紅音
【原作では】
末摘花は、亡き常陸宮の姫君で、父を失った後、荒れた邸で琴を友にひっそりと暮らしていました。
光源氏は琴の音をきっかけに彼女へ関心を持ち、契りを結びますが、その容貌に驚き、のちには憐れみから援助を続けます。
源氏の須磨退去で援助が途絶えると再び困窮しますが、帰京した源氏と再会し、のちに二条東院へ迎えられます。
夜半から、邸のどこかで水の落ちる音がしていた。
一滴。
長い間を置いて、もう一滴。
雨はとうにやんでいる。
朽ちた屋根の裏へ入り込んだ水が、黒ずんだ梁を伝い、忘れた頃に床へ落ちてくるのだった。
燈台の火は小さい。
油を惜しんでいるためでもあったが、火を大きくすれば、荒れた室内があまりにはっきり見えてしまう。
傾いた几帳。
縁の擦り切れた畳。
色を失った壁。
人の住まなくなった渡殿の奥には、夜よりも濃い暗がりが沈んでいる。
常陸宮の姫君――人々が陰で末摘花と呼ぶ女君は、その暗がりへ背を向けて、琴を弾いていた。
薄明かりの中でも、鼻先の紅だけは隠れなかった。
それを笑う者がいることを、姫君は知っていた。
けれど琴へ指を置けば、そのことを忘れることができた。
亡き父が遺した琴だった。
表には細かな傷が走り、糸も新しいものではない。
それでも、末摘花が指を置くと、深く澄んだ音がした。
古い邸の隅々へ入り込み、誰もいない部屋を一つずつ呼び覚ましていくような音だった。
琴の前には、数冊の譜が広げられている。
紙は黄ばみ、ところどころ虫に食われていた。
音を示す文字が欠けた箇所には、末摘花自身の細い筆跡がある。
幼い頃に聞いた、父の琴。
一度しか聞かなかった曲もあった。
覚えている音を拾い、残された詞と前後の調べから、失われたところを補っていく。
幾年もかけて、少しずつ続けてきたことだった。
「姫様」
年老いた女房が、几帳の向こうから声をかけた。
「そろそろ、お休みになりませ」
「あと少しだけ」
「灯の油が、もうございません」
末摘花の指が止まった。
燈台の皿には、底が見えていた。
「では、消してください」
「譜が見えなくなります」
「この先は、覚えております」
女房はためらいながら、火を吹き消した。
闇が室内を満たした。
水の落ちる音だけが、急に近くなる。
末摘花は、再び琴へ指を置いた。
譜が見えなくとも、音は指が覚えている。
闇の中で、細い調べが続いた。
◇
翌朝、邸に客が訪れた。
橘景成という、兵部少輔を務める男だった。
年は三十を少し過ぎたほどだという。
宮中の儀式で奏する古曲を探しており、亡き常陸宮が珍しい譜を集めていたと聞いて訪ねてきたのだった。
「譜を拝見したいとのことでございます」
女房から話を聞いた末摘花は、几帳の脇に積まれた冊子へ目を向けた。
「まだ、人様へお見せできるものではありません」
「写しを取るだけと申しております」
「誤りがあるかもしれません」
「それでも構わないと」
末摘花は迷った末、最も欠けた部分の少ない一冊を選んだ。
「これだけを」
譜は、女房の手によって御簾の外へ渡された。
紙をめくる音がする。
一枚。
また一枚。
末摘花は膝の上で、指を固く組んでいた。
やがて、紙の音が止んだ。
「この書き加えられた箇所は、どなたの手によるものでしょう」
穏やかな声だった。
「姫様でございます」
年老いた女房が、誇らしげに答えた。
末摘花は扇で顔を隠した。
「もとの譜が、ほかに残っているのですか」
「いいえ」
「では、何を頼りに音を補われたのでしょう」
女房が末摘花を振り返った。
末摘花は小さな声で答えた。
「父が、昔、弾いておりました」
「お聞きになった音を覚えておられたのですか」
「すべてではございません」
「では、こちらは」
「前後の音と、詞の調子から考えました」
御簾の外が静かになった。
末摘花は不安になった。
古い譜へ勝手に音を書き加えたことを、咎められるのだろうか。
「この曲を、弾いていただけませんか」
思いがけない言葉だった。
「私が、ですか」
「はい」
「宮中の楽人に、お渡しになればよろしいでしょう」
「これは、あなたが補われた音です」
景成は言った。
「あなたの琴で聞きたいのです」
末摘花は返事をしなかった。
人前で琴を弾いたことは、ほとんどない。
父が生きていた頃、家族の前で弾いたくらいだった。
景成は急かさなかった。
御簾の外で、ただ待っている。
末摘花は琴の前へ移った。
指を置く。
初めの一音は、わずかに震えた。
けれど、二つ目の音を重ねると、震えは消えた。
曲の名は『白露』。
今では弾く者のない、古い調べだった。
夜明け前の野。
草の葉に宿った露。
日が昇れば消えてしまうものを惜しむ、静かな曲だった。
弾き終えても、景成は何も言わなかった。
水の落ちる音がした。
一滴。
末摘花は扇を強く握った。
「お耳障りでございましたか」
「いいえ」
返事はすぐに返ってきた。
「何と申し上げればよいか、分からなかったのです」
「そのように珍しいものではございません」
「珍しいものです」
景成の声には、迷いがなかった。
「長く失われていた曲です」
「私が、勝手に考えただけでございます」
「勝手に考えただけの音が、これほど自然に曲へ戻ることはありません」
末摘花は何も言えなかった。
これまで、彼女のすることを才と呼んだ者はいない。
古いものばかりを好む。
父の遺品を捨てられない。
誰も知らぬ曲を、一人で弾いている。
そう思われていることは知っていた。
「ほかの譜も、拝見してよろしいでしょうか」
景成が尋ねた。
末摘花は、几帳の奥に積まれた冊子を見た。
「笑いませんか」
口にしてから、ひどく幼い問いだと思った。
けれど、景成は笑わなかった。
「なぜ笑うのです」
「古いものばかりですから」
「古いというだけで、価値がなくなるわけではありません」
静かな声だった。
「誰にも顧みられぬ間も守り続けた方がいたから、今ここに残っているのです」
末摘花は、しばらく黙っていた。
「すべて、お見せいたします」
「ありがとうございます」
御簾の向こうで、景成が深く頭を下げた気配がした。
◇
景成は、その後も常陸宮の邸へ通った。
雨の日も。
風の強い日も。
渡殿の板が白く凍るような朝にも。
一冊ずつ譜を写し、分からない箇所があれば、必ず末摘花へ尋ねた。
自分の考えだけで音を変えることはなかった。
「こちらは、譜のとおりでは次の節へつながりません」
ある日、末摘花が言った。
「では、原本が誤っているのでしょうか」
「恐らくは」
「どの音がよいと思われますか」
末摘花が音を告げると、景成は譜を書き直した。
その横に、小さく文字を書き添える。
常陸宮姫君考定。
末摘花は驚いた。
「私の名は、必要ございません」
「なぜです」
「世に出すほどのことでは」
「あなたが考えた音です」
「宮中には、景成様が整えられたものとしてお出しになれば」
筆の動きが止まった。
「それでは、私があなたの働きを盗むことになります」
「盗むなど」
「私にはできません」
景成の声は低かった。
「この譜を蘇らせたのは、あなたです」
末摘花は、紙に記された自分の名を見つめた。
ほんの短い文字だった。
それでも、自分のしたことが誰かのものにならず、そこに残されている。
そのことが、ひどく不思議だった。
その日、景成が帰ったあとも、末摘花はその文字を見つめ続けた。
女房が燈台へ油を足す。
火が少し大きくなり、紙の上の文字を明るく照らした。
常陸宮姫君。
それは、誰かに憐れまれるための名ではなかった。
自分のしたことを、自分のものとして残すための名だった。
◇
春になった頃、宮中から使いが来た。
帝の御前で、『白露』が奏されることになったという。
失われた古曲が見つかったとの噂は、すでに都へ広がっていた。
その譜を整えたのは、橘景成である。
誰もが、そう思っていた。
末摘花自身も、それでよいと考えていた。
ところが演奏の日、景成は帝の御前で言った。
「この曲を蘇らせたのは、私ではございません」
公卿たちが、互いの顔を見た。
「亡き常陸宮の姫君にございます」
景成は、末摘花の名が記された譜を差し出した。
「姫君は長年、散逸した譜を集め、欠けた音を補い、御父君が遺された曲を守ってこられました」
「女が譜を整えたというのか」
誰かが言った。
「はい」
景成は少しも怯まなかった。
「同じ時代の曲と照らし合わせても、音の構成に誤りはございません」
「本当に、その女の考えた音だと分かるのか」
「私が初めて譜を拝見したときには、すでに書き加えられておりました」
景成は静かに答えた。
「私がしたのは、それが正しいことを確かめ、世へ伝えただけです」
『白露』が奏された。
宮中の広い殿舎に、音が満ちた。
雨上がりの野を、風が渡っていく。
朝の光を受け、草の葉の露が一つずつ白く輝く。
そのような調べだった。
曲が終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
やがて帝が、もう一度聞きたいと仰せになった。
それから、『白露』は常陸宮の姫君が蘇らせた曲として知られるようになった。
宮中に残る古い譜を調べる役目も、末摘花へ与えられた。
表へ出る必要はない。
御簾の内から意見を伝えることが許された。
常陸宮の邸には、褒美として絹や米が届けられた。
雨漏りをしていた屋根は直された。
歪んだ蔀も。
朽ちた渡殿も。
燈台には、惜しまず油を注げるようになった。
古い曲を学びたいという姫君たちも、邸を訪れ始めた。
「先生とお呼びしてもよろしいですか」
初めて訪れた若い姫君が、御簾の外から尋ねた。
末摘花は、扇の陰で目を見開いた。
「そのように呼ばれるほどの者ではございません」
「母上が申しておりました。失われた曲を蘇らせた、優れた御方だと」
笑われているのではない。
憐れまれているのでもない。
教えを求められている。
末摘花は、琴へ手を置いた。
「では、まず、琴の置き方から始めましょう」
若い姫君が、嬉しそうに頭を下げた。
その日、邸には何度も琴の音が響いた。
一つは末摘花の音。
もう一つは、まだ拙い弟子の音。
途中で音を外すたび、若い姫君は恥ずかしそうに手を止めた。
末摘花は笑わなかった。
「もう一度、初めから」
そう言って、自ら同じ節を弾いた。
音は重なり、古い邸の外へ流れていった。
◇
末摘花の名が都へ広まると、常陸宮の邸を訪れる者も増えた。
中には、これまで姫君の暮らしに目を向けたことのない者もいた。
宮中で古曲の話を聞いた。
帝に認められた姫君に会ってみたい。
その程度の好奇心で訪ねてくる者も少なくなかった。
末摘花は、会いたくない者には会わなかった。
誰に会うかを、自分で決めてよいのだと、ようやく知ったからだった。
ある春の日、二人の公達が同じ時刻に邸を訪れた。
一人は光源氏。
もう一人は頭中将だった。
偶然にしては出来すぎていると、女房たちは色めき立った。
「昔から、あなたは人のあとをついてくるのがお好きですね」
光源氏が言った。
「こちらの台詞です」
頭中将が答えた。
「先に訪れた者のものになるわけでもないでしょう」
二人の声は、御簾の外でも明るかった。
競い合うことを楽しんでいるようでもあった。
末摘花は扇を手に、几帳の内へ座っていた。
その少し後ろには、譜を届けに来た景成が控えている。
「『白露』を整えられた御方の琴を、ぜひ伺いたいと思っておりました」
光源氏が言った。
「二条院には若い姫君もおります。古曲を教えていただければ、これほど心強いことはありません」
「二条院へ囲い込まれては、都の者が困ります」
頭中将が笑った。
「姫君には、宮中で多くの者を御導きいただくべきでしょう。私からも、よりよい御役目をお願いしてみましょう」
「宮中へ出れば、あなたが毎日通えるというだけでは?」
「あなたこそ、二条院へお連れする理由が分かりやすすぎる」
女房たちが、扇の陰で息を殺して笑っている。
末摘花は、自分のことが話されているとは思えなかった。
かつて、人々は彼女の鼻の色や古風な衣を笑った。
今は、都で最も華やかな男たちが、自分の琴を聞きたいと言っている。
二条院へ。
宮中へ。
どちらも、以前の末摘花なら考えることすらできなかった場所だった。
「姫君は、どちらをお望みですか」
頭中将が尋ねた。
御簾の内が静かになった。
光源氏も、景成も、言葉を発しなかった。
末摘花は、しばらく考えた。
二条院へ行けば、美しい庭と、何不自由のない暮らしがあるだろう。
宮中へ出れば、さらに多くの者へ琴を教えられるかもしれない。
けれど、どちらの言葉にも、どこか見覚えのある眩しさがあった。
華やかな男たちが差し出す、華やかな未来。
その中で、自分の姿がどのように見えるのか、末摘花には分からなかった。
「私は、この邸に残りとうございます」
末摘花は答えた。
「ここに?」
光源氏の声に、わずかな驚きが混じった。
「はい。父が遺した譜も、私の弟子たちも、ここにおります」
「屋敷を離れずとも、私がお力になることはできます」
頭中将が言った。
「必要なものがございましたら、何でも」
「ありがとうございます」
末摘花は丁寧に頭を下げた。
「けれど、今は自分で得たもので、十分に暮らすことができます」
その言葉を口にしたとき、胸の奥に小さな温かさが生まれた。
誰かに養ってもらわなければ、生きていけない姫君ではない。
自分の才で、邸を守ることができる。
「では、琴だけでも聞かせていただけませんか」
光源氏が言った。
末摘花は琴を一曲弾いた。
短い春の曲だった。
弾き終わると、光源氏は素直に美しいと褒めた。
頭中将も、次はぜひ別の曲をと頼んだ。
二人が帰るときまで、どちらが先に次の約束を取りつけるかで、軽い言い争いが続いていた。
牛車の音が遠ざかる。
邸に静けさが戻った。
景成は、先ほどから一言も話していなかった。
「景成様」
末摘花が呼ぶと、御簾の外で紙の擦れる音がした。
「はい」
「お二人がお越しになったことを、御存じだったのですか」
「いいえ」
「随分と静かでいらしたのですね」
「私が口を挟むことではございません」
「そうでしょうか」
景成は少し黙った。
「どちらかをお選びになるのであれば、それはあなたがお決めになることです」
穏やかな声だった。
「お止めにはならないのですか」
「私に、あなたの行く先を決める権利はございません」
末摘花は扇を握った。
光源氏は、美しい場所を差し出した。
頭中将は、輝かしい役目を約束した。
けれど、暗い邸で誰にも知られず琴を弾いていた頃から、彼女の音を信じていたのは景成だった。
「お二人には、もうお断りいたしました」
「はい」
「なぜか、お分かりですか」
景成は答えなかった。
末摘花も、それ以上は言えなかった。
代わりに、几帳の奥へ置かれた譜を一冊取った。
「こちらを、見ていただけますか」
「もちろんです」
返事だけは、いつもどおりだった。
けれど、その日の景成は、何度も同じ文字を書き間違えた。
◇
橘景成が常陸宮の邸へ通い始めてから、一年が過ぎた。
譜を調べる仕事は、すでに終わっている。
宮中へ提出するものも残っていない。
それでも、景成は変わらず訪れていた。
ある雨の日、末摘花は尋ねた。
「今日は、どの譜を御覧になるのですか」
「譜ではございません」
「では、何の御用でしょう」
景成は、すぐには答えなかった。
軒から雨が落ちている。
速くなったかと思えば、急に途切れる。
「あなたに、お会いするために参りました」
末摘花は扇を握り締めた。
「私に?」
「はい」
「譜のことではなく?」
「譜の話もしたいと思っております」
景成は言った。
「けれど、それだけではありません」
末摘花は黙った。
景成が訪れる日を、自分が待つようになっていることには気づいていた。
来られないと文が届けば、残念に思った。
来ると知れば、いつもより長く髪を梳かせた。
そのような自分を、恥ずかしいと思っていた。
景成が大切にしているのは、自分ではなく琴と譜だ。
それを、自分への思いと取り違えてはならない。
「景成様は、私の顔を御覧になったことがございません」
御簾の外が静かになった。
「ございます」
末摘花の指先が冷たくなった。
「いつ」
「昨年、風が御簾を巻き上げたことがございました」
覚えていた。
春の強い風が、御簾の端を大きく持ち上げた。
女房たちが慌てて下ろした、わずかな間だった。
景成は顔を背けたのだと思っていた。
末摘花は、容姿を褒められたことがない。
とりわけ赤みの強い鼻を、人々が陰で笑っていることも知っていた。
「御覧になったうえで、いらしているのですか」
「はい」
「哀れに思われたからではなく?」
景成は、わずかに息をついた。
「私は、あなたを哀れな方だと思ったことはございません」
「このように荒れた邸で、わずかな女房と暮らしていたのに?」
「苦しい暮らしをなさっているとは思いました」
景成は答えた。
「けれど、助けが必要であることと、その人が哀れであることは違います」
雨が屋根を打った。
以前とは違い、水は室内へ落ちてこなかった。
「私の才が、世に認められたからですか」
「違います」
返事は早かった。
「初めて琴を聞いた日から、あなたを尊敬しておりました」
「では、なぜ今まで」
「あなたの暮らしが変わる前に申し上げれば、助けと引き換えに心を求めているように思われるかもしれない」
景成は静かに言った。
「それが嫌だったのです」
末摘花は、何も言えなかった。
景成は、彼女の名が世に認められるまで待った。
貧しさから救う者としてではなく。
才を見つけた恩人としてでもなく。
対等な相手として、心を求めるために。
「先日、源氏の君と頭中将様がお越しになったでしょう」
景成が続けた。
「はい」
「お二人ならば、私よりも多くのものを、あなたへ差し上げることができます」
「私は、お二人から何かをいただきたいとは申しておりません」
「分かっております」
「では、なぜ、そのようなことを」
景成は、しばらく黙った。
「怖かったのです」
末摘花は目を上げた。
景成がそのような言葉を口にしたのは、初めてだった。
「あなたが、私には手の届かない場所へ行かれるのではないかと」
「それでも、お止めになりませんでしたね」
「あなたを大切に思うことと、あなたの行く先を決めることは違います」
景成は答えた。
「けれど、何も申し上げなければ、また後悔すると思いました」
雨音の向こうで、景成が姿勢を正した気配がした。
「私と、夫婦になっていただけませんか」
末摘花は扇で口元を隠した。
「私は、古いものばかりを好みます」
「私もです」
「今の衣の流行にも、疎うございます」
「私も、人の衣を見ても何が新しいのか分かりません」
「人と話すことも、得意ではありません」
「私が話します」
景成は答えた。
「疲れたら、ともに黙っていましょう」
末摘花の口元が、わずかに緩んだ。
「琴を弾き始めれば、夜が明けてもやめないことがございます」
「それは困ります」
景成は真面目な声で言った。
「なぜです」
「私も聞き続けて、朝の務めに遅れます」
末摘花は、思わず笑った。
小さな笑いだった。
けれど景成には届いたらしい。
御簾の向こうから、安堵したような息が聞こえた。
「景成様」
「はい」
「私でよろしいのですか」
「あなたがよいのです」
迷いのない返事だった。
「源氏の君でも、頭中将様でもなく?」
末摘花が尋ねると、景成は答えに詰まった。
「それは、私が申し上げることでは」
「私は、あなたがよいのです」
御簾の外で、小さな音がした。
景成が手にしていた扇を落としたらしい。
末摘花は、扇の陰で笑った。
「先ほどのお返しでございます」
「驚かせないでください」
「お嫌でしたか」
「まさか」
返事だけは、ひどく早かった。
末摘花は、ゆっくりと扇を下ろした。
「では、お願いいたします」
◇
その年の秋、末摘花は橘景成と夫婦になった。
常陸宮の邸を捨てることはなかった。
父が遺した琴も、古い譜も、そのまま残した。
景成が邸へ入り、二人で暮らすことになった。
庭は整えられた。
けれど、古い萩は切らなかった。
雨の夜、末摘花が琴を弾くと、景成は少し離れた場所で譜を写した。
時折、筆を止める。
「先ほどの音は、譜と違いませんか」
「こちらのほうがよいと思いました」
「では、書き直しましょう」
「すぐに信じるのですね」
「あなたの音を、誰よりも信じておりますから」
宮中では、末摘花が整えた古曲が次々に奏されるようになった。
彼女のもとで琴を学ぶ姫君も増えた。
以前は、常陸宮の姫君といえば、荒れた邸に住む風変わりな女として語られていた。
今では、古曲を守る優れた琴の師として、その名を知らぬ者はいなかった。
光源氏と頭中将も、時折、邸を訪れた。
互いより先に新しい曲を聞こうと競うため、二人が同じ日に鉢合わせることもあった。
「今日は、私が先に約束していたはずです」
「姫君の琴を聞くのに、順番などありますか」
「少なくとも、あなたが勝手に決めるものではありません」
二人が言い合うたび、末摘花は扇の陰で笑った。
景成は初めのうち、少し離れた場所で黙っていた。
けれど末摘花が必ず彼の隣へ戻ってくることを知ると、やがて気にしなくなった。
「随分と余裕がおありですね」
ある日、末摘花が言った。
「私は、あなたに選んでいただきましたから」
「一度選ばれれば、安心なのですか」
「いいえ」
景成は筆を置いた。
「これからも選んでいただけるよう、努めます」
ある宴で、一人の公達が景成へ言った。
「よく、そのような才を見つけたものだ」
景成は首を振った。
「私が見つけたのではありません」
「では、誰が」
「姫君は、私が訪れる前から、同じことを続けておられました」
景成は答えた。
「世間が、ようやく気づいただけです」
その言葉は、やがて末摘花の耳にも届いた。
「そのようなことをおっしゃったのですか」
帰宅した景成へ尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。
「事実を申し上げただけです」
「少しくらい、御自分の手柄になさってもよいのに」
「必要ありません」
「なぜです」
景成は、末摘花の前へ座った。
「私には、あなたがここにいてくださるだけで十分です」
「そのようなことを、ほかの女君にもおっしゃっているのですか」
「まさか」
「都の殿方は、皆、同じようなことをおっしゃると聞いております」
「では、これから何年もかけて、私が違うと証明いたしましょう」
末摘花は景成を見つめた。
「随分と時間がかかりそうですね」
「一生では、足りませんか」
末摘花は、静かに笑った。
「それならば、仕方がございません」
景成も笑った。
庭には、紅い花が咲いていた。
女房の一人が植えた、末摘花だった。
鮮やかな紅色は、かつて彼女が人に笑われることを恐れた色でもある。
けれど今は、庭で最も明るく咲いていた。
景成が一輪を摘み、末摘花の前へ置く。
「よく似合います」
末摘花は眉を上げた。
「何にです」
「あなたに」
「鼻の色に、という意味ですか」
景成は目を見開いた。
末摘花は、扇で口元を隠した。
「冗談でございます」
「あなたが、そのようなことをおっしゃるようになるとは」
「どなたの影響でしょうね」
二人の間に、穏やかな笑いが広がった。
その夜も、末摘花は琴を弾いた。
燈台には、明るい火がともっている。
景成はそばで譜を広げ、彼女の音を一つずつ書き留めていた。
人の住まなくなった渡殿の奥に、暗がりは残っている。
古い邸には、年月の匂いも残っている。
けれど、もう恐ろしくはなかった。
琴の音が届く場所には、人の声がある。
弟子たちの笑い声がある。
時折、華やかな公達たちが訪れ、彼女の琴を競って聞こうとする。
そして、客が去ったあとにも、変わらず隣にいる人がいる。
末摘花は、もう誰かに見つけてもらうのを待つ姫君ではなかった。
自ら守り続けた音が、彼女の名とともに世へ残っていく。
多くの人々がその才を求めても、誰のもとへ行くかを決めるのは、末摘花自身だった。
その隣には、彼女の才を奪わず、隠さず、誰より誇らしく語る人がいる。
庭の末摘花は、夜露に濡れていた。
燈台の光を受けた紅は、闇の中でも鮮やかだった。
その色を笑う者は、もういなかった。




