はためらいながら、火を吹き消した。


闇が室内を満たした。

水の落ちる音だけが、急に近くなる。

末摘花は、再び琴へ指を置いた。

譜が見えなくとも、音は指が覚えている。

闇の中で、細い調べが続いた。


◇


翌朝、邸に客が訪れた。


橘景成という、兵部少輔を務める男だった。

年は三十を少し過ぎたほどだという。

宮中の儀式で奏する古曲を探しており、亡き常陸宮が珍しい譜を集めていたと聞いて訪ねてきたのだった。


「譜を拝見したいとのことでございます」


女房から話を聞いた末摘花は、几帳の脇に積まれた冊子へ目を向けた。


「まだ、人様へお見せできるものではありません」


「写しを取るだけと申しております」


「誤りがあるかもしれません」


「それでも構わないと」


末摘花は迷った末、最も欠けた部分の少ない一冊を選んだ。


「これだけを」


譜は、女房の手によって御簾の外へ渡された。

紙をめくる音がする。


一枚。

また一枚。


末摘花は膝の上で、指を固く組んでいた。

やがて、紙の音が止んだ。


「この書き加えられた箇所は、どなたの手によるものでしょう」


穏やかな声だった。


「姫様でございます」


年老いた女房が、誇らしげに答えた。

末摘花は扇で顔を隠した。


「もとの譜が、ほかに残っているのですか」


「いいえ」


「では、何を頼りに音を補われたのでしょう」


女房が末摘花を振り返った。

末摘花は小さな声で答えた。


「父が、昔、弾いておりました」


「お聞きになった音を覚えておられたのですか」


「すべてではございません」


「では、こちらは」


「前後の音と、詞の調子から考えました」


御簾の外が静かになった。

末摘花は不安になった。

古い譜へ勝手に音を書き加えたことを、咎められるのだろうか。


「この曲を、弾いていただけませんか」


思いがけない言葉だった。


「私が、ですか」


「はい」


「宮中の楽人に、お渡しになればよろしいでしょう」


「これは、あなたが補われた音です」


景成は言った。


「あなたの琴で聞きたいのです」


末摘花は返事をしなかった。

人前で琴を弾いたことは、ほとんどない。

父が生きていた頃、家族の前で弾いたくらいだった。


景成は急かさなかった。

御簾の外で、ただ待っている。


末摘花は琴の前へ移った。


指を置く。

初めの一音は、わずかに震えた。

けれど、二つ目の音を重ねると、震えは消えた。


曲の名は『白露』。

今では弾く者のない、古い調べだった。


夜明け前の野。

草の葉に宿った露。

日が昇れば消えてしまうものを惜しむ、静かな曲だった。

弾き終えても、景成は何も言わなかった。


水の落ちる音がした。

一滴。


末摘花は扇を強く握った。


「お耳障りでございましたか」


「いいえ」


返事はすぐに返ってきた。


「何と申し上げればよいか、分からなかったのです」


「そのように珍しいものではございません」


「珍しいものです」


景成の声には、迷いがなかった。


「長く失われていた曲です」


「私が、勝手に考えただけでございます」


「勝手に考えただけの音が、これほど自然に曲へ戻ることはありません」


末摘花は何も言えなかった。

これまで、彼女のすることを才と呼んだ者はいない。


古いものばかりを好む。

父の遺品を捨てられない。

誰も知らぬ曲を、一人で弾いている。


そう思われていることは知っていた。


「ほかの譜も、拝見してよろしいでしょうか」


景成が尋ねた。

末摘花は、几帳の奥に積まれた冊子を見た。


「笑いませんか」


口にしてから、ひどく幼い問いだと思った。

けれど、景成は笑わなかった。


「なぜ笑うのです」


「古いものばかりですから」


「古いというだけで、価値がなくなるわけではありません」


静かな声だった。


「誰にも顧みられぬ間も守り続けた方がいたから、今ここに残っているのです」


末摘花は、しばらく黙っていた。


「すべて、お見せいたします」


「ありがとうございます」


御簾の向こうで、景成が深く頭を下げた気配がした。


◇


景成は、その後も常陸宮の邸へ通った。


雨の日も。

風の強い日も。

渡殿の板が白く凍るような朝にも。

一冊ずつ譜を写し、分からない箇所があれば、必ず末摘花へ尋ねた。

自分の考えだけで音を変えることはなかった。


「こちらは、譜のとおりでは次の節へつながりません」


ある日、末摘花が言った。


「では、原本が誤っているのでしょうか」


「恐らくは」


「どの音がよいと思われますか」


末摘花が音を告げると、景成は譜を書き直した。

その横に、小さく文字を書き添える。


常陸宮姫君考定。


末摘花は驚いた。


「私の名は、必要ございません」


「なぜです」


「世に出すほどのことでは」


「あなたが考えた音です」


「宮中には、景成様が整えられたものとしてお出しになれば」


筆の動きが止まった。


「それでは、私があなたの働きを盗むことになります」


「盗むなど」


「私にはできません」


景成の声は低かった。


「この譜を蘇らせたのは、あなたです」


末摘花は、紙に記された自分の名を見つめた。


ほんの短い文字だった。

それでも、自分のしたことが誰かのものにならず、そこに残されている。

そのことが、ひどく不思議だった。


その日、景成が帰ったあとも、末摘花はその文字を見つめ続けた。

女房が燈台へ油を足す。

火が少し大きくなり、紙の上の文字を明るく照らした。


常陸宮姫君。

それは、誰かに憐れまれるための名ではなかった。

自分のしたことを、自分のものとして残すための名だった。


◇


春になった頃、宮中から使いが来た。


帝の御前で、『白露』が奏されることになったという。

失われた古曲が見つかったとの噂は、すでに都へ広がっていた。


その譜を整えたのは、橘景成である。

誰もが、そう思っていた。

末摘花自身も、それでよいと考えていた。


ところが演奏の日、景成は帝の御前で言った。


「この曲を蘇らせたのは、私ではございません」


公卿たちが、互いの顔を見た。


「亡き常陸宮の姫君にございます」


景成は、末摘花の名が記された譜を差し出した。


「姫君は長年、散逸した譜を集め、欠けた音を補い、御父君が遺された曲を守ってこられました」


「女が譜を整えたというのか」


誰かが言った。


「はい」


景成は少しも怯まなかった。


「同じ時代の曲と照らし合わせても、音の構成に誤りはございません」


「本当に、その女の考えた音だと分かるのか」


「私が初めて譜を拝見したときには、すでに書き加えられておりました」


景成は静かに答えた。


「私がしたのは、それが正しいことを確かめ、世へ伝えただけです」


『白露』が奏された。


宮中の広い殿舎に、音が満ちた。


雨上がりの野を、風が渡っていく。

朝の光を受け、草の葉の露が一つずつ白く輝く。

そのような調べだった。


曲が終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。

やがて帝が、もう一度聞きたいと仰せになった。


それから、『白露』は常陸宮の姫君が蘇らせた曲として知られるようになった。

宮中に残る古い譜を調べる役目も、末摘花へ与えられた。

表へ出る必要はない。

御簾の内から意見を伝えることが許された。

常陸宮の邸には、褒美として絹や米が届けられた。


雨漏りをしていた屋根は直された。

歪んだ蔀も。

朽ちた渡殿も。

燈台には、惜しまず油を注げるようになった。

古い曲を学びたいという姫君たちも、邸を訪れ始めた。


「先生とお呼びしてもよろしいですか」


初めて訪れた若い姫君が、御簾の外から尋ねた。

末摘花は、扇の陰で目を見開いた。


「そのように呼ばれるほどの者ではございません」


「母上が申しておりました。失われた曲を蘇らせた、優れた御方だと」


笑われているのではない。

憐れまれているのでもない。

教えを求められている。


末摘花は、琴へ手を置いた。


「では、まず、琴の置き方から始めましょう」


若い姫君が、嬉しそうに頭を下げた。


その日、邸には何度も琴の音が響いた。

一つは末摘花の音。

もう一つは、まだ拙い弟子の音。

途中で音を外すたび、若い姫君は恥ずかしそうに手を止めた。


末摘花は笑わなかった。


「もう一度、初めから」


そう言って、自ら同じ節を弾いた。

音は重なり、古い邸の外へ流れていった。


◇


末摘花の名が都へ広まると、常陸宮の邸を訪れる者も増えた。

中には、これまで姫君の暮らしに目を向けたことのない者もいた。


宮中で古曲の話を聞いた。

帝に認められた姫君に会ってみたい。

その程度の好奇心で訪ねてくる者も少なくなかった。

末摘花は、会いたくない者には会わなかった。

誰に会うかを、自分で決めてよいのだと、ようやく知ったからだった。


ある春の日、二人の公達が同じ時刻に邸を訪れた。


一人は光源氏。

もう一人は頭中将だった。

偶然にしては出来すぎていると、女房たちは色めき立った。


「昔から、あなたは人のあとをついてくるのがお好きですね」


光源氏が言った。


「こちらの台詞です」


頭中将が答えた。


「先に訪れた者のものになるわけでもないでしょう」


二人の声は、御簾の外でも明るかった。

競い合うことを楽しんでいるようでもあった。

末摘花は扇を手に、几帳の内へ座っていた。

その少し後ろには、譜を届けに来た景成が控えている。


「『白露』を整えられた御方の琴を、ぜひ伺いたいと思っておりました」


光源氏が言った。


「二条院には若い姫君もおります。古曲を教えていただければ、これほど心強いことはありません」


「二条院へ囲い込まれては、都の者が困ります」


頭中将が笑った。


「姫君には、宮中で多くの者を御導きいただくべきでしょう。私からも、よりよい御役目をお願いしてみましょう」


「宮中へ出れば、あなたが毎日通えるというだけでは?」


「あなたこそ、二条院へお連れする理由が分かりやすすぎる」


女房たちが、扇の陰で息を殺して笑っている。

末摘花は、自分のことが話されているとは思えなかった。


かつて、人々は彼女の鼻の色や古風な衣を笑った。

今は、都で最も華やかな男たちが、自分の琴を聞きたいと言っている。


二条院へ。

宮中へ。


どちらも、以前の末摘花なら考えることすらできなかった場所だった。


「姫君は、どちらをお望みですか」


頭中将が尋ねた。


御簾の内が静かになった。

光源氏も、景成も、言葉を発しなかった。

末摘花は、しばらく考えた。


二条院へ行けば、美しい庭と、何不自由のない暮らしがあるだろう。

宮中へ出れば、さらに多くの者へ琴を教えられるかもしれない。

けれど、どちらの言葉にも、どこか見覚えのある眩しさがあった。

華やかな男たちが差し出す、華やかな未来。

その中で、自分の姿がどのように見えるのか、末摘花には分からなかった。


「私は、この邸に残りとうございます」


末摘花は答えた。


「ここに?」


光源氏の声に、わずかな驚きが混じった。


「はい。父が遺した譜も、私の弟子たちも、ここにおります」


「屋敷を離れずとも、私がお力になることはできます」


頭中将が言った。


「必要なものがございましたら、何でも」


「ありがとうございます」


末摘花は丁寧に頭を下げた。


「けれど、今は自分で得たもので、十分に暮らすことができます」


その言葉を口にしたとき、胸の奥に小さな温かさが生まれた。

誰かに養ってもらわなければ、生きていけない姫君ではない。

自分の才で、邸を守ることができる。


「では、琴だけでも聞かせていただけませんか」


光源氏が言った。


末摘花は琴を一曲弾いた。

短い春の曲だった。

弾き終わると、光源氏は素直に美しいと褒めた。

頭中将も、次はぜひ別の曲をと頼んだ。

二人が帰るときまで、どちらが先に次の約束を取りつけるかで、軽い言い争いが続いていた。


牛車の音が遠ざかる。

邸に静けさが戻った。


景成は、先ほどから一言も話していなかった。


「景成様」


末摘花が呼ぶと、御簾の外で紙の擦れる音がした。


「はい」


「お二人がお越しになったことを、御存じだったのですか」


「いいえ」


「随分と静かでいらしたのですね」


「私が口を挟むことではございません」


「そうでしょうか」


景成は少し黙った。


「どちらかをお選びになるのであれば、それはあなたがお決めになることです」


穏やかな声だった。


「お止めにはならないのですか」


「私に、あなたの行く先を決める権利はございません」


末摘花は扇を握った。


光源氏は、美しい場所を差し出した。

頭中将は、輝かしい役目を約束した。

けれど、暗い邸で誰にも知られず琴を弾いていた頃から、彼女の音を信じていたのは景成だった。


「お二人には、もうお断りいたしました」


「はい」


「なぜか、お分かりですか」


景成は答えなかった。

末摘花も、それ以上は言えなかった。


代わりに、几帳の奥へ置かれた譜を一冊取った。


「こちらを、見ていただけますか」


「もちろんです」


返事だけは、いつもどおりだった。

けれど、その日の景成は、何度も同じ文字を書き間違えた。


◇


橘景成が常陸宮の邸へ通い始めてから、一年が過ぎた。


譜を調べる仕事は、すでに終わっている。

宮中へ提出するものも残っていない。

それでも、景成は変わらず訪れていた。


ある雨の日、末摘花は尋ねた。


「今日は、どの譜を御覧になるのですか」


「譜ではございません」


「では、何の御用でしょう」


景成は、すぐには答えなかった。


軒から雨が落ちている。

速くなったかと思えば、急に途切れる。


「あなたに、お会いするために参りました」


末摘花は扇を握り締めた。


「私に?」


「はい」


「譜のことではなく?」


「譜の話もしたいと思っております」


景成は言った。


「けれど、それだけではありません」


末摘花は黙った。

景成が訪れる日を、自分が待つようになっていることには気づいていた。


来られないと文が届けば、残念に思った。

来ると知れば、いつもより長く髪を梳かせた。

そのような自分を、恥ずかしいと思っていた。

景成が大切にしているのは、自分ではなく琴と譜だ。


それを、自分への思いと取り違えてはならない。


「景成様は、私の顔を御覧になったことがございません」


御簾の外が静かになった。


「ございます」


末摘花の指先が冷たくなった。


「いつ」


「昨年、風が御簾を巻き上げたことがございました」


覚えていた。


春の強い風が、御簾の端を大きく持ち上げた。

女房たちが慌てて下ろした、わずかな間だった。


景成は顔を背けたのだと思っていた。

末摘花は、容姿を褒められたことがない。

とりわけ赤みの強い鼻を、人々が陰で笑っていることも知っていた。


「御覧になったうえで、いらしているのですか」


「はい」


「哀れに思われたからではなく?」


景成は、わずかに息をついた。


「私は、あなたを哀れな方だと思ったことはございません」


「このように荒れた邸で、わずかな女房と暮らしていたのに?」


「苦しい暮らしをなさっているとは思いました」


景成は答えた。


「けれど、助けが必要であることと、その人が哀れであることは違います」


雨が屋根を打った。

以前とは違い、水は室内へ落ちてこなかった。


「私の才が、世に認められたからですか」


「違います」


返事は早かった。


「初めて琴を聞いた日から、あなたを尊敬しておりました」


「では、なぜ今まで」


「あなたの暮らしが変わる前に申し上げれば、助けと引き換えに心を求めているように思われるかもしれない」


景成は静かに言った。


「それが嫌だったのです」


末摘花は、何も言えなかった。


景成は、彼女の名が世に認められるまで待った。

貧しさから救う者としてではなく。

才を見つけた恩人としてでもなく。

対等な相手として、心を求めるために。


「先日、源氏の君と頭中将様がお越しになったでしょう」


景成が続けた。


「はい」


「お二人ならば、私よりも多くのものを、あなたへ差し上げることができます」


「私は、お二人から何かをいただきたいとは申しておりません」


「分かっております」


「では、なぜ、そのようなことを」


景成は、しばらく黙った。


「怖かったのです」


末摘花は目を上げた。

景成がそのような言葉を口にしたのは、初めてだった。


「あなたが、私には手の届かない場所へ行かれるのではないかと」


「それでも、お止めになりませんでしたね」


「あなたを大切に思うことと、あなたの行く先を決めることは違います」


景成は答えた。


「けれど、何も申し上げなければ、また後悔すると思いました」


雨音の向こうで、景成が姿勢を正した気配がした。


「私と、夫婦になっていただけませんか」


末摘花は扇で口元を隠した。


「私は、古いものばかりを好みます」


「私もです」


「今の衣の流行にも、疎うございます」


「私も、人の衣を見ても何が新しいのか分かりません」


「人と話すことも、得意ではありません」


「私が話します」


景成は答えた。


「疲れたら、ともに黙っていましょう」


末摘花の口元が、わずかに緩んだ。


「琴を弾き始めれば、夜が明けてもやめないことがございます」


「それは困ります」


景成は真面目な声で言った。


「なぜです」


「私も聞き続けて、朝の務めに遅れます」


末摘花は、思わず笑った。

小さな笑いだった。


けれど景成には届いたらしい。

御簾の向こうから、安堵したような息が聞こえた。


「景成様」


「はい」


「私でよろしいのですか」


「あなたがよいのです」


迷いのない返事だった。


「源氏の君でも、頭中将様でもなく?」


末摘花が尋ねると、景成は答えに詰まった。


「それは、私が申し上げることでは」


「私は、あなたがよいのです」


御簾の外で、小さな音がした。

景成が手にしていた扇を落としたらしい。


末摘花は、扇の陰で笑った。


「先ほどのお返しでございます」


「驚かせないでください」


「お嫌でしたか」


「まさか」


返事だけは、ひどく早かった。

末摘花は、ゆっくりと扇を下ろした。


「では、お願いいたします」


◇


その年の秋、末摘花は橘景成と夫婦になった。


常陸宮の邸を捨てることはなかった。

父が遺した琴も、古い譜も、そのまま残した。

景成が邸へ入り、二人で暮らすことになった。


庭は整えられた。

けれど、古い萩は切らなかった。


雨の夜、末摘花が琴を弾くと、景成は少し離れた場所で譜を写した。

時折、筆を止める。


「先ほどの音は、譜と違いませんか」


「こちらのほうがよいと思いました」


「では、書き直しましょう」


「すぐに信じるのですね」


「あなたの音を、誰よりも信じておりますから」


宮中では、末摘花が整えた古曲が次々に奏されるようになった。

彼女のもとで琴を学ぶ姫君も増えた。


以前は、常陸宮の姫君といえば、荒れた邸に住む風変わりな女として語られていた。

今では、古曲を守る優れた琴の師として、その名を知らぬ者はいなかった。


光源氏と頭中将も、時折、邸を訪れた。

互いより先に新しい曲を聞こうと競うため、二人が同じ日に鉢合わせることもあった。


「今日は、私が先に約束していたはずです」


「姫君の琴を聞くのに、順番などありますか」


「少なくとも、あなたが勝手に決めるものではありません」


二人が言い合うたび、末摘花は扇の陰で笑った。

景成は初めのうち、少し離れた場所で黙っていた。

けれど末摘花が必ず彼の隣へ戻ってくることを知ると、やがて気にしなくなった。


「随分と余裕がおありですね」


ある日、末摘花が言った。


「私は、あなたに選んでいただきましたから」


「一度選ばれれば、安心なのですか」


「いいえ」


景成は筆を置いた。


「これからも選んでいただけるよう、努めます」


ある宴で、一人の公達が景成へ言った。


「よく、そのような才を見つけたものだ」


景成は首を振った。


「私が見つけたのではありません」


「では、誰が」


「姫君は、私が訪れる前から、同じことを続けておられました」


景成は答えた。


「世間が、ようやく気づいただけです」


その言葉は、やがて末摘花の耳にも届いた。


「そのようなことをおっしゃったのですか」


帰宅した景成へ尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。


「事実を申し上げただけです」


「少しくらい、御自分の手柄になさってもよいのに」


「必要ありません」


「なぜです」


景成は、末摘花の前へ座った。


「私には、あなたがここにいてくださるだけで十分です」


「そのようなことを、ほかの女君にもおっしゃっているのですか」


「まさか」


「都の殿方は、皆、同じようなことをおっしゃると聞いております」


「では、これから何年もかけて、私が違うと証明いたしましょう」


末摘花は景成を見つめた。


「随分と時間がかかりそうですね」


「一生では、足りませんか」


末摘花は、静かに笑った。


「それならば、仕方がございません」


景成も笑った。


庭には、紅い花が咲いていた。

女房の一人が植えた、末摘花だった。

鮮やかな紅色は、かつて彼女が人に笑われることを恐れた色でもある。

けれど今は、庭で最も明るく咲いていた。


景成が一輪を摘み、末摘花の前へ置く。


「よく似合います」


末摘花は眉を上げた。


「何にです」


「あなたに」


「鼻の色に、という意味ですか」


景成は目を見開いた。

末摘花は、扇で口元を隠した。


「冗談でございます」


「あなたが、そのようなことをおっしゃるようになるとは」


「どなたの影響でしょうね」


二人の間に、穏やかな笑いが広がった。


その夜も、末摘花は琴を弾いた。

燈台には、明るい火がともっている。

景成はそばで譜を広げ、彼女の音を一つずつ書き留めていた。


人の住まなくなった渡殿の奥に、暗がりは残っている。

古い邸には、年月の匂いも残っている。

けれど、もう恐ろしくはなかった。


琴の音が届く場所には、人の声がある。

弟子たちの笑い声がある。

時折、華やかな公達たちが訪れ、彼女の琴を競って聞こうとする。

そして、客が去ったあとにも、変わらず隣にいる人がいる。


末摘花は、もう誰かに見つけてもらうのを待つ姫君ではなかった。

自ら守り続けた音が、彼女の名とともに世へ残っていく。

多くの人々がその才を求めても、誰のもとへ行くかを決めるのは、末摘花自身だった。

その隣には、彼女の才を奪わず、隠さず、誰より誇らしく語る人がいる。


庭の末摘花は、夜露に濡れていた。

燈台の光を受けた紅は、闇の中でも鮮やかだった。


その色を笑う者は、もういなかった。

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